- Amazon.co.jp ・本 (340ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344036048
作品紹介・あらすじ
東京の救急救命センターで働いていた、62歳の医師・白石咲和子は、あることの責任をとって退職し、故郷の金沢に戻り「まほろば診療所」で訪問診療の医師になる。これまで「命を助ける」現場で戦ってきた咲和子にとって、「命を送る」現場は戸惑う事ばかり。咲和子はスタッフたちに支えられ、老老介護、半身麻痺のIT社長、6歳の小児癌の少女……様々な現場を経験し、学んでいく。家庭では、老いた父親が骨折の手術で入院し、誤嚥性肺炎、脳梗塞を経て、脳卒中後疼痛という激しい痛みに襲われ、「これ以上生きていたくない」と言うようになる。「積極的安楽死」という父の望みを叶えるべきなのか。咲和子は医師として、娘として、悩む。7万部突破『サイレント・ブレス 看取りのカルテ』、連続ドラマ化『ディア・ペイシェント 絆のカルテ』著者最新作。
感想・レビュー・書評
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あなたは、人を看取ったことがあるでしょうか?
日本人の平均寿命が男女ともに80歳を超えて久しい現代社会。核家族化が当たり前となり、家族葬が一般化もしたそんな現代社会にあっては、人の死というもの自体、随分と遠くなったようにも思います。
そんな中では、人の死を看取るという経験自体少なくなってもいます。かく言う私も人の死を看取った経験は義父の一度のみ、病院のベッドでの経験しかありません。飲食を共にし、さまざまなことを語り合った義父の死、人の命が消えゆく瞬間というものは独特な感覚の中にあるものだと思います。
では、そんな風に人が死にゆく瞬間を自宅の寝室で迎えるという経験をした方はいらっしゃるでしょうか?目の前で大切な人が死に向き合うような状況があれば、大急ぎで119番に電話する、それが普通の感覚ではないでしょうか?そうではなく、そのまま静かに大切な人の最後を自宅で看取るなどということができるものなのでしょうか?
さて、ここに、『看取り経験のない家族に、死を見守らせる』という『在宅医療』に光を当てた物語があります。『生き物は、生命活動を終えようとするとき、まず食べなくなっていきます』と『死のレクチャー』をする一人の医師が主人公を務めるこの作品。そんな主人公が『命の終わりの判断は難しい』としみじみ思う瞬間を見るこの作品。そして、それは、『在宅医療』という『第三の医療』の現場を見る中に、いのちというものの愛おしさを感じる物語です。
『今夜のホットライン、副センター長が担当されるんですか?』と若手医師に言われ『ボードを見れば分かるでしょ』と返すのは主人公の白石咲和子(しらいし さわこ)。『日本救急学会の総会でセンター長の満島が基調講演に立つハレの日に当たり、大半の医局員がボスに連なって出払って』しまった中、『夜勤をするのは月二回ほど』という『六十二歳の咲和子が』その日の『ホットライン担当』となりました。『静かな夜を祈りましょ』とつぶやく咲和子は、『城北医科大学病院の救急救命センターで、生え抜きの女性医師として初めて副センター長に抜擢されて八年』が経ち、『なおも若手に負けない仕事ぶりを見せつけてはい』ましたが、『静かな夜を祈りたい気持ちに偽りは』ありませんでした。しかし、『安易な願いを見透かしたようにホットラインが鳴』ります。『大型観光バスが都電に衝突して横転』、重症者は『少なくとも二十人。城北さんには、うち七人をお願いしたい』という東京消防庁からの電話。『いま断れば、救える患者も救えなくなる』と受け入れを判断した咲和子でしたが、『正気ですか…今夜のスタッフは五人ですよ』、『ベッドが足りません。無理です!』と現場は大混乱に陥ります。しかし、そうこうしている間にも次々に患者が運び込まれ、総力戦で対応するスタッフたち。『どんな患者でも救ってみせる』と処置を見て回る咲和子。そんな中に、『事故とは関係のない患者』が『ウォークイン(救急車以外で自主的に受診した患者)』を『医師国家試験に落ちて浪人中』で事務アルバイトの野呂が連れてきました。『素早く触診』した咲和子は『虫垂炎でしょう。超音波で詳しく診ます。その前に脱水があるので点滴しましょう』と言うと、『頭部の大出血です』と看護師に呼ばれて立ち上がります。他にもさまざまな声が飛び交う中、『それぞれができることを進めていいわよ!責任は私が取る』と大声で言う咲和子。そして、『朝の五時を回』る頃、『ようやくすべての患者が落ち着』きましたが『仮眠室へ戻る元気も残って』おらず『処置室の片隅で座り込』んだ咲和子の耳に、『白石先生のときは、いつも当たりよね』、『もう、お歳だからねえ』と看護師が噂話する声が聞こえてきます。そして、数日後、『病院長から呼び出しを受けた』咲和子は、虫垂炎だった女の子の母親が事務員が点滴をしていたことを『マスコミに告発する』と騒いでいることを伝えられます。『混乱のさなか』に『それぞれができることを進めていい』と自身が言ったことを思い出す咲和子。そんな咲和子は『誰かが責任を取らなければ』おさまらない事態であることを察し、『私に責任を取らせてください』、『長らくお世話になりました』と言うと病院を後にしました。場面は変わり、『北陸新幹線の窓から外をぼんやりと眺める』咲和子は故郷の金沢へと向かいます。実母は亡くなり、父が一人暮らす実家へと帰る咲和子。そして、家に着いて早々に『疲れとるとこ悪いけど、すぐに仙川の診療所に行ってやってくれんか』、『徹君の方は、すっかり当てにしとるぞ』と父親に言われた咲和子。『二歳年上の仙川徹』が所長を務める『まほろば診療所』。そんな診療所で『在宅医療』の道を歩みはじめた咲和子の新たな人生が描かれていきます。
“東京の救命救急センターで働いていた、62歳の医師・咲和子は、故郷の金沢に戻り「まほろば診療所」で訪問診療医になる。「命を助ける」現場で戦ってきた咲和子にとって、「命を送る」現場は戸惑う事ばかり』と内容紹介にうたわれるこの作品。救急救命医として生きてきた主人公の白石咲和子が、故郷の金沢で『訪問診療』の道で生きていく姿が描かれていきます。大学の家政学部を卒業、雑誌編集の仕事をした後に結婚・出産、なんと33歳の時に医学部に学士入学し、医師免許を取得されて内科医となられたという作者の南杏子さん。その一方で、小説も書き始められたというご経歴には、ただただ頭が下がる思いです。
さて、医師でもある南さんが四冊目の作品として刊行されたこの作品ですが、冒頭の救急救命の緊迫した場面に使われるさまざまな医療専門用語の数々、またそこで行われる医療行為の描写のリアルさは、一般人の取材だけではとても無理だろうと思わせる、本物の医師だからこその迫力が伝わってきます。そして、この本物感が、読者の作品への没入感を大きく上げていくようにも感じます。では、まずは冒頭の緊迫の現場を少し見てみましょう。
『くそっ、入らないっ』と、『呼吸不全を起こした患者の気管にチューブをうまく挿管できず難渋』する『若い医師が低く吐き捨てた』言葉を聞いた咲和子。『みるみるうちに患者の意識が遠の』いたという中に『貸して』と『挿管チューブと喉頭鏡を奪い取』る咲和子は、『こういう猪首の患者は、喉頭展開が難しいのよね。変に力を入れると歯を折っちゃうから』と言うと『左手に持つ喉頭鏡に体重を乗せるようにして、曲型のブレードを持ち上げ』ます。『見えた!』と『気管の入り口が喉頭鏡の発する小さな光に照らされてかすかに浮かび上が』る中、『そこをめがけて右手でするりとチューブを滑り込ませ』る咲和子。『入った!すぐに酸素をつないでアンビューして』と指示する咲和子。酸素が気管に送り込まれ『患者の青白い顔が、さっとピンク色に戻』ります。『ありがとうございますっ』と言う若手医師。しかし、『白石先生、すみません!高度熱傷ですが処置はどうしたら…』と『下肢から浸出液が染み出ている』斜め向かいのベッドの患者に戸惑う別の医師から声をかけられる咲和子…。
ごく一部を再構成して抜き出してみましたが、専門用語が頻出するものの、これはどういう意味だろう?と読者が考えている余地など全くない中に、大混乱の極みにある救急救命の緊迫した現場が描かれていきます。これはもう圧巻です。一気に夢中で読み切るしかないこの冒頭数十ページ。しかし、そんな医療現場のリアルに触れた読者を、さらなる衝撃が襲います。それこそが、そんな緊迫した舞台を責任を取らされる形で大学病院を去ることになった咲和子が描かれた先に登場する〈第一章 スケッチブックの道標〉という章題です。そう、この本編の山場といっても良いくらいの描写は、この作品の〈プロローグ〉に過ぎないという事実がそこに提示されるのです。この構成には驚きました。しかし、そんなこの作品は、あくまで『在宅医療』の現場に光を当てるものです。動と静というくらいに救急救命の現場と『在宅医療』の現場の印象は異なります。この構成は、そんな医療の現場のさまざまな側面を改めて感じさせるとともに、じっくりと描かれていくことになる『在宅医療』を逆に強く印象付けていく演出でもあるように思いました。ある意味、映像作品にもとても向いているとも言えるこの構成、これから読まれる方には是非ご期待いただきたいと思います。
そして、この作品の本編となるのが、主人公の咲和子が、『まほろば診療所』で『在宅医療』の日々を生きていく様が描かれていくところです。
『病気や怪我、障害、高齢などの理由で病院や診療所に通うことが難しい患者に対して、医師が自宅や施設を訪問し、継続的な治療を行う形』
そんな風に説明される『在宅医療』は、『外来・通院、入院に次いで、「第三の医療」と呼ばれている』ものでもあります。そんな医療の中心となるのが咲和子が携わることになった『訪問診療』です。この作品では、『まほろば診療所』で『訪問診療』の日々を送ることになった咲和子の心の変化が描かれてもいきます。『月に延べ百軒』、『一日にわずか五軒』という計算になる担当患者数を聞き、さらに『目の前に生命の危険が迫っている救急患者と違い、家で生活ができる患者ばかり』ということを思い、『在宅医療は未経験といえども』『やっていける自信』を感じた咲和子。しかし、実際に現場へと赴いた咲和子は、『救急救命センターの外来とは、勝手がひどく違う』と困惑していきます。
『在宅医療には在宅医療の問題があり、それに対応できる技術や看護師の力が必要なのだと初日で思い知った』。
一日あたり『たった五人』と考えたことを恥じる咲和子は、さまざまな現場の苦労を経験していきます。
『在宅医療では、患者の療養を考えるのと同時に、家族を事件の加害者にしないよう注意しなければならないのか ー 今までは考えもしないことだった』。
在宅で家族が患者を看る中に起こる悲劇の萌芽を『訪問診療』の中で感じる咲和子の危機感の描写。本物の終末期医療の現場に身を置かれる南さんだからこそ描けるリアルな医療の現場をそこに感じました。そして、そんなこの作品の中で私が一番衝撃を受けたのが、『在宅医療では、看取り経験のない家族に、死を見守らせるのだ…そのシンプルだが重い事実に咲和子は愕然とする』という先に描かれる『死のレクチャー』についての描写です。
『死は決して怖いものではありません。きょうはご主人に、お別れの際に見られる奥様の体の変化や、今後の状態について詳しくお話しします』。
そんな説明から始めた咲和子は、『とても残念ですが、奥様とのお別れの時が近づいて来ています』という先に、夫に『死』を迎える人の姿を説明していきます。
『まずは、亡くなる一週間から二週間前です。①だんだん眠っている時間が長くなります。②夢と現実を行き来するようになります…見えないものが見えているような動作をすることがあります。これらはみんな、死の兆候です』。
実際に看取りを行う老夫のことを思い、身振りで示しながら『死』というものの訪れを説明していく咲和子。
『最後の日になると、呼吸のリズムが乱れます。いわば危篤状態です。そして、いつもは使わない顎の筋肉を動かし、口をパクパクとさせてあえぐような呼吸になります』。
そんな風に説明されていく言葉の一つひとつはとても重いものです。この世の全ての人間がいつかは辿ることになる死へのカウントダウン。『在宅医療』という言葉はもちろん知っていましたが、その言葉の先には、大切な家族の最後の瞬間を看取ることになるという現実に結びついていなかったことに気づきました。『在宅医療』で最後の瞬間を迎えるという選択をするということは、家族がその瞬間を自宅で見守る覚悟が必要である、そんなこと当たり前じゃないか、とおっしゃる方もいるかもしれませんが、全くその認識のなかった私には大きな衝撃です。てっきり、最後には救急車を呼ぶのだと思っていた根本的な誤りを知った私のこの衝撃。この作品を読んで、一冊の小説を読んだ以上の大きな大きな学びを経験させていただきました。また、少子高齢化社会に向き合うこの国において、人はどうやって最後を迎えていくべきなのか、送る側、送られる側、各自がその双方の立場に立って考えておく必要があることの大切さにも思い至りました。
そんな多くの学びを提供してくれるこの作品ですが、そんな作品にはもう一本、大きな軸が用意されています。それこそが、『家庭では、脳卒中後疼痛に苦しむ父親から積極的安楽死を強く望まれ…』と内容紹介に意味ありげに匂わされるものです。医療技術の進歩に伴って、かつて不治の病とされた数多くの病気にも治療の道が開かれました。癌と聞くとそこには絶望しかなかった時代が嘘のように、今の世では、癌も治癒できる道が開けてきてもいます。しかし、現代の最新の科学技術を持ってしても苦しみを取りきれない病がまだまだ存在し、そこには『安楽死』という言葉が決して過去のものでも、フィクションの世界だけにあるものでもない現実が描かれていきます。そんな事ごとが描かれる舞台が『在宅医療』です。この作品では、『在宅医療』の可能性に新たな世界を見出していく咲和子の姿が描かれてもいきます。
『在宅医療なんて、大学病院の救急医だった自分には簡単だと半分なめていた。なのに、教わることばかりで毎日が過ぎていく』。
『在宅医療』の学びの中に、『在宅医療』にまさかの再生医療の可能性を探る〈第二章 フォワードの挑戦〉、終末期医療を設計する側だった人物が、まさかの当事者となった先を見る〈第四章 プラレールの日々〉、そして、小児がんに侵された少女と家族の姿を描く、涙なくしては読めない〈第五章 人魚の願い〉など、咲和子が向き合っていく現場は多彩です。その一方で、唯一の肉親である父親の身に起こったこと、そして、その先に問題提起のように描かれていく物語、それでなくても深い物語に、そんな父親の物語はさらに奥行きを与えるものがありました。
『最後の日まで、いかにその人らしく生きるか ー そうした毎日を支える存在になろうと、皆がそれぞれに考えている』。
東京の大学病院で救急救命に長年携わってきた一人の女性医師が、故郷で『在宅医療』に携わっていく様を見るこの作品。そこには、一人の医師としてリアルな医療の現場を見続ける南さんだからこそ描ける説得力のある『在宅医療』の最前線を見ることができました。医療の専門用語の数々が医師の南さんならではの説得力で読書の障壁にならないこの作品。『在宅医療』の最後に何が待つのかを噛み締めることになるこの作品。
「いのちの停車場」という絶妙な書名に南さんの深い思いを感じるこの作品。他人事でない、いのちの貴さを改めて認識されられもした絶品でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ラストの衝撃に「え…」としか感想が出てこない。
このお話のラストがこんな風に終わるなんて。
え…嘘…そんな…
どこかで聞いたと思ったら1週間前に私の口から出た言葉だ。
そんな驚きはいいよ、いらないよ。
続編と一緒に2冊借りてきておいて良かった。
放心したままじゃ私の心に良くない。 -
サイレント・ブレスを読んでいたので、在宅医療の内容は二度目となる。
病態·患者により治療方針は大きく異なるのだろうが、いずれにしても大変。20年以上前に妻の母親の終末期医療に接したので痛いほど心境がわかる。妻とはその経験をもとに、死に臨んで、お互い無駄な延命治療はしないよう決めたのだが、周囲が理解しないと難しい。遺言書ということになるのだろうか。
作品中に主人公の父親が安楽死を求めるシーンがあったが、見届け人がいて、また録画をしても無罪となるのは難しいのだろうか。映画ではこの章がコロナ禍の中で相応しく無いとしてカットされてしまったとか。この作品の大事な肝のような気がするのだが、大衆向けの映画とは合わないようだ。
小児癌の子どもの章では涙が出てしまう。子供は死を理解しているのだが、親が中々受け入れられない。
再生医療の章は、以前、再生医療に関わっていたので関心を持って読んだのだが、治療の結果はどうだったのだろうか。その後の経過報告が無く、不完全燃焼だった。 -
在宅医療がテーマの作品
医師でもある南杏子さんが突きつける問に自分たちなりに考え、答えを見つける努力を怠ってはならないと感じました
特に最後の章は南杏子さん自身の覚悟のようなものを感じました
また見送る家族に対しても覚悟を要求しているそんなお話でした -
人の最期をどのように考え向き合うのか。最期の希望は、本人と家族では大きく乖離する。その乖離を家族が様々な感情を持ちながら整理していくことになる。ACPについて推進されているが、実際の場面になったらやはり家族の気持ちが優先することもある。そんな時に白石や仙川のような在宅診療のチームがあるといいな。
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都下の医科大病院救命救急センターで副センター長を勤める白石咲和子62は不意の大規模交通事故で夜間受け入れを独断し多くの救命を成す。が些細な点から責任を問われ病院を辞し故郷金沢に帰り、ひょんな縁から在宅訪問診療所で勤め始める。そこで遭遇する色々な患者の生き様から医療の何たるかに思いを致す日々が6話綴られていてそれぞれ興味深い問題点も提起している。極め付けは咲和子の実父(もと勤務医)が突然の転倒から病に臥して急速に悪化していく件りで施療側と患者側更に患者家族の悩み苦しみを体感する章。ここで提起された尊厳死安楽死の問題がズンと来る!とても緊張して読まされる作品でした。柔らかい表紙絵とシビアな中身とのギャップが大きいですね♪
さっそく映画化された作品ですが観ていませんし、たぶん観ない方が良い気がします。これだけの内容を映像化すると稀薄なモノになってしまうでしょうから。 -
示唆に富む作品で、星5つ以上つけたい。
現役の医者である作者が、社会に問いかけをしている作品。
できるだけ多くの人がこの本を読む機会があるといいな、と思う。
最期を迎えない人は、この世に一人としていないのだから。
主人公は62才の医師、白石咲和子。
東京の大学救命救急センターで要職についていた。
しかし、わけあって故郷の金沢で在宅医療に関わることに。
38年間、最前線で「命を救う」仕事に邁進してきた咲和子は、
この地で「最期を看取る」という新たな挑戦をすることになる。
それは、患者の横にいる家族を支える仕事でもある。
患者には、最先端医療を望む若きIT企業の社長や、まだ6歳の小さな子供もいる。
「最新医学も視野に入れた手段で治療する一方で、苦しくない終末期を支えるケアも行う。自由度の高い対応ができるのが在宅医療だ」と本文中にある。
そうあってほしいと思う。
最も心を打たれたのは、最終章。
咲和子が自分の父の看護をするにあたって、
医師としてではなく、患者の家族としての心情を吐露する場面。
《患者が主体の医療》とはどうあるべきか、咲和子とともに揺れ動く。
映画上映中のようだが、まだ見ていない。
社会への問題提起という意味で
エンディングが、本と一緒だといいなと思う。