- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334953584
感想・レビュー・書評
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最初の5分の1くらいまではかなり苦痛だった。
「この人、文章めちゃくちゃ下手じゃないか?」とイラつきながら読んでいた。内容も全くもって面白くなく、結論もなければ、興味をひかれるエピソードもなく、ときどき意味不明ですらある。
しかし、半分くらい読んだあたりから慣れてきたのか、けっこうおもしろく感じるようになった。
最後まで腑に落ちなかったのは著者の言語感覚。昭和14年生まれ、と書いてあったので、世代が違う私と感覚が違っても当然とは思うが、しかし変過ぎると思う。
「(ドトールのミラノサンドについて)なぜ、ミラノなのか。早くも謎がそこにある。サンドは、まあいいか。サンドイッチという日本語の略だけど、知らない人は多い」(P128)
は・・・?
なぜミラノなのか、という疑問はとても分かるけど、ミラノサンドの「サンド」がサンドイッチから来ている、って分からない人、いるの・・・?
あと、「知っているけれど一度も使ったことのない言葉」を、「母親の世代は使うが今はもう使われない」というほのめかしのもとに数十個列挙してるのだが、いや、普通に使うでしょ!使われているでしょ!と言いたいものが半分くらいを占めていた。一例を挙げると、
「腹ごなし」「腹ごしらえ」「あたかも」「案の定」「筋金入り」「花を持たせる」「言わんこっちゃない」「腹もちがいい」「矢つぎ早に」「歯をくいしばって」「軽々しく言うべきことではない」
あまりに腑に落ちないので、何度も読み返すと、「自分の日本語能力が65点だと分かった」などと書いてあるので、おそらく使わないというのは自分限定の話なんだろうとは思うけれど、「僕が大人として生きる社会は、母親たちの頃に比べると、すでに大きく変化していた」などとも書いてあって、やっぱり普通に今は使われていない、という意味にも読めるんだけどなぁ。(そういうところも、この人文章下手すぎ!と思う理由かも)
映画のあらすじを意味もなく最後まで全部ぶちまけて、それで終わり、という回もいくつかあって、あきれた。ムダで意味のないネタばれ。
刑事コロンボの説明とか下手すぎて、あんなにおもしろいドラマが、まったくおもしろそうに聞こえない。数話しか見ていない分際でコロンボを語るなー!と言いたかった。
しかし、最後の方になると、あまり知られていないレア情報がいくつかあった。(それこそ私が知らないだけの情報かもしれないけど)
たとえば、「ライ麦畑」は、1952年に『危険な年齢』というタイトルで翻訳されていて、その時の著者名は「J.D.サリンガー」だったらしい、とか、のらくろの作者の田河水泡さんは、本名を高見澤仲太郎と言って、元は落語作者だったとか!
しかも、田河水泡は、当初は「たがわすいほう」と読むんじゃなくて、「たかみずあわ」と読む名前だったらしい。つまり、たかみざわ、の当て字。でも、みんながたがわすいほう、と読むものだから、最終的には「たがわすいほう」に変えたらしい。
この後、またまた「のらくろ」のあらすじを意味もなく延々と続けるんだけど、まあこれは許す!
のらくろって私は読んだことなかったけど、こうしてあらすじを聞くと、めっちゃくちゃおもしろいじゃん、と思った。
ということで、最初は★1つの価値もないと思って読んでいたが、最終的には★3つにしました。
『わしゃあカタオカじゃ』の回だけは唯一、ただのネタばれも意味不明の部分もなく読めて、手放しでとてもおもしろいと思った。こういうのをいっぱい書いてほしかった。片岡家とご本人の記憶にとても興味ひかれた。 -
<械>
片岡義男。学生時代に本当によく読んだ。角川文庫だったような記憶だ。波とサーフィンと風とオートバイだけで,中身など皆無の小説だった様な記憶がある。面倒なのでそれ以上詳しくは調べはしない。
そしてもう一つ確かな記憶は,片岡は日本機械学会という団体の事務か何かの仕事を作家以前にはしていたという事。どうして その経歴を詳らかに筆者紹介欄にしつこいくらいに書いていたのかは今となっては分からない。
だが本書の筆者紹介欄には 日本機械学会 などという記述は一切無い。そして僕が何故その片岡の経歴に注目するかと云うと,大学卒業後 僕は 機械設計者として某大手機械メーカーで仕事を始めたのち,その機械学会へ出向くことが多かったからである。確か信濃町駅のそばの慶応病院の近くに事務所があったような記憶が僕の頭の片隅に残っている。
もちろんその時はもう片岡はそこにはいなかったが, へえ こういう所で片岡は仕事してたんだ,こんな官庁みたいな仕事はさぞかしつまらなかったろうなぁ と思ったものだった。
そしてどうやらこのエッセイ達はごく最近片岡がこの本の為に書き下した作品の様だ。従って過去現在取り混ぜていろんな題材が出て来てしかもそれが全部現在の環境を背景にして今の言葉で書かれている。とても興味津々だ。読む前はあまり期待はしていなかったがこりゃとても読み応えのある本だ。僕らと同世代の男子にはお勧めの本でしょうな。是非機会があれば読んでみて欲しい。
さても 前半はそこそこ面白かった。短くまとめられていたし,良く練られた文章で片岡自身の意見もそこそこ書いてあった。でも中後半はダメだ。その モノ (の 下手すりゃ取説)に書いてあることの丸写しばかりだ。CDの題名や歌手名 コーヒーの銘柄 生産地,勢い とある映画のストーリー説明に至ってもいる。知ってるよそんな有名な映画のストーリなんて,って感じである。又は,その当時(ん?いつだw)流行ったものの羅列だったり。どうかすりゃ 箇条書き にしちまいそうな勢いで他人に作ってもらった文章の書き写しで埋まっている。
もはや片岡のエッセイとはいいがたい。 まあこれだけの単独エッセイ本を書き下しで発刊したのだから,各エッセイの間に出来/不出来は当然あってしかり,なのだが。まあ 老古兵は去れ! という一言で締めくくることが出来る本だろう。再びすまぬ。-
ゴメンなさい、訂正します。
片岡義男は日本機械学会で働いていた、と書いたが 間違ってました。
機械学会で働いていたのは 赤川二郎でした。すま...ゴメンなさい、訂正します。
片岡義男は日本機械学会で働いていた、と書いたが 間違ってました。
機械学会で働いていたのは 赤川二郎でした。すまぬ(≧∀≦)2023/05/03
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ここには片岡義男のエッセンスがほぼ全て入っているな、と思う。今はもうない東京の光景・風俗に対するノスタルジアや日本語と英語をめぐるクリスプな考察、コーヒーをめぐる洗練された蘊蓄に映画や文学で見かけた印象的な一節。そういったものが片岡ならではのキザなようであざとくない、地に足の付いた文章によって展開される。読みながらタメになるところもあったし、このバラエティの豊かさが片岡のキャリアの確かさを伺わせて凄みを感じさせられた。悪く言えば「いつもの」片岡から出ていない、保守的な本であるとも言えるのだが私は肯定したい
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前著『珈琲が呼ぶ』が、なかなか面白かった、— 所謂、エスプリが効いていた —ので、この「おかわり」も読んでみた。
良くも悪くも、片岡節で溢れていて、良くも悪くも、一日の空き時間に、余暇の楽しみに飲む一杯の珈琲のように、なにも考えずに読める洒脱な文章だった。
前著が、文中で、かの飲みものを「コーヒー」と綴っていたのに対し、本書では徹頭徹尾、「珈琲」に統一していた。著者の意図、というより編集で統一したのかな。片岡義男に、そこまでの拘りがあったのか否か。肩の力の抜けた文章からは、それは感じ取れない。
如何にも著者ならではの筆運びについて、本書のとある章で種明かしのようなクダリがあったのが面白かった。「日本語でこう書いた」という章だ。著者より十ほど年長の編集者と思しき男性との会話だ。その男に、読み手を意識して書いていない、と指摘される。
「出来事の意味だけを客観的に書きたいと願っています」
「だからそこが問題だね。筆者の心情はまったく書かれていない。どうすればいいんだ。文章というものは、基本的に言って、ごく保守的なものなんだよ」
この男性も、この対話も実際にあったことかもわからない(多分、虚構だと思う)。が、指摘の通り、片岡節には、客観的な出来事だけが淡々と述べられていて、そこから読み手がなにかを読み取らねばならない。それが味わいでもある。
本書のタイトルは、収録されている、とある章題から。「僕は珈琲」というのは、喫茶店に複数で入店して注文をするとき言葉だ(英訳するとオカシイというアレ)。悪くないんだけど、そこではなく、今回、一番のお気に入りの章は、「珈琲でも飲もうか」だったかな。
“「珈琲」と「珈琲でも」とは、まるで異なる。”
と、「でも」について考察を加える。
これは、前著でも「一杯のコーヒーが百円になるまで」で日本のコーヒー文化を読み解いた、著者の珈琲に対する思いが通底していて面白い章だった。
それがタイトルでも良かったか。 -
『片岡義男』という四角張った漢字が並ぶ名前と、僕は感じていた。ご本人はカタカナで『カタオカ・ヨシオ』という名前について気になるようだ。そんな自身の名前にまつわるエピソードでこのエッセイは始まる。
全編、珈琲の影響下に置かれた考察の産物だ。読み手の僕は大阪和泉市にある豆一珈楽のマスターによるフルシティローストのマンデリンを飲みながら読んでいる。書き手と読み手は、『珈琲を飲みながら』という共通した行為を持つ共同体と言えなくはないか。
本書の帯に『カタオカさんの珈琲 おかわり 出来ました』と書かれるように本書には『珈琲が呼ぶ』という前著がある。当時書いたレビューを読み返すと、一部に、おいおいどうなっているんだという感想が当てはまるものがあったようだが、本書にはない。どれもすべて、存分に楽しめる言わば掌編だ。このエッセイを読むと、心の中で自身の青春時代の記憶が、まるで短編映画のように転がりだす。だからこのエッセイ集は掌編小説集でもある。 -
コーヒーを飲みながら、読み終えました。
出てくる喫茶店の一つは、我が家の近所なのだが、なかなか開いていないのが残念。 -
f.2023/7/22
p.2023/1/27 -
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
片岡義男さんの著作はそれほど読んでいないのですが、この歳になって、改めてちょっと気になり始めました。
私よりも20歳ほど先輩ですが、独自の感性で綴り続けるエッセイには懐かしさと心地よさが同居しています。
https://www....
https://www.news-postseven.com/archives/20230308_1845003.html?DETAIL