新約聖書入門―心の糧を求める人へ (光文社文庫)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334700652

感想・レビュー・書評

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  • 三浦文学のなかで、タイトルからして宗教色が強そうで、おそらく最後に読むのではないか、あるいは読まないかもと考えていた作品でした。ところが読み始めると、冒頭から惹きつけられてしまい、キリスト教を教養として知ることができたように思います。

  • キリスト教とは一体なんなんだろうか?と思うようになった時この本は義理の両親の本棚にあった。
    なので読んだ。

    本のタイトルから、読むのは大変だろうと思っていたが、三浦綾子さんの選んだ何個かのエピソードを元に解説されていたので読みやすくて理解しやすかった。

    福音書は第何章の何番。と、いった感じでナンバリングされていて、悩みに応じて解があると解釈した。
    Yahoo知恵袋みたいなもんかなと思ったりして。
    それとも新聞の人生相談??

    キリストは誰に対しても平等な人物だとわかった。
    なのにそれを信仰している国々の間で戦争が未だにある事が不思議でならない。
    それぞれ良いように解釈しているのだろうか?

  • 小説家でありキリスト教徒である著者が、『新約聖書』の内容を紹介している本です。

    ただし、『新約聖書』の単なる解説をめざしているものではなく、『新約聖書』のなかのいくつかのエピソードをとりあげ、それらをめぐって著者自身の信仰のかたちが語られています。

    小説家の鋭い視点で、聖書のことばのなかに人間と信仰についての深い洞察を見ようとしているところに、本書の特徴があるといえるように思います。

  • 4福音書、使徒行伝、1つずつの書簡、ヨハネ黙示録と特徴を書きながら、エピソードを交えて説明していくところは流石!著者の明確な信仰が主張されている。見事な説教集のようである。印象に残る明確な内容は私たちがイエスの代わりに救われたバラバだということ!そしてシロアムの池で目が開かれた盲人の心の動きについての説明。しかし、細かい福音書などの出来事の説明は正直なところ、「クリスチャンである私には分りやすいが、ノンクリスチャンにどこまで分りやすいかな」と思わざるをえないところもあった。

  • キリスト教について興味があり、ふと手に取った。さすが作家なだけあって、こちらが知りたいと思うことを面白く教えてくれる。著者の経験を交えての解説にも好感がもてた。心に触れる言葉も数多くあり、実際に聖書を読んでみようと思った。

  • 著者が、聖書の概要を時代背景含めて概説してくれる。約2000年前に書かれた書物をアップデートしないのは何故か?と疑問に思っていた。それは、キリストが神の子で、その証が行った奇跡であるから。そして、目的は神への信仰を取り戻す事だったからと勝手に理解した。

  • 旧約聖書入門と共に読了。Audibleにて聴

    信者でないものが興味で読む不敬は知るべきとは思うが、興味深かった。

    信仰とは何か
    書かれていることは何か
    どう解釈するか

    この3点について知見を得た。
    繰り返し読むことでさらに深まると思う。これを会得した上で原典に当たりたい

  •  再び、三浦綾子氏の作品だ。著者の作品は、ものすごく深いとこまでを知っているという訳ではないかも知れないが、押し付けがましくも無く、実体験に基づいていたり、読むほうからするとすんなり入りやすい。

     イエスはいつも弱い人々に目を向けていた。イエスのいちばん嫌いなのは、自分を正しいと思っている人間達であった。心の中でいつも「自分は大した者だ。学はある、金はある、そして人に尊敬されている」と数え上げては誇っている人たちである。イエスは誇ることの出来ない人たちには限りなく愛をそそぐが、誇り高ぶる人間には容赦ないきびしさを持っていた。考えてみると、私たちは神の前に立ったとき、本当に誇るべきものをどれだけ持っているのだろう。神の支配する天国に入れてもらうため、私たちは一体どんなものを携えることが出来るだろう。金袋は天国では一文の価も無い。地位があるからといって、先に天国の門を通してもらうわけには行かない。神の前に通用するのは、ただ、心が貧しい、というだけなのである。それは「私には誇れるも何も持っていません」という謙遜だけなのだ。たとえ何ほどかの親切や善行をしたことがあったとしても、それは神の前に何の手柄ともならない。そのいささかの善行や、いささかの親切を誇ることがすなわち高ぶりなのだから。しかも、私たちは、そのささやかな親切や善行の何千何万倍の罪を日々重ねているはずなのだから。人間は所詮、神の目から見れば、罪を犯さずには生きていけない存在に過ぎない。その私たちが神の前に一番に為すべきことは、神よ、私は罪深い者です、という謙遜な思いを持つことだろう。それは簡単に見えて、決して容易ではない。どうしても自分がそれほど悪い人間には思えないのだ。しかし、もし私たちが生まれてこの方、知り合った人々全てに、忌憚の無い自分への批判を聞くとするならば、そこには思いがけないほど多くの自分への悪口雑言があるのではないか。全ての人の批判に耐えうる者は一人もいないだろう。

     「悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らは慰められるだろう」という聖書の言葉がある。この言葉の意味を考えたい。なんで悲しんでいるのが幸いなのか。この世には悲しむべきことがあまりにも多すぎる。親の死、伴侶の死、子供の死、兄弟の死、友人の死、夫の不貞、妻の不貞、離婚、子供の非行、肉親の非行、病気、不和、家業の不振、失恋等あまりにも多すぎる。その悲しみに触れて、私たちは「悲しむべきこと」が何であるかを見失って生きているのではないか。人間として一番悲しむべきことが他にもあるはずだ。それは、自分の不真実、自分の罪、自分の醜さ、弱さ、不貞、狭量、嫉妬等、それらは少なくとも人間である限り、悲しむべき事柄のはずである。ともすれば、悲しみというのは、自分の心の内にあるのである。そして最も重要な悲しみとは、この自分の醜さゆえに、神の国に入るにふさわしくない者であることを悲しむ悲しみではないだろうか。金が無い悲しみは金が与えられれば癒されるであろう。子供の非行は、それが元にもどされればいやされるであろう。病の悲しみは健康になったときにいやされるであろう。肉親との死別の悲しみさえ時間とともにいやされていくものだ。私たちの悲しみというのは、そうした底の浅いところに終わりがちで、自分自身のあり方に対する痛烈な悲しみというのは、あまりにも少ないのではないだろうか。この神の前における自分自身への痛恨を抱くもの、それがイエスの言われた「悲しんでいる者」なのである。つまり、悲しんでいること自体が既に祝福の中にあるということなのだ。すなわちそれは、自分の罪を悲しめないものは、祝福に入れないということでもある。

     一人の人間でも、時と場合によって、良心が変わることがある。人のやった過失は鋭い良心で指摘するが、自分の犯した過失は鈍い良心で弁護する。この世には良心の基準と言うものはない。そして全く同じ良心というのもないであろう。金銭面の良心の高さは同じでも、異性についての良心となるとぐっと差がつくこともある。良心に恥じない、といっても低い良心ゆえに恥じない人もあるし、良心に恥じることをした、といっても、他の人なら痛痒を感じないことを心にかけていることもある。

     罵りや怒りは殺人と同罪である。この世の中で一日中ただの一度も人のことを悪く思わずに生きることの出来る人が一体どのくらいあるだろう。また、人の悪口を言わない人がどのくらいいるだろう。人を殺す罪と、バカと罵る罪は神の前には同罪なのだ。殺人の芽は、実に罵りという種から生えるからだ。怒るとき、人はその相手の顔を二度と見たくないと思うだろう。二度と見たくないということは、突き詰めて言えば、死ねばよいということでもある。私たちは人を悪く思ったり、人を怒ったりするとき、それが実は殺人の芽だということを思ってもみない。思ってもみないが、事実それは殺人なのだ。怒りもせずに人を殺すことは狂人でもない限りありえない。人が人を殺すのは怒るからであり、憎むからである。私たち自身、人に悪口を言われただけで罵られただけで、自殺する人間さえこの世にはたくさんいる。だから舌先三寸で人を殺す、という言葉さえある。いかにイエスが人間という者の実体を見極めていたかに驚嘆せずにはいられない。

     イエスを試すために、姦淫した女を連れてきて、どう裁くか試した愚か者もいる。イエスは、「汝らのうち、罪なき者まづ石をうて」といった。ここでイエスは、人間を裁きうるものは全く罪の無い神のみであることを宣言されたのではないか。と同時に、人間は全て罪人であることを彼らに悟らせようとしたのではあるまいか。決して、イエスは、この姦淫の女を殺す前に、お前達を石で打ち殺すともいわなかった。言えたのに。それが救い主イエスの姿だ。また女にも、再び罪を犯さないように、と新たに生きる道を示された。私たち人間がいかなる過ちを犯しても、その罪におののくとき、イエスはこのようにして私たちをかばい、許してくれることを思わせてくれる。

  • 本当の平等とは何か。愛のある不公平という言葉を目にしたことがある。自分のものさしとはちがうものさし。表面的な平等でなく,奥深い平等。
    人間は罪深い存在だ。だからイエス様がその罪を背負ってくださった。そんな素朴な信仰でいいという。

  • なぜ、新約聖書の冒頭は、外人の名前が羅列されているのか、愛の章とは、不正な家令の話など一信者の目線から聖書を解説している大変分かり易い本。聖書を読む前に読んでおきたい本。

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著者プロフィール

1922年4月、北海道旭川市生まれ。1959年、三浦光世と結婚。1964年、朝日新聞の1000万円懸賞小説に『氷点』で入選し作家活動に入る。その後も『塩狩峠』『道ありき』『泥流地帯』『母』『銃口』など数多くの小説、エッセイ等を発表した。1998年、旭川市に三浦綾子記念文学館が開館。1999年10月、逝去。

「2023年 『横書き・総ルビ 氷点(下)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

三浦綾子の作品

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