未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論 (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334045296

感想・レビュー・書評

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  • 会社で辞めることになった部下が感銘を受けたらしく勧められたので読んでみたものの…なんかツッコミどころ満載。、

    138億年前から決まっていた、と言いながら説明はある状況に置かれた時の判断は予測精度が上がる、という話しばかりでそれはどちらかと言うと認知バイアスの話なのでは?と疑問。運命論としての話ではないのでは?

    E=mc2が光速度不変の法則として紹介されているがこれは質量とエネルギーの等価性の法則ではないのか?何で過去へのタイムスリップの可能性が見つからない事が決定論の正しさを証明するのか?

    第二次世界大戦が東條英機がいなかったら防げたか?という社会の流れをもってだから運命が決まっているというのもナンセンスだろう。社会の流れはひとりくらいの力ではどうにもならないこともあるが、それは個人の運命が決まっていかことの総和ではないだろ。

    2章に入っても違和感が。「意志には行動をコントロールするような力はない」というが、例えば人を殺したいという感情が生まれること自体は防げないが、それを意志で持って実行に移さないというのが社会生活であろう。それを意思が発生するから運が悪いは論点が異なると思う。規範が未熟なケースはあっても殺人がOKの規範は生まれない。それらもLGBTQと同列で語るのもどうかと思う。

    万引きするのが多数派であれば犯罪にもならない社会、も認識として間違ってる。啓蒙主義以降、個人の人権意識が定着し基本自由だが他人の自由と干渉する場合に決められているのがルール。決して多数派が当たり前と思う事を規定したものではない。

    親の暴力性が遺伝するという表記もあるがこれはどうなのか?それを言いだすと犯罪者の子は犯罪を犯す可能性が高いということか?経済環境は影響あると思うが本当に犯罪性が遺伝すると言いたいのか?

    最後の「心理学的決定論の悪用はしないで欲しい」というのも訳がわからない。

    4章の最後で語られる宗教の話も、一神教が多神教の発展形でそれがもはやそれでは支えられないくらいの世界規模になったから、とあるが宗教団体の問題は社会がもっと小さい頃からあるはず。揉め事は一神教である事が原因で規模の話ではないとも考えられるのでは?でもここは妙に一方的に決めつける。

    6章の量子論においては、なぜか量子論は世界が神のプレイするVRゲームを示唆するとして全て事前に決まっている、とする。さらにそのプレイする神は無自覚な神である自分かもしれない、って。じゃあその神の意志は自分の意志じゃないのかな?そもそも量子論こそ確率的にしか未来は決まっていないというものではないのか?もう馬鹿らしくて途中からメモるのも嫌になった。

    まぁ結論的には、意識と言ってもさまざまな外的要因への反応として生まれるものなので、自由意志と思っているのは実は幻想で環境への反応を後付けで自由意志と思ってるのだ、ってとこなんだろうけど、もしもそうだとしても表紙の帯にあるように138億年前から全て発生事象が決まってるわけではなくあくまでも確率的に決まっているだけなので個々人がどうなるかまでは決まっているわけではないだろう。

    何がガッカリってそもそも未来が決まっているという事を何も説明できてない事。学者を名乗るならもうちょっとちゃんとしたら説明をしてほしい。

    せいぜい居酒屋での与太話としてならまぁアリかもね。

  • なんだかな。正真正銘のトンデモ理論で著者自身がエンタメ本と認めているのだが、entertain(楽しませる)どころか怒りがこみ上げてくる。徹頭徹尾トンデモに徹していれば良いのに、自然科学でビミョーに権威付けするからイライラする。論理の飛躍、無理な一般化、果ては自説を宗教で説明するとか科学をなめてンのか?
    主張のコアは『この世に自由意思は存在せず、全ては予め決定されていた』ということらしいのだが、この論には偶然性をどう扱うかの視点が全く抜けている。ルーレットの比喩があったが、回転の初速度や摩擦係数、球の弾性など全てが事前に確定していれば出る目も『必然』と言えるかもしれないが、そこまで『必然』の意味を拡張すれば、そりゃ何だって必然になるよ。そこには初期条件を確実には決められない要素が必ずあり、それを人は偶然と呼ぶ。
    また、やたらに量子論を持ち出すが、その本質は素粒子の位置(と運動量)は確率でしか求められないというもので、それこそ偶然性の極みではないか。文系の学者が自然科学を聞き齧るとこうなるという典型。

  • この世界のシナリオはあらかじめ決められていて、私たちは外界の刺激に対して決められた反応をしている。我々人間は意識レベルが高度であるため選択肢を与えられているように錯覚しているが、これが自由意思があると思わせる神が与えた罠である。
    意識とは情報。これが結論としている。

    私たちの見ている世界は私たちの脳内で電気信号として構成されており現実と妄想や夢との区別は曖昧で、頭のなかにあるもの全てが現実である。
    いまの生活も、これを書いている私も、私の文章を読んでいるあなたも、年老いた自分が夢を見ている若き日の自分である可能性もあり、その可能性を否定できる証拠はどこにもない。

    この理論の魅力的なところは、自分=世界であるから、何をしている自分も宇宙の一部として認められ、尊敬するあの人もぜんぶ自分の一部であり、人と比べて自分は劣っているとか狭い視野で物事を考えることから解放してくれるところである。

  • 人間は当然自分の意志で動いていると思っている。しかし実はその前に体が反応していて、自分が判断していると思っているのは錯覚にすぎない、という脳科学などの本を読んだことのある人にはよく知られているベンジャミン・リベットの実験。この定説から出発して、未来は全て決まっていて人間はその通りに動いているに過ぎないという誰もが一度はした空想を結論として結びつける野心的な本。ただ、その論拠を前提の違う神学や哲学などの人文知をもとに組み立てようとするのは違和感を感じた。著者も所属する日本人文学教養学会には受けがいいかもしれないが、科学的な知見の積み重ねでの推論が読みたかったしそのほうが説得力のではないか。哲学などの人文教養好きがその方向から読む心理学エッセイを期待する読み手にはいいかもしれないが、タイトルの結論を導くには説得的ではないと思う。

  • 本書は、書店で見かけてタイトルに惹かれて購入した。『未来は決まっており、自分の意思など存在しない。』私がこの本を手にとって購入することは、すでに決まっていて、私の意思など無かったの?なんて思いつつ手にとったのを覚えている。書籍の帯にも「あなたが本書を手にすることは、138億年前から決まっていた。」と書いてある。もう何がなんだか、確かめずにはいられなくなって気がついたら購入していた。のかな〜

    著者の思考の軌跡をたどっていき、タイトルのような考えを持つようになったのかを証明するような一冊だった。著者の思考についていくのは結構たいへんで、多くの分野の哲学・思想を読み解きつつ結論に導く旅は、険しく、危険に満ちている。
    とはいえ、どれも興味深く読みすすめることは苦にはならなかった。

    私たちの未来は、決められたレールの上をただ進む状態で、自らの意思や決めた(と思っている)こともすでに確定されていたという世界だったら、皆さんどう思います?簡単には信じがたい考え方だが、もしも、それが万物の真理だとしたら?
    こんなことを考え続けることなど今までは無く、とても貴重な体験ができた。

    また、本書には映画や漫画、小説等多く引用されており、それらの作品にも興味をひかれる。読みたい本や漫画、観たい映画がいくつもあり積読本、漫画が増えそうで怖い。そういう意味でも、危険な本だ。

    近いうちに再読をしたい。

  • 自由意志について

    あくまで著者の仮説
    「心理学的決定論」
    この世の全ては事前に確定しており、自分の意思は幻影だ。


    “我々は意志の力では生きていない。脳と環境の相互作用によって、自動的に体を動かされ、全て事前に決まっているプログラム通りに反射を繰り返しているだけだ。意志で作っているように見えても、全ての行動は環境からの刺激に対する、反射なのである。53

    “意識とは情報であり、生命とはその情報を増やすために配置された「なにがしか」(存在)である。この世界の本質は情報なのだ。276

  • 著者自身も書いているけど、本当に「マスターべション的思想本」だと思う。
    最後の数ページだけは、興味深く読むことができました。

  • 本論よりもまとめが衝撃的。
    著者の凄惨な体験が赤裸々に記されている。

  • 著者の言う通り、専門外の分野を渉猟した結果のエッセンス。すべては心理学的決定論に通じざるを得ないとする結果。研究者としては実績というよりは、読み物の体になるだろうが、この本を著してくれたことに感謝したい。おかげで自分の関心、意識とはなんだろう?にたいする、一つのアンチテーゼとして考えるものができた。「なぜ未来に対する決意、意思によって今までの延長線上とは違う未来に変わることをも(事前?)決定論とするこの考え方は、受け入れ難いのだろう?」

    著者が調べた範囲の分野は以下、脳神経科学は『脳と時間』で、エントロピー増大則(熱力学の第二法則)に通ずる物理学はカルロ・ロヴェッリ教授の『時間は存在しない』で等々、通じるものをある程度確認したし大部分納得もするが、やはり意識、その前提にある決定とその直後の行動に必然性を設けるとする点で、無理を感じる。

    3章にて、AIも原意識のようなものは持っていてもおかしくないとあるが、しかしその判断、決断過程はブラックボックスだともある。
    我々の言う「自由意志」は、AIでいうブラックボックス部分という、判断、決断に至る過程の不透明さのことを、統御可能な文脈で名づけた名前だとも言っているが、そこには決断→結果としての行動という、決断から結果への一意性が規定されているように見える。ちなみにここで言う決断は、人間の意志として下した認識のある決断(意識)のみを指すのではない。ある行動(静観するなどの受動的態度も含めた、全ての行動。人間や有機物に限らない、量子単位にも含まれる)、結果を起こす前の「原因となるイベント」要素のことを指している。少なくとも著者の言う文脈では、決断はこの定義になると思われる。

    なお決断の範囲が一意解でなく、中間点を持つバリエーションなんだよと言えば、中間解が存在する上での態度=中動態の議論になってしまいかねず、そこにも著者の残した議論の可能性はあるが、私が問いたい議論の本質はそこにはない。

    ロヴェッリの唱える量子ループ重力理論によると、そもそもすべての存在対象は、(少なくとも量子レベルでは)場、重力場を持ち、その重力場の指し示すベクトルは一様でない、バラバラのはずだとある。ベクトルが異なるのであれば全ての存在対象において一様な、一方向の順序は存在しないことになり、ひいては一様の時間は存在しないことになる。我々が一般に使う時間とは一様な時間のことであるはずだから、その意味において「時間は存在しない」となる。

    そうであればある決断をしたからと言ってその後に起こる行動、または結果も一様ではないはず。著者の言うブラックボックスは、判断、決断過程だけでなく、一意に定まる結果にまで適用されるものであり、因果論を前提としているとも言えそうだ。そうでなければ全てのことが決定しているとする決定論は取れないはずだ。なお、同じロヴェッリの『時間は存在しない』には決定論的な考え方が存在する物理世界は、ブロック宇宙と呼ばれており、著者の言う心理学的決定論は、ブロック宇宙論に立てばこそ生まれる帰結だと捉えている。
    ループ量子重力理論が絶対の真理かはまた別としても、少なくとも心理学的決定論以外の結論に至る反例にはなっているし、何より私にとってはこちらの方がしっくりくると捉えている。

    私のしっくりくる点をより明確にすると、現在や過去に経験した内容、思いを糧として、将来に向けて立てた決意や意思は、自分にとって全く未知な結果に至るかもしれないが、その既知でない点、未知であることそれ自体が、ワクワクを駆り立てる希望になる。心理学的決定論だとしても、我々がその結果を予知できないだけで同様に未知であること、ワクワクを駆り立てることは体験されるものだなどと言われそうだが、自分の把握してない大枠とはいえ、何者か(決定システムのようなものであっても)によって決定されている結果それ自体が存在すると考える「決定論的結果」には、初めから絶望的結果、または状況に対する「諦め」を期待しているような気がしてならない。何より自分の下した決断への後悔、落ち込みを避けたい、言うなればセーフティネットが欲しい、という隠れた意志が見えるように思われた。そう考えればワクワクを指向する人は、自分の思考、判断、決断するバックボーンとしての「思考フレームワーク」にそれをわざわざ選択しないと、心理学的決定論への当初の違和感、当初の問いに対して、解が得られたように思えた。

    人は自分の見たいものしか見ていないとは、脳神経科学で唱えられて久しい。この本を読んで心理学的決定論を受け入れる、選択する上での心理的素地が垣間見えたし、自分はどうせ見たいものを見るなら、上述のような未知へのワクワクを肯定する論に立ちたいし、そのワクワクを享受するに当たっての、選択責任を自分に引き寄せたいという、自分の見たいもの、指向するものに気づかせてもらった。無論、著者を否定する意図は一切ない。良い論証に出会えたからこその良い気づきを得られた。

    2022/1/6 追加 p.276(p.285にも)にあるこの本の結論(以下「」部)に対する感想。
    「意識とは情報であり、生命とはその情報を増やすために配置された『なにがしか』(存在)である」

    全ての観察は視点がありき。視点による、その後の決定に至る判断や時々の考えにおける「偏り」は避けられない。
    意識とは情報と言い切れない。生物は単なる入れ物でない。生命体が生化学的に統御できる肉体を持って行動する場合にはエッジと司令部である脳や脊髄は主従関係にない。それぞれから受発信があるし,全体のネットワークで意識と呼べるものを感じているだけ。
    かたや反するものとしての機械は、司令部とエッジは主従関係にあるはず。ノイマン型コンピュータはそうである。言い換えると中身がスイッチ回路と論理オートマトンであればそうである。司令部もエッジも自律閉鎖形である機械は定義からして不可能。自律閉鎖形風の機械は可能。その自律閉鎖形風の機械で、全体としてのネットワークを持ち、そこで立ち上る意識を持つことは出来そうだが、やはりそれも機械であり、外部からの何らかの恣意的な操作は可能であるし,その機械そのものに責任を持たせるには、その外部操作性が決定責任者としての所在を許さない。と我々は生命体である事に決定責任者としての拠り所を持つ。

  • タイトルの通り、未来は決まっており自分の意志など存在しないという考えに関して、言いたいことはなんとなくわかった気がした。
    自分の行動は、取り巻く様々な環境に起因しており、自分で思い至った意思すらそれに影響されているという考えということは、要は構造主義のことなのかなと理解した。
    その結論に頭では納得できるけれど、やっぱりなかなか心では受け入れられない自分もいた。

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著者プロフィール

九州大学大学院芸術工学研究院准教授。心理学博士。オーストラリア、ウーロンゴン大学客員研究員、東京大学Intelligent Modelling Laboratory特任研究員を経て、現職。著書に『おどろきの心理学 人生を成功に導く「無意識を整える」技術』『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。心理学的決定論』(共に光文社新書)

「2022年 『漫画 人間とは何か?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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