自画像のゆくえ (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (632ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334044374

感想・レビュー・書評

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  •  自画像とは、明治以前の日本には根付いていなかった「西洋の精神」そのものであり、その精神を取り込むことこそが当時の日本美術界における至上命題であった。であるならば、その「描かれるべき西洋の精神」とは日本人にとって何だったのか。本書は、この問いに答えるべく、自画像(もしくは画家の視点を取り入れた絵画)を多く描いたとされる10人の西洋画の大家の生涯と作品に触れながら、「セルフポートレイト」をテーマに作品を描き続けた自身の半生と戦後日本のあゆみ、そして今を生きる我々の未来を考察する大著。

     知性と権威を象徴する肖像画のプロトタイプとなったダ・ヴィンチ。
     ナイフがわりに絵筆で自らのうちに潜む悪徳をも突き刺したカラヴァッジョ。
     消えゆく宮廷と永続する芸術を「観念的遠近法」の構造に埋め込んだベラスケス。
     観察者と夢想者、超俗と世俗の二面性を内包し肖像画の大量生産に勤しんだレンブラント。
     直接自画像を描かぬかわり、自らを暗箱としての絵画に埋め込んだフェルメール。
     画家としての「顔(画風)」と自らの病という個性の相克に苛まれ続けたゴッホ。
     「異形性」と「両義性」の苦悩のうちに自らをデコレートしたフリーダ・カーロ。
     他者によって構成される自らのイメージを露悪的なまでに重視したウォーホル。

     著者によるそれぞれの画家の評伝は、一応は自画像を参照点としたものではあるが、ほとんどバラバラでとっ散らかっているといってよい。もちろん、少々穿ち過ぎなきらいはあるものの、それぞれ独立した読み物としては面白い。しかしこの時点では序章で提起された「日本にとっての西洋的精神」の詳解につながるような系統立った展開はまだ見えてこない。
     
     ここまでが各論とすれば、ラスト100ページ足らずがいわば総論。ここでやや唐突感を伴いながら描かれるのが、戦前に醸成された「日本的なるもの」の称揚に対する反動として、敢えて日本美術に触れまいとする事なかれ主義に戸惑う著者の青年期だ。戦前・戦中を駆け抜け夭折した若き画家らにシンパシーを抱く著者は、「時代の踊り場」としての芸術の停滞期における画家らの苦悩が、その後の日本における西洋美術の国際的な評価に繋がったのだと論じる。日本における西洋の美術表現を西洋文化の剽窃とする見方に強く反抗した松本俊介を引用しつつ、西洋や和風といった二項対立を超越する普遍的価値が、このようなモラトリアル的「踊り場」における自己同一性の獲得には重要であると説く。

     さらに最終章では、「自画像」という内省的表現に伴う重厚さから軽やかに逃れる「自撮り」の意義は、「日常から遊離した私」を表現するという意味で撮影者から被写体への主導権の委譲がなされることにあると喝破する。様々なテクノロジーの進化により、以前よりも各段に容易に「変身」が可能となった今、可変的な「私」を楽しむことは、不安定な時代を主体的に生き抜く知恵であるというのだ。著者は「過去形未来」というやや難解なことばで表現しているが、自画像を描くということはいずれ死にゆく「私」を引き受けて、時間軸を超越した普遍性を獲得することなのだ。

     「コスプレ」という言葉がコモディティ化する遥か前より著名画家の自画像に「なりきる」というスタイルを確立していた著者の創作は、何らの重々しさも感じられずいかにも軽やかで楽しげである。それは、凝り固まった「自我」イメージからの柔軟な逸脱こそが「自画」像であるという逆説を著者が身をもって表現しているからであり、さらにその逸脱を実現する手段は誰にでも容易に入手可能なんだよ、という極めてポジティブなメッセージを携えているからこそだろう。
     

  • 歴史上の人物や偉人・有名人などへの変装したセルフ・ポートレイト作品を一貫して発表し続ける現代芸術家の著者が、自身がこだわり続ける”自画像”とは何かを巡って記された論考。新書でありながら、何と600ページを超える大作。

    その多くは、彼が惹かれる”自画像”にまつわるアート界の大家を巡るものである。カラバッジョにはじまり、ベラスケス、レンブラント、フェルメール、ゴッホ、フリーダ・カーロ、そしてアンディ・ウォーホル。各作家にとっての”自画像”の意味合いや、作品のからくりなどが緻密に分析されており、”自画像”というテーマがここまで奥深いものだとは、という新鮮な感動を覚えた。

    読みえると、正直”自撮り”とは何か、というのはわかるようでわからなくなっている自分に気づくのだが、それでもこのキーワードからこれだけの作家たちの作品を分析し、その全てが驚きに満ちている、というのはとんでもない力作だと思い、充実した読後感に溢れている。

  • これかなり面白いな・・・
    作品の解釈は自由だけど、明確な理由を根拠にした仮説に基づく解釈がなされると本当に面白い。すごい本だった。
    自画像の祖的存在はファン・エイク(1395〜1441)。『赤いターバンの男』。15世紀に今日我々が知るような鏡が誕生した。それが自画像の始まりに必要不可欠であった。
    登場はダ・ヴィンチ、カラヴァッジョ、ベラスケス、レンブラント、フェルメール、ゴッホ、フリーダ・カーロ、アンディ・ウォーホル、著者自身。

    備忘的にキーワードを・・
    ・ダ・ヴィンチ:絵は9点しか残っていない。完成された作品は「受胎告知」「岩窟の聖母」「最後の晩餐」のみ。ダ・ヴィンチを描いた絵は本人のものかは疑わしい。公式ポートレートとして美化され、それも相まって19世紀以降に再評価されただけ説。
    ・カラヴァッジョ:けっこう悪い人。2週間集中して書いて2ヶ月遊び歩くような生活。人間の悪の面を描いている。
    ・ベラスケス:19世紀スペイン、ハプスブルク家の宮廷画家。「ラス・メニーナス」について考察。「ブレダの開城」。大人の品格のある絵。
    ・レンブラント:「夜警」。工房制をとった。絵画需要の多い社会的背景。その中でも自画像は画家自身が描くオリジナル商品という暗黙の了解があり、特に売れ筋だった。なので、レンブラントは自画像をたくさん描いた。17世紀ごろのこと。この頃の自画像は、画家が自身を見つめ直す意味合いだけでみるのではなく、そのような市場性も鑑みる必要がある。
    ・フェルメール:まじでかっけえ。「デルフトの眺望」「牛乳を注ぐ女」。「デルフトを襲った火薬庫の大爆発という大災害から復興しつつあるデルフト市にたいする、鎮魂と祈りを込めて丹念に描かれた連作ではなかったか。」ポワティエ、光滴という、光を白の点で描く独特の技法。
    ・ゴッホ:弟のテオと2人兄弟だと思ってたけど、2人の弟、3人の妹がいる長男だったんだね。日本が好きだった。
    ・フリーダ・カーロ:はじめて知った。かなり強烈な、戸惑うような絵を描く。ゴッホもそうだったけど、本当に気持ちに素直だよな。すごいよな。。イサム・ノグチと愛人関係があったが、夫のディエゴ・リベラが乗り込んで来た話はおもわず笑っちゃうね。
    ・アンディ・ウォーホル:あんありウォーホルのことは知らなかったけど、パンクな表の表情と、孤独な裏の表情と。人間味のある人だったんだ。バンクシーはウォーホルは顔を出しすぎたって言ってた。

  • 自ら様々な著名人に扮したポートレイト作品を発表している著者による、自画像に対する読み応えのある論説。

  • ふむ

  • それなりに理面白くて興味深かった。
    けど、少々疲れた。小難しかった。
    勝手にもっとくだけた人だと思っていたので。

  • かなりおもしろい。「自画像」という観点から絵画の読み取り方をみせてくれる。深く読み込み、自分なりに想像することの面白さ、大切さを学んだ。

  • 東2法経図・6F開架:B1/10/1028/K

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著者プロフィール

1951 年大阪市生まれ。1985年にゴッホに扮したセルフポートレイト写真でデビューして以降、国内外で作品の発表を続ける。近年の個展に「森村泰昌:自画像の美術史——「私」と「わたし」が出会うとき」(2016年、国立国際美術館)、「Yasumasa Morimura: EGO OBSCURA」(2018-19年、ニューヨーク、ジャパン・ソサエティ)、「M 式「海の幸」——森村泰昌 ワタシガタリの神話」(2021-22年、アーティゾン美術館)等。ヨコハマトリエンナーレ2014「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」では、アーティスティック・ディレクターを務めた。2018 年には大阪・北加賀屋に自身の美術館「モリムラ@ミュージアム」が開館。執筆活動も精力的に行い『自画像のゆくえ』(2019年、光文社新書)をはじめ多数の著書がある。

「2022年 『ワタシの迷宮劇場』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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