同志社大学神学部 私はいかに学び、考え、議論したか (光文社新書)
- 光文社 (2015年10月15日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (373ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334038823
感想・レビュー・書評
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キリスト教の見方が変わった。神学部教授や友人が魅力的であり、羨ましく思う。
神学と哲学、これらの理解なしに西洋史はほんとうには理解が出来ないのだと思う。
ルーリアカバラに関する記述もあり面白い。
著者のその後のフロマートカ研究についても興味がある。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
神学についての文章が多く、その知識を持っていない自分にとっては少し難しく感じたが、京都で当時どのような生活を送っていたか知ることができて面白かった。
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著者の自伝的作品で、同志社大学神学部時代の著者の思想と行動を記した本です。
学生運動の残り火がくすぶっていた同志社大学神学部に学ぶ若き日の著者は、キリスト教とマルクス主義のはざまで真摯な思索をかさねつつ、おなじくキリスト教を学ぶ仲間たちや、信仰を精神の核としながら大学という制度のなかに身を置く教員たちとかかわります。やがて著者は、チェコの神学者フロマートカの研究を志し、みずからも共産圏の内からフロマートカの思想と行動を把握したいと考えるようになり、そのために大学にのこって研究者としての道をあゆむのではなく、外交官の道に進むことをえらびます。
本書の「まえがきにかえて」で著者は、「今の日本の教育に不安を感じている人に、この本を是非読んでほしい。それは、同志社大学神学部が時流に逆行している教育機関だからだ」と述べています。神学という学問は、現実の世界で活用することのむずかしいと思われますが、著者はその神学を学ぶことによって、現実に対してかかわっていくさいの根本的な態度を涵養していったことが、本書のなかでえがかれています。さらに著者だけではなく、韓国の「民衆の神学」にコミットすることを志す著者の友人や、大学の置かれている困難な状況のなかでキリスト教の精神をどのようにして生かすことができるのかという問いに向きあう教員たちも、それぞれが著者とは異なる立場からではあるものの、やはり神学によって根本的な精神の強靭さを獲得していることがえがかれています。 -
飲み屋で、マルクスや、哲学、神学と小難しい議論を交わす学生たち。議論の中身が全く理解できず、本棚の隅に随分長い間、置きっぱなしになっていた本。
電車の中で読む本がなくなり、久しぶりに手に取った。しばらく、神学にかかる理論が展開されたが、後半のさらに後半、外交官試験の受験を決めた頃から、筆者の自伝になり、平易な文章となり、一気に読了した。でも、どこまで、この本を理解出来ただろうか? -
【展示用コメント】
知の巨人はどんな学生生活を過ごしたのか
【北海道大学蔵書目録へのリンク先】
https://opac.lib.hokudai.ac.jp/opac/opac_link/bibid/2001661783 -
[源の村]外務省を退官後、様々な著作を発表している著者が、50歳を境に「若者に読んでほしい本を書こう」と考え著した自叙伝的作品。無神論を学習するために同志社大学の神学部へ進み、数々の出会いを経てキリスト教の洗礼も受けることに。自身の宗教的・知的な変遷の流れをたどった一冊です。著者は、『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』で毎日出版文化賞特別賞を受賞された佐藤優。
佐藤氏の「筆力」とでもいうのでしょうか、とにかく読む者を知的興奮の直中にぐいぐいと引き込んでいく様はお見事。大学時代の濃密な時間がびしびしと伝わってきますし、噛み砕きつつ説明してくれる神学に関する記述も興味深いことこの上なしです。
〜信仰というのは、現実の生活と分離できないという思いがわたしの心の中で強くなった。そうなるとともにわたしは神学部だけでなく、キリスト教の世界から外に出て行きたくなったのである。〜
本の内容とは少し離れますが、京都を久しぶりに訪れたくなりました☆5つ -
最も驚くのが著者の記憶力で、学生の頃に交わした会話がディテールに渡って、こと詳らかに書かれている事に驚嘆する。またこの人が社会主義とキリスト教の強烈な刷り込みを経て、現在の言論活動を行っていることは記憶しておいていい。根は真面目な人だと思うが。
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佐藤優の青春記、同じ、京都を舞台にした、青春物 鴨川ホルモー と重なるような、異なるような、と思いつつ、読んでおります。
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1976年~1985年に著者が在籍していた神学部時代を学生運動・神学研究・進路について教師や友人たちと議論したこと、外交官試験受験についての2つを中心に綴る。
世界の思想や政治を理解するにはキリスト教の知識と深く考える力が必要ですが、信仰を持つことはその助けにもなるのだと思いました。 -
高校時代の自らの選択眼,そして大学以降の人々との出会い,これらが土壌となったことは疑いようがない.“キリスト教徒とは,どの組織にも,どの社会にも,ましては国家には一体化できない人たち”という言が全てを的確に表している.宗教とは,哲学を考える道具なのだ,と,新たな世界を見る.