- Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334036591
作品紹介・あらすじ
ヨーロッパという、私達とは一万キロ以上も離れた土地に生まれ、日本に移入され、僅か百年程の間に独特の発展を遂げたのが、現在の日本のクラシック音楽である。それは既に私達の文化に深く広く根を張ったかの様に見えるけれども、その先に咲いた花の形質は、現地(ヨーロッパ)に咲いている物と、何処か違っている様に思う。何故花の色形が変わってしまったのか、違うとしたら何処がどう違うのか、そしてその違いが齎す結果とは何なのか。作曲家・指揮者としてヨーロッパで活躍してきた著者が、その体験を軸にゼロベースで考える、西洋音楽の本質。
感想・レビュー・書評
-
クラシック音楽は、アフタービート、そして、スウイングしているという。
そもそも言語の構造上そうなっているらしい。
そして撓ませるという行動。
演奏家は常に一音先の音符を額浮上で見ながら演奏する。
一拍前の準備によって、次の音符が奏でられる。この流れをグルーヴと呼ぼう。
<blockquote>静と動。或いは静から動への突然の移行。これは確かに日本文化の美しい特質の一つである。だがしかしそれはヨーロッパ音楽をする上では役に立たない。</blockquote>
「スウイングしないクラシックなどありえない」と言う言葉に代表されるように、ジャンルの壁なんぞないんだというのを、楽理に沿って論理的に語る。
実際のクラシック演奏家へ向けられた言葉ではあるが、評者のようなクラシックに馴染みのない人間にも示唆し富んで興味深く読めた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「クラシックに狂気を聴け」というタイトルは『狂気の西洋音楽史』を思い起こさせる。またかという気持ちとともに、森本恭正なる作曲家、しらんなあと呟きつつ手に取る。この著者、Yuki Morimotoなる名前でヨーロッパで活躍しているという。それなら、CDを見たことはある。森本氏、日本の音大を出てプロの指揮者となっても、ある「もどかしさ」につきまとわれていた。それは単純化すれば、日本で西洋音楽をやるということの違和感であろう。彼はそのもどかしさに駆られてアメリカに渡り、そしてヨーロッパに移り、以来、ウィーンを活動の場としてしまったのだ。
その森本氏が西洋音楽とは何かと考えてきたことを綴ったのが本書であり、2007年、ポーランドでの作曲コンクールの席上、審査委員の一人であるK氏との対話を狂言回しのようにして議論は進む。このK氏とは、作曲家のジグムント・クラウゼであろうか。もっとも匿名にしているのは、脚色を施しているからだろう。
狂気という言葉は本書においてK氏から発せられているが、ロマン派の音楽に重ねられているのは『狂気の西洋音楽史』とほぼ同じである。ほぼというのは『狂気の西洋音楽史』では「ロマン派」には古典派も含まれているが、本書においてはフランス革命以降、ベートーヴェン以降のことを言っているからである。主音で始まり主音で終わる音楽から、転調を繰り返す音楽へ、凡人の想像を絶する感情、行動、現象を体現する音楽へ。それを狂気と呼んでいるのである。
この部分が本全体の副題にされているのは耳目を引くからにすぎないようだが、「狂気」の使い方はバナールだと思う。所詮「正常」とされているようなことは視点を変えればすべて「狂気」に陥っているのだから。人間的な感情を解放したのが「狂気」なら、規則でがんじがらめにして,個性の発露を最小限に抑えているバロック音楽は別の形の「狂気」だろう。
とはいえ西洋音楽狂気論は本書の指摘のひとつ。最初の指摘は小節の頭を強調しろと教えるが、実はヨーロッパ音楽はアフタービート(アップビート)の音楽だという指摘。ヨーロッパ人は無意識にアフタービートになっているが、そういう文化のない日本人は、オン・ザ・ビートを強調してしまう。
「撓む音楽」の章では、常に音の動きは準備され、投球のときに腕を後ろに撓ませるような準備動作があるということ。東洋の古武術のように、バックスイングなしにいきなり動くということなはい。
「音楽の左右」の章で依拠する、右脳と左脳の分業は今日ではかなり怪しいものといわれている。楽音として音を分節する西洋音楽が、強力な資本主義の社会の中で力を持ち、広がったこと、民族音楽はそういう分節を持たず、自然音に近いノイズとして認識されるという指摘は脳の左右に局在化しないかぎりは首肯されるところがある。そして現代音楽で音楽はまたノイズに戻るのだ。
そしてクラシック音楽はすでに衰退しつつあるものだといい、だから伝統を守るのか伝統を壊すのかという問いが投げかけられる。
「音楽論」として興味深いとともに、実践家の本らしく、本書で挙げられた議論は日本人が西洋音楽をやる上での示唆に富んでおり、私のような好事家だけではなく、プロの音楽家に読まれるべきものと思う。 -
おもしろかった。
なぜ利き手がミリ単位でスライドさせ弦を押さえるという複雑な操作ではなく、弓を引くような比較的、大振りな動作をになっているのかとは、たしかに疑問に思ってたが、なるほど。
第九が大晦日の定番なのと、ウィーンのニューイヤーコンサートのワルツ漬けの違いも、そう言うことかと。巻末、この第九の話で書かれてるヴェートーヴェンの意図について解釈が凄い。
ヨーロッパは車の信号が赤い→黄色→青なんやね。
-
エヴァンゲリオンの24話で「第九」が使われていたのはそういうことだったのか!
-
はじめに
第一章 本当はアフタービートだったクラシック音楽
第二章 革命と音楽
第三章 撓む音楽
第四章 音楽の右左
第五章 クラシック音楽の行方
第六章 音楽と政治
おわりに
音楽史と思ったら音楽論でした
エッセイ風で読みやすかったが何か知識が得られたかというとあまり...
ただ「たしかに」とおもうことがたくさんあった
西洋クラシックはアップビートってことは理解出来た -
日本人にとってクラシック音楽を受容するということは何を意味しているのかということを、著者自身の体験と考察を交えながら、エッセイのようなスタイルでつづった本です。
日本人という観点から、ヨーロッパの音楽はアフタービートが基本になっているという指摘をおこなったり、クラシックとジャズを貫くスウィングについての独自の考察をおこなったり、さらには、日本人と西洋人で右脳と左脳の使い方に違いがあるという、角田忠信の『日本人の脳』(大修館書店)における疑似科学的な議論までも引用しつつ、西洋音楽が日本において「クラシック」として受容されたことが生んだ「ねじれ」のなかで考察が展開されています。
若干議論が散漫に感じられるところはありますが、著者が直面しているのは、森有正がヨーロッパの思想と出会い格闘した問いと同型のものだということができるように思います。ヨーロッパの思想は、われわれ日本人にとって単なるユーラシア大陸の片隅の特殊な文化として受容されたのではなく、普遍性をもつ範型としての意味をもって受容されてきました。しかしその範型は、いうまでもなくヨーロッパという風土における「経験」のなかではぐくまれ、そのなかから生い立ってきたものであったはずです。ところが、日本におけるヨーロッパ思想の受容においては、ヨーロッパの思想的風土における経験から普遍性へのプロセスをそのままたどることはできず、単なる形式としてのみ受け入れられることになり、そこにレーヴィットが指摘した「二階建ての日本」というニヒリズムの淵源が存在しています。
本書は問題の提起にとどまっており、それに対するはっきりとした答えが与えられているわけではありません。しかし、著者自身が本書において提起されている問題、すなわち日本におけるクラシックの受容という「ねじれ」のなかに身をさらしつつ、その「ねじれ」のなかで思考を紡いでいくドキュメントとなっており、ある種の迫真性が感じられます。 -
第1章「本当はアフタービートだったクラシック音楽」
第2章「革命と音楽」
形式ばった音楽に思えていたクラシック音楽が感情を湧き立たせるようなものへと変わっていく。
歴史上の出来事と音楽の変遷をこれほど関連付けて推察できるとは!
2016/6/14
第3章「撓む音楽」
第4章「音楽の右左」
自分の知識が足りないのか急に読むスピードが遅くなった。
興味深い推論がいくつも出てきて刺激的だが、文章の書き方なのか根拠の薄さなのかいまいち飲み込めない。
邦楽を西洋音楽と同じように聞いてはいけないというのは目から鱗。
2016/6/15
読了。
西洋音楽の記譜法に慣れてしまったがために、邦楽を同じ基準でみてしまっていたことに気付かされた。
ベートーヴェンの第九に込められた暗喩の考察や「君が代」で戦争には行けないということになるほどと。
2016/6/17 -
西洋音楽は基本裏拍、1拍目にアクセント記号があるのは「(例外的に)ここを強拍にしなさい」という意味、という裏拍の話は面白かった。
確かに休符で始まる曲って、多い。そう思って聴くと、ジャズやロックはもちろん、クラシックも基本アフタービートなのがよくわかる。
以前ジャズコンサートに行ったとき、裏拍が取れない人が少なからずいた(ジャズファンなのに???)ことに驚いたし、70代以上で裏拍とれる人は本当に少ないと思う。(日本で)
日本人が西洋音楽を身につける苦労の大本はここにあるのかもしれない。
モーツァルトの装飾音や音の撓みの話も興味深かった。
しかし、右脳左脳の話のところでは、ちょっと納得しかねる部分もあり。
メシアンはただ単にそういう作曲家なだけでは?
私はクラシック音楽を聴いていて鳥の声を感じることがあるけど、日本人だから?(虫がないのは、基本ヨーロッパは寒いところが多く、耳を聾するほど鳴く虫が少ないせいだと思う)
クラシックに関するエッセイとしては読みやすく、まあまあ面白かった。 -
シューベルトの楽譜にかかれた装飾音の話と、ベートーベンの第9の解釈がすばらしくおもしろい。現象学でいうところの間主観的拘束性じゃなかろうか。過去のテキストを読み解くことが、実はいかに困難なことかという命題がわかりやすく説得力をもって描かれている。アフタービートやスウィングの話も刺激的。ひどく図式的な右脳・左脳論だけは、どうしても違和感を感じざるを得ないが、それ以外は、なるほど!うわ、そうかも!ひゃあすげえw!と1ページに3回以上感嘆符の連続。音楽好きなら必読かも。