創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (358ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334035907

作品紹介・あらすじ

「演歌は日本の心」と聞いて、疑問に思う人は少ないだろう。落語や歌舞伎同様、近代化以前から受け継がれてきたものと認識されているかもしれない。ところが、それがたかだか四〇年程度の歴史しかない、ごく新しいものだとしたら?本書では、明治の自由民権運動の中で現われ、昭和初期に衰退した「演歌」-当時は「歌による演説」を意味していた-が、一九六〇年代後半に別な文脈で復興し、やがて「真正な日本の文化」とみなされるようになった過程と意味を、膨大な資料と具体例によって論じる。いったい誰が、どういう目的で、「演歌」を創ったのか。

感想・レビュー・書評

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  • とても丁寧な内容の本だが、楽曲と人中心の音楽史であるためその他の社会事象との関連があまり見えないのは残念。

    演歌は明治大正期には演説歌という意味であったとあり、今で言うならラップやポエトリーリーディングみたいなもののようだ。その意味合いが変化していく過程を丹念に追っている。

    「演歌(艶歌)=不幸、不満のはけ口」という感想。あまり大ぴらにストレスの解消をできない時代に詩に心情を託して鑑賞する。という形が核家族化や地域コミュニティの希薄化、経済的な弱者保護の増加に伴い、個々人の不幸感が歌によって回収できなくなってきたのでは?

    そういう意味では演歌(艶歌)の「日本の心」=現状を直視した上での嘆き、あきらめといったものの肯定とも捉えられる。

    援歌ならともかく、現状を直視するのを避ける傾向がある昨今では演歌(艶歌)の復権は難しいのではなかろうか。

    あきらめの大衆化はポジティブシンキングの大衆化によって駆逐されつつある?

  • 新書大賞2011第10位筆者は演歌誕生は1966年五木寛之小説「艶歌」よりと。69年デビュー不幸なプロフィール脚色された藤圭子による暗さ、不幸による怨歌が人気定着も80年代若者達のjpopカラオケ文化により演歌は衰退へ意外と歴史が浅い創られた演歌日本の心とはなにかを問う。

  • 創られた「日本の心」神話
    「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史
    大阪大学文学部准教授 輪島祐介著
    2010年、光文社新書

    9月20日のオフ会でお話を聞いた輪島さんが書かれた本。
    お話を聞く前に読みたかったのですが、図書館の順番が回ってこず、やっと読めました。

    演歌の定義は? 美空ひばりって演歌?
    これらの質問に対する回答は、易しそうで難しい。
    演歌というと、ついヨナ抜き五音音階や、民謡調の二六抜き音階、七五調の日本的な歌詞、こぶしや唸り、なんかをイメージするが、実は、我々が「演歌」だと思っている曲に、そういうことが当てはまらない曲がいっぱいある。

    例えば、我々世代が「演歌」だと感じていた古賀メロディーも、レコード歌謡が始まった頃には「ラテン風」「南欧風」と見られていた。明大マンドリンクラブ出身でクラシックギター演奏に秀でた古賀の音楽的素養は、プチ・ブル青年層のカジュアルな舶来趣味と合致していた。
    そう書かれると、はっと目が覚める。この本には書かれていないが、9月に聞いた輪島さんの講演では、こんな話しが。私、きたはらんなは、森昌子、桜田淳子、山口百恵という花の中三トリオと同い年。私の世代では、森は演歌、後は普通の歌謡曲に聞こえた。ところが、今、輪島さんが教える学生たちに聞かせると三人とも同じジャンルだと感じるという。

    講演でも、この本でも、輪島さんの言いたいことは、「演歌」は必ずしも日本的ではなく、曲や歌詞に一定のルールがあるわけでもない、つまり音楽的なジャンルではなく、音楽産業上のいわば“都合”により、売る側の論理で創られた概念だということ。そして、長く見積もって1960年代後半から1980年代後半までの20年間の現象。
    その証拠として、JASRAC(音楽の著作権をほぼ独占状態で管理している組織)の仕事をしたところ、JASRACは「演歌」という言葉をなくそうと努力していることが分かったという(これはオフ会で披露されたオフレコ話(^o^))。
    そして、今は、「昭和歌謡」としてひとくくりにして売ろうとしている。

    この本では、一部と二部で「演歌」は多くの人が思いこんでいる「演歌」に非ず、音楽産業史の宿命によって生まれたことだということを、いろいろな角度から論じている。
    三部では、日本の文化人の思想と演歌についても分析。戦後、旧左翼による「演歌」的な曲への攻撃、五木寛之など新左翼側からのそれに対する反発と「演歌/
    艶歌」への賞賛(その申し子のように登場した藤圭子)、などが書かれ、さらに四部では、その後、演歌から昭和歌謡へと移った現在に至るまでの過程が追われている。

    はっと、目が覚める一冊。


    以下、ほーうっ、と思ったことの箇条書きのほんの一部

    GS以後のフリーランス作家の時代に入り、それ以前のスタイルが「時代遅れ」で「年寄り向け」に思われ始めたときに。古いタイプの歌と目されたものを新たにジャンル化されたのが「演歌」。(46)

    演歌の語源は、明治の自由民権運動の流れをくむ「演説の歌」(50)
    「ダイナマイト節」「オッペケペー」
       ↓
    演歌は直接的な政治批判から滑稽を含んだ社会風刺に。
    明治末年には、無伴奏→バイオリン導入、芸人に近づく
    壮士ではなく書生(苦学生)が担い手となり歌本販売アルバイトになったため商業性と娯楽性がさらに増す。「演歌師」の呼称誕生(52)
    レコード化されたものもあり、大正時代の大衆文化に足跡
       ↓
    昭和初年、レコード歌謡が成立し、基本的に口伝えの演歌師のやり方は衰退。レコード会社による歌詞と楽譜の印刷物無料配布は歌本販売を困難に。(53)
    演歌師は盛り場の流し芸人に(56)

    「こぶし」「唸り」が入ってきたのは昭和30年代、それ以前はほとんど見あたらない。(75-76)

    1960年前後は、水原宏、三浦浩、石原裕次郎、アイ・ジョージら低音ブーム。フランク永井の低音歌唱は、当時の人々に「バタくさい」と受け取られ、民謡調の三橋美智也の「田舎っぽさ」と常に対比された。
    その後、「都会調流行歌」はムード歌謡として、「演歌」形成期には、その「夜のちまたイメージの源泉となっていく(86-87)

    都はるみの唸り節は、ある時、浪曲師上がりの漫才師、タイヘイ夢路の舞台を見た母親が、娘の歌に個性をあたえるために唸りを強調するように命じたのが発端(95-96)

    「若者向けヒット曲は使い捨てだが、演歌は一曲の寿命が長い」とよく言われた。これは曲そのものとういより、演歌は「手作り」の地道なプロモーションを通じて「聞き手の生の」生活心情に訴えかけるのに対し、若者向けは華々しい宣伝やタイアップにより仕掛けられていくという、戦略上の違いから来ている(99)

    昭和30年代後半に登場した「流し」出身歌手、アイ・ジョージは、メキシコ風のソンブレロとポンチョを被り、ギターを抱えて歌う、当時は「ポピュラー」の歌手だった。(111)

    美空ひばりのレパートリーの広さを言い換えるなら、笠置シズ子「ブギ」、江利チエミ「ジャズ」、三橋三智也「民謡調」、南春夫「歌謡浪曲」といった、歌手の個性と特権的に結びつき、後続に影響を与える独創的なスタイルをついに生み出さなかった、ということ。彼女はきわめて優秀な解釈者にすぎなかった。(122-123)

    「地名+ブルース」によるご当地ソング」のスタイルを確立したのは、昭和41年の「柳ヶ瀬ブルース(美川憲一)」。「ご当地ソング」という呼称が使われたのも、この曲のキャンペーンが最初。
    この曲を作った柳ヶ瀬の「流し」、宇佐英雄は、あるとき「変わった歌をやってみろ」と客に言われ、以前、長岡にいたころに作った「長岡ブルース」を、とっさに「柳ヶ瀬」に変えて歌ったところ、地元有線放送局の社長だったその客が気に入って翌日に吹き込みをして、ローカルなヒットになった。(144-145)

    ナツメロブームは昭和40年、テレビ東京(12チャンネル)「歌謡百年」という番組が端緒。昭和40年の明治100年に向けて高まる。そこで見出されたレコード歌謡は、その時点でせいぜい40年程度の歴史しかない。現在とグループサウンズ以降の昭和歌謡との時間的距離と同じ。 (160)

    「日本子供を守る会」による「横須賀タマラン節」追放運動(1952年)が、「放送禁止歌」「封印歌謡」のルーツである「猥歌」に抗議。つまり、追放の主体となったのは政権側ではなく、左派、革新勢力だった。 (191)

    いずみたくは、日本共産党の文化工作隊からうたごえ運動の活動家へ、という左翼音楽エリートから職業作曲家に転じた。三木鶏郎のもとでCMソングもつくる。伊東へ行くならハトヤは、作詞野坂昭如、作曲いずみたく。(195)

    既成左翼が、進歩主義、近代主義の立場から、日本の大衆文化を「俗悪・頽廃」と否定したのに対し、新左翼勢力は「土着的」「民衆的」「民族的」として肯定的にとらえた。「敵の敵は味方」のパターン。大島渚が「日本の夜と霧」で、「うたごえ」やフォークダンスが六全協以降の党の転向と裏切りの象徴として侮辱的に描いた。(199-200)

    演歌(艶歌)の項目が初めて現代用語の基礎知識に立てられたのは1970年版。(271)

    1970年前後に一種の流行として定着した演歌は、音楽的特徴において日本的、伝統的とみなされてきたのではない。股旅やくざ、遊女、チンピラ、ホステスが集まる「盛り場」などアウトローと悪所にこそ、「真の」民衆性が存在し、やくざやチンピラやホステス、流しの芸人こそが、真正な下層プロレタリアートであり、西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という物言いが可能になった。(289-290)

  • まず文章がよい。たまげた。リライトされた文章のように読みやすく、テクニカルライターのように正確だ。読んだ時には惹かれた文章でもタイプしてみるとガッカリすることは意外と多いものだ。書き写せば更にガッカリ感は増すことだろう。このように身体(しんたい/=口や手)を通すと文章のリズムや構成を皮膚で感じ取ることができる。一方、名文・美文には一種の快感がある。輪島の文章が抜きん出ているのはその「簡明さ」にある。嘘だと思うなら試しに書き写してごらんよ。輪島は学者である。文士ではないゆえ、香りを放つ文章よりも簡明が望ましい。「簡にして明」であればこそ大衆の理解を得られる。
    https://sessendo.blogspot.com/2019/03/blog-post_7.html

  • 音楽

  • ・戦後のある時期まで、少なくとも「知的」な領域では、(美空)ひばりを代表とする流行歌は「悪しき」ものとなされていたのが、いつしか「真正な日本の文化」へとその評価を転換させたこと。
    ・日本の流行歌の歩みは元来極めて雑種的、異種混淆的であり現在「演歌」と呼ばれているものはその一部をなしてきたにすぎない、ということ。

    ・「演歌」は1960年代末から72年ごろにかけて、若者向きの流行歌現象として音楽産業によって仕掛けられていたように見受けられる(1964年末の朝日新聞が翌年の「演歌ブーム」を予想)。
    <blockquote>・艶歌とフリージャズこそが、日本の「六八年思想」のサウンドトラックであった(P.251)</blockquote>

  • 「演歌」という神話の始まりを見た感じ。多くの人が関係して意図的でない方が事実に基づかない物語や偽の記憶として定着しやすいのかなと思う。
    惜しかったな江戸しぐさ!

    最近「昭和」も神話と化しているので、こっちのほうがタチ悪いかも。

  • みすず

  • いわゆる「演歌」は日本の心である、という現代の人たちにほぼ疑いなく浸透している意識に対し、本当にそうなのか?という疑問を持った筆者の力作。
    徹底的に資料を読み込み、豊富な実例を挙げながら、「演歌=日本の心」となっていく過程について丁寧に語っている。
    そもそも演歌は演説歌の略称であったはずなのに、一体いつからそのような認識が広まっていったのか、一体誰がそれを作り上げたのか。
    それは、左翼的文化人と、レコードを売りたいレコード会社と、そしてマスコミによる意識的/無意識的な絡まりあいであった、と理解しました。

    目から鱗のことばかりで、読んでいてとても刺激的でした。

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著者プロフィール

大阪大学大学院人文学研究科教授

「2023年 『東欧演歌の地政学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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