台湾人の歌舞伎町――新宿、もうひとつの戦後史

  • 紀伊國屋書店
3.67
  • (4)
  • (5)
  • (8)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 104
感想 : 6
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314011518

作品紹介・あらすじ

〈らんぶる〉も〈スカラ座〉も〈風林会館〉も台湾人がつくった――

終戦までの50年間、日本の統治下にあった台湾。
8万人あまりが“日本兵”として戦争に駆り出され、戦前から日本に“内地留学”をしていた者も多くいた。

戦後、今度は一転、“外国人”として裸一貫で放り出された台湾人はやがて駅前のヤミ市で財をなし、焼け野原に新たに構想された興行街・歌舞伎町を目指した――初めて明らかにされる、貴重な時代証言。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  出版社のサイトの紹介文や、新宿紀伊国屋の店頭POPも、歌舞伎町は台湾人が作ったというニュアンスを感じさせる煽り方だが、そうではない。戦後復興の流れの中で、あの地域が角筈一丁目北町から歌舞伎町へと変遷、発展したいた様子を、当時、重要なファクターのひとつであった台湾人の存在も視野に入れ、記録と、人々の記憶で編み直した新宿の戦後史だ。

    「“らんぶる”も“スカラ座”も“風林会館”も台湾人がつくった」はのは確か。バブルを経て、新風営法の施行から治安の悪化、反社会勢力が跋扈した中に台湾マフィアの存在もあり、歌舞伎町の街としての性格に一定の影響力があったのも事実。ただ、それらは一面に過ぎず、あの町の文化や風土を成す一因、ひとつの要因として台湾人の存在もあったということだ。

     田舎から上京し、十代のころはじめて足を踏み入れたころの新宿は、怪しい風俗店ばかりが目について、治安も悪く、危険な印象だった。社会人になって20代の頃にも、ぼったくりにあった。
     本書で歴史を振り返っているが、1992年の暴対法施行や、1994年の歌舞伎町商店街振興組合の「歌舞伎町環境浄化パトロール」開始、警視庁「新宿区地区環境浄化総合対策本部」設置など、問題が先鋭化し、対策が打たれ始めた頃だったということが良くわかる。
     それ以前は、もっと健全な活気にあふれた興業街であり、面白い場所だったのだということが良く分かった。

     今、そぞろ歩く新宿の街、歌舞伎町は、若かりし頃に染み付いた悪い印象がいまだにぬぐえないところもあるが、確実に変わったなと思う。
     本書で引用されている『新版 大東京案内』の記載、

    ”新宿の群集は、浅草の停滞、上野の遊楽、銀座の漫歩と異なり、すべて流動する人間の集まりだ”

     というのが実感として染みてくる。淀まない流れとなり、活性化していけばよいなあ。

  • 台湾マニアとしてここまで辿り着いた。
    内容としては歌舞伎町の発展のシンボリックな店やビルの建造に台湾人とその資金が深く関わっていたといったところか。全体の中で台湾人に関する記載はそれほど多くなく、6−7割が新宿周辺から歌舞伎町にまつわる戦後の復興話といったところか。台湾マニアとしてはちょっと拍子抜けであったが、それとはまた別物として読み物として楽しめた。

    それにしても歌舞伎町ってのは、歌舞伎劇場の建設が予定されていたから街までそう命名したものの、結局劇場ができなかったなんて歴史があったんだな・・とか、日本に居た台湾人が薬屋を営み、星製薬の薬品を扱うと星薬学専門学校(現・星薬科大学)へ優先入学できたとか(これが台湾人であったことが関係あるかどうかわからぬが)色々興味深い。

    第三国人という単語も石原慎太郎氏がだいぶまえにメディアで三国人と発言して、差別だと騒がれていたと記憶しているが、元々差別的な意味合いはなかったどころか、日本人より”上”という扱いだったのも新しい発見だった。

    P.39
    昭和二〇(1945)年一一月、GHQが声明を出した。戦時中、日本の支配下にあった朝鮮人・台湾省民・中国人については、米英仏をはじめとする連合国側には属さないものの、それと同じ取り扱いをするものと位置づけ、これらの人びとを「できるかぎり解放国民として処遇する」という声明である。連合国側ではないが、日本人でもないので、”第三国人”と呼ばれるようになった彼らは、占領下の日本では法的規制を受けることなく統制品を扱うことができた。特にPXからの横流れ品や密輸品の仕入れは、主として華僑(台湾省民、中国人)が抑えていた。「洋酒、缶詰、高級服地、良質の小麦粉、牛肉、パン、チョコレート、ガム、タバコ(略)、ガソリン、〔米国の中古〕乗用車、拳銃(略)など、このルートを通じると入手できないものはなかった」(『東京闇市興亡史』猪野健治編、草風社、一九七八年)という。

    P.52
    日本統治時代には、内地人(日本本土出身者)と本島人(台湾の漢人系住民)とのあいだには差別があり、いかに有能な台湾人であっても、台湾総督府をはじめ行政機関や日本企業の上級職に登用されることはほとんどなかった。内地留学した台湾人の多くが、医学や薬学系の学校への進学を希望したのは、このような理由があったからだという。

  • 戦後、新宿の復興の陰で暗躍したのは台湾人だった、と書くとギャングを連想するかも知れないしかしこの本にはその様な柄の悪い人たちはほとんど登場しません。いったい彼らがどうやってまだ闇市が蔓延る新宿で生き抜き成功を収めたのか。
    とてもエキサイティングでした!

  • 産経の北海道買収本を読んだ後で、これを読むと、敗戦後日本と現在が重なるのだが、結局、国籍や会社の大小ではなく、カネを出せるかどうかで、不動産は動く。中華系がこの辺に強いのはカネを集める力であって、1人の中国人が龍なのではなく、出資者が龍なのである。複数の頼母子講を回していれば、月に1回は土地を買うカネが出来るので、日銭を稼げる商売をやれば、それをまた回していく。異業種への参入もその仲間内にノウハウがある訳だから、一から修行して、リサーチしてなどと時間をかける必要はない。台湾人の地主の殆どが元留学生で、医者や教師などからの転身者も多いというのは内地への留学生が戦後も残ったからではあるのだが、仲間内の信用力が学歴や財力と相関しているからであろう。内地留学は実家の財力が裏付けになるのだが、裸一貫でのし上がった在日台湾人のケースは少ない様に思える。

  • 東京近郊で生活した人なら、一度は「飲みに」「遊びに」いったことがあるはずの歌舞伎町。

    90年代、コマ劇の前はギターを持った若いひとが自由に歌い、でも、ちょっと奥に入ると危険な香りが満載の大人の街、でした。
    最近はずいぶん明るくなり、危険な感じは少なくなり、ずいぶん変わったなぁ、と思っていました。それが、最近だけのことでなく、戦後からずっと、「最近変わった」感じの場所なのだなと感じます。初めて訪れた年代によって、印象はかなり違うものであるようです。
    その移り変わりの中で、台湾出身の人物が深くその変化に関わっていたことがよくわかります。建物自体が変わっているところと、ずっと同じ建物のまま中身だけが変わったところの違いも実感できます。

  • 歌舞伎町というと、私にとっては再開発前の映画館街なのだが、そのおなじみだった映画館を経営している母体企業がかなりの程度台湾人や韓国人の経営者によって設立されたものだということが興味しんしんだった。

    戦争で敗戦国民となった日本人を尻目に米軍のPX(post exchange=酒保=しゅほ、軍内の売店)で安く豊富な物資を仕入れることができた昔の言葉でいう日本の支配を受けていて日本の敗戦を受けて解放された中国系・韓国系の人たち、いわゆる「三国人」の多くが新宿の露店で集まって売っていたのが今の建坪の小さいビルが林立する光景につながっているのかとわかる。

    もともと歌舞伎町という名称自体、歌舞伎座を誘致するのを前提としてつけられたものだったが、もともとあまり開発されていなかった上戦災で完全に更地になっていたところに集まってきたのであり、小林一三=東宝=コマ劇場や五島慶太=東急=ミラノ会館といった大資本と共にそれら個人的な小資本とが並立して街を形作っていった。

    今のヒューマックスグループの大元が台湾系の林以文による恵通企業、さらに遡ると地球座、新宿ムーランルージュであり、初めは新劇用の劇場(それで1000席超は多すぎだが)だったのが、横幅の大きさを生かしてシネマスコープ第一号「聖衣」をかけたところヒット、そこから映画興行に移っていく。

    まだ空き地だったころ、当時の地主の鈴木喜兵衛が「産業生活博覧会」をこの時の児童館の傍に大きな恐竜の模型が作られた場所というのが皮肉なことにゴジラヘッドが屋上に突き出ている現在の tohoシネマズ新宿というのがなんとも面白い。

    なぜ思い出横丁のところだけあいうごたごたした小さな店が残っているかと言うと、もともとが小さな露店商が集まっていたところだからであり、区画整理進むにつれてかなりの程度歌舞伎町に移っていったてその後に小田急のビルなどが建つという流れが示される。

    大久保近辺で多くの旅館がと言うからラブホテルが立ち並ぶようになったきっかけは進駐軍による慰安所を含むR.A.A(リクリエイション・アミューズメント・アソシエーション)の施設で、旅館を経営するのは韓国・台湾・中国系だけでなく日本人でダム建設で住むところなくして東京に出てきた人も混ざっていたというのも面白い。故郷から切り離された人たちが集まってできた街ということがわかる。

    歌舞伎町が再々度の開発でまた大きく様変わりする時点でこの本は貴重な記録となるだろう。

    ここでは台湾系に絞られているが、大陸中国出身や韓国朝鮮系の人たちにもあるだろうそれぞれの歴史も知りたくなった。

全6件中 1 - 6件を表示

著者プロフィール

稲葉佳子 (いなば・よしこ)
1954年生まれ。法政大学大学院デザイン工学研究科兼任講師、博士(工学)。都市計画コンサルタントを経て、2008年よりNPO法人かながわ外国人すまいサポートセンター理事。2012年から新宿区多文化共生まちづくり会議委員。著書に『オオクボ 都市の力――多文化空間のダイナミズム』(学芸出版社)、『外国人居住と変貌する街』(共著、学芸出版社)、『郊外住宅地の系譜――東京の田園ユートピア』(共著、鹿島出版会)ほかがある。

「2017年 『台湾人の歌舞伎町――新宿、もうひとつの戦後史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

稲葉佳子の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×