- Amazon.co.jp ・本 (424ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309467115
感想・レビュー・書評
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ポルトガルの作家、ジョゼ・サラマーゴが1995年に発表した小説。
人々を突然、謎の奇病が襲う。目が見えなくなる、正確には、視界が真っ白になる病気である。特段の予兆もなく、ある日、ある男の目が見えなくなる。検査しても異状は見つからず、原因もわからない。これはどうやら伝染性であるようで、男に関わった人々、そして彼らに関わった人々、と野火のように発症が広がっていく。最初の男を車で家まで送ってやった男。最初の男の妻。男を診察した眼科医師。眼科に来ていた娘。その娘が利用したホテルの客室係。・・・
突然の流行に慌てた当局は、患者を隔離することにする。患者にとどまらず、患者と接触したものも連行され、古い精神病院の棟にそれぞれ閉じ込められる。そこから出ようとするものは射殺すると警告され、食料は定期的に外部から持ち込まれるとされる。感染者が失明すると、渡り廊下を通じて患者棟に移される決まりである。
多くの人々が失明する中にあって、最初の男を診察した医師の妻だけはなぜか失明を免れていた。彼女は患者ではなく感染者として連行されるはずだったが、目が見えない風を装って、夫と同室に潜り込み、密かに身の回りの世話をすることになる。やがて、彼女は夫だけでなく、同室の人々もさりげなく助けてやることにする。
多くの人が「見えない」世界にあって、彼女だけが「見える」存在であり、この視点が一つのキーでもある。
文体がなかなか特徴的で、登場人物には固有名詞は与えられない。「医者の妻」、「サングラスの娘」、「斜視の少年」といった具合である。会話文や登場人物の思考も引用符では括られず、地の文の中に埋め込まれる。
時折、著者自身の箴言のような詩のような語りが混じる。
さて、閉じ込められた人々はどうなるか。
患者たちは突然の失明に慣れることもできず、自分が身を横たえるベッドを確保するだけで精一杯である。排泄しようにもトイレまでも手探りで行かねばならず、失敗するものも続出し、あるいはトイレまでたどり着いたとしても水も満足に流せない。
配布される食べ物も十分ではなく、わずかなものを公平に分配することも困難で、しかも盲目の人々にはそれを判断するすべもない。
やがて、この不自由な世界の中で、覇権を握ろうとするものが現れる。皆に分けねばならない食料を管理下に置き、それを盾に患者集団を支配しようとするのだ。ここからは酷い暴虐の始まりとなる。
原題は"Ensaio sobre a cegueira"。訳者あとがきによれば、「見えないことの試み」といった意だそうである。英語に直訳すると"Essay on blindness"であり、実際、ensaioには「試験」「試み」「リハーサル」のほか、「エッセイ」の意が含まれるようなので、「cegueira(盲目)に関する試論」のニュアンスが含まれるタイトルなのではないかと思う。
つまりこれは寓話あるいは比喩として読むべきもので、「盲目」はある種の象徴なのだろう。では「何」の象徴なのか、というところが個人的にはいまひとつ判然とせず、正直なところ、最後までしっくりこなかった。
本作は伝染性の疾患を扱っていることもあり、コロナ禍で再度注目を浴びた作品でもある。だが実際のところ、病気自体の設定がふわっとしていることもあり、感染症がどうこうというよりは、差別や支配・被支配、服従の話のようにも思う。あるいは非予見性がテーマなのか。
謎の奇病。伝染性。患者をとにかく閉じ込めろ。このあたりはなるほどありそうなことである。食料が滞る。パニックから争いが生じる。このあたりもありそうである。だがその後、暴力をもって支配しようとする集団に人々が虐げられるあたりで、いくら何でもそこまでのことがあるだろうかと疑問が生じる。しかも「見える」医師の妻がいて、どうにもならないのだろうか。実際、彼女はのちに反撃に転じるのだが、その前にもう少しできることがありそうな気がするのである。
極限状態で現れるのは暴力なのか。そうではないと言い切れないところが、本作の持つ、無視できない「ざらつき」につながっているのかもしれないが。
物語は隔離された病院の中だけは終わらない。
局面が変わり、病気が広がってしまった街に舞台は移る。
さまざまエピソードが語られる中で、一番印象的なのは教会の聖人像の目がすべて包帯で覆われているというもの。それをしたのは司祭だと医者の妻は考えるが、結局のところ誰なのかはわからない。
目の見えない人々の中で、目隠しをされた聖像。その光景に胸を突かれる。
物語は結末を迎える。ある種、ハッピーエンドといってもよいのかもしれないが、この後、世界はどうなったろう。
心許なさが残る。
地の文に会話文が挿入されるスタイルであるため、あるいはどのセリフが誰のセリフなのか、わかりにくい部分があるのではないか。そのあたりから来る誤訳・取り違えの可能性はところどころありそうにも思うが、さてどうだろうか。
邦題は一ひねりして「技あり」の良訳といってよいのではないか。 -
だれしも死の次に怖いのは病気、次に盲目になることではないか。
次々と、人々が盲人になっていく話。
見えなくなった目に広がるのは、白の闇。
ヒッチコックの映画を彷彿とさせる、決まり悪い臨場感。
私も目が見えなくなるのでは?と、本から汚染物質を感じるくらいの迫力。
自分も周囲の者も全員盲目になったらなんて、これまで想像してみたことがない。
原始的になるのか?
否、ベクトルが違う。
無秩序とも違う。
獣みたいになる、というのも違う。
名前が意味を失う。形容詞が役にたたなくなる。言葉への信頼がなくなる。
面白いと思ったのは、ひとりだけ、なぜか盲目にならない「医者の妻」が、盲人たちよりも地獄を味わうということ。家中、町中に溢れる糞便と、糞便をそこいらに垂れる人々の姿を見てしまうのだから。
この人の意味はなんだろう。
優れたファンタジーはリアリティと相反しないものだ、と痛感する作品。 -
南米文学にはまっていると言った僕に、とある先輩がこの小説を勧めてくれたとき、僕たちはマスクをしていなかった。3年くらい前だったと思う。それからすぐにこの本を買ったものの、例によって積ん読の山に埋もれていたのを、最初の感染拡大から2年、幾度も変異を重ねたウィルスが蔓延する第6波の最中に掘り出して読んだ。このタイミングだからかはわからないけど、未知の病が人々を襲うことの切迫感をリアルに想像しながら読む一方で、コロナ禍でもしなやかに動作する社会の良心を目の当たりにしてきたので、現実離れしたディストピア小説だったなという感じもしてしまう。いずれにしても、すごく細かい描写の中に、人々に変化を強制する感染症の存在意義とか、当たり前だった社会の基礎とか、感染拡大によって明らかになる人間の内面とかを考えさせられるようにできていて、体感しててもこんなにリアルに書けないよなと圧倒される。すさまじい小説。
原題の「Ensaio sobre a Cegueira」は直訳で「失明についてのensaio」。ensaioというのが英語のessayにあたるようで、辞書によっては「試み」「随筆」「リハーサル」などと出てきた。どう考えても小論文的な意味でのエッセイには思えないので、この作品が作者にとっては壮大な思考実験だったのだなとしみじみ感じる。突然目が見えなくなる感染率100%の感染症が人類を襲ったら何が起きるのか、1人の失明でなく、集団の失明は何を奪うのか、目が見えていたことが支えていた人間らしさとは何か、世界でたった1人だけ感染しない人間が夫を愛する慈悲深い女性だったら、彼女は何を考えどう行動するのか。カギカッコもなく地の文で会話が進む文章は読み慣れるまで少し時間がかかるが、異常事態が進行するほどに、わずかな希望を探すようにどんどんのめりこんでしまう。
だれも問いかけなかったが、医者がこうつぶやいた。もしふたたび視覚が得られたら、人の眼を注意深く見ることにするよ。その人の魂をのぞけるぐらいに。魂ですか、と黒い眼帯の老人が訊いた。あるいは精神と言ってもいい。名前はどうでもいいんだ。そのとき驚いたことに、……サングラスの娘がこんなことを言った。私たちの内側には名前のないなにかがあって、そのなにかがわたしたちなのよ。(p.344)
視覚に過度に頼りすぎることが、現代人にとってはコミュニケーションの方法や生きる技術を向上させる一方で、内側にある自分自身(魂・精神)の輝きさえ失わせているのかもしれない。名前を与えられない登場人物が長いensaioを通じて、固有名詞に依らずにアイデンティティを語るように、失明が必ずしも暗い闇ではないという可能性を示すなら、『白い闇』という邦題は名訳かもなと感じた。 -
ある日突然一人の男が運転中に失明する。なんの持病も前触れもなく、ただ突然ミルクの海が目に流れこんできたかのように視界が真っ白に。やがて、彼を自宅まで連れ帰ってやった者(車泥棒)、彼を診察した目医者、その病院に来ていた他の患者たちも次々と失明。次いで彼らと接触した者も発病する。事態を重くみた政府は彼らを廃院となっている精神病院に隔離、しかし発病者はまたたくまに何百人と増え、収集がつかなくなり・・・。
2008年に『ブラインドネス』のタイトルで映画化もされている小説の文庫化。映画は見ていないけれど、日本人俳優(伊勢谷友介、木村佳乃)が出演するというので当時話題になっていたことは記憶にあった。今こういうご時世だし、あえてパンデミック小説を・・・みたいな気分はちょっとあったんですが、こちら、どちらかというとゾンビもの、パニックサバイバルものに近い展開です。大人病院版『蠅の王』みたいな側面もあるかもしれない。極限状態で人はどうなるか、どうするか、人間性=人間を人間たらしめているはずの理性はどこまで保たれるのか。
五感、四肢、もちろんどれも失いたくはないけど、その中で最も失くしたらいやだなと思うのはやっぱり視力だと思うんですよね。視力さえ無事なら、とりあえず文字を読むこともできるし、ある程度意思の疎通もでき、身の回りの安全や清潔も確認できる。この小説の中では突然何も見えなくなる、しかも大勢が一斉にという最悪の事態が起こり、そこで人間の本性が露わになっていく。
一番の問題は、隔離された彼らに介助、補助する健常者、看護者がいないということ。なぜならあっというまに感染するから。監視する軍部の人間は、定期的に食料を運ぶ以外は、脱走者を銃殺することしかせず、内部でどんなトラブルが起こっていても感知しない。しかし最終的にはその監視者たちも、軍人も政治家もみんな失明してしまう。ライフラインはすべてストップ、糞便はところかまわず垂れ流し、見えないまま店舗に押し入り食料を奪い合う人々の群れ。
最初に失明した男とその妻、診察した眼科医とその妻、そして眼科の患者たち(サングラスの女性、斜視の少年、眼帯の老人)はグループを構成し、ともに行動することになる。実は眼科医の妻だけはなぜか感染を免れており、夫に付き添いたくて見えないふりをしているが、本当は見えている。なぜ彼女だけが感染しなかったのかはわからない(それを解明する科学小説ではない)が、彼女はすべてを目撃し、ときに反撃し、すべてを見届けることになる。
とりあえずやっぱり見えないのは辛いだろうなあ、不潔なのはいやだなあ、ピンチのときに本性出るよなあ、というネガティブな気持ちのほうが強く起こり、そんな中でも希望と人間らしさを失わない人々に敬意を…みたいな感想はあまり浮かばない。今目が開いて見えていると思っていても本当は何も見えていないのだ、的な哲学的メッセージよりも、今現在の危機的状況に暗澹たる気持ちになってしまった。元気のあるときなら、ぐいぐい読ませる物語の面白さに引き込まれたと思う。雨の中で三人の女性が洗濯をする場面は美しかった。-
こんにちは!
ノーベル賞をとり、日本語訳された時に読みましたが、かなりキツかったですよ。
未だに断水ニュース聞くと、トイレタンクの水を思...こんにちは!
ノーベル賞をとり、日本語訳された時に読みましたが、かなりキツかったですよ。
未だに断水ニュース聞くと、トイレタンクの水を思ってしまう。
今読んだら余計に辛そうですね。2020/03/17 -
淳水堂さん、こんにちは(^^)/
夢中で読みましたが、内容はかなりヘヴィでしたね…
今読むと結構メンタルやられました(苦笑)
トイ...淳水堂さん、こんにちは(^^)/
夢中で読みましたが、内容はかなりヘヴィでしたね…
今読むと結構メンタルやられました(苦笑)
トイレタンクの水の場面!
ああいうの妙に記憶に残りますよね。
小説の中ではそのあと無事、瓶入りの飲料水が発見されて飲まずにすみましたが…
ああ怖い( ;∀;)2020/03/18
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ある日突然、世界中の人の目が見えなくなる。次はわたし、と怯える日々、劣悪な収容所、なぜか目が見えたままの女。
名前がひとつも出てこない。目が見えないなら、他者を区別する記号として名前は特に重要になると思うのに、ひとりも出てこない。会話かぎかっこのない、流れるような文章。なのに誰が発したことばか分かる。訳もうまいんだろうなあと思った。
収容所の終盤は特に目を背けたくなる悲惨さで、もし自分なら目が見えない方がいい、見えていたら余計につらい、いっそ早めに死んでいたいと思ってしまった。思ったけれど、実際に目が見えなくなってあの場にいたら、どうしていただろう。死んでしまいたいとは思っただろうけど、死んだだろうか?
印象的なフレーズがたくさんあった。読んでいる途中で作者略歴をみたらノーブル文学賞作家だったので、驚いた。(表紙に惹かれて買った初見の作家でした)
「まるで頭上を、鳥か、雲が、暁のためらいがちな光かなにかが、よぎったような顔をしていた」
「わたしだって、もし泣けるなら、わかってもらうために話さなくてもいいならば、涙ですべてを言うわ」