白の闇 (河出文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (424ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309467115

感想・レビュー・書評

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  • コロナ禍で注目された二冊の書籍『ペスト』『白の闇』 寓意の裏に込められた意味を専門家が解説 | ニュース | Book Bang -ブックバン-(2020年5月23日)
    https://www.bookbang.jp/article/623952

    『白の闇』ジョゼ・サラマーゴ(NHK出版) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG(2010-04-04)
    https://booklog.kinokuniya.co.jp/booklog/pickwick/archives/2010/04/nhk.html

    文学にみる障害者像-ジョゼ・サラマーゴ著『白の闇』を読んで | 障害保健福祉研究情報システム(DINF) 障害者の保健と福祉に関わる研究を支援するための情報サイト(月刊ノーマライゼーション2004年10月号 第24巻 通巻279号)
    https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n279/n279019.html

    「だけど、われわれは、実際みんな盲目じゃないか!」『白の闇』(ジョゼ・サラマーゴ 雨沢泰訳)訳者あとがき|Web河出
    https://web.kawade.co.jp/bunko/32577/

    白の闇 :ジョゼ・サラマーゴ,雨沢 泰|河出書房新社
    https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309467115/

  • ポルトガルの作家、ジョゼ・サラマーゴが1995年に発表した小説。

    人々を突然、謎の奇病が襲う。目が見えなくなる、正確には、視界が真っ白になる病気である。特段の予兆もなく、ある日、ある男の目が見えなくなる。検査しても異状は見つからず、原因もわからない。これはどうやら伝染性であるようで、男に関わった人々、そして彼らに関わった人々、と野火のように発症が広がっていく。最初の男を車で家まで送ってやった男。最初の男の妻。男を診察した眼科医師。眼科に来ていた娘。その娘が利用したホテルの客室係。・・・
    突然の流行に慌てた当局は、患者を隔離することにする。患者にとどまらず、患者と接触したものも連行され、古い精神病院の棟にそれぞれ閉じ込められる。そこから出ようとするものは射殺すると警告され、食料は定期的に外部から持ち込まれるとされる。感染者が失明すると、渡り廊下を通じて患者棟に移される決まりである。

    多くの人々が失明する中にあって、最初の男を診察した医師の妻だけはなぜか失明を免れていた。彼女は患者ではなく感染者として連行されるはずだったが、目が見えない風を装って、夫と同室に潜り込み、密かに身の回りの世話をすることになる。やがて、彼女は夫だけでなく、同室の人々もさりげなく助けてやることにする。
    多くの人が「見えない」世界にあって、彼女だけが「見える」存在であり、この視点が一つのキーでもある。

    文体がなかなか特徴的で、登場人物には固有名詞は与えられない。「医者の妻」、「サングラスの娘」、「斜視の少年」といった具合である。会話文や登場人物の思考も引用符では括られず、地の文の中に埋め込まれる。
    時折、著者自身の箴言のような詩のような語りが混じる。

    さて、閉じ込められた人々はどうなるか。
    患者たちは突然の失明に慣れることもできず、自分が身を横たえるベッドを確保するだけで精一杯である。排泄しようにもトイレまでも手探りで行かねばならず、失敗するものも続出し、あるいはトイレまでたどり着いたとしても水も満足に流せない。
    配布される食べ物も十分ではなく、わずかなものを公平に分配することも困難で、しかも盲目の人々にはそれを判断するすべもない。
    やがて、この不自由な世界の中で、覇権を握ろうとするものが現れる。皆に分けねばならない食料を管理下に置き、それを盾に患者集団を支配しようとするのだ。ここからは酷い暴虐の始まりとなる。

    原題は"Ensaio sobre a cegueira"。訳者あとがきによれば、「見えないことの試み」といった意だそうである。英語に直訳すると"Essay on blindness"であり、実際、ensaioには「試験」「試み」「リハーサル」のほか、「エッセイ」の意が含まれるようなので、「cegueira(盲目)に関する試論」のニュアンスが含まれるタイトルなのではないかと思う。
    つまりこれは寓話あるいは比喩として読むべきもので、「盲目」はある種の象徴なのだろう。では「何」の象徴なのか、というところが個人的にはいまひとつ判然とせず、正直なところ、最後までしっくりこなかった。

    本作は伝染性の疾患を扱っていることもあり、コロナ禍で再度注目を浴びた作品でもある。だが実際のところ、病気自体の設定がふわっとしていることもあり、感染症がどうこうというよりは、差別や支配・被支配、服従の話のようにも思う。あるいは非予見性がテーマなのか。
    謎の奇病。伝染性。患者をとにかく閉じ込めろ。このあたりはなるほどありそうなことである。食料が滞る。パニックから争いが生じる。このあたりもありそうである。だがその後、暴力をもって支配しようとする集団に人々が虐げられるあたりで、いくら何でもそこまでのことがあるだろうかと疑問が生じる。しかも「見える」医師の妻がいて、どうにもならないのだろうか。実際、彼女はのちに反撃に転じるのだが、その前にもう少しできることがありそうな気がするのである。
    極限状態で現れるのは暴力なのか。そうではないと言い切れないところが、本作の持つ、無視できない「ざらつき」につながっているのかもしれないが。

    物語は隔離された病院の中だけは終わらない。
    局面が変わり、病気が広がってしまった街に舞台は移る。
    さまざまエピソードが語られる中で、一番印象的なのは教会の聖人像の目がすべて包帯で覆われているというもの。それをしたのは司祭だと医者の妻は考えるが、結局のところ誰なのかはわからない。
    目の見えない人々の中で、目隠しをされた聖像。その光景に胸を突かれる。

    物語は結末を迎える。ある種、ハッピーエンドといってもよいのかもしれないが、この後、世界はどうなったろう。
    心許なさが残る。

    地の文に会話文が挿入されるスタイルであるため、あるいはどのセリフが誰のセリフなのか、わかりにくい部分があるのではないか。そのあたりから来る誤訳・取り違えの可能性はところどころありそうにも思うが、さてどうだろうか。
    邦題は一ひねりして「技あり」の良訳といってよいのではないか。

  • だれしも死の次に怖いのは病気、次に盲目になることではないか。

    次々と、人々が盲人になっていく話。
    見えなくなった目に広がるのは、白の闇。

    ヒッチコックの映画を彷彿とさせる、決まり悪い臨場感。
    私も目が見えなくなるのでは?と、本から汚染物質を感じるくらいの迫力。

    自分も周囲の者も全員盲目になったらなんて、これまで想像してみたことがない。
    原始的になるのか?
    否、ベクトルが違う。
    無秩序とも違う。
    獣みたいになる、というのも違う。

    名前が意味を失う。形容詞が役にたたなくなる。言葉への信頼がなくなる。

    面白いと思ったのは、ひとりだけ、なぜか盲目にならない「医者の妻」が、盲人たちよりも地獄を味わうということ。家中、町中に溢れる糞便と、糞便をそこいらに垂れる人々の姿を見てしまうのだから。
    この人の意味はなんだろう。

    優れたファンタジーはリアリティと相反しないものだ、と痛感する作品。

  • 南米文学にはまっていると言った僕に、とある先輩がこの小説を勧めてくれたとき、僕たちはマスクをしていなかった。3年くらい前だったと思う。それからすぐにこの本を買ったものの、例によって積ん読の山に埋もれていたのを、最初の感染拡大から2年、幾度も変異を重ねたウィルスが蔓延する第6波の最中に掘り出して読んだ。このタイミングだからかはわからないけど、未知の病が人々を襲うことの切迫感をリアルに想像しながら読む一方で、コロナ禍でもしなやかに動作する社会の良心を目の当たりにしてきたので、現実離れしたディストピア小説だったなという感じもしてしまう。いずれにしても、すごく細かい描写の中に、人々に変化を強制する感染症の存在意義とか、当たり前だった社会の基礎とか、感染拡大によって明らかになる人間の内面とかを考えさせられるようにできていて、体感しててもこんなにリアルに書けないよなと圧倒される。すさまじい小説。

    原題の「Ensaio sobre a Cegueira」は直訳で「失明についてのensaio」。ensaioというのが英語のessayにあたるようで、辞書によっては「試み」「随筆」「リハーサル」などと出てきた。どう考えても小論文的な意味でのエッセイには思えないので、この作品が作者にとっては壮大な思考実験だったのだなとしみじみ感じる。突然目が見えなくなる感染率100%の感染症が人類を襲ったら何が起きるのか、1人の失明でなく、集団の失明は何を奪うのか、目が見えていたことが支えていた人間らしさとは何か、世界でたった1人だけ感染しない人間が夫を愛する慈悲深い女性だったら、彼女は何を考えどう行動するのか。カギカッコもなく地の文で会話が進む文章は読み慣れるまで少し時間がかかるが、異常事態が進行するほどに、わずかな希望を探すようにどんどんのめりこんでしまう。


    だれも問いかけなかったが、医者がこうつぶやいた。もしふたたび視覚が得られたら、人の眼を注意深く見ることにするよ。その人の魂をのぞけるぐらいに。魂ですか、と黒い眼帯の老人が訊いた。あるいは精神と言ってもいい。名前はどうでもいいんだ。そのとき驚いたことに、……サングラスの娘がこんなことを言った。私たちの内側には名前のないなにかがあって、そのなにかがわたしたちなのよ。(p.344)


    視覚に過度に頼りすぎることが、現代人にとってはコミュニケーションの方法や生きる技術を向上させる一方で、内側にある自分自身(魂・精神)の輝きさえ失わせているのかもしれない。名前を与えられない登場人物が長いensaioを通じて、固有名詞に依らずにアイデンティティを語るように、失明が必ずしも暗い闇ではないという可能性を示すなら、『白い闇』という邦題は名訳かもなと感じた。

  • 一人の男が失明したことから始まる、パンデミック。隔離。無秩序。略奪。陵辱。そして希望。

    他のディストピア小説と比べて、割と感情移入しやすかった。
    と言うのも、最初に失明した男と接触した人物から、どんどん謎の失明が広がっていく。
    そして、もう使われていない精神病棟へ隔離され……と言う流れであり、割と現実的だからだ。

    人々がどんどん失明し、秩序も何もなく、隔離された場所で起こる、目を覆いたくなるような出来事。
    実は、目医者の妻だけが、最後の最後まで失明せずにいるのだが、失明した夫の助けになるため、失明したフリをしてどこまでも付いていく。
    見える、と言うことは、この世界において大変重要なことではあるが…そんな中で彼女の見てきたもの、してきたことを思うと、それは想像を絶するものであろう。

    途中、自分は目が見えていることを告白しようとする場面があるのだが…そこは前の流れと相まって、とても胸を打つ場面だった。

    また、目医者の妻が雨に打たれて、汚れに汚れた身体を洗い、野良犬に涙をぺろぺろと舐められるシーンが、とても美しく感じた。

    見えなくなると人はどうなるか。それが原因も何時治るかも分からず…食糧も満足になく、不衛生の極みであり、最低限の秩序も、人間の尊厳も何もなくなる…そんな中で、見えてくる各々の本質。
    パニック系、有り体に言えばバイオハザードみたいな感じもするが、立派にディストピアだった。

    出でくる人物の殆どが見えないのだから、個人の名前は一切出てこないし、人物同士のやり取りも、かぎかっこが出てこないし、段落が少なすぎる。
    そのため、誰が誰と喋ってるのかちょっと分かりにくい場面もあるが、慣れればサクサク読めるし、話自体も面白く感じた。

  • ある日突然一人の男が運転中に失明する。なんの持病も前触れもなく、ただ突然ミルクの海が目に流れこんできたかのように視界が真っ白に。やがて、彼を自宅まで連れ帰ってやった者(車泥棒)、彼を診察した目医者、その病院に来ていた他の患者たちも次々と失明。次いで彼らと接触した者も発病する。事態を重くみた政府は彼らを廃院となっている精神病院に隔離、しかし発病者はまたたくまに何百人と増え、収集がつかなくなり・・・。

    2008年に『ブラインドネス』のタイトルで映画化もされている小説の文庫化。映画は見ていないけれど、日本人俳優(伊勢谷友介、木村佳乃)が出演するというので当時話題になっていたことは記憶にあった。今こういうご時世だし、あえてパンデミック小説を・・・みたいな気分はちょっとあったんですが、こちら、どちらかというとゾンビもの、パニックサバイバルものに近い展開です。大人病院版『蠅の王』みたいな側面もあるかもしれない。極限状態で人はどうなるか、どうするか、人間性=人間を人間たらしめているはずの理性はどこまで保たれるのか。

    五感、四肢、もちろんどれも失いたくはないけど、その中で最も失くしたらいやだなと思うのはやっぱり視力だと思うんですよね。視力さえ無事なら、とりあえず文字を読むこともできるし、ある程度意思の疎通もでき、身の回りの安全や清潔も確認できる。この小説の中では突然何も見えなくなる、しかも大勢が一斉にという最悪の事態が起こり、そこで人間の本性が露わになっていく。

    一番の問題は、隔離された彼らに介助、補助する健常者、看護者がいないということ。なぜならあっというまに感染するから。監視する軍部の人間は、定期的に食料を運ぶ以外は、脱走者を銃殺することしかせず、内部でどんなトラブルが起こっていても感知しない。しかし最終的にはその監視者たちも、軍人も政治家もみんな失明してしまう。ライフラインはすべてストップ、糞便はところかまわず垂れ流し、見えないまま店舗に押し入り食料を奪い合う人々の群れ。

    最初に失明した男とその妻、診察した眼科医とその妻、そして眼科の患者たち(サングラスの女性、斜視の少年、眼帯の老人)はグループを構成し、ともに行動することになる。実は眼科医の妻だけはなぜか感染を免れており、夫に付き添いたくて見えないふりをしているが、本当は見えている。なぜ彼女だけが感染しなかったのかはわからない(それを解明する科学小説ではない)が、彼女はすべてを目撃し、ときに反撃し、すべてを見届けることになる。

    とりあえずやっぱり見えないのは辛いだろうなあ、不潔なのはいやだなあ、ピンチのときに本性出るよなあ、というネガティブな気持ちのほうが強く起こり、そんな中でも希望と人間らしさを失わない人々に敬意を…みたいな感想はあまり浮かばない。今目が開いて見えていると思っていても本当は何も見えていないのだ、的な哲学的メッセージよりも、今現在の危機的状況に暗澹たる気持ちになってしまった。元気のあるときなら、ぐいぐい読ませる物語の面白さに引き込まれたと思う。雨の中で三人の女性が洗濯をする場面は美しかった。

    • 淳水堂さん
      こんにちは!
      ノーベル賞をとり、日本語訳された時に読みましたが、かなりキツかったですよ。
      未だに断水ニュース聞くと、トイレタンクの水を思...
      こんにちは!
      ノーベル賞をとり、日本語訳された時に読みましたが、かなりキツかったですよ。
      未だに断水ニュース聞くと、トイレタンクの水を思ってしまう。
      今読んだら余計に辛そうですね。
      2020/03/17
    • yamaitsuさん
      淳水堂さん、こんにちは(^^)/
      夢中で読みましたが、内容はかなりヘヴィでしたね…
      今読むと結構メンタルやられました(苦笑)

      トイ...
      淳水堂さん、こんにちは(^^)/
      夢中で読みましたが、内容はかなりヘヴィでしたね…
      今読むと結構メンタルやられました(苦笑)

      トイレタンクの水の場面!
      ああいうの妙に記憶に残りますよね。
      小説の中ではそのあと無事、瓶入りの飲料水が発見されて飲まずにすみましたが…
      ああ怖い( ;∀;)
      2020/03/18
  • ある日突然、失明が伝染していく。視界が白の闇に包まれる。
    失明も怖いけれど、全ての人が盲目になった世界で一人だけ目が見えているというのも壮絶です。
    何も見えない世界で理性を保てるのは、その人自身の理性なのか、やっぱり「彼女には見えている」という“見られている”意識なのか……。
    一人だけ失明しない人物である医師の妻は、支援と介護とのプレッシャーも、目の当たりにしている悲惨な世界のストレスも、自分の目もいつか見えなくなるかもしれないという恐怖もかなり強かっただろうと思います。ラストの不穏さも印象に残ります。
    地の文と会話文の区別がつけられてない文章で、会話も何人もいるけど誰がどの発言をしているかも書いてないところもありはじめは戸惑いましたが、それでもぐいぐい読まされる力がありました。考えさせられて目が止まる一文もサラッと書いてあって、読む度に深まっていきそうな作品です。
    映画「ブラインドネス」も観ました。原作を読み終わる前に観てしまったけれど随分とコンパクト。でも壮絶さはありました。最初に失明した男とその妻を伊勢谷友介さんと木村佳乃さんが演じられててびっくりでしたが不思議としっくりきます。

  • わたしたちは目が見えなくなったんじゃない。わたしたちは目が見えないのよ。目が見える、目の見えない人びと。でも、見ていない。

    ***
    暗い作品の得意な私でも読むのに少々骨が折れた作品だった。読んで、考えて、手が止まる。とても面白く、そして恐ろしい作品。現在のパンデミック下で、状況は違えど同じようなことが起こっている。得体の知れない脅威と背中合わせの生活。いつまで続くかわからない、まさに「闇」だ。

    ある時突然視力を失った男。
    男を助けたあと男の車を盗んだ車泥棒。最初に失明した男の妻。眼医者の診療所にいたサングラスの娘、斜視の少年、白内障で眼帯をつけた老人。次々と失明していく。失明した人々の視界にはどこまでも続く、ミルクをこぼしたような一面に広がる白い海。彼らは使われなくなった精神病院の病棟へ隔離され、外に出ることは許されない。満足な食糧も提供されない上に、饐えた匂いのする水しか出ない水道、生きる上で必要なものはほとんど揃っていなかった。
    目の見えない人々は増え続けて、三百人ほどの人が病棟へ収容された。
    人が人らしく生きていくことを忘れる者。人間的でないならせめて動物的にならないようにしようとする者。
    当然のように起こる想定しうる最悪の出来事。

    医者の妻だけが、最後まで失明しなかったのは何故なのか。
    ある日突然人々が白い闇から脱出することができたのか。
    わたしたちはずっと、盲目だったことだけは確かなようだ。

  • 【ケア労働の重責】
     突然、失明する病が感染爆発する――その中でたった一人、視力を失わない人がいたら……という設定が実に巧妙。しかも、視力を失わない人間が女性ということがストーリーに深みを持たせる。
     感染抑制を最優先する政府は患者と濃厚接触者を廃病院に隔離するだけで中の環境が失明者に向いてないことも考えない。そのため、あっという間にトイレは故障、そもそも見えないためにトイレまで行けず廊下で排泄する人も続出する。約束されていた食料も配達が滞り、環境は悪化する一方……たった一人、視力を失わない「医者の妻」は夫である医者にだけその事実を伝え、失明した患者たちをさり気なく支援する。
     彼女が抱える葛藤が実にリアルだ。「見える(=状況が分かる、知っている)」ということは常に責任を伴う。まして、相手が障害や病を抱えているとなおさらのことだ。現実の社会を見ても、介護や保育、支援の問題が生じた時にそれらについて素人である人が「家族だから」「その場にいるから」「できそうだから」という理由だけで重すぎる責任を負わされているのはよくある光景ではないだろうか? そして、それらのケア労働を負わされるのは常に女性なのも。
     糞尿が溢れる劣悪な環境を文字通り「目の当たり」にしながら、医者の妻にできることは限りなく少ない。夫が失明するまで彼女はただの主婦で、ただ隔離される夫を案じて嘘を吐いて一緒に来ただけなのだから。それでも彼女はできることは無いか、正直に言うべきではないかと葛藤する。ケアできる(=せざるを得ない)立場に立たされた女性の心がとてもリアルに描かれている。「いっそ目が見えなくなったらどんなに良いだろう」とは全編で彼女が何度も呟く言葉だが、ケアを負わされた経験がある人にはこの「いっそケアされる側になりたい」「もう責任を負いきれない」という感覚は馴染みのあるものだろう。
     一方で、ケアの放棄には凄まじい罪悪感が伴う。「できるのにしていない」「自分がやらなければ相手は困る」「やらないと人に迷惑をかける」……内面化された倫理と自分の健康を天秤にかけて、潰れるまで前者を選ばざるを得ない人は確実にいる。医者の妻もラストまで夫とその仲間たちを見捨てられず、たった一人で荒廃した世界を見続ける。
     そして、ここまで読んでもきっとこう言う人がいるだろう。「嫌ならやらなきゃいい」「自分でケアすることを選んだくせに」「ケアしてくれなんて誰も言ってない」……そう言う人に一言。「何も見えない、見ようともしないクソッタレ!!」

    【コロナ禍に重ねて】
     パンデミックを題材にした小説なので、どうしてもコロナ禍に重ねてしまう。患者たちが隔離された廃病院の描写が本当に読んでいて辛い。トイレはすぐに故障し糞便まみれ、失明に慣れていない患者たちはトイレに行けず廊下で排泄、洗剤も着替えも無く、食糧すら満足に届かない。この劣悪な環境を作り出した責任は確実に政府にあるのだが、隔離施設を選定する会議がたった一ページにも満たない簡潔な語りで終わるのはゾッとずる。そこには、患者とその家族がこれから味わうことになる苦痛と不安への配慮が一切無い。代わって議論されるのは施設の広さ、市民の動揺、経済界からの反発……ここで既に既視感を感じる人もいるはずだ。新型コロナへの政府の対応と同じではないか、と。一たび気づいてしまえば、もうこの小説は他人事として読めない。そもそも、登場人物には固有名詞が無く「最初に失明した男」「目医者」「医者の妻」「サングラスの娘」等と呼ばれるため、誰でもあり誰でもない。つまり、あなたでもあり私でもある。
     第五波の時に自宅療養者を取材した映像を見た。肺炎の進行により命が危ぶまれる状態になっても入院先が見つからず、遠方から駆け付けた患者の母に医師が「ECMOの順番が来れば何とかなるかも」と宣告するシーンだった。それだけも痛ましいのだが、それ以上に印象的だったのは部屋を埋め尽くしたゴミの山だった。「一体どうしてこの人はこんなことに……」と思ってすぐに気づいた。重度の肺炎を抱えて綺麗な部屋を保つなどほぼ不可能ということだ。食事はできても片付けをしてゴミ捨てに行く体力も気力も無い。着替えはできても洗濯はできない。結果、部屋にゴミと汚れ物が溢れかえり、看病してくれる人もいない……小説では廃病院への隔離だったが、何のことはない、患者各自の家での自宅療養で同じことが起きていたのだ。
     もちろん、感染抑制は社会的課題であり最優先で取り組まねばならない。どんな政府にも限界はある。だが、その「最優先」「限界」の中身を決めるのは誰なのか、どう決めているのか、そしてそこに「私」や「あなた」は本当にいるのか……作中に何度も繰り返される「見えない」と「見える」……この意味を何度でも問い直さねば、人間の尊厳を否定する結果しかあり得ない。
     この小説は1/3にEテレで放送された『100分deパンデミック論』で紹介されていた一冊だが、Twitterに「パンデミックに際して苦渋の決断を下す指導者の物語を読んでみたい」との感想が投稿されていた。私はどうしても「決断を下す指導者はいても、苦渋の決断を下す指導者はいないってもう証明されたと思いますがね」としか言えない。

  • ある日突然、世界中の人の目が見えなくなる。次はわたし、と怯える日々、劣悪な収容所、なぜか目が見えたままの女。
    名前がひとつも出てこない。目が見えないなら、他者を区別する記号として名前は特に重要になると思うのに、ひとりも出てこない。会話かぎかっこのない、流れるような文章。なのに誰が発したことばか分かる。訳もうまいんだろうなあと思った。
    収容所の終盤は特に目を背けたくなる悲惨さで、もし自分なら目が見えない方がいい、見えていたら余計につらい、いっそ早めに死んでいたいと思ってしまった。思ったけれど、実際に目が見えなくなってあの場にいたら、どうしていただろう。死んでしまいたいとは思っただろうけど、死んだだろうか?
    印象的なフレーズがたくさんあった。読んでいる途中で作者略歴をみたらノーブル文学賞作家だったので、驚いた。(表紙に惹かれて買った初見の作家でした)

    「まるで頭上を、鳥か、雲が、暁のためらいがちな光かなにかが、よぎったような顔をしていた」
    「わたしだって、もし泣けるなら、わかってもらうために話さなくてもいいならば、涙ですべてを言うわ」

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著者プロフィール

1922年、ポルトガルの小村アジニャガに生まれる。様々な職業を経てジャーナリストとなり50代半ばで作家に転身。『修道院回想録』(82)、『リカルド・レイスの死の年』(84)、『白の闇』(95)で高い評価を得て、98年にノーベル文学賞を受賞。ほかに『あらゆる名前』(97)、『複製された男』(2002)など。2010年没。

「2021年 『象の旅』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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