- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309464466
感想・レビュー・書評
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作者はパレスチナで生まれた。
作者12歳の1948年4月9日に、ユダヤ人武装組織が当時イギリスの委任統治領であったデイル・ヤシーン村を攻撃して見せしめのような村人虐殺「デイル・ヤシーン事件」を起こす。パレスチナはパニックに陥いり、多くのパレスチナ人が国外へ避難した。この時に作者の一家も難民となった。
その一ヶ月後の1948年5月14日に、ユダヤ人国家イスラエルの建国が宣言される。
作者は家族のために働き、成長してからは執筆と政治活動を行うようになった。36歳の時に自動車に仕掛けられた爆弾により死んだ。
ここに入っている短編は、突然の攻撃で身一つで家を追われて難民となった人々の生活そのものだ。貧しい生活は親族でも疑いあい、幼いうちから働き、噓で周りを固める。
作者はユダヤ人にパレスチナを追われたのだが、ユダヤ人にも悲劇がある。民族が戦って入るが、個人としては相手を憎むわけではない、ただ双方ともに決定的に家族を、故郷を、人間らしさを失う。
作者はこんな小説を書きたくはなかっただろう。哀しさも怒りも持つこともできないくらいに、ただすべてを失った人たち。こんな小説を書かなければいけない現実がある。なんと言えばいいのか、こんなことがあってはならないとしか言えないのだが、あまりにもつらい。
<祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところのことなのだよ。P257>
本書のを登録している皆さんのレビューを読ませていただきました。皆さん大変素晴らしいレビューで、ありがとうございます。
『太陽の男たち』
イラクのバスラから、クウェイトに密入国を計る男たち。村を襲われ家族を失い行き場も持ち物もない老人、家族のために働かなければいけない少年、テロリストとして追われている若者、そして彼らに密入国を持ちかける元兵士。彼らに待ち受けるあまりにもあまりにも酷い結末。
『悲しいオレンジの実る土地』
オレンジの実る自分の村を突然に離れなければいけなくなった一家。
父親は一家心中を目論むまでに追い詰められる。
村からなんとか持ちだしたオレンジは、すっかり干からびていた。
『路傍の菓子パン』
難民キャンプ小学校の教師になった主人公は、ハミードという生徒が気になっていた。だがハミードの話が噓ばかりとわかって主人公は傷つく。「かつて自分もそうだった」としても通じないものがある。少年であっても噓で塗り固めなければ自分を守れないのだ。
==著者は実際に難民キャンプで教師をしていた。そこで子供でいられない子供を見たんだろう。
『盗まれたシャツ』
難民キャンプで暮らす大人しく貧しい男。
食料も仕事も不足している。配給される食料はアメリカ人の見張りや、難民キャンプの住人たちが盗んで売り捌いている。
そんな事実を知って男の衝動が弾ける。
『彼岸へ』
<人間ってのはたいてい自分が明日場所で足場を得ると「それじゃあ、どうする?」って将来のことを考え始めるもんでしょう。(…略…)自分に「それじゃあ」って先のことがからっきし与えられてねえってことがわかったときくらい、無惨なことはねえですよ。(…略…)皆が一斉に喚くんです。「これで生きているって言えるのか、死んだほうがまだましだ」ってね、人間手のは普通、死ぬことをそれほど好きじゃあないもんですよ、それで他のことを考えざるを得なくなるんですよ。P172>
『戦闘の時』
親族二家族で狭い家にひしめき合っていた。10歳の少年たちは盗みで生計を助ける。
あまりに貧しい生活で、互いを見張りあい、誰かが持っている金や食べ物を狙い合う。親族といっても常に「戦闘状態」でいたのだ。「戦争中」ではない、それなら休息の時間だって有る。だが難民生活は親族相手であっても気が抜けない「戦闘中」なのだ。
『ハイファに戻って』
1948年4月21日月曜日の朝。アラブ人地域のハイファが突然攻撃された。サイードとソフィア夫妻は身一つでハイファ去らねばならなくなり、生まれたばかりの息子と生き別れた。
今ならハイファに戻れるんだ。息子の消息がわかるだろうか。
自分たちの家にはユダヤ人入植者が住んでいた。ポーランドで差別され家族はアウシュビッツで死に、イスラエルにやってきたのだ。
そこで取り残されていたサイードとソフィアの息子を引き取り育てていた。
帰ってきた息子は、サイードとソフィアを拒絶し、非難を浴びせる。彼はユダヤ教を信仰し、ユダヤの学校に行き、ヘブライ語を学んだ、そして今ではアラブ人と戦う兵士になっていた。自分がアラブ人両親と生き別れたアラブ人だと知ってもその気持は変わらない。
サイードとソフィアは、そして20年前にハイファから身一つで逃げ出した人たちは、家族を、家を、祖国を決定的に失ったのだ。
それは彼らだけではない。ハイファに戻ったほかのかつての住人たちも、自分の家や家族の持ち主になっているユダヤ人を憎む気持ちも浮かばないくらいに、そこがもう故郷ではないことを思い知る。
<祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところのことなのだよ。P257>詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
昔一度読んで半ばトラウマになりかけて、その後に2年程シリア難民支援に携わってから、本当のトラウマになってしまった本。一夜にして祖国を奪われてしまった人間の声なき叫び、涙なき慟哭が、ページを捲る度に押し寄せてきて、あの胸を抉られるような日々と重なった。何とか前を向かなければいけない、というただその一心だけで今回、何度も何度も本を置きながらやっと再読できた。
情景描写と心理描写の融合が本当に巧みで、どんなシーンも眼前に迫り、登場人物の心の動きに自らのそれを重ねてしまう。(「四人の憔悴した一行を乗せた車は、まるで熱い錫の薄板の上に垂らされたねっとりした油の一滴のように、砂漠の中を進んでいった…」この一文からだけで切迫した状況が遅々として解消されない絶望感が伝わってくる)。それ故一話一話があまりに重過ぎて、近過ぎて、息が詰まりそうになるのだけれど、この作品が「人間の犯し得る罪の中で最も大きな罪」を記した「告発書」として、出来る限り多くの人々の心の中に刻まれる事を祈る。声は挙げ続けていかなければいけないから。
「太陽の男たち」ー国境という一本の線に命を左右される男達を描いた表題作。「悲しいオレンジの実る土地」ー祖国を奪われた人間は、同時に命以上に大切な何かも奪われる。「路傍の菓子パン」ー唯一支援者の側から描いた短編、とてもパーソナルな作品だった。「盗まれたシャツ」ー悲劇が悲劇を生む連鎖。「彼岸へ」ー不幸は決して平等に訪れない。「戦闘の時」ー5リラを巡る子供達の闘い。「ハイファに戻って」ー祖国とは何か、犯してはならない罪とは何か。
最後にここに記しておきたい一文を:「その人間が誰であろうと人間の犯し得る罪の中で最も大きな罪は、たとえ瞬時といえども、他人の弱さや過ちが彼等の犠牲によって自分の存在の権利を構成し、自分の間違いと自分の罪とを正当化すると考えることなのです」。-
Withverneさんこんにちは。
Withverneさんは難民支援をしていらっしゃるのですね。
私は恥ずかしながらパレスチナ、...Withverneさんこんにちは。
Withverneさんは難民支援をしていらっしゃるのですね。
私は恥ずかしながらパレスチナ、イスラエル問題の歴史的なことや実際に何が起きたのかをわかっていなくて、そんな時にこちらの本を知りました。
民族としては追い出したり戦っているけれど、個人としては憎しみの浮かばないくらいに徹底的に故郷を失っているという非人間性にさらされてまさにショックな読書でした。
また色々な本を参考にさせてくださいませ。2023/11/13
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『ガザに地下鉄が走る日』を読んでいたこともあって、とてもすんなり移入できた。
特に『彼岸へ』と『ハイファに戻って』が刺さった。
世界に向けての慟哭。無き者とされ続けている人々の叫び。ノンフィクションやルポルタージュだけでは伝えにくいものを文学は伝えてくれる。 -
パレスチナに生まれ、難民となり、解放運動に身を投じ、36歳で爆殺された著者による短編集。パレスチナ問題について無知だったため、まずは平易に書かれた入門書『ぼくの村は壁で囲まれた パレスチナに生きる子どもたち』(高橋真樹著、現代書館)を読んだうえで本書を手に取ったが、歴史や地理が苦手なわたしにはそれで正解だったと思う。表面的かもしれないが事実関係を把握したうえで、そこに暮らす個々人の思いに物語を通して心を寄せることができた。故郷を追われる人々の「痛切」などという常套句では表現しつくせないような哀しみ(「悲しいオレンジの実る土地」)には涙を禁じ得なかったし、無邪気な子ども時代を手放し、たくましくならざるをえない子どもたちの姿(「路傍の菓子パン」「戦闘の時」)には口の中に砂を詰め込まれたみたいな苦さを感じた。「盗まれたシャツ」、「彼岸へ」は短編ならではのスリルがあり、強度があった。どこか民話を思わせる語り口に光景がありありと思い浮かぶ。表題作の一つ「ハイファに戻って」は、イスラエルによって追われた街に20年ぶりに戻ってきた夫婦が、置き去りにせざるをえなかった息子と再会する中編。「生きていただけでよかった」などと喜び合う結末を一瞬でも思い浮かべた自分が恥ずかしくなるような展開で、それが浮き彫りにするのは、人間とはこういう生き物だという紛れもない真実。本書を読んだ以上、ガザで繰り広げられる悲劇を前に「なんとか仲直りして平和に暮らせないのかな」などと安易に口にすることはもうできない。慣れずに忘れずに考え続けたい。
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こりゃとんでもないものを読んだ......。と頭を抱えました。しばらく他の何を読んでも薄っぺらく感じそうなほど、重くて強い本でした。
私のようにパレスチナ問題に詳しくない方は、解説で紹介されている手記を先に読むことをお薦めします。これからもう一度読み直します。 -
ガッサーン・カナファーニー(1936~1972年)は、パレスチナの小説家、ジャーナリスト。
1936年、イギリス委任統治下のパレスチナのアッカー(現イスラエル領)で、スンナ派ムスリムの両親のもとに生まれたが、1948年に、
ユダヤ人勢力によって第一次中東戦争開始直前に仕組まれたデイルヤーシン村虐殺事件をきっかけに、難民としてシリアに逃れた。高校卒業後は、ダマスカスで出版社の社員、難民救済機関の学校の教員となり、1956年には、姉を頼ってクウェートに行き教員となったが、1960年、「アラブ人の民族運動」の誘いに応じてベイルートに渡り、1967年に「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」が設立されると、そのスポークスマンに就任、PFLPの機関紙の編集にも携わった。PFLPでのカナファーニーの発言は、世界中のジャーナリストの耳目をひき、イスラエルにとっては脅威となっていたという。1972年、ベイルートで自分の車に仕掛けられていた爆弾により暗殺された(暗殺したのはイスラエルの特殊部隊と言われている)。享年36歳。
カナファーニーは、現代アラビア語文学の主要な作家の一人、パレスチナ人の代表的な作家として認知されており、本書に収められた「太陽の男たち」は、現代アラビア語文学の傑作の一つに数えられている。本書の7篇は、1972~73年に出版されたカナファーニーの遺稿集『全足跡』の一部で、日本語訳は1978年に『現代アラブ小説全集』の一冊として刊行され、2009年に復刊した『太陽の男たち/ハイファに戻って』を2017年に文庫化したものである。
私は普段ほとんどフィクションを読まないのだが、エルサレム及びパレスチナを現代世界の縮図と考えており、3年ほど前にはエルサレムとヨルダン川西岸地域を一人で一週間ほど旅して来たこともあり、今回本書を手に取った(残念ながら3年前にはカナファーニーのことは知らなかった)。
中編2作のうち、「太陽の男たち」では、イラクのバスラからクウェートへの密入国を図る3人のパレスチナ難民が、身を隠した給水車のタンクの中で、炎天下の砂漠の暑さに耐えきれずに悲惨な死を遂げ、「ハイファに戻って」では、ユダヤ人武装勢力によってハイファを追われたパレスチナ人夫婦が、20年振りにハイファに戻り、已まれぬ事情でハイファに残した生後6ヶ月だった息子が、完全なユダヤ人として成長した様子を目の当たりにする。いずれも緊迫感のある舞台設定で、それだけで我々読者を引き込んでいくが、カナファーニーの作品の真髄は、全てがパレスチナ問題に抜き難く関わっていることである。「太陽の男たち」で、給水車を運転した男は最後に、なぜタンクの壁を叩かなかったのか、と絶叫するのだが、これは、過酷な環境に押し込められたパレスチナ人全員に対して発せられたものなのだ。また、「ハイファに戻って」では、後半で何度も繰り返される「人間はそれ自体、自己の問題を体現する存在なのだ」という言葉の中に、パレスチナ人が四半世紀の苦闘の中で到達したものをくみ取ることができる。
その他の短編も、自らが目にした、デイルヤーシン村虐殺事件をきっかけに故郷を追われるパレスチナ人、難民となりダマスカスで暮らすパレスチナ人の子ども、四半世紀を経てなお難民キャンプで日々の食べ物にも困るパレスチナ人、等の姿を鋭く切り取ったものである。
カナファーニーが世を去ってから既に半世紀が経ったが、パレスチナ問題は根本的な解決に向けて何ら進展を見せないばかりか、米国が大使館をエルサレムに移転するなど、現状の既成事実化が進んでいる。
日本の一市民である我々にできることは、この問題に強い関心を抱き続けることに尽きるが、現状に関する報道に常に敏感であると同時に、本書に描かれたようなパレスチナ人の思考・歴史認識(の変遷)を知ることも大切であろう。
(2020年7月了) -
パレスチナのことを知りたいと思って読んだ。
小説であるのに、現実との繋がりの距離が近くて……いや、そうだと思ったから読み始めたのだけれど……。
改めて、人間同士のことでなぜこのようなことが起きてしまうのだろうと……解説文のパレスチナ人男性の言葉も訴えかけてきて、Noと言わなければと思った。 -
「私はこのハイファを知っている。しかしこの町は私を知らないと言うのだ」
褪せない現代性 -
『翻訳文学試食会』(ポッドキャスト番組)の#22で紹介されていた本書。15年以上前の大学生の頃、そういえば隣の学科の友人が読んでいた記憶が呼び覚まされた。
”太陽の子”は、物語のはじめから悲劇的な結末の香りがプンプンする感じだったが、まさかあそこまで悲惨に終わるとは思わなかった。
”ハイファに戻って”は、ナクバという歴史的事実と、それでも生きなければならないパレスチナ人夫婦のフィクション(でもきっと本当にあったのだろう)が織り交ざった、胸が締め付けれられながらも読み進めたい物語。緊張すると多弁になる夫と、静かになる妻、どちらも理解できる反応である。