神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (509ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309463148

作品紹介・あらすじ

二人の詩人、ダンテとウェルギリウスは二十四時間の地獄めぐりを経て、大海の島に出た。そこにそびえる煉獄の山、天国行きを約束された亡者たちが現世の罪を浄める場である。二人は山頂の地上楽園を目指し登って行く。永遠の女性ベアトリーチェがダンテを待つ。清新な名訳で贈る『神曲』第二部煉獄篇。

感想・レビュー・書評

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  • 暗黒の地獄を抜け出した主人公ダンテと師匠ウェルギリウス。ふりそそぐ高貴な光に無上の悦びを覚えます。静謐な水辺のほとりに降り立った彼らの前に、ほどなくすると、煉獄(れんごく)への渡し守となる眩い天使が乗った船が静かに近づいてきます……。

    物語の設定は1300年春、復活祭。35歳のダンテは峻厳な森の中で迷い果て、行く手を獣に阻まれていたところを、古代ローマ屈指の詩人ウエルギリウスに救われます。実のところ、このウェルギリウスは、天国に身を置くベアトリーチェという女性に懇願され、正道を踏みはずして混迷していたダンテを教え導くために遣わされた賢人です。

    なんと現世ダンテの長年の想い人だったベアトリーチェ。
    実際、ダンテは2回ほどしか彼女に会ったことがないようですが、まるでクピド(キューピッド)の黄金の矢に射られたように、熱烈に彼女を想い、愛し続けます。プラトニックな純愛に苦悩するダンテのさまは、「若きウェルテルの悩み」の比ではありません。その後、彼女が24歳で夭逝してしまうと、ダンテはほとんど発狂寸前だったようです。

    そのような詩人ダンテの切ない恋慕のせいでしょうか……「神曲」の主人公ダンテは、天国で待っている愛しいベアトリーチェに会いたい一心で、生き身のまま、地獄、煉獄、天国の旅を決意したのでした。
    眼前に立ちはだかる煉獄の峻険な峰々を這いつくばりながら登っていきます。時折くじけそうになるダンテに向かって、師匠ウェルギリウスは、ベアトリーチェがおまえを待っているのだ! と叱咤激励します。そこで奮起するダンテも可愛らしい。愛は強し。

    さて、地獄は罪人が自己の罪のために永劫に責め苦にあう場所でしたが、煉獄は、天国行きをほぼ約束された人々が魂を浄化するために集う助走場――自動車教習所でいえば仮免状態?――というイメージでしょうか。もっとも、その浄化のためのトレーニングメニューは、地獄の責め苦とさほど変わりのない過酷なものです。
    ダンテは、そこでも様々な歴史上の人物に遭遇して話を聴くことができます。次々に登場する個性的な魂たちは、まことにまことに饒舌です。

    煉獄の門を通過すると……
    第1の環道 高慢の罪を清める者
    第2の環道 嫉妬の罪を清める者
    第3の環道 怒りの罪を清める者
    第4の環道 怠惰の罪を清める者
    第5の環道 貪欲の罪を清める者
    第6の環道 大食の罪を清める者
    第7の環道 色欲の罪を清める者

    「神曲」は、キリスト神学とギリシャ・ローマ文学の知識が少々必要で、地獄から煉獄へステージが上がると、より聖書の知識が求められます。ですが、平川氏の訳と訳注が秀逸なので、あまり細かいことにこだわらなければ、どんどん読み進めていけると思います。

    煉獄の旅の最後は、天国の一歩手前。
    さて……ここからが問題です。生き身のままたどり着いたダンテですが、もはや人間の理性をもってしては天国へ昇ることはできません。また、これまで導いてくれた賢人ウエルギリウスは、天界に昇ることが許されていない地獄リンボの住人のはず……さてダンテどうする?

  • 煉獄とはなんぞや?地獄行きを免れた死者が天国を目指し七つの大罪を浄める贖罪の山である。鬼滅の刃は知らん。

    地獄篇のビジュアルが印象強い「神曲」だが、煉獄篇も非常に映像的。地下に降りていった前篇から、今度は山を登っていくという流れになり、雄大かつ峻烈な風景が描かれる。おどろおどろしさは薄れるものの、罪を償うべく過酷な労働を強いられる著名人が続々登場し感情移入を誘う。ダンテの額に肉、ではなくて七つのP(罪)の文字が刻まれ、七つの大罪に対応した環道を通過するごとに一つひとつ消えていく、というのもマンガ的で面白い。
    先生との別れの情緒と、ようやく出会えた夫人から受ける叱責の強烈さが見事なコントラストをなしていて、ここが煉獄篇最大の見どころなのかも。というかSMすぎてワロタ。ダンテくんがM男というよりSすぎるんですよあの方……。
    終盤の、美女がたくさん登場し癒やされる光景は文字通り地上の楽園という感じで、ダンテと共に旅をしてきた読者をなごませる。このあたりは天使やら幻獣やらが登場し、どファンタジーな映像を堪能できるので読んできたかいがあるというもの。続く天国篇はいかなる世界か楽しみだ。

  • 地獄篇から煉獄篇(Purgatorio)へ。

    全ての霊は、死後、肉体を離れ、地獄行きか煉獄行きか分別される。生前の信仰のため、地獄に堕ち永劫の罰を受け続けるのを免れた霊が、天国界へ昇るのに相応しくなるべく罪を清める場所がこの煉獄界、浄罪界とも訳される(なお、聖書に煉獄界の記述は殆ど無く、のちのプロテスタント教会ではその存在を認めていない)。

    浄められるべきは七つの大罪。傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・大食・色欲。地獄で罰せられる罪よりも日常的なものであるため、キリスト教の倫理的厳格さが却って身に詰まされる。

    「私の血は嫉妬に煮えたぎっていたから、/もし人の幸福を見ようものなら、/顔面は、君の目にも見えるほど、蒼白となった。」(第十四歌)



    キリスト教の世界観では、神の絶対性・神に対する人間の無力さが公理として前提される。

    「おまえらにはわからないのか、われわれは守りもなく/裁きに向かって飛ぶ天使のような蝶となるために/生まれついた虫けらだということが?/なぜおまえの気位はそう高く舞いあがるのだ?/おまえはいわば片輪の虫、それも/まだ発育不全の蛹のようなものではないのか?」(第十歌)

    「三位一体の神が司る無限の道を/人間の理性[ratio=計算的理性――引用者]で行き尽くせると/期待するのは狂気の沙汰だ」(第三歌)

    次の引用に云う「自由」も、当然のことながら、「神への自由=罪に塗れた肉体という鉄鎖から解放され霊が神へと合一していく自由」であって「神からの自由」ではない。勿論、近代的な政治的「自由」でもない。

    「自由を求めて彼は進む、そのために/命を惜しまぬ者のみが知る貴重な自由を」(第一歌)

    愛の志向も美への陶酔も、一方で人間に自由意志を認めておきながら、最後には神の裁きと地獄の罰を持ち出して、愛や美への自由を矯めようとするのがキリスト教の教えだ。

    「人間は善や悪を愛し、/その愛を集めて選り出すことができる・・・。」(第十八歌) 「・・・善悪を知る光や自由意思が君らには与えられている」(第十六歌)

    「愛がおまえたち人間のあらゆる徳の種であり、/かつ罰に値するあらゆる行為の種である・・・。/・・・およそものは自己嫌悪におちいることはありえない・・・。/そしてあらゆる存在は原初存在[神]から切り離されて/それ自体で存在するとは考えられぬ以上、/およそ被造物はそれを憎むことはできぬわけだ」(第十七歌) 「およそ愛と呼ばれるものなら/それ自体でみな称賛に値すると主張する人の目には/真理は隠れ、真相は映じていないのだ」(第十八歌)

    「天はおまえらを呼び、おまえらの周りを回って、/その永遠の美の数々を示しているが、/おまえらの目はもっぱら地上に注がれている」(第十四歌)

    神の絶対性を志向する、則ち神と云う審判者の赦しを日々希求し続ける、その強迫的なまでの目的論的世界観とは、何と窮屈な生だろう。想像するだに息苦しい。



    "永遠の女性"と云われるベアトリーチェも、要は自分の死後にダンテが自堕落な生活に陥り「よその人の許へ走った」ことを、キリスト教の用語を用いて責めている。そもそもダンテのこの彼岸行自体が、堕落した彼の眼を覚まさせるには「破滅した人間を見せるより外に/もはやない」と、彼女によって図られたものだった。

    "永遠の女性"とまで云われる彼女が、言葉ばかりは宗教的な説教で飾り立てているが、その実は高慢で世俗的な女であったことに対して、率直に云って失望を覚えた。「世の中の人々が苦労して方々の枝に探し求めた/あの甘い樹の実」「おまえの餓えをいやしてくれる」(第二十七歌)天国に於いて、彼女はどんな言葉を語るのか。



    内面に於て最も清浄たるべき神的合一を憧憬する精神的営為を、世俗に於いて支えるはずの教会。そんな内面に於ける宗教的権威が世俗に於ける政治的権力と一致してしまっては、その権威の源泉たる清浄な信仰心は、世俗の泥濘に何処までも墜ち込んでいくだろう。現に、政治活動家でもあったダンテの本作にも、信仰の清浄な静謐さとはほど遠い、俗世の政治状況に対する憤怒怨恨を露わにしている場面が多々見られるではないか。天皇制批判にも通じる一節を引用する。

    「・・・。ローマ教会は/[世俗と宗教の]二権力を掌中に握ろうとしたから、/泥沼に落ち、自分も汚し、積荷も汚してしまったのだ」(第十六歌)

    加うるに、内面を支配する宗教的権威が世俗を支配する政治的権力と一致してしまっては、神の絶対性へ合一しようとする宗教的心性は、世俗に於ける絶対的な暴力へと容易に転化してしまうことも歴史を顧みれば看て取れるだろう。



    最後に、我が身へ向けての叱咤の句を記しておく。

    「風が吹こうがびくとも動ぜぬ塔のように/どっしりかまえていろ。/次から次へと考えが湧く男は、/とかく目標を踏みはずす。/湧きあがる力が互いに力をそぎあうからだ」(第五歌)

  • ダンテの神曲の2篇目、煉獄篇です。地獄篇を無事に抜けたダンテが煉獄山を登り、地上楽園を目指していきます。
    「煉獄」という語は少しなじみのない言葉ではないでしょうか。私は本書を読んで初めて、こうした世界が地獄と天国との間にあることを知りました。そこに描かれるのは、地獄篇に立ち込めているような悲惨さではなく、「ここを最後まで登り切れば必ず天国に行ける」という希望をよすがとして苦役に耐える魂たちの姿です。しかし一方で、突然現れたダンテ一行に「あの人には影があるぞ」と驚いたり、そのような表情のまま恐る恐る近付いて「自分のことをどうか現世の人に伝えてほしい」と口々に懇願したりする姿は滑稽でもあります。そのためか、登場人物からはあまり悲愴な印象を受けませんでした。
    現世で山を登るときには、たいていは(私は山登りの経験はないのですが)頂上に近づくにつれて疲労が増していくものだと思うのですが、煉獄山ではそうではないようです。煉獄の門をくぐるとすぐに急峻な岩場が現れ、ダンテは息も絶え絶えにそこを越えていきます。その描写も巧みで、読者としては「まだ先は長いのに初めからこんなに疲れるなんて」という感情に襲われます。通常の山とは逆に、煉獄では登れば登るほど身体が軽くなっていくようなのですが、読みながらその軽やかさを追体験できるか、と言えば、私にはとても同意できません。このもどかしさはやはり私が現世に生きているからなのでしょうか。ですが、このような描写もやはり滑稽なものなのでしょう。
    そして、地獄をずっと2人で旅してきた一行ですが、本書中盤の第21歌からはもう一人、ラテン詩人のスタティウスが加わります。ウェルギリウスを心底尊敬していたというこの人物の登場によって、作品の雰囲気はがらりと変わります。彼とのやり取りを通じて、ウェルギリウスの人柄が、主人公であるはずのダンテ以上に伝わってくる気がしました。地獄では厳格な人物という印象のあった彼の、スタティウスの一途な(?)想いに触れた時に表す心情などは、とても親しみやすいものに感じられます。このような描写のおかげか、本書は先の地獄篇よりもずっと明るい印象を与えるものとなり、原題の「Commedia」にずっとふさわしい内容になったような気がしました。そうした意味では、私個人としては地獄篇より煉獄篇の方が好みであるかも知れません。平川祐弘訳。

    (2009年7月入手・2011年2月読了)

  • 煉獄篇の最後辺りに天国編はより難解だから気軽に手出すんじゃねぇぞ?みたいな忠告があったのでひよって天国編を読まなかった過去がある(未だに未読)

  • 地獄篇読了 2009/12/20

  • ・これから先はおまえの喜びを先達とするがよい。峻嶮な、狭隘な道の外へおまえはすでに出たのだ。正面に輝くかなたの太陽を見ろ、草花や樹々を見ろ、ここではすべてが大地からおのずと生えている。

  • 文学的美しさにおいては、平川祐弘訳の右に出るものなし。これをたった35歳の弱冠で訳し上げた平川先生はやはり学者としては超一級。

  • *おすすめコメント
    キリスト教における善悪観がこの一作にすべて入っていると言えよう。日本に於いても、与謝野晶子、森鴎外など文豪たちがこれを読んだ。特に、地獄編だけでも貴方の人生観、生き方は変わるはずである。新入生のみならず、全人類に薦めたい作品。なお、本校の図書には、岩波文庫の山川丙三郎訳のものがあるが、戦後間もなく出版されたものであり、言い回しや仮名遣いなどが余りにも旧く、少々難解で非常に読み辛いため、平川祐弘訳を推薦した。

    *学生へのメッセージ
    自分の人生、如何にして善くするかを考えて生きるべし。

    *OPACへのリンク(所在や貸し出し状況を確認できます)
    https://libopac3-c.nagaokaut.ac.jp/opac/opac_openurl?kscode=018&ncid=BN05418459
    (他に訳者の違う図書あり)

    推薦者:学生(商船学科)

  • 地獄編同様、一日一歌コツコツ読んだ。
    『神曲』を読む上で、思いつきで実行してきたこの読み方は案外有効なように思える。なぜなら、地獄〜煉獄を巡ることがいかに大変なのかを追体験できるからだ。途上でダンテは何度も挫けるが、その都度ウェルギリウスに励まされ、歩を進める。私も何度か読むことが億劫になったが、その度に自分で喝を入れて読んできた。

    だからこそ、ダンテがベアトリーチェに再開するまでどれだけ苦労したのかが、現体験を通じて感じることができる。

    閑話休題、煉獄編で特に惹かれたのはやはり美しい情景表現だ。第一歌から感動で鳥肌が止まらなかったのは鮮明に覚えている。これも地獄編をコツコツ読んできた後だからこそ味わえる感動である。

    もちろん第一歌のみならず、全体にわたって美しくて的確な表現が止まらない。これに心動かされない者が果たしているのだろうか?

    『神曲』の魅力は語り尽くせないくらいにはまだまだある。″3″を意識したゴシック調の形式、原語で音読したときに歌になる工夫、各編の行数の統一性などなど。『神曲』は知れば知るほど、その偉大さにひれ伏す。

    こんなにも私の心を打った作品なので、本書の訳者である平川先生による『ダンテ神曲講義』を参考に再読しようと決意。その前に天国編へ!

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著者プロフィール

1265年、フィレンツェ生まれ。西洋文学最大の詩人。政治活動に深くかかわり、1302年、政変に巻き込まれ祖国より永久追放され、以後、放浪の生活を送る。その間に、不滅の大古典『神曲』を完成。1321年没。著書に、『新生』『俗語論』『饗宴』 『帝政論』他。

「2018年 『神曲 地獄篇 第1歌~第17歌』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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