ゆるく考える (河出文庫)

著者 :
  • 河出書房新社
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (412ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309418117

感想・レビュー・書評

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  • 自分がまじめなのかどうかわからないとぼやき、別の人生があったんじゃないかと思いを馳せ、自分の限界に突き当たる。それでも粛々と生きる著者に私は勝手にめちゃくちゃ共感してしまいます。

    《ときにひとは、自分が本当に必要としているものを自分でもわかっていないことがあり、本来芸術とはまさにそのような逆説に関わるものなのだ。「よそもの」に「勝手」にさせないと、出てこない表現というものもあるのである。》(p.20)

    《若者と同じように話をすれば無責任だと言われ、議論すればハラスメントだと言われるのだ。それが年齢を重ねるということであり、ぼくたちはそれを受け入れて生きていくほかないのである。》(p.56)

    《人間は事実は共有できる。けれども価値は必ずしも共有できない。同じ事実から異なった価値が導かれることはあるし、その差異を認めなければ人々の共生はありえない。けれども日本人は、事実さえ共有すれば、必然的に価値も共有できると思い込んでいるところがあるのではないか。》(p.82)

    《ぼくはどうも「まじめ」にふるまえない。自分がまじめなのかどうかつねにわからないし、「あなたはいままじめなのですか」と問われても、どうしてもその問いをはぐらかし、茶化してしまうようなところがある。》(p.124)

    《公共的であるとは、まずは公共的なものにコミットし、つぎにそのコミットメントが重要であると語る、二重の自己正当化を意味している。それなのに、一方では公共的なものにコミットしつつ、他方ではその重要性を認めない東浩紀は矛盾している、これが大塚さんの批判の要諦です。これは、従来の公共性のイメージからすれば、まったく正しい批判です。
     しかし、そのうえでぼくは、大塚さんとの対話では、別の可能性の話をしたかったのです。人々がみなまじめになる必要がない、少なくとも「自分がまじめかどうか」をたえず自己確認する必要のない、もっとゆるい、なんとなく生成する情報交換の場の可能性の話を。》(p.128)

    《現代社会では、思想は、もはや「個人の趣味」としてしか、つまり、週末に料理をするひともいればアウトドアに出かけるひともいてゲームをプレイするひともいる、それらのなかにたまたまフーコーやデリダや柄谷行人を読むような物好きがいる、そのていどのものとしてしか存在できない。》(p.162)

    《まじめな問題にまじめに答えるのだけが思想や批評の役割ではない、むしろまじめな問題がいつのまにかふまじめになってしまっていたり、逆にふまじめな回路にいつのまにかまじめな問題提起が忍び込んでいる、そのような撹乱の現場を的確に捉え、ときにその撹乱を実践すること、それこそが思想や批評の役割だとデリダは考えていました。》(p.172)

    《というよりも、ぼくはそのもうひとりのぼくの人生こそが本当の人生だったはずだと考える。少なくとも、そのような人生はあったはずだと考える。そして、たまたまぼくがいまグッドエンドに向かっているように見えるのは、そのようにしてバッドエンドに陥った、いくどかの人生の周回があったはずだから、ぼくには決して接触できないどこかの人生でささやかな犠牲があったはずだからだと考える。今回の受賞でもっとも驚き、と同時に底知れぬ怖れを感じたのは、じつに多くの人がぼくの受賞を喜んでくれる、その幸せな光景が、たかが文学賞の落選ごときで完全に無に帰していたのかもしれないという、その現実の残酷さに対してだった。
     現実はなぜひとつなのだろう。》(p.319)

    《ぼくはたしかに学者になった。知識人になった。アカになった。しかしそれでもいまだに、学者であり知識人でありアカであることが現実の生活でなにを意味するのか、まるで理解できていないのだ。なぜならば、幼いぼくのまわりには、だれひとり学者も知識人もアカもいなかったからだ。それはぼくの限界だ。知識とも努力とも想像力とも関係のない、いわば階級的な限界だ。ぼくは長いあいだ、その限界を限界と意識せずに突破しようと試みていた。そして失敗し続けていた。結局のところ、ぼくは中小企業の経営者になるほかなかった。だからぼくはいま、ゲンロンを運命と感じている。自分の限界を、限界として否定するのではなく、運命として受け入れ、肯定するべきだと感じている。
     こんなくだらないことを理解するために、ぼくは四〇年以上も生きなければならなかった。それはじつに滑稽なことだ。しかし、人生とはえてしてそういうものなのかもしれない。》(p.383-384)

  • 常に客観的立ち位置で,自分自身を中心とした思考空間を形成し,自分自身とは,そして人とは何なのか,を思索懊悩する.方法論が確立している訳ではないので,思考空間に一貫性がなく行き当たりばったりのように読者は感じるかも知れないが,自分を題材にした実験なので,空間定義も,その時々で興味のある方向に飛び,後々(10年単位で)それらが有機的に体系化される.高等遊民のようにも感じるが,自分自身の精神世界と向き合うことの精神的困難さは,過去の哲学者達の精神崩壊といった末路を考えると,常人に真似のできる所業ではない.

  • ぼくたちは常に未来を想像しながら生きている。そして未来はたいてい期限があいまいなものである。イエスかノーかの判定日が決まっていることはほとんどない。
    たとえば数年後の自分を想像し、独身か既婚かどちらかだと問うことはできる。けれどもそれはなにも深刻な対立にはならない。独身でもそれからあとに結婚する可能性はあるし、すでに離婚している可能性もある。そもそも結婚など望まなくなっている可能性もある。未来にはさまざまな可能性が重なっていて、どれがベストかは簡単に決定できない。人生とはそういうものである。とくに子どもができると、そのあいまいさについて考える。子どもの人生について、なにがベストか決定できると信じている親はいまい。
    ところが受験は、未来からまさにそのあいまいさを奪ってしまう。受験を始めた瞬間に、未来の娘は「合格した娘」と「合格しなかった娘」に分岐してしまう。来年、再来年の計画について話すときに、娘もぼくも妻もつねにその分岐を意識せねばならなくなる。実際、資金計画から旅行の日程まであらゆることが変わってくるので、意識せざるをえないのである。
    ぼくは今回、受験生の親になってみて、それこそが受験の本質的な残酷さだと感じた。入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ。

    けれど、ほんとうはそんな単純な分岐など存在しない。むろん志望校に合格したらそれに越したことはない。けれども数年後には、そんな志望校だって退学しているかもしれない。起業したり外国に行ったりしているのかもしれない。人生の選択肢は無限である。そのことを頭の片隅において、入試会場に向かってほしい。

  • f.2023/4/22
    p.2021/5/10

  • 文庫になってくれて嬉しい一冊。感想はほしおさんが書かれている「これで「ゆるい」とは。」に心から同意。単行本刊行時は震災の前と後でこんなに変わるかと思考を巡らせながら拝読した。そしてコロナ禍のこのタイミングでこれが文庫化されたことは、読み返すという意味ですごく良かった。これからも、考えるために何度も読み返したい。

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著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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