史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)

著者 :
  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (444ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309414812

感想・レビュー・書評

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  • 【読もうと思ったキッカケ】
    元々哲学に興味はあったが、何から手を出せばよいか、かなり迷っていた。よく行く本屋さんで本書が何度も目に入って記憶しており、WEBで検索した際、哲学入門書として良書と多数のレビューがあったので、西洋編(タイトルには西洋編とは記載なし)・東洋編を2冊同時購入。

    【読後の感想】
    入門書としては、かなり良書だと思う。なぜなら、インド哲学としての釈迦や龍樹(ナーガールジュナ)、中国哲学として老子・荘子、日本の哲学≒仏教としての親鸞(唯円)の『歎異抄』など、読みたくなった本が本書をキッカケにかなり増殖したからだ。

    最近まで仏教というものを、宗教としてしか認識していなかったが、仏教はキリスト教やイスラム教とは違い、そもそも神というものが存在しない。なので仏教は純粋に哲学的な割合がかなり高いと学んだ。

    【特に腑に落ちた箇所】
    1.「知識と知っているだけの人」と「体験的に本当に分かった人(悟った人)」は、本質的にはまったく違うにもかかわらず、言葉の上ではまったく同じことを話す。(P.87)
    そう、まさに実生活でもよく感じることで、本から得た知識を誰かに伝えようとしても、なかなかスラスラと相手に伝えられることは稀だ。いわゆる、分かったつもりになっただけの事だと後から結構落ち込むことなど日常茶飯事である。
    これとある種同じで、いかに理論として「悟り」を理解しても、悟れることは絶対にない。本気で悟る為には、体感するしかないという箇所は非常に納得感が高く、腑に落ちた。

    2.「無分別智」とは、その名のとおり、分別する(世界から何かを切り分ける=言語化する)ことをしないで、物事を直感的に理解することであるが、実は、釈迦が悟った「真理」とはこの「無分別智(智慧)」でしか理解することができないものであった。ゆえに、仏教徒たちは「無分別智」の境地に到達することを目的とし、仏教はそこへ到達する方法論(修行法)を提示するのである。(P.159)
    なるほどなぁ、「悟り」を言語化することが絶対にできないことだからこそ、修行僧の方が「悟る」為に、生涯を捧げるんだと理解できた。

    また20年ほど前に読んだ京極夏彦氏の「鉄鼠の檻」も、確か悟りをテーマに書いていた本だったので、20年ぶりに読むとまた違った「気づき」があるだろうと思い、また近々読んでみようと思う。

  • 東洋哲学の本はは初めて読んだ。
    難しいかなって思ったけど、読み進めていくと面白い!やはり寺や仏など身近なものだからなのかもしれない。
    東洋哲学は全て体験、経験、自分が初めて悟りをして完成する。
    言葉では言い表せない。
    西洋哲学とは真逆だが、似たような内容を説いている部分もある。
    西洋哲学と東洋哲学、どちらも歴史に残す立派な学問。
    私も考えることをやめない人間でありたい。

  • 前作に続き本作の「東洋の哲人たち」もめちゃくちゃハマりました!!
    難しい哲学を、こんなに分かりやすく、面白く書ける飲茶さんはスゴイです。

    ぜひぜひ読んでみてください

  • 東洋哲学の発展をまとめた本。
    東洋哲学はインド哲学の発生から、中国の老荘思想との融合、そして日本に渡って禅哲学の完成という変遷を辿ってきた。この流れがコンパクトに、かつユニークな文体ゆえに非常にわかりやすく書かれている。

    特筆すべきは東洋哲学と西洋哲学との違いだろう。、西洋哲学は論理や知識に価値があるとして、これを組み上げることで「真理」に辿り着こうとする。これが西洋哲学者にとってのゴールである。
    一方、東洋哲学はいきなり、このゴールから始まる。あるとき「真理」に辿り着いた人が突然現れて、これは釈迦だったり老子だったりするが、その方法を広めていくのが東洋哲学の目的である。東洋哲学者は知識や理論にそこまで重きをおかず、「わかった」という体験を重んじる。

    この違いが中々わかりずらく、東洋哲学が誤解されやすい所以かと思う。特に、西洋的な知識や理論を教え込むことに特化した教育を行なっている、日本をはじめとした殆どの先進国では東洋哲学がいまいち活用されない。
    自分もこれまで西洋哲学ばかりを勉強していたため、この違いがとっつきにくかった。

    しかしその哲学から学ぶことは大いにある。東洋哲学は人類の叡智の片輪であることは間違いない。
    またプロセスはまったく違えど、西洋哲学と似た結論に落ち着く部分もあり、このシンクロニシティも興味深いところだろう。

    東洋哲学をここまでシンプルにまとめた本はなかなかなく、最適な入門書だと思う。

  • 一作目の西洋哲学編が面白かったため、こちらも購入。東洋は、哲学者の数も知名度も西洋に劣っているイメージがあり、本作には内容も面白さもあまり期待していなかったが、まさか前作を上回るとは…



    【第一章 インド哲学 悟りの真理】
    ・ヤージュニャヴァルキヤ…梵我一如
    ・釈迦…無我(私は存在しない)
    ・龍樹…すべては空(実体がない)である
    *般若心経の日本語訳
    *東洋哲学とはただの耳である

    【第二章 中国哲学 道(タオ)の真理】
    *堯・舜・禹の物語
    ・孔子…『仁』と『礼』に込めた熱い思い
    ・墨子…自身を愛するように他人を愛しなさい
    ・孟子…性善説(『仁』の継承者)
    ・荀子…性悪説(『礼』の継承者)
    ・韓非子…形名参同(成果主義)
    ・老子…道(タオ)、無為自然
    ・荘子…言葉によって境界が生まれる
    *東洋哲学とはウソ(方便)である

    【第三章 日本哲学 禅の真理】
    *聖徳太子…世間虚仮、唯仏是真
    ・親鸞…念仏による「他力」の境地へ
    *達磨…釈迦哲学を伝えに来たインド人(禅の開祖)
    *慧可…達磨の弟子、禅の継承者(二代目)
    *慧能…元々五代目の雑用係、禅の継承者(六代目)
    ・栄西…公案(ナゾナゾ)により悟りへ導く
    ・道元…只管打坐(ひたすら座禅)により悟りへ導く
    *十牛図…廓庵による九と十の追加について



    偉人たちの胸が熱くなるエピソードや、現代人向けのユニークな例え話など、かなり完成度の高い作品に仕上がっていると思う。般若心経の日本語訳、耳に興奮する人の話、全てをガンダムで例える人の話はかなり印象に残った。

    全ては『無』だとか、物事は思い込みだとか言われても、実際に楽しい時のあの感情は、思い込みだとしても良いものだと思うし、悟りに目覚めて傍観者の様に生きていくよりは、馬鹿になって一喜一憂しながら生きていく方が幸せなのでは?と思った。
    考え出すとキリがないが、またこの世の真理について考えたり無我になったりしてみたいと思う。

  • これは面白い、哲学というテーマを誰にでもわかるように時に真面目に、時に面白おかしく表現してくれています。インドから始まる東洋哲学の歴史的流れや背景が良くわかりました、東へ東へ。

    知識を持っていることと本当の意味で知っているは違う。自ら体験し、実践していくことで自分のものにしていくことが大事なんだなと。

    世の中は言葉や解釈で形を作っているに過ぎない。あると思っているものも人が意味をつけているに過ぎない。

    外的なものは外のものと割り切り、起きていることに身を任せ、日々を自分のものにし、人生を真っ直ぐに生きていくこと。

  • 読みやすい。わかりやすい。面白い!
    一気に読んでしまった。

  • <ルーツ、ベース、アイディンティティにかかわる哲学>


     飲茶氏の『史上最強の哲学入門(西洋の哲人編)』ほど、哲学の興味深さを猛プッシュしてくる入門書を、私はほかに知りません。ただ、著名な哲学者の名前と代表作を分かりやすく解説したガイド本なら、探せばまだあるかも。こと西洋の哲学に関しては。
     ですが、東洋哲学に関する入門書として、本書に匹敵するものにはもう会えないような気がしています。飲茶氏は、西洋編以上の難行を成し遂げたといえるでしょう☆

     卑しくも哲学に興味を持ったからには、欧米志向に偏らず、自分の足元を顧みるのがむしろ必然。いつかは正視しなければ、と考えていました。
     しかし、東洋の哲学、思想、仏教、ちょっとスピリチュアル……? これらの分野にいかがわしい印象を抱いてしまうのは、私だけではないはず★ 扱いが難しいのですよ。
     それでいて、日本に生まれ育った人間にとって、自然、当然、あるべき様などとと思える基礎は、あまりにも禅的なものに満ちています。さらには、目上の方々からこうすべきと説かれる教育のほとんどが、儒教的な要素を含んでいたりもする……★

     ヤージュニャヴァルキヤ、釈迦、龍樹、諸子百家、孟子、韓非子、荘子たちの原液に比べたら、日本に浸透しているもの(そして、インドや中国などの先輩諸国が失いかけている叡智)は、おいしい短縮版なのかもしれません。
     それでも、東洋の哲学が海を越えて集まり、残っているのが日本! 物質や現象にとらわれず「私を無にする」「すべては空である」「直接は触れられないところに本質がある」という感覚を、どうやら私たちはまだ保っているようですね☆
     本書を読んでいる間、単なる情報や情報のインプットではなく、ルーツとベースとアイディンティティーに考えをめぐらせたこと自体が、哲学する時間でした。「ああ、そういうことか!」と気づく瞬間の訪れを繰り返しながら本書をめくった体験が、かけがえのないものに思えます。

  • 真に悟りの境地に達した者は、もはや一般の人と見分けがつかない。

  • 古代インドの哲学者ヤージュニャヴァルキヤは、私というものは認識する者(主体)であり、認識の対象物となることがない。なぜなら、認識するものを認識する、ことはできないからだ。(無限遡行してしまうから)というのが、哲学の根本であるとした。
    釈迦の教えが大乗仏教と上座部仏教にわかれた根本分裂後、大乗仏教に龍樹という天才が現れた。龍樹は、縁起という考えに基づき、あらゆる物事、現象は相互の関係性いわゆる縁起によって成り立っており、確固たる実態としてそこに存在しているわけではない。という空の哲学を作り出した。A君が学校に行く、といっても、学校に行く道を作った人がいなければならなかったし、そもそも学校という制度を発明しなければならなかった。また、そこで会う人も、生まれてこなければ会えなかったし、その生まれた人も、親が出会わなければ生まれなかった。そういう幾つもの縁起(間接的原因)の絡み合いによって、浮かんでは消えていく実体のないものであるという。
    自分とは、今の身体ではなく、見たり感じたりする認識作用、意識のことでもなく、部分の集積、要素の集積が自分であるという。同様に、我々が普段確固たるものとして存在していると思っている物体・物質でさえ、何かの集積であり、実体が無いものだというのだ。自転車はハンドルやサドル、タイヤの集合体だし、ハンドルも鉄の集合体だし、鉄は鉄原子の集合体だし、といったこと。つまり、我々は、ある要素の集まりからある部分だけを切り出して名前をつけているだけであって、その名前にあたるものが、独立した確固たる永遠普遍の何かとしてそこに存在しているわけではない。我々が存在していると認識しているものはすべて我々自身がそういう風に存在するように区別しているからこそ存在しているのであり、決してそういうもの(実体)があるから存在しているのではない。逆に言い換えれば、そういう実体のないもの(区別のための境界線を引いたことで現れただけのもの)こそが我々にとって存在するものなのだ。存在に実体はなく、その実体がないものこそが存在の正体なのである。
    我々の生きている世界は、認識する自分(アートマン)と認識されるもの(ブラフマン)しかない。そして、いろいろな事象は自分とそれ以外を区別(分別)することではじまる。だから、物事はみな空であり、実体のないものであると。

    孔子は、仁と礼を重んじた。その中でも、単に礼儀正しいとかいったものではなく、仁と言う思いやりについて、礼という行動をもって示しなさいといった。孔子は礼の大家ではあったが、礼を行うにも、その思いやりの心がない儀式的な礼は意味がないといった。

    墨子は最初は孔子の儒学を学んでいたが、次第に孔子の仁というのは差別愛ではないかと疑問に思うようになる。孔子の仁は、親子や師弟といった目下を思いやる気持ちを大切にしなさいというものだった。身内だけを大事にするのか、ととったのである。これは、結局のところ、戦争に発展するものになると感じた。このため、特定の他者を差別して愛さないことこそが、戦争を含めあらゆる社会的混乱の原因であるといった。社会の混乱は互いに愛し合わないからだと。ここから、墨子は、他国の人も含めた他者を愛すること、広く(兼く)愛すること、兼愛、を自らの思想とした。だが、いくら墨子が戦いをやめよ、他者を愛せといっても侵略戦争は終わらない。このため、墨子の考えに同調した集団、墨家は、侵略されている弱小国があればそこへ行って傭兵となって戦った。このため、弱者を守る戦略、籠城戦、防御戦のスペシャリストになったのだ。

    そして孟子である。孟子は孔子の没後100年後に活躍した孔子の後継者の中でも最も偉大とされた儒学者であり、孟子は性善説を主張した。性善説とは、人は生まれながら善(仁)の心を持っているという考えだ。ではなぜ戦乱が収まらないのか、それは、人を使う側の問題だ、支配する側が仁の政治を行わないからだと。

    荀子。性悪説だが、荀子は、孔子のもうひとつの教え、礼を完成させた人物である。荀子は、孟子の理想主義を批判し、もっと現実的に考えた。人の本性は悪だから、奪い合ったり喧嘩がおこる。だから、教育によって礼節を教えれば、他人に譲るようになり、世の中がおさまるのである。ただ、礼と言っても、礼儀だけのことではない。むしろ、荀子は、礼とは身分や社会的な役割に相応な振る舞いを意図して言っていたようだ。その職能に専念した方が良いということだ。それとともに、性悪説や礼とは、法律が必要であるということにつながり、法治国家に進んでいくのである。

    そして、韓非子に続く。韓非子は荀子の弟子だ。韓非子は、仁という希望的な理想論で国家を運営するのは現実的ではない、そんなあやふやなものには頼らず、法という確固たるものを国家の基盤に据えることを主張した。そして、韓非子は法とは、刑罰で脅していうことをきかせるためのものだとほんしつをはっきりといった。古代の聖王である、堯舜は人格者で国家運営がうまくいったというが、それは、原始的な小さな国家だったからだ。今や社会情勢は複雑であるのだから、聖王のやり方が今も通じるとは限らないと。そして、国家を強くするためには形名参同が重要だといった。形名参同とは、家臣が実際にやったことと、やりますと明言したことが同じであったかどうかをちゃんと比較して評価しなさいということだ。言動一致だ。

    老子。老子の哲学を知るには、まず、道、という用語を正しく知る必要がある。天地よりも先に存在した混沌としたものが道(タオ)である。万物はそのタオから生まれた。ということだ。万物が存在するのは、人間が名前をつけたからだ。そういうふうに、分別して名前をつけたからこそ、そういうふうに私たちにとって存在するのだと。そして、柔らかいものが強いと主張する。人が生きているときは柔らかで弱々しいが、死んだときは堅くてこわばっている。草や木など一切のものは、生きているときは柔らかで柔らかで脆いが、死んだときは枯れて堅くなる。だから、堅強は死の仲間であり、柔弱は生の仲間である。そういうわけで、軍隊が強大さを誇っていれば相手に勝てず、木は堅ければ折れる。強くて大きいものは下位にあり、柔らかくてしなやかなものは上位にあると。

    そして、老子の後継者、荘子だ。老子は難解な著書しか残さなかったが、荘子は老子以上に老子の哲学を分かりやすく書いた。嘘も方便とか、色々な比喩を用いながら、分かりやすく伝えたのだ


    最終章は日本の仏教だ。なんだか、宗教の話ばかりになっているような気がするが、まあ、哲学と宗教は切っても切れないものだから仕方がないか。

    親鸞は有名な他力本願を説いたが、それは、人任せということではない。往々にして善人は正しいことをしている、物事は自分で起こしていると思い勝ちだが、物事は起こすものではなく、起こるものだということだ。ナンデモジブンデできるということはなく、自分ではどうしようもないのが世の中であり、自分の思い通りになると思うのは大間違いで、思い上がりというものだ。

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著者プロフィール

東北大学大学院修了。会社経営者。哲学や科学などハードルの高いジャンルの知識を、楽しくわかりやすく解説したブログを立ち上げ人気となる。著書に『史上最強の哲学入門』『14歳からの哲学入門』などがある。

「2020年 『「最強!」のニーチェ入門』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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