定本 夜戦と永遠 上---フーコー・ラカン・ルジャンドル (河出文庫)

著者 :
  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (567ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309410876

作品紹介・あらすじ

重厚な原典準拠に支えられ、強靱な論理が流麗な文体で舞う。誰もがなし得なかった徹底的な読解によって、現代思想の常套を内破する「永遠の夜戦」の時空が、今ここに浮かび上がる-。『切りとれ、あの祈る手を』で思想・文学界を席巻した佐々木中の原点にして主著、補遺論文を付して遂に定本なる。女性に‐なる‐ラカンが叫び、知られざる泰斗・ルジャンドルが微笑する。恐れなき闘争の思想が、かくて蘇生を果たす。

感想・レビュー・書評

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  • 詳しくは下巻読んでから。
    ラカン→ルジャンドルまで。
    よくわからないなあ、と思いながら読んでいたところも後々になるとわかってくるので、思った以上に読む準備のいらない論考。
    必要なのは、読む勇気だけ。世界が変わるから。

  • ラカンから、ルジャンドル、そしてフーコーへ。
    力強く魅力のある文体。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784309410876

  • 『切りとれ、あの祈る手を』を以前に読んでいて衝撃的だったのを思い出す。本書も(まだ上巻だけだが)愉しく読めている。
    文体に性格があるのなら、この方のそれは、大変熱くそして力強い。「反復を恐れず」に訴えかけてくる主張をどんな読者だって感じずにはいられないだろう。猛烈な卓見。
    「フーコー、ラカン、ルジャンドル」とタイトルに謳われている。彼らの言説を解きほぐしながら筆を進めている。彼らをろくに読んだことのない私にさえも分かるように、丁寧に咀嚼して(時に重大なことは反復して)解説されている。個人的に楽しみなフーコーは下巻からその姿を表すようだ。
    あの難解極まりないラカンの言説。そこにルジャンドルのテクスト(これも犀利ながらも時に詰屈で読みこなすのは至難らしい)を照らし合わせる。そう言えば、内田樹先生がレヴィナスとラカンを並列的に取り上げていたのを思い出した。難解さと難解さを混ぜ合わせる。するとなぜか立ち上がってくる何かがある。マイナスとマイナスをかけ合わすとプラスに転じるのに似てはいないか。
    個人レベルの領野から、社会や国家のあり方にまで。話題は広範に展開されていく。「系譜理論」としての国体。「輸出可能な」西洋的国家。表現の自由を認めること自体の前提的制限… 示唆に富む見解が凝縮されている。
    ああ、下巻を、下巻を読ませてください。

  • まとめることを拒否する本だけれど、論理展開が複雑できらびやかなので、2回目読書後にまとめてみた。

    1、ラカン
    <想像界、象徴界、現実界>
    想像界:頭の中で思っている世界のこと。
    鏡像段階:言葉を知らない子どもは、鏡を見て自分のイメージ、自我を獲得する。鏡像段階とは、自らの姿に想像的に同一化する想像界の始まり、自己愛の起源である。鏡の中の私は動かない。鏡の中の私は、私とは別のもの。鏡の私は死んでいる。鏡像段階=生の認識の始まり=死の認識の始まり。
    象徴界:言葉、パロールの世界。二人以上の人間の関係を決める。第三者からの言葉。法、契約、約束。他者との象徴的関係。父。私は母親の愛を独占できない。父のファルスが母の愛を得ているから。
    大他者:天空の言葉である。永遠の約束を言う。真理だが嘘でもある。象徴界における言葉の法を司る。
    シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の関係:シニフェエは常にシニフィアンから流れ出す。語れば語るほど、何を語りたかったのかわからなくなる。シニフィアンはシニフィエに決して到達できない。2つの関係は安定しない。シニフィアンは常に浮遊する。
    主体:大他者の欲望を成就しようと企む。自らの欲望が真理の欲望であることを願う。主体は真理からの逸脱を嫌う。
    現実界:語ることは不可能。思考することも不可能。現実界には媒介なしに接近できない。現実界に触れることは決してできない。

    <想像界、象徴界、現実界の接触点にあるもの>
    想像界と象徴界の接触点:意味がある。
    現実界と象徴界の接触点:ファルスの享楽がある。
    現実界と想像界の接触点:大他者の享楽がある。
    現実界、想像界、象徴界の接触点:対象aがある。

    <意味>
    意味:鏡に映る像=他者を私だと思うのは、隠喩化である。

    <享楽>
    快楽:脱力。死。
    享楽:緊張を作り持続させること、現実界に向かうこと、欲望に伴う緊張を持ち続けることをやめられないこと。享楽は、法、禁止、掟、倫理にかかわる。
    絶対的享楽;すべての女性を手におさめること。禁止されている。
    掟:享楽の禁止は、社会契約の起源である。掟は主体に向けて「享楽するな」と言うし、同時に「享楽せよ」と言う。掟は非合法な享楽と合法的な享楽を分けて、主体が合法的な享楽に向かうように主体の欲動をコントロールする。

    <ファルスの享楽>
    オイディプス第一段階:幼児は母を欲望する。幼児は母にファルスがないことに気付く。母は欠落したファルスを求めている。幼児は母が欲望するファルスに想像的になろうとする。
    オイディプス第二段階:父が登場する。幼児は母親の求めているファルスを父が持っていることを知る。父の登場によって、幼児の想像的ファルスは去勢される。想像的ファルスから象徴的ファルスへの移行が始まる。現前=想像的ファルスと不在=象徴的ファルスが交代する。ファルスはない。言葉としてのファルスはある。
    オイディプス第三段階:幼児は父親も法のもとにあることを知る。父が絶対的大他者ではなくなる。父親のファルスは、法の下に制御されている。

    父は自己、主体の隠喩である。鏡に映ったもの。象徴的同一化の対象。

    ファルスは主体の換喩である。

    父親もファルスも、法、象徴的な言葉のもとで、主体が移り変わったシニフィアンとなる。主体ではない別の何かになる。

    ファルス:ペニスでもクリトリスでもなく、「ある」と「ない」、性別の単位を決定する何か。

    ファルスの享楽第一段階:象徴界での享楽。法の下で許された男女の性交。これは決して性的な関係ではない。法に支配されているから。絶対的享楽ではない。満たされることが永遠にない。
    ファルスの享楽第二段階:想像的かつ象徴的なファルスの享楽。想像的なファルスのイメージは石像として、権力のシニフィアンになる。権力を追い求め、権力に同一化しようとする欲望。

    <対象a>
    対象a:鏡に映った自分の姿を眺めることで、主体ができる。対象aとは自己のうち、主体から削り落とされたもの、あまりである。現実界、想像界、象徴界のすべてにまたがり、かつ逃れ去るものである。

    対象aは大他者の代理物でもある。欲望は対象aを求める。対象aは決してつかまえることができない、主体が作り出された瞬間に失われる何かだから。

    対象aの剰余享楽:享楽を断念することから生じる、決して手にすることができない享楽。労働しても享楽は得られない。享楽の断念。我々は搾取されている。

    <大他者の享楽>
    女性の享楽:ファルスの享楽とも対象aの享楽とも異なる。性的関係ではない。至高存在と関係する享楽。神秘主義的。
    神秘の愛:自分以外の存在とつながる。すべて生きている。私は私ではない。私は他のものとつながっている。神と合一することとは異なる。同一化はファルスの享楽だから。同一化を断念することは対象aの剰余享楽である。大他者の享楽は、ファルスの享楽とも、対象aの享楽とも異なる。神秘主義者の女性たちは、「神とわたしたち」と言うことを欲望する。独占もしない。一体化もしない。不思議。言葉の外にある享楽。

    神秘家は書く。マリアになろうとする。神の子を産もうとする。神への恋文。

    <ブランショ>
    人間は死ぬ時も自分に戻れない。死は他人が見て決定する。人間は生きている時も死ぬ時も自分になれない。
    芸術家は死を目的とする人間が、死に結ばれるのと似たような仕方で作品と結ばれている。
    夜、外、死、永遠の未完了の中で、人は書くことができる。

    2、ルシャンドル
    <ドグマ、原理主義、マネジメント批判>
    ドグマ:エンブレム、装置。法を作り出すもの。絶対的真理は専制を生み出す。
    原理主義:解釈の余地を許さない絶対的準拠を求める姿勢。
    解釈:彼自身と権力の要求の間に疎隔を生み出すこと。原理主義からの脱却。
    マネジメント;行動主義的ドグマを政治的かつ社会的に作動させること。個人が己自身を解釈の余地なく原理主義的に管理することを夢見る。

    神話の時代:エンブレムが法になる。
    解釈者の時代:エンブレムとは別にテキストが客観的法になる。宗教と国家官僚組織が分離する。
    マネジメントの時代:国家も不要になる。個人が自分で自分を原理主義的に管理するようになる。管理経営。法なき、根拠律なき統治の時代。

    ルシャンドルにとっては、キリスト教、ヨーロッパのいう普遍性も、原理主義に過ぎない。
    (下巻に続く)

  • 正直この人の書いたエッセイは受け付けないけど、この本は唯一大好き
    いずれ下巻を改めて読み込んだらこのレビューを書き直そう

  • 内容の理解度は甘いけれど、とりあえず読み進められる程度には。
    ラカンからルジャンドルへ。ルジャンドルあたりの佐々木の理路はとても興味深い。精神分析のモデル化、それを歴史的文脈に押し返すこと。それを特殊性としてイスラームとぶつけること。差異の原因を中世解釈者革命に突き返すこと。テクストを儀礼へと並列してしまうこと。
    下も読んで、必要なら読み返したい。
    これも、一つの宗教学か。

  • 何度、読み返しただろう。
    やっと僕の浅学拙考の頭に、僕なりの仕方でこの本を飲み込むことができつつある。

    佐々木はラカンを引き、われわれの主体が<鏡>に映し出されるイメージと、「これは私だ/私ではない」という言葉によって作り出され、象徴界と想像界によって成り立っていることを明らかにする。
    次にルジャンドルを引き、主体がドグマでしかないことを明らかにし、今、世界で支配的なドクマは中世解釈革命によって、可塑的な書かれた<準拠>としてのテクストとして12cから打ち立てられ、今日まで続いているものだとする。

    そして、今あるドグマを覆すにはという問いを立てたところで、上巻終わり。

    この一冊、この一冊こそ僕が探し求めていたものであり、全てを解決しうるものだ。たくさんの人に読んで欲しい。しかし、どれだけの人に届くというのか。どれだけの人が気づき、動きうるというのか。僕にはわからない。

  • DJだね。特に文庫で下巻にあたる、フーコーの文​章を次々とつないで彼の思考の遍歴を浮かび上がらせていく流れに​シビれた。DJ的なモノは原則褒めないんだけど、これはイイです​。

  • フーコーもラカンもルジャンドルも全くどのような思想か知りませんでした。(フーコー、ラカンはちょっと本を読んだことがあったかもしれませんが、「どっからどう考えたらそういう風に考えられるのか」と思うほど意味が分からないまま終わりました。)が、この本でこれらの人が言いたかったのはこういうことだったのかということがやっとわかりました(表面だけかもしれませんが)。著者の説明は本当に感謝です。大きな意味を述べた後に小さな言葉を何度も言い換えたり、なぞったり意味する所の輪郭を細かな所までリズム良く掘り出してくれるところは凄さを感じます。上下巻と長いですが、内容はぎっしり詰まっています。

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著者プロフィール

1973年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会研究系基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了、博士(文学)。現在、立教大学兼任講師。専攻は哲学、現代思想、理論宗教学。論文に「鏡・エクリチュール・アンスクリプシオン」(『東京大学宗教学年報XXI』)、「宗教の享楽とは何か―ラカンの〈享楽の類型学〉から」(『宗教研究』352号)など。翻訳にフェティ・ベンスラマ「冒瀆する羊―『イスラームの名における検閲』会議での発言」(『現代思想』2006年5月号、青土社)、ピエール・ルジャンドル『ドグマ人類学総説―西洋のドグマ的諸問題』(共訳、平凡社、2003年)など。

「2008年 『夜戦と永遠』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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