- Amazon.co.jp ・本 (456ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309410760
作品紹介・あらすじ
二一歳の俊英による衝撃のデビュー作「ソルジェニーツィン試論」、論壇への決別宣言「棲み分ける批評」、ポストモダン社会の実像と来たるべき世界を語る「郵便的不安たち」をはじめ、東浩紀が九〇年代に生み落とした主要な仕事を収録。現代思想、批評、サブカルチャーを郵便的に横断する闘いは、ここから始まった。
感想・レビュー・書評
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主にネット発で行われる私刑。被害者が加害者以上に嘲られ弄ばれ嬲られ、一体誰がやっているのか、どうしてその人なのかわからない、罪が何なのかもわからない、そこまでされるものなのかもわからない、そもそもどこまでされているのかも把握できない、そんな状況を「不条理」というとして。
だれかその「不条理」を仕掛けた者がいたとしたら、認知の非対称性が圧倒的すぎて、まるで巨人が人間を指で転がして遊んで最後は潰して、そこに何の意味もない、ただの慰みだったという結論になるだろう。つまりだれでも良かったのだ。
治安警察の暴走とか、ある特定の局面で心の獣性が開放される人間の特性とか、制度や生理などから、それらのカオス的な状況をどうにか整合性のある、すくなくとも「なんで殺したのか?」が問える状況にするために補助線を引いても、多分そこにはたどり着けない。
それはほんとうに「不条理」と呼ぶしか無い状況だが、不条理といえばカフカだ。だから僕はこの状況を「カフカ的状況」と言っていた。
「審判」とか「城」とかがそう。
と思ってググったら、
http://news.honzuki.jp/?p=14304
>>
東氏によると、当時はカフカが不条理な文学の代名詞のような存在だったけれども、ソルジェニーツィンの作品にはカフカが描いたのとは違う不条理さが描かれていると思ったので、論文で取り上げたということだそうです。
<<
というのを見つけて興味を持ち、東浩紀氏のデビュー論文「ソルジェニーツィン試論」を読んだ。
難しくてわからないよ(泣
「だが、それがいい」ということらしい。わからないのでいいのだと。
「ソルジェニーツィン試論」と、「90年代を振り返るーあとがきにかえて」と、宇野常寛氏の解説を読んで、そう理解しました。それは理解なのか?(この3つしか読んでません。「郵便的不安たち」は後で読みたい。)
以下、読み取ったこと。
カフカは「カフカ的状況」の中にはいなかった、あくまで外側の観察者だったが、ソルジェニーツィンはその中にいて、その中の体験は、なにか抽象的一般的なものに解消されない、個別具体的なものだった。
そのことは彼にとって明白だったので、かれは具体的なものをそのまま描こうとしたが、読者はそこに「根源的なもの」を期待して読み、そのように「誤読」し、各々が想定している「根源的なもの」に物語を吸収していった。
端的に言えば、物語はソルジェニーツィンの思惑のようには読まれなかった。読解は失敗された。
その状況に苛立っているがどうしていいかわからないというのがソルジェニーツィンの姿だった、ということのようだ。
だから、今感じているこの不安の状況、我々が微生物レベルで駆逐されるほど巨大な巨人に、偶然に、確率的に、時間も場所もわからず駆逐されるような圧倒的な不安は、一般化されてしまうと雲散霧消してしまう。
それは何か別の表現に解消不可能な状況であり不安であり、だから逆説的に、語ることは失敗してよいのだ(と僕は受け取った)。
「不安」に、何かしらの原因があり、その単一の原因がもたらした「目的」という、「因果関係」を前提にするとおかしな事になる。
これは、いわば「相関関係」だ。
「不安」は、新しいテクノロジーが生み出した双子の一人だ。
「不安」がただひとり、目的的に現れたというよりは、新しいインフラ(ネットや、その上で動くコミュニケーションツールであるツイッターやSkypeなど)が新しい不安と可能性を作り出している、というようにも考えられる。
もちろん自分は生贄などにはなりたくないし、出来る限り自分の関わっている人もそうならないように努力したい。
そのことと、可能性が現存していることは別のこととして捉えないと、それはむしろ「不安依存」という一種の依存症に罹ることになり(人間の生理的な現象かも知れないが)、「不安」に拘泥して、自分の認知や行動の可能性を著しく狭めることになってしまう。
なので、難解で大部な論評にたいしては月並みな結論で、一般的には失礼かもしれないが、「大事なのは、眼の前にある個別具体的な対象の読解と解決に集中する」ことだろう。
カフカの作品の中に、現状を理解するヒントはあるかもしれないが、あくまで目の前の現状は目の前の現状そのままに理解し分析し、かつ、その中で行動すべきだ。
インタビューでの、東さんの率直な言葉に、解きほぐされました。
おしまい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『存在論的、郵便的』と表裏をなす表題作「郵便的不安たち」他、文学・サブカルチャー・エッセイ等を収録した一冊。
『郵便的不安たち』『郵便的不安たち#』『郵便的不安たちβ』とある中でどれを読めばよいのかよくわからなかったが、解説によると『郵便的不安たち』(単行本)≒『郵便的不安たち#』(文庫化)→『郵便的不安たちβ』(再文庫化、加除あり――「思想・文学」系を目次から削除し、文化/時事批評の「存在論的、広告的」追加?)と言った流れの様子。いずれにしても文庫化はありがたい。単行本の『存在論的、郵便的』をうっかり足に落として結構痛い思いをしたり、そうでなくても移動時間に読もうと本を入れたとたんに鞄が重くなったりして随分時間がかかったからだ。 -
日本のポストモダニズム潮流を分析してるのだが、そのときにアカデミズム=権力への意志の不在が前提された上で分析が進められている点が気になる。そのアカデミズムの不在が、どういう効果を生んでいるかってことも分析されないとポストモダニズムとかポストモダンのほんとの重要性ってわからないと思う。
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ソルジェニーツィン試論など、サブカル評論前の仕事が読めてよい。
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フランスの現代思想を、わかりやすく読み解き、ネット社会の危険性も警鐘打ち鳴らした。
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例によって東さんの本は半分も理解できていないんだけど、今の東浩紀の思想地図βなどの活動に直結している言葉や問題意識がたくさんあって、「今で言うところの…」なんて考えながら読める。宇野さんや濱野さんのベースになっているんだろうなぁと思う箇所も垣間見えた。「存在論的、広告的」の第四回の公共空間についての話が、というか公共空間について話してる時の東浩紀が好き。
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p22 しかし上述した九○年代の状況は、いまや批評の言語がその特権的役割を担っていないし、またそれを期待されてもいないことを意味している。というのも、メッセージ的強度とメディア的戦略の分割とは、見方を変えれば、アカデミックな批評には思考(メッセージの強度)はあるが日本語(流通可能性)がなく、逆にジャーナリスティックな批評には日本語はあるが思考がないという、思考と日本語の分割にほかならないからである。
思考のための新しい文体が必要とされるだろう。思考の強度と流通可能性をともに備え、「情報」の横溢のなかを意味を失わずに漂うことのできる日本語(…)。
ポストモダン再考
美学的に70年代のハイブリッド化さらた消費社会(が生み出す芸術様式)を肯定するジェンクス。
思想的に60年代のラディカリズム(68年の哲学)を継承するリオタール。
無理のある二重性を担わされてきた。
日本においてポストモダニズムについて考えるとは、また、八○年代のナルシシズムについて考えることである。
郵便的不安たち
デリダの哲学にはキーワードがない。ある特定のキーワードで世界を切るということがもはやできない。
デリダは「転移」を操作する精神分析的な人。相手によって使う言葉を変え、けれど会話が終わってみると相手が使っていた言葉の意味そのものが変わってしまっている。言葉の転移化。
郵便的超越論性。「偉大な哲学者というのは、いつもちょっと大きな郵便局だ」デリダ
象徴界という後ろ盾がない象徴の力、社会(政治と文学)という後ろ盾がない新しい言葉の力。
批判とはものごとの前提を明らかにすること。
(…)上客が逃げ、あとはペンペン草も生えなくなる。そういうプロセスが反復しています。賞味期限が一年もない。内輪の盛り上がりが示す他者への視線の鈍感ぶりが上質な人々を退けるプロセスは、思想の領域でも起こっています。(宮台)
(『存在論的、郵便的』について)浅田彰に頭がいいと思われる、そのためだけに一冊の本を書いてしまった。そのバカバカしさに呆れ果てます。
『ソルジェニーツィン試論ー確率の手触り』
固有名、確率、必然性、奇跡。
根源的な問いと、非根源的な問いの区別が存在しない。「なぜ」という問いの禁止。空しい問いか、運命の甘受か。個人的に嘘に参加しない道徳性。手段と結果の連関が断たれたとき、あえて「理由」を見出す試み。ユークリッド的世界(政治的言説)と、非ユークリッド的世界(宗教的言説)。必然的に思える堕落を逃れる「奇跡」。
手段と結果の連関が断たれた確率的悲劇的状況下で「因果関係の必然性」への根源的懐疑を抱いたときにどう振る舞えるか。空しく「なぜ」と問うのでなく、運命を甘受するのでもなく、堕落しない生き方。そのような「奇跡」はなぜ可能なのか。 -
著者の文体には隙がない。
キッチリカッチリクッキリ。
竹を割ったようなハッキリとした印象が強く残った。
だから、
非常に分かりやすい反面、
隙がなさ過ぎて、
自分の考える余地を見つけられなかった気がする。
たぶんこれが、
結構面白く読んでいたはずなのに、
あまり内容が頭に残っていない理由だと思う。
まーしかし、
ぼくのリテラシーの問題かもしれない。
むしろ確率としてはこちらが上かも。
あと、
なんとなく古臭い印象もあった。
文体のせいか話題のせいか。
おそらく後者だと思うけれど、前者も捨てがたい。 -
ひとは、わかってることしか分からないのかも。知ってること、体験したことに言葉が当てはめられたときに、説論ていうのはカチッとくるものなのかなー。整理されて視界が開ける。確かな快感。それだ、と膝を打つような。あるいは、そういう見方、つなげ方があったか!とか。いずれ、身のうちに既にあるものを見て読んでるー。
わからないものも沢山読んで、宿題として転がしておくと、十年後とかにカチッときたりする。けど、これは自分がわかる、が後から追いついただけのことだしなん。
というようなことを延々と考えさせられました。半分くらい、"先生ここわかりません"。批評になると、批評の対象作品まず深読みしとかんと無理やしとかもあるます。
パラフレーズや喩えの妙で救われるのも、知ってることに引き寄せて分かるから、なんて当たり前なのかもしれませんが。氏の言葉が好きなのは多分にその辺りの巧さ、そいと横断の多さなんじゃないかと。
わかるとこだけカチッときて悦んで、でいいよとどこかでおっしゃってたのに甘えつつ、たぶんきっと己がよかように"わかって"います。
そういう意味では、小説や映画や漫画アニメなどの表現、媒体になると、既にあることの説明だけでなく、無いものを有るにできるから、、、とか、いやほいでもそれは仮定と比喩という技巧と同じなのかな、とか、もこもこ脱線した。のも、横断する氏の在り方ありてかも。
いつも何周もするのも、追いつくまでいっぱい経験や思索を自分なりに積み重ねないとだからなんだなー、と思いました。分かった!て"コミュニケーション成立"増えたらいいなん。分かったしたらそっからまたこんな風に投函できるし、嬉しいです。
皆が皆、孤島に円満に生きて、ほんとに幸せかな?幸せなの?毒吐いて鬱になって幸せそうに見えないんだー。という相変わらずの宿題だけが残りました。
ぐだぐだ考えて、結局、明日から生き方が変わるかと言われたらそういや変わらないなーとも思ったです。 -
単行本で既読。