社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望 (河出文庫)

著者 :
  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (354ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309410395

作品紹介・あらすじ

新しい情報技術が社会を変える!-私たちは何十年もそう語りつづけてきたが、本当に社会は変わったのだろうか?そもそも情報技術と社会とは、どんなかかわり方をしているのだろうか?「情報化社会」という夢の正体を、それを抱き、信じたがる社会のしくみごと解明してみせる快著。大幅増補の新世紀版。

感想・レビュー・書評

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  • 今のところ、耐用年数はまだまだありそう。

  • 初範とほぼ変わらないので、補章だけを読んでもいいと思うが、初版を読んでいないと補章の意味が分からない、ただし、1、2章を読めばいい。
     情報化について人びとの狂騒曲の歴史を知るにはいい本である。

  • 残念ながら十分に読みこなせていない。
    しかし、長年この分野に関わりながら、モヤモヤしていたことに解答を与えてくれているということだけはしっかりと感じ取れる。
    個々の答えを導き出すには更に時間が掛かりそうではあるが、時間を掛けて更にじっくりと読んでいきたい。
    いずれにしても、情報社会論、社会情報といった領域に関わるものの中でベストな一つとして挙げられることは間違いない。

  • 社会
    computer

  • wired・システム、ネットワークと情報・5位

    mmsn01-

    【要約】


    【ノート】
    (wired)
    「情報化社会が来る!」。時代ごとに絶えず叫ばれながら実現しない、この空疎な掛け声の正体は何なのか。「情報化の夢」に潜む罠と幻想を徹底的に炙り出す。

    ◆ユーザーからのコメント
    「技術が社会を変える」という言説自体が近代社会の産物/「情報化」って幅も奥行きも広い言葉だ……

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784309410395

  • 《序章「情報化」の時代》
    【メディアの脱近代―「情報化社会」その1】
    グーテンベルクの活版印刷術の発明以来、人類は視覚系メディアが圧倒的に優位の状態に入る。①中央集権的で②個人を基本的な単位とする社会、つまり近代社会がつくりだされたわけだ。p15

    《第1章 「情報化社会」とは何か》
    【情報化社会の実体】p50
    「情報化社会」とは何か―その答えは、なぞめいているが、「何でもない」。もちろん、それは裏返せば「何ででもある」。一言でいえば、「情報化社会」とは空虚な記号(シニフィアンゼロ)=ゼロ記号なのだ!

    【「情報化社会」の歩き方】p81
    ①身近で具体的な技術をあつかうこと
    ②社会的な文脈に目を配ること
    ③わからないことはわからないということ

    《第2章 グーテンベルクの銀河系/フォン・ノイマンの銀河系 人間-コンピュータ系の近代》
    <2 グーテンベルク・テクノロジーの幻想>
    【メディアがつくる個人?】p95
    『グーテンベルクの銀河系』『メディア論』より
    (1) 音声メディアは聴覚の優位をもたらし、文字メディアは視覚の優位をもたらす
    (2) 文字メディアは反復性・線形性をもつ

    【電子メディアによる<個人>化】p107-108
    要するに、自己表現という書き方が誕生するためには、まずメタ自己をもつ<個人>が生まれていなければならない。(1)自己自身によって制御され(2)過去・現在・未来にわらって一貫した自己―そうした<個人>の観念があって、はじめて書くことが自己記録・自己表現の手段となりうるのである。
    逆にいえば、別に書くことだけが<個人>を育む手段ではない。そうした自己を表現し記録する営みであれば、文字メディアである必要さえないのである。(1)反省を可能にするだけの記録性があり、(2)そこに記録されているのが「この私」だと信じられてさえいれば、音声メディアであっても少しもかまわない。「作文」と同じ効果が期待できる。
    その意味では、現在のコンピュータメディアはむしろ個人化を進める方向に働く可能性が高い。コンピュータは音声も含めて、すべてのメディアをビット列に変換して、その内容を記憶する装置になるからである。それによって「この私」が記憶され、自分自身をふくめて不特定多数の人間によって見聞きされるようになれば、否応なしに<個人>としてふるまわざるをえない。それに画像や音声が加わったとしても、メディアの使い方自体が変わらないかぎり、何か特別な変化が起こるわけではない。
    マクルーハンやオングをはじめ、ほとんどのメディア社会論がまちがっているのは、この点である。メディアの技術的特性よりも、そのメディアを社会の側でどう使っているかが重要なのだ。

    <3 メタ自己というしくみ>
    【電脳社会論の問いかけ】p111
    メディア社会論系の議論は基本的に誤っている。メディア技術が<個人>をつくるわけではない。<個人>の観念とそれにかかわる社会制度がメディア技術の使い方を決めているのだ。もし「メディア技術が個人を変える」ように思えるとしたら、それはたんにメディア技術だけしか見てないからにすぎない。

    【<個人>とは何か?】p122
    制御される自己/制御する自己=メタ自己の二つ。
    ミシェル・フーコーはこうした近代的な個人のあり方を「経験的=超越論的二重体」と呼ぶ。(『言葉と物』)

    【情報技術と個人】p145
    図2-9 社会と情報技術と個人のトライアド

    《第4章 近代産業社会の欲望 「情報化」のインダストリー》
    〈1. 残された謎〉
    【夢を見せるしくみ】p203
    図4-1 「情報化」を語る社会=「情報化」社会
    図4-2 従来の「情報化社会」のイメージ

    〈4. 「情報化社会」産業〉
    【「先端」のサーフィン】p237
    本章3節で見たように、情報化社会論が生まれるきっかけは「情報産業」の発見だったわけだが、情報化社会論自体がきわめて産業社会的な情報産業になっている。そのありさまは、まさに「情報化社会」産業と呼ぶにふさわしい。

    【夢の果てに】p240
    情報化社会論はいわばその実質を失うことで、つまり空虚な記号になることによって生き残ってきたのである。
    そう、そへはまるでファウストと悪魔との契約を思わせる。情報化社会論は永遠の若さと引き換えにその魂を売り渡した。情報化社会論が50年間死ななかったのは、それがすでに死んでいたからにほかならない。「生きている死体 living dead」ー情報化社会論がどこかホラー映画の悪夢を思わせるのも無理はない。
    おそらくこれからもこうした「情報化社会」産業は生きのびていくだろう。産業資本主義のしくみのなかで、情報技術の技術革新は次々と起こっていく。新しい技術がどんどん開発され、市場に投入される。その一方で、社会制御の夢は技術決定論に説得力をあたえてしまう。そのなかで、「情報化社会」の神話もくり返し生産され、消費されていくはずである。今後も、次々と新たな「革新的な情報技術」が脚光をあびて、それを紹介する本や記事が大量生産されていくだろう。
    それは誰のせいでもない。これは一つの産業であり、需要があるかぎり供給はつづくのだ。私たちが「情報技術が社会を変える」という神話を信じたいと願っているかぎり、その神話は供給されつづける。それは近代産業社会のしくみがつくりだす幻影であり、「情報化社会」産業はそれを、ほとんど意識もせずに、きわめて産業社会的なやり方で利用しているのである。
    それが私たちのこの「情報化」社会、すなわち「情報化」を夢見る社会の実態なのだ。

    《第5章 超(ハイパー)近代社会への扉 21世紀の社会と情報技術》
    〈1. 原(プロト)近代の再生〉
    【近代産業社会の未来】p244
    一言でいえば、「情報化社会」というのは、近代産業社会がその内部にはらんでしまう夢なのだ。

    〈2. 超(ハイパー)近代への途〉
    【21世紀的感性】p265
    あえてその超近代社会のイメージを描くとしたら、「内なる無限」という言葉で表すことができるだろう。19世紀型近代社会は外へ外へと無限に拡大しようとした。21世紀型の超近代社会はそうした外部をもはやもちえない。むしろ、有界な空間内部で無限運動をつづけていく社会になるだろう。

    《補章 情報化社会その後 15年後の未来から》
    【境界作用のミクロとマクロ】p288-289
    ミクロにみれば、介護の例のように、「人間である」境界線は他の場面での線引きを参照しながら、たえず引き直されている。その集積のいわば平均値をとったのが「人間」のコード、すなわち「人間である/でない」を決める社会規範と呼ばれるものである。(→第2章3節)。マクロな社会規範があってミクロな場面を制御してるのではない。ミクロな線引き群のマクロな平均値が「規範」なのである。

  • これは面白かった。十分「新世紀版」と言えるだけの陳腐化していない内容に改められており、(著者いわく、簡単に改訂できたとのこと。世の中の言論状況が15年前とほとんど変わっていないことの裏返しである)増補もあってお買い得だと思う。
    社会の様々な問題を一挙に解決する、希望を託す対象として「情報技術」の進化が語られ、その裏づけによって社会の進化を語る、これって単なるトートロジーではないのか?というのが本書の着眼点であり、実際には社会のありようが技術の進化を規定しているという関係であることを実証的に語っていく。
    構造的に見極めることのできない「全体」をできる限り反省して選択していくという「苦々しい」作業から逃れるための技術決定論が情報化社会論であるという指摘には、たとえば有事にリーダーの不甲斐なさを揶揄するだけの「民主主義」と、その現実逃避の姿で重なるものがあり、ドキリとさせられる。

  • 技術が社会を変えるんじゃなくて、社会が技術を選択している。近代産業社会だからこそ、情報化社会がいつまでも信じられていく。参考になったが、おんなじ事の繰り返し、長過ぎ。

  • だいたい、本読むときって、内容を想像したり、期待しながら読みます。

    例えばこの本だと、社会が情報化していって、どんな風に変わっていくのかが書かれた本だと期待するわけです。

    で、読んでみたのですが、ちょっと難しかった。頭、悪いので、イマイチ理解してません。
    しかも、「テクノロジーが変える未来」みたいな話を聞きたくて読んでみたら、真っ向からそれを否定した本でしたというオチ。

    でも、今、アマゾンとか、確実に人の生活を変えてるよね。そのあたりはどうなのよ。と思ったら、そのあたりは、認めているみたいです。
    問題にしているのは、その論の張り方の部分。
    うーーん、大事だとは思うけど、今のわたしは、そこには興味ないかな。

    ずっと、否定が続く本なので、テンションが落ちます。

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著者プロフィール

東京大学大学院総合文化研究科教授

「2023年 『メディアと社会の連環』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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