ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇

著者 :
制作 : 東 浩紀  濱野 智史 
  • 河出書房新社
4.05
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本棚登録 : 269
感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309244426

作品紹介・あらすじ

人文的知性によって分析されるネットワーク・公共性・匿名性-圧倒的ヴォリュームで語られる、現在性の精髄。

感想・レビュー・書評

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  • isedの倫理編
    購入したまま放置していたが、読み返すともっと早く見ておけば良かったと少し後悔した。
    プラットフォームは大きく変化したが、根本的な背景は変わっていないのかも知れない。

  • 社会
    思索

  • 厚さ4cm2段組。手ごわそうに見えるが、今様の嵩高紙仕様とディスカッションの面白さでどんどん読める。5年前のTwitterもFacebookもない時代の議論だが見るべき点がすごく多い。他があるのでだいぶ先になると思うが設計篇も早く読みたい。

    [more]<blockquote>P25 既存のメディアで離しえない情報共有と社会的ネットワークの形成というものをポジティブに捉えるとき、これを「創発的秩序」と呼び習わし、積極的に評価する潮流があります。創発とは、システム理論では個々の要素の集まりが全体として持つ働きのうち、個々の要素に還元できないような特性が生じることを呼びます。

    P48 匿名か本名かはあまり問題ではなく、ある発言に関して「それがどういう裏づけを持つのか」「あんたが言ったのか言わなかったのか」といった事項が確認できればそれでいいのではないか、と主張しています。

    P53 専門家がブログを書いて良識ある市民たちがそこに結集していく・・・という動きが今実芸している。しかしここに重要な区別をつける必要があります。それはあくまで「啓蒙」の段階の話であって、「運動」の段階になった瞬間に、全然違うロジックで行かざるを得ない。【中略】もう「三秒ルール」の世界にならざるを得ない。つまり、対す誘導員を目的とすると、先ほどまで話題になっていたような、2チャンネル的でねた的なコミュニケーションに突然直面せざるを得なくなる。そういう逆説というかジレンマがあると思うんですね。創発的な情報発信とサイバーカスケードはここでも表裏一体なわけです。

    P54 「子供がキレるのが危ない」ということで、申請時から五歳くらいまでの子供の脳を全部スキャンして、キレる子供の脳の特徴を見ようというプロジェクトを文科省が進めているんですね。【中略】つまり、我々の社会は「科学的な」根拠に基づいて主張を突きつけられたときに、いったいその技術と科学に基づいて何をしているのか、すぐに忘れてしまう傾向にあるのではないかということなんです。例えば、ちょっと普通に考えてみて、脳の傾向を調べる云々ではなくて、毎年毎年新生児の脳をスキャンしているという光景をお前らはどう思うんだ、ということを誰も考えない。

    P62 つまり保守の「全体的な価値を設定して社会を維持する」というやり方をもう少しうまくやりつつ、盲目的独裁者のような価値の旗振り役がいつまでも旗を振り続けてしまう状況を避けるための、情報流通のアーキテクチャの設計ができないものかと考えている。というのは、リバタリアニズムやコミュニタリズムの欠陥だと思うのは−例えば、コミュニタリズムであればどんどん自分たちの仲間を少なくしていく、組織をどんどん小さくしていくわけですよね。そうして自分の好きな人の枠を小さくしていくと、ある程度大きな社会的、経済的、自然的な災害が起きたとき、対応能力がどんどん落ちていくと思うんですよ。だからある程度の大きさの人間集団を、人工的にでも維持しておくことはやはり必要だと思うんです。

    P66 つまり、ケータイ/ネット的なコミュニケーションにおいて伝達されるのは、実はメッセージや価値ではなく、「メタ価値」とでもいうか、「伝わっているということだけが伝わっている」状態である、と。【中略】コミュニケーションや行為・行動を非常に脱力かさせていくというか・・。【中略】ラインゴールドは、創発主義的な議論の典型とでもいうべき立場をとっていて、ケータイやモバイル機器でのコミュニケーションが新しい繋がりや社会性を創発すると主張している。【中略】しかしラインゴールドは事態を混同している。日本では、メールのやり取りは、メッセージの交換というより「繋がっている」という事態そのものの確保に使われていて、なかなか創発的事態を生み出さないんですね。

    P89 「この世の中はこまごまと紛争はあるにせよ全体としてはおおよそ調和しているのだ」という状態、この調和が実現している状態のことをlawと呼びます。ですから自然法則のこともlawというし、法律のこともlawという。【中略】世の中は放っておくだけではよい状態ににならないので人為的な手当てをして調和状態を操作している。それを「法律/code」だと理解していただきたい。また、法律とは違う意味で「規約protcol」という言葉を定義しています。【中略】どちらがいい悪いというわけではないですね。このようにとりあえず定めておかなければならないもの、決めることそれ自体に価値があるものを「規約」と呼んでいます。

    P100 現実界における常識形成のフィードバック・サーキットはこういうものでした。「世の中とはこういうものだ」という認識が人々に共有され、その常識に制約を受けた人々が相互行為する結果、実際に社会もそのように営まれ、そうして生まれた「社会」を認識・抽象化して常識が形成され・・・というもの。そしてその帰還回路を支えているのは、地理的近接性という有限な枠があってこそだったのです。しかし電網界ではこの物理的近接性に縛られる必要がないために、このフィードバック・サーキットが社会全体で働くことはありえません。国民的な常識という枠で収束していた帰還回路はそこまでで解き放たれてしまうのです。

    P105 (権力者命令説)過去の歴史を見ると、その時代時代において、最も大事なものを与えてくれるものが権力を握るシンプルな状態でした。【中略】ならば、暗号やセキュリティ技術で我々の電網界における安全を保障してくれる主体こそが権力を握るのが道理です。しかし、現状はそうではなく、国家が引き続きその任を担おうと躍起になっている。どうもここにズレがある気もするのです、今のところ、国家がこういう暗号やセキュリティ技術を持っている人々を傭兵のように雇って統治させるという構造になっている。しかしローマ帝国の崩壊を見ても、最初は傭兵だったはずの者がいつの間にか権力を握るというプロセスはありますから、もしかするとそういう現象が緩やかに進行しているのかもしれません。

    P118 「経済」は永続的な人類社会の幸福という、もしかすると永久に解決不能かもしれない価値の問題を追求しながら、資源の配分を行うというギリシア的な意味で把握したいと思います。ところが「市場原理」のほうは、そうした価値の問題とは独立して機械的に動作するシステムとして理解しています。ですから、外部からのコントロールがなければ暴走する危険を常に孕んでいる。それゆえに、市場原理は、「市場」に取り扱われるべきではなく、常に「経済」の支配下にあるべきだと考えています。

    P134 しかし日本では、さしたる理念もないままに、なんとなく新しい監視技術が導入されようとしている。【中略】僕は監視カメラそのものが悪だとは思わない。けれども、監視カメラを設置するなら、代わりに子供が夜中でも安全に遊べたり、女性が平気で歩けるようにならないとおかしいと思う。そのための監視技術なんだから。しかし近年の事態は反対のように見える。監視カメラでもGPSでも、監視技術が強化されると、夜中にぶらぶら歩いている「不審人物」がますます目に入るようになる。危険がさらに強く意識され、人々の生活はどんどん不自由になる。

    P139 もし世界中の人々がバイオメトリクスとGPSで徹底的に管理され、民間データベースも何もかも統合されて世界政府に一元管理されているとして、そのせいでアフガン空爆やイラク戦争が回避されるというのであれば、それはそれでありだと思うんですよ。【中略】そういう未来を夢見る立場はありうると思うんです。しかし現実はそうではない。現実のアメリカは、空爆はする、イラクは侵攻する、その後も次の「悪の枢軸」を探し回っている、そして同時に世界中の人間の指紋も取ろうとしている。これではどうしようもない。

    P150 コミュニケーション的行為、発語内行為とは、簡単にいえば、聞き手に対して慣習的な形で特定の作用を及ぼす行為です。【中略】発語することによって同時に遂行されるような行為を「発語内行為」と呼びます。【中略】これに対して戦略的行為=発語媒介行為とは、発話の結果として聞き手や話してなどの感情や信念、行為に影響を与える行為です。【中略】慣習によっては制御できない「効果」のレベルが問われるのが発語媒介行為です。

    P162 CMCにおいては、共同性を担保する「価値」というものが、必ずしも従来的な意味での政治的・道徳的価値ではないことも少なくない。【中略】つまり、形式の価値とでもいうべきものが、闘争的コミュニタリアニズムを成り立たせることもあるわけです。ちなみに「語り口」を巡る闘争というのは「たかが形式」ということのできないものであって、例えばフェミニズムでは散々論じられてきたことです。フェミニストの闘争とは主張内容のみならず、「どのような語りが妥当か」をめぐる闘争でもあった。

    P166 タコツボ化するコミュニタリアニズムと自由放任的な自生的秩序論との間を縫って、討議倫理ほど濃くはないリベラルなコミュニケーション・デザインを構想していく必要がある、

    P167 私は法を超える正義、応答責任を希求する倫理は、極限まで行くと動物的反射の要請に行きつくのではないかと考えています。

    P168 もちろん、SNSが「脱社会性」を加速する装置だ、などというつもりはありません。SNSにハマるとそれはそれで大変な人間関係が待ち構えているようですから。しかし、それはやはり、アリーナから「降りる」というメタ倫理学的な回避戦術でもあるわけです。つまり動物的な応答責任から逃れるために、動物的に自足する場を保証するというコミュニケーション・デザイン。もし仮にmixiの勢いが衰えたとしても、次々と新しいデザインが繰り出されていくでしょう。

    P177 その時北田さんは、形式と内容の中間をとる「アイロニー」の感覚を持ち出す。それは言い換えれば、テレビ番組をベタに面白いと思いつつ、しかし同時にそんな自分の位置を相対化する態度です。「個々の持っている「善」よりも「正義」のような行為調整メカニズムを優先させる」という態度は、その相対化がなければ生まれません。このアイロニーこそがリベラリズムの核にあります。

    P180 大雑把に言えば、「昔のオタクはわざわざオタクであることを選んでいたが、今のオタクは無意識にオタクになっている」と書きました。【中略】結局、人々があるライフスタイルを自覚的に選んでいるのであれば、それがどれほど奇妙であっても、動物的でもなんでもない。【中略】問題は「選ばない」というより、そもそも「選んでいると思えない」人々が増えていることでしょう。鈴木健介さんがよく引くように、渋谷望氏が「宿命論の台頭」と言っている現象です。

    P190 リベラリズム、特にロールズのそれは「全に対する正義の優先」という命題で知られていますが、アーキテクチャにはこうした正義は存在しないわけですね。むしろ「利益」「安全」といった単一の価値だけが志向されるわけで、いうなれば「正義に対する善の優先」が起きているということができるかもしれません。

    P200 現在、自殺についてどう扱うかについては、警視庁の総合セキュリティ対策会議というところで議論されているはずです。この問題は、そもそも被害届が出ませんから、令状が出ないわけです。令状が出ない以上、通信の秘密がありますからプロバイダは警察にログを開示してはいけないんですが、現実には「プロバイダの担当者は責任をとれない」という理由から開示している例があり、報道されたものも含めてかなりの自殺が実際に止められているようです。
    この問題は、自殺の介入を入口にして、警察権力の介入が法律の枠を超えて行われるようになってしまうことなんですよ。まさにそれを狙って、自殺という社会的共感を得やすいテーマで議論をしていると見ることができると思います。

    P202 しかし本当に問題とすべきなのは、むしろ「私圏(Private Sphere)」の不可能性なのではないか。インターネットにおける公共圏は、すべての私圏をとりこんでしまう。

    P204 私的空間が不可能になっていく状況の中で、「私的/公的の区別をコントロールしたい」というユーザーの欲望にかたちを与えたものと言えるでしょう。だから、「退却」とは言っても、事実パブリックな空間から退却しえたかということより、「退却」したとユーザーが思い込めることのほうが重要なわけです。

    P207 確かに、境界線がどこにあるかはわからない。しかしだからといって境界線がないということにはならない。私は、境界線が「ある、ない」というのは「どこにあるか」という話とは別の次元の話であって、どんな政治社会でも「境界線がある」事実性を否定することはできないと思うんですね。

    P210 いわゆる「パターナリズム」の問題ですね。情報社会は、パターナリズムが技術的に発揮しやすい社会になっていると言えそうです。自殺に限らず、そもそも情報技術はパターナリスティックなサービスを提供しやすい。だから監視と紙一重なわけです。

    P232 「ネットは何かを止めることに関しては強力である」ということです。ネットでは、コミュニケーションは簡単にできても、現実に何かを始めるということは案外難しい。しかし何かの動きに対してネガティヴに働きかけることに関しては非常に強力なツールになってしまっている。

    P239 2ちゃんねるモデルの規範とは、はたして規範と呼びうるものでしょうか。【中略】そうした香ばしい人たちが、なぜ外部にちょっかいを出さないのかと言えば、それはウォッチ対象のサイトを荒らしてしまうと自分たちの観察対象そのものが変化してしまい、時には閉鎖されてしまうということを避けたいだけなのではないか。【中略】それ対して加野瀬さんのブログモデルでは、観察者が対象を直接変えてしまうことに積極的です。

    P248 アーキテクチャ、つまり技術的な実装によって規範意識も変化していく、ということだと思います。2チャンネルの時代においては、一次情報のサイトと炎上場所の2チャンネルが離れていたために議論のコンテクストを作りやすかった。【中略】このコンテクストの形成のしやすさが、実は炎上を防ぐ装置になっていた。【中略】しかし、ブログでは個々のエントリに直接コメントが付く構造になってしまったことで、そうしたコンテクストが形成されにくくなる。それが炎上を容易にしている。

    P249 それはアカデミアたるもの、議論のやり方はこうあるべきだ、という規範意識があったからだと思うんです。つまり、権威に対して反発し、本当の議論をしましょう、と考えていた。ある種の討議のユートピアのようなものです。しかし、今ではインターネットにいろいろな人が来るようになってしまったので、そうしたユートピアの夢はついえてしまった。そこで2チャンネルも含めて不思議に思うのは、今ではいろいろな人がいるはずなのに、いまだにかつてのユートピア的理想を持った人が存在するということです。そして今だ理想をくすぶらせる彼らこそが「なんでみんなそうなってくれないんだ」と苛立つことによって、炎上を起こしている面があるのではないか。

    P252 匿名の発言者が匿名の主題について話している場合は、むしろ問題は起きない。匿名と実名の関係こそが、問題を引き起こしている。

    P256 今のこの日本のネット社会と呼ばれるものの中で生きていくために必要とされている強さで、それは2チャンネル的な「スルーする力」と言いますか、一種のタフネスみたいなものだと思うんです。【中略】自律的主体として反論するという振る舞い自体が、その人の言説主体としての「弱さ」スルーする力の欠如の証拠として回収されてしまう。「スルーする力」の規範化は自律としての強さを駆逐してしまいかねない。

    P260 アクセス・コントロールを求める人とは、そもそも公/私の区別ができ「私はプライベートの人にしか公開しません」と判断可能な人であって、しかもそれは、そういう私的領域をさらしてもいい友達がいる人に限られる。しかしそれは既に強い人なのではないか。弱い人はむしろアクセス・コントロールを求めないはずではないか。なぜなら、彼らはインターネット上で誰も友人がおらず、なんとかして注目されたいはずだから。【中略】繋がりの社会性だけが特化した新しい公共性とでも呼べるものがどうしてあれだけの力を持ったのかが僕たちの議論の軸だと思いますが、それを支えていたのが、まさに「弱いからこそ開かれたい」という欲望だったのだと思います。

    P263 単なる陰口だけだったらいい。「陰口で繋がる自由」だから厄介なんですね。だからこそ、公的な規範と衝突する。つまり、今の日本には、誰かの悪口を一緒に言い合うことで友達を見つけたいという人が、膨大な数いるのです。

    P266 これまでのように、マスメディアとパーソナルメディアという分節が成立している時代であれば、オープンネス=パブリックネスという等号が引かれていた。しかし、ネットではその等式が崩れてしまっている。【中略】やっかいなのが、そこに参戦している人たちは、今辻さんが言われたようなパブリックなものを志向している、と思っていることなんですね。自分たちは極めて道徳的であり、しかもその主張に社会的正当性があるという確信を持っている。【中略】これはある種、非常に動物的な道徳心というか、道徳的な動物たちの行動原理なんですよ。

    P280 こうしたメンタリティを「無断リンク禁止教」と呼びたいと思います。リンクポリシーのような文書を書く「様式作成事務員」といった職種の人々には、どうもこうしたメンタリティを持つ人が多い。

    P289 アンリンカビりティ(統合されない可能性)⇔リンカビリティ(結合可能性)

    P292 RFID関係の実験にはとにかく胡散臭いものが多いわけです。推進している人たちは、「消費者はプライバシーの心配をされているようだから、何か利便性を作っていかなくてはいけない」と思っている。だから特に利便性がなくても、がんばって作ろうとしているんですね。

    P307 MLで肩書や名前を署名にして議論をするのは当然の慣習にもかかわらず【中略】2ちゃんねる的な匿名が当然である文化が台頭している時代には、こうした発想も出てきてしまうのだな、と。旧来の作法を知らず、現状の作法だけしか知らない人から見ると、それは個人情報の漏洩にみえてしまう。

    P310 無断リンクの問題は、煎じつめれば「不愉快だから嫌だ」という感情的な問題である。それならばいくらでも解決可能だろうと。【中略】不愉快を排除したいという論理は、確かに公的サービスの場合には許されません。しかし、私的なサービスの場合はどうか。【中略】そこで議論が別れていますね。mixiのようなコミュニティサービスにある種の公共性を求めるのか、それとも企業の私的なコミュニティにすぎないのだから、別にどうでもいいと考えるか。二つの立場がありうる。無断リンクの問題と、繋がりの社会性の問題は表裏だと思います。

    P314 現行の法の世界には「表現/存在/行為」というマトリクスが存在していたと見ることができる。【中略】しかし情報社会になってこの三項の境界があいまいになってしまった。これが問題の本質ではないかと思うんですね。
    (行為=内心の意思が外部に言語あるいは行動として表示され、社会的に作用した段階で法はそれを取り扱う=法は能動的)
    (存在=自然的=事後に承認し、それに対応した権利・義務の付与が行われるにとどまる=法は受動的)
    (表現=精神世界は私たちの存在する物理世界とは別の世界として把握し、ここに法は関与しない=法は謙御的)
    ところが例えばコンピュータウィルスはこうした三項のマトリクスからはみ出してしまうわけです。【中略】「表現的行為」という新しい概念枠が出現したことを意味します「実際には表現なんだけど、行為のような帰結をもたらす」ものです。

    P317 表現の自由という近代法が強固に奉じてきた理念が、法が侵入できなかった領域へ法を展開するための回路として用いられ、逆に、法が規制できていた領域に法が侵入できない結界を作るための護符として用いられる。そうだとすれば、表現の自由という近代的理念を私たちはいよいよ見直し、新しいマトリクスを作る必要があるのではないか。

    P319 情報が爆発的に増えたために、人と人との繋がり、あるいは人と物のつながりが爆発的に増える。この繋がりを別の言葉で言えば、「選択」です。その結果、無数の対象の中から「これがあなたが選択すべきものなのだ」という限定された選択肢を提供する。そういうサービスが必要とされるようになっている。【中略】それは「存在の匿名性」が必然的に失われるということに他ならない。だとすれば、情報社会においては、個人情報やプライバシーは原理的に擁護できないのかもしれない。

    P329 個人情報を渡すのが嫌だとか、それはもはや論点ではない。渡さざるを得ないのだ、と。そういう社会に私たちは入りつつある。私はそれに納得しました。というのも、この個人情報を渡すことで政治的関係・私的関係・消費行動・世界感等をうまく切り分けてくれるシステムというものは、おそらく国家の代替物として機能するだろうからです。

    P331 もともとプライバシーはプリミティブな状況を想定していて、家庭内で誰が何しようとどうでもいいじゃないか、という水準の話でした。それが個人情報コントロール権として捉えなおされたあたりから、どうも話はおかしくなっている気がします。

    P332 社会の複雑性を縮減する装置が国家からコンピュータに移る。そしてコンピュータに相当の個人情報を渡すようになる。そうだとしても、これまで憲法によって国家を縛ってきたように、何らかの強制的な枠組をかければうまくいくかもしれない【中略】そしてそこで指針になるものこそが「情報社会の倫理」なんですね。それはもう、近代社会の倫理と異なる。

    P339 ある種の認証生・人格性を帯びたリトルブラザーが乱立する状況ではなく、むしろ人間がその情報管理に一切関与できないという意味で、非人格的なビッグブラザーによる管理のほうがよい、というものです。「非人格的」と形容するのであれば、ブラザーという呼称は不適切ですので、ここでは仮に「ビッグイット」と呼んでおきたいと思います。そして今回私が議論の出発点にしたいのはこのビッグイットの実効性・有効性はどれくらいあるのだろうかという疑問なのです。

    P341 では機械自身が暴走を回避するようなことはできるだろうか。答えは否です。そのようなアルゴリズムを作ることは、少なくとも現在のチューリングマシンでは不可能です。【中略】チューリングマシンがいつ停止するのかを事前に決定するようなアルゴリズムは存在しないことがわかっています。

    P342 無限の斟酌が必要になる結果、結局のところ決定不能に陥る。これをダブル・コンティジェンシーというのですが、ルーマンの考えでは人間の相互行為やコミュニケーションに本源的に付きまとうものとされます。しかし人間は常にダブル・コンティジェンシーに悩むわけではありません。人間は端的に行動してしまう。【中略】ある程度の段階まで想像すると、面倒臭くなってえいやっと決定してしまう。この決定次第で、双方の行動の結果が変わってしまう揺らぎがコミュニケーションには存在するわけです。

    P345 複雑な社会とは、つまり個人が複数の制度的な役割を担わねばならない社会のことです。【中略】そうなると、役割同士がコンフリクトを起こすことが十分考えられます。【中略】これをすべてうまくこなそうとするのは、限定された合理性の持ち主にとっては限界があるわけです。そこでその認知的負担を軽減するために、個人に密着した「人格」という制度が特権化したのではないか。

    P351 伝播投資貨幣「PICSY」=PICSYの上では、裏切ることは自身の不利益になるわけだから、見知らぬ他者を信頼する動機づけを強めることが見込めます。PICSYというアーキテクチャの場合、従来であれば一度きりの取引関係で終わっていたものを、PICSYを介してその取引関係を継続させることになります。【中略】微妙な初期状態の差によって、非協力で均衡するか、協力で均衡するかという結果は大きく変わってくるのです。【中略】アーキテクチャによって、これまで信頼が果たして来た社会的機能を完全に代替する必要はないということです。人々をアーキテクチャによって完全に管理する必要もない。なぜなら数人分の協力行動を引き出せれば、協力型の均衡を望むことができるからです。

    P361 管理社会がやむを得ないものであるならば、それをリジッドなものにしてしまわずに、ゆるさを残しておく必要があると考えています。

    P367(監視社会化はOKか)何か記録しないと判断はできないから「ではいったい何を記録するか」なんですよね。映像であれば嫌悪感が生じるけど、人間が見てもわからないような情報であれば、記録されてもいいと思える。今後はそういう方向に展開していくわけですよね。

    P369 しかし情報社会は「自分だけが支配している領域」を持つことを許容しなくなりつつある。今の社会は、何かを自分だけが持っている、支配しているということを、むしろ非道徳的で非人間的なことだと考え始めている。だから情報社会においてプライバシーがこれほど関心の高い問題になって表れてきたのはある意味で当然と言えるでしょう。

    P372 人間による支配と、プラログラムによる支配とでは絶対な違いがあると思うんです。まず、人間による支配は事前予測が不可能です。【中略】しかもそれは証拠を残さない限り事後検証もできません。ところがプログラムで何か変なことをした場合には、それはすべて残ってしまう。【中略】となると、次善の理論をとるという発想ならば、ビッグイットのほうがいいのではないか。

    P373 いま私たちは普通に本を読んで字を書いていますが、これは200年前まではとんでもない技術でしたが、私たちはこの技術を規律訓練によって習得したわけです。ですから法律家全員がプログラムを読むというと「まさかそんな」と思われるかもしれないけれど、英語を教えるよりもよほど楽に実現でいるのではないか。

    P385 要するに安心と信頼は違う、ということです。底新来者は、親しい関係性を囲い込むことで、普段自分が付き合う人に対して「安心」をしている。逆にその囲いの外側にいる人に対しては、不安に鳴る。この安心と不安という関係性が物土獄「ステップ」になっている。一方で一般的信頼は「解き放ち理論」というくらいですから開かれている。「フラット」な関係の上に、一般的な信頼が乗っている。

    P388 自分の周りをなめらかなコミュニケーション空間でコントロールできる人というのは自律している人であって、そうではない人たちは結局寄り添ってしまうわけですよ。それこそ「おまえはあいつにどれくらい設定している?」などと聞きあって。自分の設定を他人と同じようなものにするでしょう。するとダブル・コンティジェンシー問題のようなもので、こうした行為が雪崩のように集積し、大変なことになる。

    P393 一般的にはこの辺だろう、というレベルが社会通念的に定まって、それがデフォルトにはなるでしょう。ただそこからより開くか閉じるかというのは、ユーザーの選択権次第ということになるでしょう。そこから先は教育の問題です。【中略】個人情報ライフログの運用のうまい人と下手な人がいて、うまい人が成功し、下手な人は失敗する、失敗する人がいたらどうするんだ、と言われても、現代社会の国民国会においても仕方がないとい話でしかない。【中略】であるならば、富の配分に関して、今までとは違った回答が必要になると思うんですよ。

    P420 表現活動というのは、不可避的に他人の権利を大いに損なう危険がある行為です。責任を持たない主体がこれを行うのが、本当によいことなのか。【中略】法的に責任主体になれない子供が表現の自由を担うことは本来できない。だから、子供が親に内緒でブログを開設するのは不可能になってもいい

    P429 CMCは現実のオルタなティヴでないとまずい。リアルの権力構造がネットにも入ってしまったら、絶対に勝てない人が出て来てしまう。だからせめてネットの中だけでも勝てる状況があるべきではないか。それが公正の一要素だと思うんですね。逆に不正なシステムとは、負けた人間が絶対に勝ちあがれないシステムのことだと思います。

    P431 工学は動くか動かないかが問題であって、基本的に作者性が問われない世界です。しかし言論には、署名を含めて一つのテクストになるというやっかいな性質がある。そこがエンジニアからは嫌われるところなのですが、人文系はそういう世界でここ数千年動いている。そこでは、作者の固有名が違えば、同じテクストでも全く違う解釈を生み出す事がありうる。つまり、匿名の言論だけを戦わせることで内容的に正しい言論だけが生き残るというのは、歴史的に見てかなり特殊なジャンルに限られるのです。

    P442 つまるところ、空気によって駆動され、ハイテクノロジーによって管理された、世界でもまれにみる滑稽な国ができつつあるということでしょうか。

    P452 twitterの字数制限が140字であるのはSMSの字数制限が160字というところから来てるんですね。ではそもそもなんでSMSは160字だったのかというと、一般的なポストカードや電報で使われる文字数なんですね。【中略】メッセージの最小単位として、150字程度あれば人は何かを伝えられるんだ、という考えがtwitterにも息づいている。【中略】「ギリギリ言える感じ」と「ぎりぎり言えない足りなさ」の絶妙さが、人の背中を押したり、心を動かす起爆剤になっているのではないかと。

    P458 最初にisedを作るときに僕が国際大学GLOCOMの事務に何をいったかというと、この会合はとにかく懇親会をやらないと絶対に昨日しないということでした。なぜかと言えば、みんな専門分野がばらばらだからです。共通の話題なんてそもそもないんだから、会議が終わったので帰ります。それじゃあという風になったら絶対に続かない。お互いに心を開く空間をどう作るか。そこにこそ本質があって、メンバー皆が次回も来たいと思うようにならないと続かないと思ったんです。【中略】学際的なことをやるんだったら、懇親会を組織しないと絶対にうまくいかない。

    P460 要するに人はまとめられないと読まないという問題ですよね。【中略】しかしそういう意味でもtwitterがすごいと思うのは、一つのポストが140字に圧縮されることで、ポンポンと勝手にRTで情報が入ってくるから、まとめられなくても情報に直面してしまうところがあって、そこがいいんだろうと思うわけです。 

    P468 なぜ学際的な議論は参加者が若くないとダメか、あるいは懇親会がないとだめかというと、それは人は人間という回路を使わないとほかの領域に行けない、少なくとも行くのがとても難しくなるからだと思うんです。【中略】そしてそこで専門外の人を真面目に聞くには、聞き手の人生の方向も可塑性が高くないとだめなんです。【中略】40歳以下って結構現実的な数字だったんですね。人間を通過してほかの世界に行くということと、そしてそれによってその人間自身も変わる可能性がある。そういう二つの条件ですね。

    P474 つまり繋がっているように感じる事を人々は求めている、ということだった。そういう点でいうと、この五年間「繋がっているように見えてるんだけど本当は繋がっていない」メディアがどんどん影響力を拡大してきた。そういうふうに整理できるんじゃないか。【中略】twitterやニコニコ動画のように、新たな時間性を実現するアーキテクチャが登場したことで、むしろその繋がりは「疑似的に」満たされることが明らかになって来た。これは決して電子的な公共圏を実現しているわけではないかもしれない。しかし、それらは炎上やサイバーカスケードの問題を抑制するようなアーキテクチャとして進化している。</blockquote>

  • 下記HPでも全文公開されてます。
    http://www.glocom.jp/index.html

    2005年の研究会だけど、情報社会の倫理・設計に関する議論は今見ても考えさせられる。

    その設計編。
    プライバシーなどのWebの登場によってより複雑化する倫理問題について語っている。

  • GLOCOMの「情報社会の倫理と設計についての学際的研究」(略称Ised)の議事録
    倫理研とは「情報技術がいま私たちの社会秩序にもたらしている変化を、主に人文・社会科学の視点から見極めたうえで、情報社会の思想的視座を構想すること」(P003)

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著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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