不死というあなたの現実

  • 河出書房新社
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感想 : 3
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  • Amazon.co.jp ・本 (311ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309230955

感想・レビュー・書評

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  • 『神の使者』を読んで、もう十分かな?と思ったが、これも読んでみて正解だった。

    著者の身の上話なども載っており、どういう経緯で執筆に至ったかが前著よりよく理解できた。メッセージ自体は『神の使者』と変わるところはなく、いたってシンプルだが刺激的。エゴの解体は生易しいことではない。

    儚い人生のために努力するなんて空しいと心のどこかで感じていた。それについては、本書を読むことでだいぶん気持ちが楽になった。

    2著は繰り返し読む必要があるだろうし、続編が出るならきっとそれも読むことになるだろう。

  • 「神の使者」に続く著者の続編。前作から3年後に出版の運びとなる。前回でおなじみのアーテンとパーサが再び出現。今回は、前回と違って11年もの年月をかけることなく、ほぼ2か月おきに定期的に表れては「奇跡のコース」をメインとした目覚めへの指南を会話形式で展開する。全11回で構成されたそれは、前作の補強であり、真摯な「コース」学習者へのさらなる励ましであり、希望となり得るものだといえる。

    全く無名の素人に過ぎないゲイリーが、アセンデット・マスターたちとの交流を記録しただけの手記を本にし、出版にこぎつけたその経緯も奇蹟的であれば、それが日を追うごとに順調に売り上げを伸ばしていき、素人としてはあり得ないベストセラーを記録していることもまさに奇蹟そのものである。そうした奇蹟を示すことで、本書の内容が極めて重要な、価値あるものだということを暗示しており、少なくとも人々の深層意識に潜在している何らかの渇望に応え得るものとして直感されているものだと言っているかのようである。それが真実であるかどうかは、個々人の価値観と判断によるので、ここでは上記の言及にとどめておく。

    さて、個人的には、本書の訳者が「精霊」と「聖霊」と二つの訳わけをどのように行ったのかが気になるところだ。恐らく前者はspiritの訳で、後者がHoly spiritの訳だろうと推察するが(いちいち原典に当たるほど暇じゃないし面倒なことはしない)、ではなぜ著者はそもそもこうした使い分けをしたのだろうか? なんとなく、文脈から、「精霊」はより広いカテゴリーで、神に属するもの、神の属性の言い換え、スピ界隈で共有されるような「神聖さ」を漠然と指すもの、のように捉えられる。対して「聖霊」とは、本来キリスト教の専門用語であり、「いま現に生きて働く神の業」と定義づけられている。この点から、よりキリスト教界隈に特化した、主にクリスチャンや、少なくともキリスト教文化圏内で生まれ育った人向けに意識された言葉であるように思われる。
    問題は、なぜそのような使い分けがなされたのか、である。「聖霊」はエゴとの対比としてとりわけはっきりと明示される。エゴとの対決の方便として言及される場合に「精霊」はまず使われない。必ず、「聖霊」の声に従うか、それともエゴの声に従うのか。「聖霊」のシナリオに沿うのか、エゴのシナリオに屈するのか、といった具合である。それに対し、「精霊」は、それを目指しなさい、といった「コース」学習者を励ます文脈で、神と同等であるという意識を喚起させるもののように使われていると感じる。こちらは、クリスチャンかそうでないか、キリスト教文化圏に育ったか否かに関わりなく、およそすべてのスピリチュアルに関心のある界隈向けに開かれた言い方なのかもしれない。スピ界隈でよく言い習わされている「スピリットと繋がる」「スピリットに守られている」といった表現に見られるように、漠然とした神聖さを指す定番ワードがまさに「精霊=スピリット」なのだが、著者もそうした読者層を意識して本書を上梓したのかもしれない。前作では、確か「精霊」という訳語はなかったのだから。

    思うに、「コース」の世界観がキリスト教という特定宗教から発していることが端的に示すとおり、それは多分に二元論が強調され、すべての物事を二元論的に全面展開させ終結させている。中間が一切存在しない。曖昧さや妥協が一切許されていない、と繰り返し明言する。究極的には、存在か無かしかありえず、存在があまねくカバーするので、無は存在に包含される、というヒエラルキー構造に収斂していくのだが、それまでは、善と悪、聖霊とエゴ、男と女、生と死、歓喜と苦痛等々、ありとあらゆる二項対立が並置されている点で、ヒエラルキー構造は取りようもなく、ただ結局はすべて「夢」であり「幻想」なのだから、どうでもいいよね、というオチで片付けられる。大事なのは「存在」のみであり、それがすべてをカバーしているだけなのだから、あとはどうでもいい、的な話に落ち着かせようとしているかのようだ。
    「コース」の神話構造は、キリスト教由来であるだけに、失楽園物語を几帳面に踏襲していて面白い。失楽園物語(創世記2章4節-3章24節)の神のメタファーは、「コース」でいうところの、人々が無意識下で恐れ、罪悪感を掻き立てられる元凶である「怒れる神」そのものだ。神から作られた最初の人アダムは、蛇の唆しに乗せられたイブに従って神から禁じられた「善悪を知る木の実」を食べてしまう。蛇の受け売りでイブは「食べると賢くなれるわよ」とアダムも引き込み二人して食べたのだが、「コース」に言わせると、この部分は、エゴから、「外の世界は面白いぞ。ここは退屈じゃないか。さあ、冒険に出よう。色々見て知れて、面白いこと請け合いだ!」と唆される場面として踏襲される。つまり、知的好奇心を満たすことそれ自体が神への反逆の主要因として捉えられているのだ。知的好奇心の喚起が、意識の始まりだ、と考えれば、それもつじつまの合う話なのかもしれない。そして、唆しの主体たる蛇(キリスト教界隈じゃ言わずと知れた悪魔のメタファーだ)に関してはまさに「エゴ」がそこを踏襲しているわけだ。
    アダムは善悪を区別する知識、要は分別をつけることで「無辜」でいられなくなる、つまり無邪気な子供でいられなくなる、という「失楽園」状態を経験する。以後、人は、神に背いて自らに知識をつけようとした、神のように賢くなろうとした、言い換えれば神に取って代わろうとする大それた野望を抱き、反逆したのだ、という現実に脅え、神の報復を恐れるようになる。その恐怖は強烈で絶望的に強大で逃れようもないものだが、それゆえにこそ、人は神から逃れんと、「世界」あるいはそれを包含する「宇宙」さえこしらえてその中に逃げ込む。それでも神への恐れは消えない。人はそれを意識するのに耐えられず、潜在下に抑圧するが、時に顕在し噴出する。たまらず、人はその噴出を他者に投影して、それを罰することで、何とかやり過ごす。それが、世界の悲惨さの表れであり、暴力の蔓延であり、裁き、処罰感情の原因となるものである。
    世界が悲惨なのは、それを創造した神が悪いのではない。神は完璧なのだから、悲惨さを生じさせるはずがない、というのが「コース」の一貫した主張だ。そして、「失楽園物語」に依拠して「コース」の語る神話は、ここからその代替案として、失楽園のような事実はなかったのだし、「世界」もすべては夢の出来事、意識の発生それ自体が「なんちゃって」の産物であり、つまりは何もなかったのだから、心配することはない。目覚めれば、実は神のそばから片時も離れた事実はなく、神と一つであるにすぎない、すべては何事もなかったんだよ、無なのだよ、お前の思い込み、妄想に過ぎなかったんだよ、というオチで締めくくるのである。聖書の失楽園が、「世界」の主要な構成要素たる「原罪」とそこからの「救済」を語ることで存在意義を確立させる特定宗教の売りだったとすれば、その失楽園を逆手にとって、実はその売りこそが嘘でした~!とバラしちゃうあたりに、「コース」の目新しさがあるのだという気がしなくもない。

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