- Amazon.co.jp ・本 (344ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309227511
感想・レビュー・書評
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アメリカの様々な場所を旅しながら、ホームレスや安酒場に集まる人々に話を聞いて回る。ただそれだけの本であるが、著者の目を通して見る街の様子が唖然とするほど荒廃していて、まるでマッドマックスの世界のよう。そこに住む人が語ることも明るい話題はほとんどなく、まさに「死にかけた国」という印象である。これがGAFAを抱えるあの国の現状なんだとすると、メディアによる情報操作は相当なレベルに達していると感じる。知らないところで、自分の足元の世界も死にかけているのかもしれないと思うと、寒気がしてくる。
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読みながら、かなり陰鬱な気分になった。
延々と「愚痴」オンリーでうんざりしてしまう。
本音で話すから俺の話を聞いて!と言っているような語り口なんだけど、同じ話の繰り返しで、早々に「もういいよ」と言いたくなってしまう。書き始めた動機について、「何か変化を起こせれば」と序文に書いてあったけれど、誰かに聞いてもらわないことには何も変えられないのに、相手に「その話はもう十分」と思わせてしまう。あるいは、「誰が何をやっても良い方に変わるわけない」というネガティブメッセージを聞かされているみたいに聞こえる。逆効果本という呼称を送りたくなった。
じゃあどんな風に書けばいいの?と言われても正解は分からないんだけど。
ただ、もともとはブログだったと最後の解説で知って、ああ、ブログならありかも、と思った。本として読むとひたすら同じ話ばかりな印象だけど、旅の記録として毎日少しずつアップロードされるなら印象は違うと思う。
ということで、アメリカについての話にはすっかりうんざりしてしまった私だけれど、ほんの少しだけ書かれていた「ベトナム」の話と「日本」の話は、とても考えさせられた。そこはすごくおもしろかった。
「ベトナム」の話は、最後から二番目のセントラリアの章で少しだけ出てくる。
「土地」の話、あるいは「帰属」の話、「アイデンティティ」の話、とも読める。フクシマの原発の事故以来、土地と人との関係については私自身が何かと繰り返し考え続けていることなので、非常に興味深かった。
「日本」については、ハーマン・メルヴィルの「書写人バートルビー」になぞらえて語っていて、私はその本は読んでいないけれど、著者が言わんとすることは非常によく理解できた。旅行者として来ただけなのにやけに鋭い人だなぁ、と少しギクリとした感じ。
非常に鬱々とした気分になる本だったけど、このふたつの部分だけでも読んだ価値はあったかな。 -
おそらくスラングや俗語満載の原文から訳されているので、正直、読みやすい文章ではないが、ニュースその他で伝えられるアメリカ中間層の崩壊ぶりがリアルに感じ取れる。
そこら中で発砲事件が起きていても「俺たちアメリカ人は銃が持てるからイタリア人より自由だ」と語る彼らの、まさに死にかけのアイデンティティがこの体制を延命させているのだろうか。 -
自家用車ではなく長距離バスに乗り、しけた街に降り立ち場末のバーで安いビールを飲みながら、格差社会の底辺近くにいる人たちと話をした記録。自身もアウトサイダーの立場で同じ目線に立つ。きっと話を聞くのがとても上手な人なのだろう。ハリウッド映画の華麗な生活と美しい人々の世界はもとより、日本からNYやSFに旅行に行っても見られない底辺。他人事ではない、日本にも目に見えない貧困がある。さらに、アメリカは今も昔も大国だが日本の国際的な地位は下がるいっぽうだ。この本の中でもアメリカで土地や家を買いまくっているのはもちろん中国だ。
リンが批判する「死にかけたアメリカ」はオバマ時代、今のトランプを同表現するだろうか。 -
『なぜなら他人がいるからこそ、人の虚栄心やうぬぼれ、極端な差別や幻想は、それが哲学的、政治的、慈善的、ポルノ的のどれであろうとも、激しく翻弄される』―『長距離バスの地獄』
何も同じ年に生まれたからと言って同じような価値観を共有していると言える訳ではないのだが、この作家の最初の翻訳書を読んだ時に感じた共鳴のようなものが再び蘇る。それを、解る、と言い切ってしまうのは嘘になる。けれども、どこかで通じるものがあると感じてしまうことも否定は出来ない。
あの時、あの本はサイゴンで読んでこそ面白いと思えたのは、少なからずサイゴンの裏道を歩き回っていたからだろう。市井の人々の息遣い、排泄物や生ごみの臭い、止まない喧騒、法の目をかいくぐって行われる取引、そんなものがちょっと先に幾らでもある環境が本から立ち昇る匂いを引き出した。本書の舞台はディープなアメリカ。そうではあるものの、今度は、東京という街で生活の糧を得ているからこそ感じる思いのようなものが静かに喚起される。
翻訳に当たって追記された一章は、他の章と比べると穏やかな文章だと思うが、そこに本質的な問題は集約されているし、気付きもある。翻訳家が、先ずはこの章から読んでもよいと提案する通り、このグサリと刺さる感じを受け止め損ねれば、他の章を読んでも、ひょっとすると描かれている貧困や頽廃を単に彼岸の出来事として片付けてしまいかねない。これは現代社会に住む全ての人に起こりつつある現実なのだということを踏まえた読み方が求められる。だからこそ、この凋落の兆す東京に糧を求めて生きる我々だからこそ理解しなければならない現実というものがあるのだと思う。
そんなことをつらつらと考えながらも、最初の本の感想にも書いた通り、作家の気持ちがわかる、とは言い切れない状況も当然のことながら残る。それはこのアメリカの現実を直接見聞きしたことがないということが理由なのではなく、作家の立ち位置の問題なのだと思う。この同じ年に生まれた作家は、何かに酷く拘りを持ち、憤っていながらも、どことなく諦観めいた気分も同時に投げ掛けて来る。決めつけたようなメッセージがありそうでいてないのだ、とも言える。川上未映子が巻末に寄せた文章の中で『でも不思議とそういう気持ちにならないのだ。人々も国も「死にかけ」てはいる。しかしまだ「生きている」ことのほうが残るのは、なぜなのか』と問いかけているが、確かに何か絶望でもなく希望でもない中庸の人生観のようなものがこの作家の文章からは立ち上がる。それを他人に強制はしないし、自分を見失うこともない。
ジョン・ガルブレイスは言う『現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられて初めて自分の欲望がはっきりするのだ』、と。だとしたらリン・ディンは自分が何をしたいのかをはっきりと意識している稀有な現代人の一人であるに違いない。自分にはそう思えてならない。 -
レビューはこちらに書きました。
https://www.yoiyoru.org/entry/2019/03/18/231437