セロトニン

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309207810

感想・レビュー・書評

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  • 私事ながら、読書を除けば趣味というものがない。昔はいろんなことに手を出したが、今は何もする気になれない。猫と暮らすようになってからは、あまり外へも出かけなくなった。仕事以外に人とのつきあいがなく、退職後は年に二度、夏と冬に学生時代の友人と会食するだけだ。まず、家族以外の人と話をすることがない。退職前によく人から「趣味を持て」と言われたが、このことを言っていたのだな、と今になって思い当たる。

    妻は本気で「ひきこもり」を疑っているふしがある。しかし、人と話をしなくても別段不満はないし、お決まりのコースを半時間も歩けば、自然の変化に目はとまるし、運動不足の解消にもなる。家に帰れば猫が待っている。人との不必要な摩擦のない生活は、自分にとっては申し分のない生活なのだ。人生も残すところあと少しになった老人は笑ってそういってもいられるが、先の長い人間にとってはどうだろう。

    『セロトニン』は「ひきこもり」を扱っている。禁煙運動や環境問題、グローバル化した経済など、行き過ぎた社会規範や国家間の約束が、かつては自由にやっていた個人的な営為や習慣をことごとく縛り、そのことに敏感な人間を追いつめている。行き場をなくした「個人主義者」は反抗するが、時代の波には勝てず、自殺するか、ひきこもりか、いずれにせよ敗者となる。ウェルベックの主張は極端なようにも見えるが、世界から寛容さが失われつつあることは事実で、一面の真実をついている。

    一人の男が自分の人生を振り返りながら、希望を見いだせないまま袋小路に追い詰められてゆく。人生が下り坂にあることを意識した男は、我知らず残りの人生を食いつめてゆく。あのミシェル・ウエルベックにしては、ペシミスティック過ぎる気がするが、陰鬱なユーモアをまぶしたアイロニカルな批評性といい、セックスと食事に対する過剰なこだわりといい、殊更に人種差別的な言辞を弄するところなど、所々に「らしさ」を見ることができる。フムスとやらを食べてみたくなった。

    主人公は四十六歳になるフランス人男性。ブルジョワ階級で、環境団体がやり玉に挙げることで有名なモンサント勤務を経て、農業食糧省の契約社員となる。フランス産の農産物の輸出拡大や、外国から安い関税で入ってくる農産物から自国産のそれをどう守るか、という面でわずかではあるが貢献していた。しかし、EUという枠組みの中にあってフランスの農業は圧倒的に不利であり、彼は負け戦の連鎖に戦意を喪失しつつあった。

    物語は、スペインの避暑地から始まる。ヴァカンスの最中で、パリからやってくる同棲相手の日本人女性ユズを待っているところだ。皮肉なことに彼はユズが来るのを怖れている。このユズというのが詳しく書く気になれないほどのビッチ。縁を切りたい主人公は、テレビで見た番組にヒントを得て、自分の借りているタワーマンションにユズを残し、自分は蒸発を決め込む。仕事もやめ、どこかに居場所を探してひきこもって暮らし始める。

    彼には父の遺産があり、退職しても当座の暮らしには困らない。問題は煙草を吸うことができるホテルが激減していたことだ。どうにか探し当ててそこに暮らし始めてからが本編となる。正直なところ、出だしのユズのイメージがひどすぎて、共感がしづらいのだが、小説の常として、細部は小出しにされる仕組みになっている。話が進むにつれ、このいけ好かないスノッブにも共感できるところが出てくる。ウエルベックの語りの巧さがそうさせるのかもしれない。救いのない話なのに本を置く気になれない。

    表題の「セロトニン」とは「脳内の神経伝達物質の一つで精神を安定させる働きがあるとされ」る。 このため、セロトニンが不足すると精神のバランスが崩れ、暴力的になったり、うつ病を発症する原因となることもあるという。主人公も医者の診立てによれば「悲しみで死にかけてる」。実はかなり重篤で、風呂はおろか、シャワーも浴びたくないほど。抗うつ剤の副作用で、性欲がなく、不能になりかけている。そうなったらなったで彼が考えるのは自分のせいで別れた恋人のことばかり。これはちょっと悲惨だ。

    自分の四十六歳当時を思い出した。仕事も人間関係も発展途上にあり、バリバリやっていた。時代も今とちがって前向きであったし、国にも勢いがあった。ひるがえって今はどうだ。自国の凋落は目を覆いたくなる惨状。世界に目をやっても、悲惨な有様だ。戦争は止む気配はないし、指導者の質はがた落ちしている。ポジティブになれなくても無理はない。個人は自分一人で生きているわけではない。いやでも社会の中で生きるしかない。主人公を追い詰めるのは個人的な問題だけではないことをウェルベックは書いている。

    「最初から何もかもがあまりに明白だった。でもぼくたちはそのことを考慮に入れなかったのだ。個人の自由という幻想に身を任せてしまったのだろうか、開かれた生、無限の可能性に? それもあり得る、そういった考えは時代の精神だったからだ。ぼくたちはそうはっきりと言葉に出しては言わなかったと思う、関心がなかったのだ。ただそれに従い、そういった考えに身を滅ぼされるのに任せ、そのあと、長い間、それに苦しむことになったのだ」

    はじめはおつきあいを遠慮したくなる主人公だったが、結末に至るといとおしく思えてくる。そう思い始めたところで小説は終わる。この世には、取り返しのつかないことがあり、それは失ってみて初めて気がつくのだ、という真理が痛いほど胸に迫る。読みおえたあと寂寥感が心に残る。主人公の変容の鮮やかさという点において、他の作品を凌駕している。ひょっとしたら代表作になるかもしれない。

  • フランスの作家・小説家であるミシェル・ウェルベックの2019年刊行作品。

    作品には、過激な性描写や露悪的な語り口、人権や宗教などのセンシティブな問題に関する辛辣な描写なども多く、賛否両論あるようだ。
    ムスリムの大統領が誕生する設定の『服従』(2015)は、その出版日がたまたまシャルリー・エブド襲撃事件と重なり、そうした点でも話題を集めた。

    本作を読んでみようと思ったのがなぜだったのか忘れてしまったのだが、タイトルが「セロトニン」だったこと、あるいは主人公がバイオ化学企業モンサントに勤めていた経歴がある点に興味を惹かれたのだったかもしれない(だが読み始めてわかったが、モンサントは本作にはほとんど関係がない)。

    セロトニンは精神を安定させる働きを持つ神経伝達物質である。
    主人公のフロラン=クロードは抗鬱剤として、セロトニンの分泌を高める<キャプトリクス>という薬を服用し続けている。
    薬の副作用として、彼の性欲は減退し続ける。
    つまりは、精神の安定と引き換えに、彼は性愛の世界からは脱落していくわけである。

    端的に言えば、これは中年男が社会生活から徐々にドロップアウトしていき、最終的には「引きこもり」として沈んでいく物語である。

    当初は農業関連の調査の仕事を持ち、日本人の高級コールガールの彼女もいた彼だが、彼女にうんざりしていたのもあって、「蒸発」を決める。仕事も辞めてしまう。
    昔の彼女とならやり直せるかと思ってみたり、かつての友人を頼ってみたりするが、いずれもうまくはいかない。彼女には5歳になる子供がいて、自分の入り込む余地はない。友人は農業を営んでいるが、経営は厳しく、抗議活動に身を投じ、結果的には破滅の道をたどる。

    フロラン=クロードには、父親の遺産があり、働かなくても当座の暮らしには困らない。ある種の「高等遊民」なのだが、なにせ人生を立て直すことができない。いや、そもそも彼は人生を「立て直し」たいのだろうか・・・?

    メインストーリー以外も、少女性愛者の鳥類学者とか、両親の死の顛末とか、食えないエピソードも多く、なるほどこういうところが露悪的と評される所以なのかもしれない。
    こう書くと何だか救いのないお話のようなのだが(いや、実際、救いはないのかもしれないが)、全体にはシニカルだがユーモアも感じられ、何となく読まされてしまう。

    彼の主治医は彼が「悲しみで死にかけている」という。
    悲しみで死なないために、彼は、白い楕円形の小粒の錠剤を飲み、セロトニンを絞り出す。
    放浪の果て、彼は最終的には小さな自分だけの「城」に落ち着き、そこを想い出で飾る。
    まるで、自分の墓に花を飾るかのように。

    そこはおそらく彼の終の棲家で、遠からず彼は死を迎えるのだろう。ここは終末の時を待つどん詰まりの場所だ。
    孤独といえば孤独だが、そこに一抹の甘美さも見るようにも思うのだ。
    賞賛はできないが、現代人の抱える孤独を突き詰めていくと、ある場合にはこんな形を取るのかもしれない。共感というほど強い感情ではないが、うっすらと「わかる」ような思いにもとらわれる。

  • 何かと物議を醸しだすことが多いフランスの小説家ミシェル・ウエルベックの最新作(2019年11月時点)。この小説も読む人によって否定的なものも含めてさまざまに読まれるであろう、その意味で小説らしい小説だ。

    主人公は46歳で、2017年初頭に発売されたというキャプトリックスという抗鬱剤を服用している。この薬は、プロザックなどのセロトニン神経系に注目した次世代の抗鬱剤で、鬱病患者の生活を劇的に改善するが、副作用として性欲の喪失と不能があるという設定になっている。
    主人公は結婚しておらず、同棲するユズという日本人の恋人がいるが、相手の人格を貶めるような不満を心の中で吐露し、その意趣返しにか、ある日二人で住む部屋の契約更新をせずに黙って姿を消すことを決意し、そして実行する。当然のことながら一人称である主人公の視点から描かれているので、主人公の彼女への評価が本当にそうであるかは読者の解釈に委ねられる。彼が鬱病であるとされていることからも果たしてユズがそこまで性悪な女であるのか、実際にはそうでなかったという解釈することもできる。ただ、その事件はその後物語の主軸にはならずにすぐに後方に流れていく。

    物語の盛り上がりは、その後に旧交を温めた友人の壮絶な自死である。その友人は由緒ある貴族の出自で、地主として実家の農業を継いだが、ビジネス的に行き詰まりを見せていた。彼が先頭に立つ農業自由化への抗議運動の最中、準備していた銃を手に取り、保安部隊に向けて発砲するのかと思いきや、突然自らをその銃で撃つ。そこにあったのは怒りというよりも、絶望と表現した方がしっくりとくるようなものだ。無暗に歳を取り、人生の意味はその手からこぼれ、生活の限界が見え、もはや死んでいくだけ。抗議の死と取られるパフォーマンスだけが人生の意味を作ってくれると考えたのかもしれないが、その考えにも確信をもって乗ることができないままその日が来たことで押し出されるように彼は実行したのか。そして、「人生の意味」の問題は彼だけの問題ではない、そう読むことができるのかもしれない。

    その後、その友人の狩猟用ライフルを偶然手に入れることとなった主人公は、昔の彼女の生活をストーカーまがいに覗き見し、シングルマザーとしてその彼女が愛情を注ぐ幼い息子にライフルで狙いを付け、半年後にその子を亡くして悲しみにくれえる彼女を慰めてよりを戻すことを想像しながら引鉄に手をかけることさえする。しかし、主人公は結局その考えを実行しない。友人が引鉄を引いて自死を決行したのと、主人公がついに実行しなかったことの違いは、それを他者から見られていたのか、見られていなかったかの違いかもしれない。止めどなく一方的に膨らむ妄想に対して、主人公は不能者のように何も決定的なことを実行することができないのだ。

    そういった一連の物語の背後に忘れらるべきではないものとして、主人公が鬱病で、内分泌系に影響する抗鬱剤を処方されているといういという設定がある。そのことによって、主人公は自身の自由意志の存在という希望さえもあらかじめ奪われている。そこに目が向かない読者もいるかもしれないが、著者はそのことに常に意識的だ。だからこそ敢えて架空のキャプトリックスを登場させているのだ。

    世界的ベストセラーとなった『ホモ・デウス』の中でユヴァル・ノア・ハラリはこれからの人類が求めるのは、「不死」と「幸福」かもしれないと言った。神と人間が死んだ世界において、「不死」と「幸福」が求めるべき課題であれば、そのことについての小説が書かれることは文学の責務として必然のことなのかもしれない。そして、ウエルベックの『ある島の可能性』が「不死」に関する本であったとすると、『セロトニン』は「幸福」についての小説であると言える。ウエルベックは『ホモ・デウス』をおそらくは読んでいるであろうし、そこでホモ・デウスは「不死」と「幸福」を求めるものと書かれていることを知っているだろう。『ホモ・デウス』では、将来、薬によって生化学的に「幸福」をいかに手に入れるのかという問題を克服することが予見されていた。そのことが直接的にインスピレーションのもとになったのかはわからない。しかし、「幸福」の定義が生化学的に規定されるようになるかもしれず、それが将来大きく人類に影響を与えるであろうということは、共有課題として扱われるべきものとしてそこに横たわっていて、ハラリとウエルベックはその問題の存在をそれぞれの形で見つけたということはある程度の確信を持って言ってもよいのではないだろうか。

    主人公の担当医は、コルチゾール値、テストステロン値、ドーパミン値、エンドルフィン値、という内分泌系の数字で症状を判断する。主人公は何の逡巡もなくそれを受け入れる。そして医者は、何よりセロトニンを適切なレベルに保つことが重要だという。もはや、気分でさえも個人の主観の内にはなく、生化学的な数字の中に存在する。その医者はセロトニンの値を保ち、高くなりすぎたコルチゾール値を下げるため、コールガールを勧める。まるで処方箋を書くように。実際に三人の娼婦の名前と連絡先が書かれた紙を手渡す。それが、ある種のウエルベックの「幸福」に対するシニカルな処方なのかもしれない。

    「幸福感」ではなく、本当に「幸福」が欲しい場合、人生の「意味」が必要になるのかもしれない。少なくとも今はたぶんそう考えられている。現代における最大の課題は人生の「意味」を見つけることかもしれない。前述の『ホモ・デウス』の中で著者のハラリは、それが大きな課題であると宣言するが、その答えは彼の本の中には書かれていない。過去の著作も含めて、ウエルベックの小説の主人公たちは、人生の「意味」をいったん性交に求めていると言ってもよいのかもしれない。ウエルベックが露悪的な度が過ぎると感じるくらいに性交にいつもこだわるのはそのためなのだ。ハラリの本は素晴らしいが、性交について書かれていることがあまりに少ないとウエルベックは文句をつけるかもしれない。あれだけ、網羅的に人類の課題を取り上げているにも関わらず、ハラリは性について語るところが少ない。『21 lessons』で、自身が同性愛者であることを告白しているが、それにも関わらずである。かのミシェル・フーコーも、最後にたどり着いたのは『性の歴史』である。もはや人生の意味という点において、性交にしか希望はないのかもしれないが、君たちはどう思う、というのがウエルベックのメッセージなのだろうか。もちろんそこにも答えはないだろうよということが小説の中でも示される。その希望は年齢とともに残酷なまでに削られていくことが主人公の行動と独白によって示される。意味のある性交は、いつも過去の達成されなかった性交のそうであったかもしれないという悔恨を伴う回想でしかない。

    もちろん、いまだに宗教にその意味を求めている人もいる。人によっては生殖(Reproduction)に意味を求めるかもしれない。それは遺伝子の子孫への伝達という意味もあり、どことなく科学的根拠も持つことができそうだし、近代的な家族の倫理にも沿うために有効かもしれない。しかしながら遺伝子の継続性も家族の紐帯もヒューマニズムが生んだ虚構であり、科学が指し示すものを考慮するとその意味はわれわれの手をすり抜けていく。だからこそ、意味は「今ここ」を目指し、だからこそ失敗することを正しく認識しながらもウエルベックの主人公は純粋な「今ここ」での性交による「幸福」に可能性を見るのである。

    「本書はまた、一種の幸福論でもあります」―― 訳者あとがきにそう書く。その指摘はおそらくはかなり的を射ている。よい小説はいつも、いくつもの解釈の余地を読者に残す。あなたが20歳代なのか、50歳代なのかで、男性なのか女性なのか、それとも同性愛者なのかで、この小説は大きくその相貌を変える。「幸福」は、内分泌系の制御によって生化学的に制御することができる。しかし、なぜかそれは完全ではない。「幸福」が内分泌系の制御だけでは定義することがおそらくはできないのであれば、それは将来どのような形を取り得るのだろうか。

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    『ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309227368
    『ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309227376
    『21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考』(ユヴァル・ノア・ハラリ)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309227880
    『ある島の可能性』(ミシェル・ウエルベック)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309464173
    『服従』(ミシェル・ウエルベック)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309464408

  • 本書を読み終えるやいなや、古井由吉氏の死を知る。

    本書が露悪的で猥褻で皮肉であるにもかかわらず、どうしてこんなにも魅力があるのだろうと不思議に思っていた矢先だった。

    ここで描かれる、いわば描き「分けられる」取り返しのなさは、それが本作における「帰結」だからだと思った。

    古井小説においてはむしろそれが前提だった。
    いずれにしろきっと、似たような現象が起きているのだ。

  • 上流階級のセックスが全てだったフランス人おじさん。
    加齢とともに性欲減少になってきた時期に、若い日本人彼女の「不倫」が発覚し、それをきっかけに現実社会から蒸発、放浪の旅に出ます。
    放浪の中で、過去に関係を持った女性達のことを思い出し、その中で女性を真っ直ぐに愛した日々があったことに気づき、愕然とします。

    幸せって何なんでしょう。シンプルだけど抽象的で何をどう考えたらいいのか。考えれば考えるほどこんがらがってきて、結局途方にくれてしまいます。
    でも、シンプルに、
    愛する信頼できる人とつながり、その人を愛すこと
    やっぱりそれだったんすね、セックス大好きおじさん。

    幸せは、若い時にはなかなか認識することができません。幸せは、かつてあったものという形で私たちの認識にたどり着いて、失われた時にようやくそれが幸せだったと気づきがちです。
    なんでかというと、若い時は残念ながらものごとを知らず、未来はもちろん一度たりとも経験したことはなく、精度の高い未来予測の方法はどこにもなく、若さは漠然と未来に希望を持たせる傾向があるからです。
    特にお金とか地位とか名誉とかを幸せと勘違いしがちですが、そんな「幸せな」人でも、不幸を感じているんですよね。

    私たちが幸せに過ごすためにできることは一体なんなのでしょう。愛すべき人を愛し続けるためにはどうしたらよいのでしょう。
    素敵な相手がいたらとにもかくにも結婚してしまう。
    お酒は控える。自分の信念に凝り固まりすぎない。神の恩寵を受けられることを祈る。
    少なくとも、頭の良さ、育ちの良さ、知識、実務力、経済力といった世間で羨望の対象とされるものは、いやはや幸せを掴んで離さないためにはそんなに大した役にも立ちそうもありません。

    私は今が幸せだと思えているのか、幸せと寄り添って歩んでいけるのか、失った幸せはまたこの人生に現れるのか。

    旅はまだ続く。

  • 死を考えながら幸福になる夢を抱き、慎重に考えてはバカな行動をとり、愛を渇望しながらそれを裏切り、人を避けるのに孤独を嫌う。こんな主人公に現代人はどこか心当たりがあるのではないだろうか?現代人が抱える様々な社会問題が詰まっている小説(でも、堅苦しくなく、読みやすいし、面白い)。この疲れ切った主人公の話に名前を付けるとしたら・・・これがまさに「生きること」なのかもしれない。

  • 文学がもはやその影響力を失いつつある現代において、最もアクチュアルな作家を一人選べと言われれば、私は疑うことなくミシェル・ウエルベックを選ぶ。ウエルベックは前作の『服従』において、2022年のフランスを舞台に、イスラム教移民による政府が樹立されたという架空のシナリオを描きつつ、実はそれが架空とも言い切れない可能性を持っているということを我々に突き付けた。

    そうした鋭い時代感覚を持つウエルベックが本作で取り上げたのは、愛なき時代に孤立する人間の姿である。主人公はフランスの農政に関与しており、自らの苦悩と並行するように、EUにおける農業市場の自由化により破綻を余儀なくされるフランスの農家・畜産家の苦悩が描かれる。

    『服従』ほどの衝撃はなく、極めてパーソナルな小説ではあるが、救いのなさから暗澹たる気持ちになる。それでもページが止まらないのは、希代のストーリーテラーたるウエルベックの力量故である。

  • 初めて読んだウェルベック作品。
    主人公の白人ブルシット高級取りヘテロ男性に共感できるところはあまりない。
    だが、彼が感じている問題は共有している。

    何というか、この作品で語られるほどセックスが救いになるとも思えなくても、例えばそれじゃない何かに救いとか希望を持ってる読者でも、この作品内に充満している「閉塞感」「手遅れ感」「世界から置いてかれている感覚」を受け取れることは出来るのではないか、少なくとも私は感じた。

    主人公が名前について言及したり、自分をハリソン・フォードと比較したり、「見かけより男性性が伴っていない」こと。また喫煙に代表される、世の中のあらゆる動きに対して「ついていけていない」こと。
    (実際、グローバリゼーションとそれに伴う多様化、ダイバーシティの受け入れについていけない、特に自分が幸せを感じられる状態だとついていけない、とは思う。農業の現状にプロテストした貴族の友人の悲劇の後に、巨大スーパーに寄ったシーンなんかは、多国籍企業に支配された現代における、心地よさを伴うほどの無力感、そんなものに打ちひしがれる。)

    昔ながらのマッチョイズムを誇ることも、両親の時代のような男女関係を築くことも、現代に迎合することもできない。(西洋は口唇期に戻ったのだ)不能状態に陥っている。そして倦怠、緩慢な死。幸せな老後を夢想できる時代はとっくに終わっている。

    それにしてもやはり、フランスだからか、とにかく恋愛に重きを置きすぎてる感があったので、個人的好みで星3です。

  • 訳者あとがき等を読む限り、やはりというか、現代西欧的価値基準(SDGs的とでも言おうか)からの本書に対する微妙な受け止めが伺えるわけだが、ヘテロ白人男性の鬱病的世界観に基づく露悪的恋愛小説…本書をこのように受け止めてしまうことまでを含めて、著者によるメタ小説的な仕掛けではないかと思えるほど挑発的な小説である。
    本書の主人公とたまたま私も同世代だ。日仏の違いはあれど、冷戦体制が崩壊しリベラルな民主主義と自由主義経済が単一規範として世界を覆う中で青年期を迎え、多様性と自己決定権に基づく現代の価値観が急速に拡散・固定化する中で成長し、行動面においては究極の自由が与えられ(あるいは究極の自由へせき立てられ)ながら、経済や恋愛感情や肉体の節理に縛られて死から逆算する人生(まず管理費を差し引いて…)を強いられる、おそらくは人類初の世代…。
    主人公は抗うつ薬の処方と恋愛という極めて個人的な、現代の価値観に抵触しない手法に出口を求めようとするが、そのために完全な狂気に落ち込み、紙一重のところで行動を起こすことを踏みとどまる。ただ、踏みとどまったとはいえ、その後の生に救いがあるわけではない。
    途中、主人公の親友を通して農業問題をめぐる閉塞状況が描かれる(もちろん貴族階級の親友は自由貿易と対立する側である)。そこで親友は行動を踏みとどまらなかったわけだが、とはいえ、状況に風穴が開くわけでは、もちろんない。
    現代の自由な恋愛観に首まで浸かったきらびやかな青春を謳歌しながら、一方では日本人恋人の自由過ぎる行動には吐き気を催したりもしつつ、中年期の衰えにうろたえて精神に変調をきたしたことで、親の遺産を持って(この両親の死に方も現代の寓話的だ)俗世からの離脱を求め右往左往する中年男の「負け犬の遠吠え」…まとめればそんな話ではあるのだが、私の誤読でなければ、ここで戯画化されているのは何も主人公の属性ばかりでなく、行間から立ち上る不安はどこか捨て置けない読後感を残す。
    「文明は倦怠によって死ぬ」
    二重三重の強固な見えない檻の中で、最大限の自由が与えられた生の帰結として、著者は非常に悲観的な見通しを示している。

  • 前作『服従』が面白かったので楽しみにしていたのだが、これはそんなでもなかった。おっかしいなあと思って『服従』読了時の感想(こういうときブクログは便利)を読み返してみたのだけれど、著者というよりわたしの感受性がこの数年で変化したのかもしれない。語り手に共犯者めいた感情を抱いてニヤニヤする気にも、ともに絶望する気にも、今のわたしにはなれなかった。ちょっとね、いい歳して「ぼくは」「ぼくは」って五月蠅いんだよ、と思ってしまったのよね。とは言え、ところどころに書き写しておきたかったと思うレベルの鋭い&笑える名文が混ざり込んでいたのはたしか。
    OL時代、パリ駐在経験のあるおっさんが「だだっ広い農村部の美しい景色を見なけりゃほんとのフランスを見たことにはならない」みたいなことを言ってたのを覚えているのだけれど、その頃からフランスも日本も変わってしまったんだろうなあ。わたしが内向きに必死こいてるあいだに世界はどこでどう変わったのか知りたいと思った。前作を読んだときにも思ったけど、ウェルベックを読みこなすには自分もう少し教養が必要なのだ。
    あと、P82 冒頭の「人生においてはいつも、アパートの管理費を出費から引いて計算し始める時が来る」ってところ、「出費から引いて」に「幸福の引き算」とルビが振ってあって、このあとも「管理費を出費から」って表現は出てくるのだけど、どうにも意味がわからなかった(けど、キモなのではないかと思う)ので、どなたか教えてほしい…。

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著者プロフィール

1958年フランス生まれ。ヨーロッパを代表する作家。98年『素粒子』がベストセラー。2010年『地図と領土』でゴンクール賞。15年には『服従』が世界中で大きな話題を呼んだ。他に『ある島の可能性』など。

「2023年 『滅ぼす 下』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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