- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309028361
感想・レビュー・書評
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あなたはホテルをチェックアウトする際に、利用した部屋をどんな状態にして立ち去りますか?
さてどうでしょう?私は、使ったものは極力元あった場所に戻して、リネン類はまとめて同じ場所に置くということを意識しています。もちろん、忘れ物がないかはよくチェックします。そして、私たちが立ち去った後の部屋は次に利用する人のために部屋を元通りにする人がお仕事に入られます。そんな人たち、つまりホテルの『客室係』の視点を意識したことがあるでしょうか?数時間のホテルでの滞在。忘れ物などないはずの部屋。しかし、そんな部屋には、『その人の痕跡を留める証拠は、部屋中に散らばっている』という『客室係』の視点。そんな彼らは『その部屋に泊まったのがどんな人物なのか、分かる』のだそうです。人は、人と接する中で、会話していく中で、その関係性を深め繋がりを作っていきます。しかし、そんな繋がりは必ずしも人と人とが直接接する中で生まれていくとは限りません。『そこにいるけど、いないも同じ』というような職業もこの世には多々あります。そして、直接の繋がりを持たないそんな職業の人たちとも人は心を通じ合わせることができるのです。一度も会ったことがないのに『こうして書棚の秘密は私とB、二人だけのものになった』と繋がりを作ることさえできるのです。そんな不思議な繋がり、まさかの接点をきっかけに人と人との間に繋がりが生まれることに光を当てるこの作品。それは、小川洋子さんが綴られる、普段光が当たらない人たちに光を当てていく物語です。
六つの短編から構成されたこの作品。短編間に直接的な関係はありませんが、書名にある通り”移動する”ということがその物語の中に描かれていく、そんな短編が集まっています。そして、小川さんならではの独特な世界観もいつもの通りですが、この作品では普段私たちが意識しない、もしくは印象に残りづらい職業の人たちにも光を当てていく点にとても心を魅かれました。そんな中でも表題作の〈約束された移動〉には、とても興味深い人物の視点を用いて作品冒頭からは予想もできないまさかの結末へと物語が語られていきます。
『ハリウッド俳優のBはすっかり落ちぶれてしまい、スクリーンで姿を見ることもなくな』り、『凋落の影は中年を過ぎたあたりから少しずつ色濃くなりはじめ』、『かつての大理石は、腐った老木になり果ててしまった』と俳優Bのことを語るのは主人公の『私』。そんな『私』は、『ずっと変わらずデビュー作』が『一番のお気に入り』だと言います。『スタートしてからちょうど十八分四十秒後』のシーンを最も愛する『私』は、そのシーンで俳優Bが語る話が『死んだ祖母が繰り返し語ってくれたお話』であると過去を振り返ります。『昔々、この町で万国博覧会が開かれた時、船で運ばれてきた十六頭の象たちが、港から会場まで、東へ向かって川沿いの道を行進したんだよ』というそのお話。『見物人たちが大勢集まった』中、『河口の橋のたもとで赤ちゃんが生まれた』というハプニングが起こり『大行進を祝福するのに、これ以上の出来事があるだろうか』と思った祖母は『ああ、これはあらかじめ約束された移動なのだ、と』誰もが祈りを捧げたと語りました。そんな『私』は『客室係』となり、『一年もたたないうち、その部屋に泊まったのがどんな人物なのか、分かるようになった』と語ります。『いくら念入りに消臭剤を用いようと、夜を過ごした一人の人間は、何かしらにおいを残してゆく』、『その人の痕跡を留める証拠は、部屋中に散らばっている』と続けます。そして、『入社三年め、ロイヤルスイートの担当になった『私』は、『毎日数時間、その場所にいられるだけで幸福』と感じて働き続けます。『ロイヤルスイートを愛する一番の理由は、リビングの壁一面を覆う書棚だ』という『私』。『千冊を超える本がお行儀よく出番を待ってい』るのを見て『うっとりと背表紙を眺める』『私』。そんな中『Bが初めてロイヤルスイートに宿泊』します。『人気が急上昇していたさなか』だった俳優B。『三泊したのち、Bはチェックアウトしていった』と、彼が後にした部屋の本棚の前に立って違和感を感じます。『間違いなくそこには、一冊の本があったはずなのだ』と一冊の本がなくなっていることに気づいた『私』は、『千冊のうちの一冊が消えても、きっと誰も気づかない』と感じ、『両隣の本を寄せて、そっと隙間を塞』ぎました。『そこにあった本は、どうしてもそれを必要としている人の手元へ移動したのだ』と思う『私』は、一方で『書棚の秘密は私とB、二人だけのものになった』と考えます。その後も同じことが繰り返され、『Bがロイヤルスイートに宿泊したあと、書棚の本が一冊ずつ消えてゆくのは、私たちの間で揺るぎない約束事になっていった』という書棚の秘密。そして年月が流れ…というこの短編。ホテルの客室係という普段、光が当たることのない職業に就く『私』の目を通して、人と人とが直接言葉を交わさない中でも心と心を通じ合わせていくことがあるという非常に面白い感覚を捉えた好編だと思いました。
書名にもある通り、”移動する”ということにも焦点が当たるこの作品ですが、私が、より興味を魅かれたのは、『そこにいるけど、いないも同じ』という感覚に関する様々な角度からの描写でした。それは特に前半の三つの短編で取り上げられるさまざまな職業に光が当たるものです。このレビューでは、その点に拘ってみたいと思います。
まずは一編目の〈約束された移動〉の主人公である『私』ですが、ホテルの『客室係』を長年勤めています。私たちはホテルに宿泊し、チェックアウトで部屋を後にします。その時、利用した部屋がその後どうなるかということに意識を払うことはないと思います。ホテルによっては部屋を清掃してくださった人の名前が机の上に置かれたりする場合もありますが、だからといって殊更に『客室係』のことを意識したりはしません。しかし一方で『客室係』の『私』の視点から見ると、私たちが去った部屋には『その人の痕跡を留める証拠は、部屋中に散らばっている』と見えるようです。『本人たちはまさかスリッパや枕が、自ら何ものであるかの証拠になるなどとは気づいてもいない』というまさかの『客室係』の視点からは、私たちは『あらゆる何かを落としてゆく』存在でもあるようです。そんな場面で小川さんらしい記述が登場します。『忘れ物とは違う、回収不可能な、肉体からの落下物』として挙げられるのは『代表は髪の毛』、そして、その他にも『フケ、爪、痰、目やに、耳垢、瘡蓋といったもろもろが落下する』というモノにこだわる小川さんらしく淡々とモノを並列させる記述。では、この記述を読んでどう感じるでしょうか。これらはいずれも私たちにとっては人前に晒すには恥ずかしいもの、ヒトの恥部と言っても良い物ばかりだと思います。そんなかつて私たちに属していたものを『落下物』としてホテルの部屋に私たちは残してきているんだ!と気付かされるこの短編の視点には、とても衝撃を受けました。意識がなかっただけに余計に感じるその衝撃の大きさ。そして、主人公である『私』は、利用客が去った部屋から『客室係になって一年もたたないうち、その部屋に泊まったのがどんな人物なのか、分かるようになった』と語ります。『いくら念入りに消臭剤を用いようと、夜を過ごした一人の人間は、何かしらにおいを残してゆく』という私たちの消せない痕跡。普段意識することのないチェックアウトした後の部屋に残ってしまう痕跡、ホテルを利用するのが怖くも感じてくると共に『そこにいるけど、いないも同じ』という『客室係』の存在を強く感じました。そんなこの短編では、『私が接するのを許されているのは、いつでも痕跡だけだった』という『客室係』の『私』が、直接言葉を交わさずに、『こうして書棚の秘密は私とB、二人だけのものになった』と部屋の利用客と心を交わす様が『私』視点で描かれていきます。なんとも不思議な感覚の漂う小川さんならではの描写にとても魅せられました。
そして次の二編目〈ダイアナとバーバラ〉では、『市民病院の一階ロビーで案内係』をしている主人公・バーバラが、かつて『エスカレーター補助員』をしていた時のことを語ります。さて、あなたは『エスカレーター補助員』という職業を意識したことがあるでしょうか?『補助員が手を差し出すのはつまり、良きタイミングを伝えるための合図』で『ほんの一瞬、まばたき一回くらいの間』接するだけというその職業。そんな職業の人にとって大切なのは『客はまるで、一人でエスカレーターに乗れたかのような錯覚に陥る』という結果論に導くことだと語ります。また、空港の『乗り継ぎ補助員』という職業も登場します。『簡単な理由で飛行機はすぐに遅れ』るため、そこに登場するのがこの役割。急いでいる乗客にとっては到着してお礼は言うも『ゲートに消えてゆく時にはもう、背後に立っている少年の顔など忘れてしまい、二度と思い出すこともない』という存在感があるようでないその役割。そして、三編目の〈元迷子係の黒目〉では、『デパートには迷子にうってつけの場所が、そこかしこにあった』と『迷子係』が登場します。迷子という状態は一刻も早く解消されるべきものです。見つかるのが当たり前、見つかってしまえばそれで終わりです。従って『皆すぐに、誰が迷子を見つけてきたか忘れてしまう』と役割が終われば存在自体忘れられてしまう『迷子係』。まさしく、『そこにいるけど、いないも同じ』という役割を果たしている人たちがこの世にはたくさんいらっしゃるという事実に気付かされます。小川さんの作品では、私たちの身の回りにあるモノに一つひとつ光を当てていく描写が印象的ですが、この作品では、普段私たちが意識することのない、まさしく『そこにいるけど、いないも同じ』という人たちの存在、そしてその極めて短時間の関係性の中で、確かに人と人とが繋がる瞬間があったことを感じることができたように思います。
『働いている人を描写するときがいちばん、その人の本質がよくわかります』と語る小川さん。『そこにはかならず美があります』、『仕事をする理由はいろいろあるけれど、そういった目的を逸脱した境地に達しますよね。そこが人間の美徳かなと思います』と続ける小川さんが描く、普段意識することの少ない職業に就く人たちに光を当てるこの作品。『そこにいるけど、いないも同じ』という人たちの姿を通じて、人と人との繋がりを考える物語。六つの短編に描き出されるふわっとした優しさを感じる物語の中に、静かに浮かび上がる人とモノの美しさ。今まで読んだ小川さんの短編集の中で最も心を囚われた作品でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
短編集。小川さんの本は摘み食いでたくさんは読んでないが、懐かしさというかなんとなく温度や湿度が似ている感じがする。『約束された移動』『ダイアナとバーバラ』『巨人の接待』が心に残った。
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小川作品には時折、いわゆるイタい人が登場する。
例えば表題作のハウスキーパー。
俳優Bがスイートルームに宿泊する度に持ち去る本と同じものを購入し読み込み、Bのメッセージを読み取ろうとする。さらにはBが落とした髪の毛を丁寧に集め束にして名札の裏に貼り付ける。
例えば「ダイアナとバーバラ」の老女バーバラ。
亡くなった元ダイアナ妃の写真集を元に、彼女が着ていたドレスを忠実に再現しそれを着てショッピングモールに出かける。だが同じ材質の布や素材ではないし同じ高い技術を持っているわけではないドレスはどこか歪で、ショッピングモールの客たちの注目を浴びることになる。
例えば「黒子羊はどこへ」の託児所園長。
幼かったJが二十年前にくれた、事務用クリップと厚紙とビーズと木綿糸で作ったイヤリングを毎週身に着け、成長し歌手となったJの歌声を聴きにナイトクラブへ行く。だが中に入る勇気はなく、裏口のゴミ箱の上で微かに聞こえるJの歌声に必死に耳を傾ける。
極めつけは「寄生」の老女。
恋人にプロポーズをしにレストランへ行く青年を五十年前に生き別れた息子だと言い張り、青年の体にくっついて離れない。交番に行ってもずっとくっついたままだ。
何とも危ない人たちなのだが、これが小川さんの手に掛かればたちまち細やかで穏やかな物語に変わる。
共通して言えるのは、小川作品に出てくる人々はどんなささやかな作業、取るに足らない仕事であっても決して手を抜かない。
隅々まで見渡し、どんな小さな隙間もひっそりと潜んでいる影にも視線を張り巡らし、あるときは隙間を埋め、あるときは余計なものを取り除き、あるべき姿に戻していく。
そして忘れてはいけないのは、彼らは静けさと穏やかさを好む。誰かを傷つけようなどはもってのほか、決して相手に悟られずただ密やかに自分のこだわりを満たす作業を続けている。
周囲の人々も実に理解的だ。ハウスキーパーの同僚であるマッサージ師、バーバラの孫、老女に寄生された青年。
そのほかにも元迷子係、巨人の通訳、園長を見守る黒子羊…皆彼らが穏やかに静かに過ごすために心を配っている。
一見歪で危険な話も表現次第でこれほど違って見える。
やはり小川さんは止められない。 -
不思議な読後感。ただこの不思議さはなんと形容すればいいのだろうか。
物語にはたいてい、結末が用意されているが、この短編集は全てが終わることなく、この後にも主人公たちは日々を過ごしていく。
どんなオチがあるのだろうか、と期待しながら読むと、物語に何を期待して読んでいるのか分かってしまう。
物語れるほどのストーリーに溢れた人生を生きる人間なんてそれほどいないのに、小説の中にそれを求めてしまう自分。
それこそが日常なのだと思い知らされたけれど、やはりどことなくズレていて、現実との距離感を少し感じさせる。
「博士の愛した数式」とは全く異なる読後感であった。 -
喧しくない、押しつけがましくもない小説。
雰囲気が好き。 -
出版社のHPより:静謐な筆致で哀しくも愛おしい人の人生を描く6つの傑作短編集
感想:久々に読んだ小川洋子さんの本。
海外小説を読んでいるような感じがします。
各章に、人物や仕事などの何かに強いこだわりをもった人物が登場しますが、その人達の奇妙な様子ばかりに目がいってしまい、私にとっては読み解くのが難しい本でした。出版社のHPに載っている、小川洋子さんの解題を読んで、やっとわかった部分が多かったです。各章にロマンティックな部分があったことに気付きました。ストーリーや結末は(ひとつの章を除き)そんなに奇妙では無かったので、読みやすかったです。
ラストの”巨人の接待”が好き。
小鳥を愛する心優しい巨人と、見守る翻訳家の視点が優しくて、素敵な物語でした。
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表立って起こっていることはとてもささやかだったり密やかだったりするのに、内包されている感情や出来事には途方もない哀しみや事件が注意深く隠されている。
そういう印象を作者の作品から感じることが多いのですが、この短編集でも、表層的な静けさがとつとつと綴られながらも、ふいに、深層にある人の生々しさが時折ふっと立ち昇ってきます。そして、そのときどきにぶわっと哀しみを覚えたりすっとそれまでの描写のなにかが腑に落ちたり、と感情をそっと、でも確かに揺さぶられます。そういう内側から揺り起こされるような静けさのある展開、意外性を十二分に味わえました。
この中では「元迷子係の黒目」が好きです。最後のひとつの段落で、この短編数十ページの全ての要素を包み込み、説明し、収束させている手管の巧さが素晴らしいと思ったからです。 -
ここに出てくる人々は哀しいくらい寂しい。
その寂しさを理解してくれるものもいるが、それは枠の外側だ。
だから、小川洋子の作品は切なくて哀しくて、愛しい。
彼らにとって、孤独も大事に抱きしめているべきものだから、誰もその世界に入ることはできない。
だから、読み終えた時に寂しいと思うのだろう。 -
「約束された移動」 小川洋子(著)
2019 11/30 初版発行 (株)河出書房新社
2020 1/3 読了
心の隅を
フッと揺らすような短編集。
ひっそりと健気に生きている女性の姿が描かれています。
時代の波に飲み込まれ翻弄される女性。
控える事しか選択肢を持たない女性。
自分の声を殺して
自分の場所に収まるかのように
自分の祖母や母親のことのように
切ない物語が美しい言葉で描かれています。 -
短編集。
主人公はいずれも、市井の人たち。
ちょっと変わった人たち?
いいえ、きっと私も他人から見たら、ちょっと変わった人なんだ。
そんな人達を、冷静に淡々と描く小川洋子さん。余計な感情が入ってないから、自分(読者)の感情で読めるのかも。でも、冷たいという訳ではないんだな。そこに私は惹かれるのかも。