室内生活 スローで過剰な読書論 (日経ビジネス人文庫)

著者 :
  • 日経BP 日本経済新聞出版
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (560ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784296116997

作品紹介・あらすじ

著名な経営学者・楠木建氏がこれまでに手掛けた書籍解説のほぼすべてを網羅した「全書籍解説・読書論集」。

曰く「読書は、アスリートにとっての基礎練習。本さえあれば、1年365日、呼吸をするように思考を鍛えられる」。
著者の貪欲なまでの研究マインドに裏付けられた読書術を、あますことなく体験できる決定版読書論。

感想・レビュー・書評

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  • 様々なジャンルの書評が一気に読める。それ以外に著者がいかに本好きかと言う事が伝わってきてとても共感できて良い。本ほど格安価格で提供される娯楽はないと言う意見には完全に同意する。
    書評集なのにヴィトゲンシュタインが全く理解できないと正直に書いている部分も好感がもてる。
    最後の書評以外の室内生活については流し読みだが、『白い巨塔』はぜひ読みたいと思った。

  • 読めば読みたくなる書評集という謳い文句のとおり、読み進めながら何冊か注文することになった。書評という形式のおかげで「経営戦略」とは何かが繰り返し語られるので、記憶にも残る。
    巻末の「室内生活」について書かれた章もなかなか面白かった。評者もインドア派であるが、著者の徹底ぶりには脱帽する。

  • ビジネス書の書評を読んで、たくさん読んだ気になるつもりが、面白くて逆に読みたい本が増えてしまった。

    ○気になった本
     アダム・グラント「GIVE&TAKE」
     マイケル・マローン「インテル」
     マイク・マッツェオ「道端の経済学」
     塩野七生「男の肖像」
     松田雄馬「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」

    一番興味深かったのは、インテルの創業者と次代の3人の経営層の人間関係。

    前章でギバーやテイカーといった成功する人の話の後に、全く傾向の違う3人の経営者の関係性の話。
    ビジネスで成功するのと、人から慕われるのはイコールではないけど、なくもない。

    生きた人間相手のビジネス成功の法則はない、という法則が根底にあり、センスとやる気とマネジメント力(ここでは社員の「管理」ではなく、誰に何を任せるかとい「戦術と重用」)を磨くことが大事なんだなぁと。

    経営者の人物伝を読んでみるのも面白いかもしれない。

  • ビバ希薄化。
    絶対この著者はオタクだと思います。
    面白い!

  • p.2023/2/21

  • 楠木さんの絶対悲観主義を読んで、「これは共感できるところが多い」と感じ入った。

    本書の内容について深く考えずに購入したのだが、主に楠木さんが書かれた書評が収められている本であることがわかった。

    書評の対象となっている本を自分が読んだわけではないのだが、そのあらましの内容と楠木さんのものの考え方がわかって、面白いかもしれない。と考え、読み始めた、

    堅めのビジネス書が多く、それらに対する同氏の考え方が反映されており納得するところが多くあった。

    思わず買いたくなる本も多いのだが、積ん読になりそうなので思いとどまっている。

  • 稀代の経営学者による珠玉の書評集。ビジネス書を中心に書籍の内容と要点を、縦横無尽に語り尽くす。

  • 『The Culture Code 最強チームをつくる方法』ダニエル・コイル
     製造機械の生産性がいきなり倍になる、投入できる資金量が突然5倍になるということはあまり期待できない。しかし、現場で働く人間のモティベーションは、やりようによっては2倍3倍どころか10倍にもなりうる。しかも、それがチームとなれば、ヒトの可変性は掛け算で増幅する。1+1が3にも5にもなる。チームは「地球最大級の力」を持つ――著者の言葉はあながち大げさとはいえない。逆に、劣悪なチームは個人の力を何分の一にも低下させる。果てしない悪循環を生み出すことにもなる。
     組織力が構造やシステムの設計の問題であるとしたら、チーム力はひとえに文化――そこにいる人びとに共有されている価値観――にかかっている。本書の狙いは優れたチームの基盤にある文化を解き明かすことにある。
     メッセージは実にシンプル。チーム力を醸成する文化は「安全な環境」「弱さの開示」「共通の目標」の3つに集約される。

    『イノベーションの5つの原則』カーティス・R・カールソン、ウィリアム・W・ウィルモット
     イノベーションを生み出すためには多様性がカギになるといわれて久しい。日本でも「ダイバーシティ」という言葉がよくつかわれるようになった。確かに、アイデアを生むために多様性は大切である。さまざまな異文化を許容するカルチャーや組織のカベを取り払った議論も必要だ。本書でも、多彩な人材のリアクションを活用して顧客価値を生み出すための「ウォータリング・ホール」という場づくりが提案されている。
     ところが、最近では「ダイバーシティ」のかけ声のもとに、多様性を大きくすることそれ自体が自己目的化してしまうことが少なくない。多様性を確保すればイノベーションが出てくるという安直な誤解があるように思う。
     注意すべきは「多様性のワナ」に陥らないことだ。イノベーションのカギを握るのは多様性ではない。そのあとにくる「統合」にこのイノベーション・マネジメント本質がある。「創造性には2種類ある。ゼロから一を創り出すものと、一から千を創り出すものだ」という西和彦の言葉を引用して、イノベーションは後者の創造性であると著者はいう。
     世界を変える可能性を持つアイデアを見つけるのはそれほど難しいことではない。イノベーションが困難な真の理由は「一から千を創り出す」プロセスを動かすのが難しいからである。多くの有能な人材は、アイデアの創出を受けて市場化し、市場で成果を出すまで何年もの時間をかけて助け合いながら動かなければならない。著者は「イノベーションは共同作業以外の何ものでもない」と断言する。ランダムに生まれるアイデアを市場での具体的な成果に向けて「統合」する。これこそがイノベーションに突きつけられた課題なのである。
     著者が繰り返し触れている事例にテレビのイノベーションがある。1927年にテレビを発明したのはフィロ・ファーンズワースだったが、1939年にテレビ放送の仕組みを作り、消費者に向けた放送を始めたのはデビッド・サーノフだ。サーノフはテレビやカメラといった機械だけでなく、放送局、番組コンテンツ、広告を束ねたひとつの産業を駆逐した。ファーンズワースが「発明者」だったのに対して、サーノフは「イノベーター」だった。
    「発明王」と言われたトーマス・エジソンが真の意味で巨大な存在だったのは、彼の仕事の目的が発明にとどまらずイノベーションを最初から射程に入れていたことにある。エジソンの代表的な発明である電球にしても、実用的な送電システムによる電力の供給がなければイノベーションとはなり得なかった。エジソンが設立したゼネラル・エレクトリック(GE)は発明なりアイデアをイノベーションまで昇華させる統合装置であった。ここまで踏み込んだところにエジソンのイノベーターとしての凄味がある。

    「井の中の蛙、大海を知らず」。ポピュラーなことわざである
    この言葉は中国の荘子が伝えた言葉で、原点は秋水篇にある寓話がもとになっているという。井戸のふちに足をかけていた蛙が、海に住む亀にこう言った。「僕はこの古井戸に住みながら青空を眺めている。君も入ってみなよ」。しかし亀は「井戸の外には君の知らない大きな海があるんだ。私は狭い井戸になんか入りたくないよ」と返した。蛙は自分の知らない世界があることに驚き、亀は蛙の知る世界の狭さにあきれた、という話である。狭い世界に閉じこもって、広い世界のあることを知らない。狭い知識にとらわれて大局的な判断のできない状態のたとえとして、このところ日本企業の内向きの姿勢を批判する決まり文句になっている。
     ところで、このことわざには続きがある。「井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る」。ここには、一つの世界にとどまるところで、その世界をより深掘りし、独自の考察を得ることができるという意味が込められている。面白いのは、これが日本バージョンであるということだ。中国初のオリジナル版が日本に来て、「されど空の深さを知る」というオチが新たに付加されたという。ここにも「一意専心」「たたき上げ」の思想がある。
     実際、これまでに日本企業から生まれたイノベーションの成功例には、一意専心の成果という色彩が強い。たとえば、任天堂「Wii」。絵の迫力ではソニーのプレイステーション3に負けるが、新しいゲームの楽しみ方を創造し、世の中を変えたイノベーションであった。技術的に優れたハードウェアを開発しようとしても、ソニーの強力な演算チップには勝てるわけがない。そこで任天堂は昔から手がけてきた花札の世界を目指した。花札というゲームの価値は、ハードウェア(たとえば花札に描かれた「猪鹿蝶」の綺麗さ)ではなく、「ちくしょう!」「よしきた!」とゲームに興じる人間のインタラクションになる。Wiiはそうした花札の世界に原点回帰し、「人間のインタラクションが生み出す面白さ」の本質を見据えたコンセプトをつくることによって新しいストーリーをゲームの世界に持ち込んだ。これがイノベーションとして結実したという事例である。
     地味な産業材の分野でも、マブチモーターの標準化された小型モーターや東レの炭素繊維などのイノベーションの成功は、その背後に一意専心の論理がある。ユニクロの「ヒートテック」もまた、東レとがっちり組んで、長い時間をかけて素材開発からコミットした結果として生まれたイノベーションだった。ヒートテックはアパレルの世界に新しいカテゴリーをつくり、人々の生活スタイルを変えるに至った。それはふわふわした流行を追いがちなアパレル業界にあって、「ライフウェア」というコンセプトを深掘りしていくというファーストリテイリングの基本姿勢がなければ決して成し得なかったイノベーションだった。
     本書はイノベーション・マネジメントに一意専心してきた著者の知見が詰まった「たたき上げ」の方法論である。日本の読者が、今度は自らのイノベーションに向き合うきっかけを提供できれば、監訳者としてそれに優る喜びはない。

    『GREAT@WORK 効率を超える力』モートン・ハンセン
     ある企業買収のプロジェクトで悪戦苦闘しているとき、ハンセンはその後長く引きずることになる「ナタリー問題」に直面する。ナタリーというのは同じプロジェクトで仕事をしていたチームメートの名前。彼女の分析をまとめたスライドは、簡潔明瞭にしてアイデアに溢れ、首尾一貫した説得力があり、美しかった。著者は彼女の仕事が自分よりも優れているという事実を認めざるを得なかった。
     しかも、ナタリーは決して残業をしないことで知られていた。仕事は午前8時から午後6時まで。休日出勤もゼロ。
     このことを知った著者は大いに動揺する。2人とも優秀であり、コンサルタントに求められる分析能力を持っている。実務経験が浅いことも共通している。しかし、ナタリーは明らかに少ない時間でよりよい仕事をしていた。つまり、一生懸命働いているのではなく、賢く働いていたのである。
    「賢く働く」とはどういうことか。著者は「ナタリー問題」に答えを出す調査プロジェクトを立ち上げる。その成果が本書である。
    <中略>
    「賢く働く」ための七つのファクターは本書の第1章から第7章でひとつずつ詳細に解説されている。データからの定量的な発見事実だけでなく、著者が直接、間接に収集したさまざまな事例の定性的な記述が豊富なため、読みやすく分かりやすい。
     七つのファクターのうちもっともインパクトがあるのは、なんといっても第1章の「することを減らして、こだわれ」だ。賢く働く人々は、優先すべきことを厳選し、選んだ分野に強いこだわりを持ち、努力を注ぎ続けている。事実、データの分析結果でもこのファクターが最も業績を左右している。
     このところ日本では、生産性向上のための「働き方改革」が叫ばれている。労働時間の削減は「働き方改革」の文脈で頻出するテーマだ。長時間労働というと日本に特徴的な問題であるかのような先入観がある。しかし、著者が調査したアメリカでも事情はそれほど変わらない。とくに高額所得のプロフェッショナルやマネージャーに限定してみれば、日本と同等かそれ以上のハードワークが常態となっている。
     第2章で分析結果が紹介されているように、プロフェッショナル1000人を対象とした調査では、94%が週に50時間以上働いている。週に65時間以上(ということは、週5日仕事をするとして、毎日13時間以上)働いていると回答した人々が50%もいた。高所得者についての調査では、35%以上の人が60時間以上働き、10%は実に80時間を超えていた。
     著者の調査は労働時間と業績との関係を明らかにしている。たしかに動労時間が長くなるほど業績は向上する。しかし、一定の限界がある。正の相関がみられるのは週当たり労働時間が30時間から50時間までの間で、それ以上になると業績は横ばいになる。65時間以上になると逆に労働時間が長くなるほど業績は低下する。
     労働時間の短縮は日米とも「働き方改革」の主要テーマだ。一見すると「することを減らせ」という本書のメッセージはこれと軌を一にするものであるように聞こえる。しかし、著者が展開する「賢く働く」という主張はこれと似て非なるものだ。
     生産性とはバランス指標、つまりインプット(例えば労働時間)を分母、アウトプット(業績や青果)を分子とする分数である。確かに「時短」は分母を小さくすることによって生産性を改善しうる。しかし、それによって分子が小さくなってしまっては元も子もない。
     生産性向上の本丸はあくまでも分子にある。アウトプットの最大化が本筋であって、インプットはそもそもアウトプットのための手段に過ぎない。「とにかく早く帰れ」「残業はするな」「職場をホワイト化しろ」という昨今の「働き方改革」の掛け声は、手段の目的化を引き起こしかねない。著者が強調する「することを減らす」は、単に労働時間を短くしましょうという話ではない。分母(インプット)と分子(アウトプット)の相互作用にまで踏み込んでいる。ここに本書のメッセージの強靭さがある。
    「することを減らす」という原則は、ようするに「優先順位づけ」であり、「選択と集中」であり、「重点化」である。それ自体はとくに目新しい論点ではない。しかし、優先事項の選択は成功のファクターの半分でしかない。することを減らしただけで満足しているだけでは、業績向上はできない。残りの半分は、選択した重点分野に「とことんこだわる」。
     生産性という指標に置き換えれば、「することを減らす」は分母の縮小、「とにかくこだわる」は分子の増大に主として関わっている。本書の議論が秀逸なのは、なぜ分母の縮小が分子の増大につながるのかという論理展開にある。凡百の「働き方改革」の議論は、この生産性の中核にある分母と分子の相互作用を無視するか軽視している。
     本書の議論で特に優れていると思うのは、物事の起きる順序、すなわち「ストーリー」に目配せが利いていることだ。「とことんこだわる→(そのために)することを減らす」ではなく、「することを減らす→(だから)とことんこだわる(ことが可能になる)」のである。裏を返せば、まずすることを減らし仕事を重点化しなければ、なかなかこだわりが持てないのが人間の本性だということだ。
     活動の範囲を広げてしまうと、著者が「複雑さの罠」と呼ぶ事態に陥る。希少資源である注意が分散してしまうのに加えて、複数の活動間の調整が必要になる。これに余計な注意を注がなければならなくなる。しかも、このコストは直接成果に結びつかない「脳内間接費」だ。分母が大きくなるだけでなく、分子にも影響を与えるため、生産性が低下する。

     あらゆる「構造」の宿命として、「終身雇用と年功序列」は徐々に時代と世の中の要請からズレてきた。1990年代になると、終身雇用と年功序列には負の側面が強くなり、構造改革の対象として認識されるにいたった。
     ごく論理的にいえば、終身雇用と年功序列は同時併用には無理がある。食い合わせとしてよろしくない。終身雇用が保証されているもとで(建前としては)全員が年功で昇進していけば、人件費の拡大や管理職ポストの増殖、固定的間接費の増大に際限がなくなる。経営は破たんする。これが道理だ。
     終身雇用を原則とするのであれば、それだけ一人一人を細かく評価し、成果や能力や役割に見合った報酬の設計が必要になる。雇用は保証するけれども、報酬はあなたの貢献次第ですよ、という話で、この方がずっと食い合わせが良い。
     いずれにせよ、「終身雇用と年功序列」がうまく回るとしたら、企業がどんどん成長し、しかもその成長が一定期間持続するという条件が前提として必要になる。昭和の高度成長期は、まさにそういう時代だった。経済は右肩上がりで成長し、会社の売り上げは鰻登り。社員はどんどん必要だし、事業の幅も広がるから、ポストもバンバン増えていく。こういう時代の状況が、「終身雇用と年功序列」の無理を引っ込めていただけ、状況が変われば剝き出しの無理が露呈する。
     環境が変化し、無理が顕在化した今、雇用や人事のみならず、高度成長期を引きずった企業の構造に改革が迫られているのは言うまでもない。しかし、前述したように、それは「構造」であるがゆえに容易ではない。
     構造的な問題がある。解決しなければならない。だから新しい制度やシステムを導入しよう――。こういう成り行きで「構造改革」に取り組む会社は枚挙にいとまがない。
     この10年を振り返ってみても、人的資源管理(「能力主義」や「成果主義」の人事評価や「即戦力重視」で「通年」の採用システム)やコーポレート・ガバナンス(経営と執行の分離、外部取締役の導入、カンパニー制の導入、EVAによる事業評価、報酬委員会や人事委員会の設置などなど)といった領域で、「先進的な制度」や「ベストプラクティス」を導入する必要性が強調されてきた。
     もっと日常的なものとしては、どうも「部門間のコミュニケーションが悪く」て、本来あるべき「全体最適が損なわれ」て、「部分最適に陥っている」、だから、「ここはひとつ組織に横串を通してプロジェクトを立ち上げよう」……。どこの会社でもよくある話だ。
     いきなり構造を変えようとする人に共通の性癖は、一撃で構造を変えることができるような(正確にいうと「変えた気分になれるような」)「飛び道具」や「必殺技」を探して回る、ということだ。いつの時代も構造改革の決め手と目される「旬の飛び道具」が現れては消えていく。
     ようするに、制度やシステムから入ると、すぐに手段の目的化が起きるのである。「ある望ましい動きや状態を実現したくて、そのための手段として制度やシステムを導入する」というそもそもの因果論理がくずれ、制度を導入しさえすれば望ましい動きや状態を実現できるはずだという甘い考えにすり替わってしまう。注意や努力の焦点が、結果として起こるべき動きや成果から逸れてしまう。制度やシステムをどのように設計するかといった手段そのものについての詳細や、さまざまあるなかでどの制度がベストなのかという手段の比較検討に多大なエネルギーが投入される。
     さまざまな問題を突き詰めれば「構造」に行き当たる。最終的には「構造」を変えなければならない。しかし、だからといって丸ごとすぐに構造全体を変えようとすると、話が一向に進まない。飛び道具の一つや二つですぐに解決できるような問題であれば、そもそも構造問題などにはならないのである。このところの取締役会改革、能力主義の人事評価システム、女性の登用を促進するための「ダイバーシティ・プログラム」、こうした制度改革にかけ声倒れの失敗例が続出する背後には「制度が先、運用は後」という勘違いがある。
     正しい順番は「運用が先、制度は後」。制度を設計してから運用に移すのではなくて、すでに実行され、成果が出ている動きを事後的に制度化するという発想に立てば、「運用上の問題」は存在しなくなる。制度は実行なり運用に「遅れて」いるぐらいでちょうどいい。
     まずは一人ひとりが自ら「賢く働く」を実践することだ。日常の仕事で生まれる小さなアクションが周囲に影響を与え、あるひとつの現場が変わる。その現場が成果をあげれば、その事実がさらに周囲に波及する。結局のところ、このダイナミズムの繰り返しの結果として、「構造」に揺さぶりがかかり、組織全体の改革につながる。
     構造は改革の直接的な対象とはなり得ない。構造改革はあくまでも結果である。現状に問題を感じ、変革を志す人は、「構造改革」の名のもとに制度設計に逃げてはいけない。本当の改革者は「構造改革」を待たないのである。
     仕事の生産性を向上させ、成果を出したいと志すビジネスパーソンはもちろん、「働き方改革」を現場でリードする人々に向けて、本書は明確な指針を提示している。

    『ビジネス・フォー・パンクス』ジェームズ・ワット
     僕にとっての本書の最大の美点、それは僕が仕事の最強の原理だと信じている「好きこそものの上手なれ」の内実を、リアルな事例で活き活きと描き出しているところにある。「好きなことを好きなようにする」。この原則がブリュードッグの経営の一挙手一投足を貫いている。
    「仕事に好き嫌いを持ち込むな」「好き嫌いで食っていけるほど世の中は甘くない」――。仕事はあくまでも「良し悪し」の世界、「好き嫌い」は仕事の後に追及しろという人が世の中少なくないのだが、仕事においてこそ好き嫌いがものを言うというのが僕の考えだ(この辺の僕の主張の詳細については、自分で勝手に「好き嫌い四部作」と呼んでいる拙著『「好き嫌い」と経営』、『「好き嫌い」と才能』、『好きなようにしてください』、『すべては「好き嫌い」から始まる』をお読みいただけると嬉しゅうございます)。
     なぜ「仕事こそ好き嫌い」なのか。単に「食っていく」ための仕事であれば、好き嫌いはとりあえず横に置いた方がいいかもしれない。四の五の言わずに与えられた仕事を期日までにきちんとやる。それで仕事としては一応回っていく。しかし、これは「マイナスがない」というだけの話。「みんなができることを自分もできる」は、プロの世界ではゼロに等しい。ゼロから他の人にはできないようなプラスを創る。そのことにおいて、「余人をもって代えがたい」とか「この人にはちょっと敵わない……」と思わせる――。これをセンスという。
     センスは特定分野のスキルを超えたところにある。逆に言えば、あれができる、これができると言われているうちはまだ本物ではない。「データ分析に優れている」であれば、その種のスキルを持っている人を連れてくれば事足りる。つまり、「余人をもって代え」られる。「ああ、この人はすごい」「この人なら何とかしてくれる」と思わせるところにセンスの正体がある。それは特定の要素に分解したり還元できない総体である。企業とか経営という総合芸術的な仕事で成功するためには、何をおいてもこのセンスが必要になる。
     総体としてのセンスは一朝一夕には手に入らない。習得するための定型的な方法も教科書も飛び道具もない。しかし、だからといって、ごく一部の天才を別にすれば、「天賦の才」というわけでもない。あっさり言ってしまえば、「普通の人」にとって、センスは継続的な錬磨の賜物である。余人をもって代えがたいほどそのことに優れているのは、それに向かって絶え間なく努力を投入し、試行錯誤を重ねてきたからに他ならない。当然にして当たり前の話だ。
     しかし、これは元も子もない話でもある。「質量ともに一定水準以上の努力を絶え間なく継続する」といっても、それができないのが「普通の人」だからだ。
     なぜ努力は続かないのか。その理由は、努力がしばしばインセンティブと表裏一体の関係にあるからだ。インセンティブは「誘因」である。文字通り、ある方向へとその人を誘うものであり、それはしばしば外在的に設定された報酬という形をとる。報酬は何もおカネや昇進に限らない。人から褒められる、承認されるというのもまた報酬である。
     インセンティブがあれば人は努力する。しかし、裏を返せば、インセンティブが効かないと努力もしなくなってしまう。ここに問題がある。
     立ち上がりの段階では、インセンティブは効果を発揮する。努力をして要求水準を達成すれば、期待した「良いこと」が手に入る。これが成功体験となり、次の「良いこと」に向かってますます努力をするようになる。しかし、遅かれ早かれ、インセンティブには終わりが来る。資源が限られている以上、単調増加的に給料を増やし続けることはできない。ポストには限りがあるのでその毎回昇進のご褒美を与え続けるわけにもいかない。毎度毎度褒められていれば、そのうちそれが当たり前になってしまう。インセンティブの効果は時間とともに低減していくのである。
     さらにいえば、努力をして報酬を手にした人はそのうちに自分の状況に満足ししまうかもしれない。仕事を始めた最初のうちはインセンティブは効きやすい。しかし、「もうこの辺でいいや……」となれば、インセンティブはもはや機能しない。
     インセンティブには即効性がある。しかし、すぐに役立つものほどすぐに役立たなくなるのが世の常だ。どうすれば普通の人々が高水準の努力を持続できるのか。ここに問題の焦点がある。
     僕の考える解決策はひとつしかない。それは「努力の娯楽化」という発想の転換である。客観的に見れば大変な努力投入を続けている。しかし当の本人はそれが理屈抜きに好きなので、主観的にはまったく努力だとは思っていない。むしろ楽しんでいる。考えてみれば、それが「努力」かどうかは当事者の主観的認識の問題だ。「努力しなきゃ……」と思った時点でもう行く先は怪しい。だとしたら、「本人がそれを努力だとは思っていない」、これしかないというのが僕の結論である。
     とにかく好きなので、誰からも強制されなくても努力をする。インセンティブは必要ない。「好き」は自分の中から自然と湧き上がってくるドライブ(動因)である。呼吸をするように自然に続けられる。それは努力というよりも、自分で勝手に「凝っている」「こだわっている」といったほうが言葉としてはしっくりくる。そのうちに能力がついてくる。成果が出る。人に必要とされ、人の役に立つことを実感できる。すると、ますますそれが好きになる。時間を忘れるほどのめり込める。時間だけでなく、我を忘れる。人に認められたいという欲が後退し、仕事そのものに没入する。「自分」が消えて、「仕事」が主語になる。ますますセンスに磨きがかかり、さらに成果が出る。――以上の連鎖を短縮すると「好きこそものの上手なれ」という古来の格言になる。
     ジェームズ・ワットという経営者は「努力の娯楽化」を地で行っている。彼とブリュードッグの人々はパンクの精神が好きで、これをドライブにして仕事をし、ブリュードッグという会社を成長させてきた。
    「良し悪し」に対する「好き嫌い」の決定的な優位は、それがネガティブな状況にやたらに強いということにある。「努力の娯楽化」のメカニズムが動き出したとしても、すぐに思い通りの成果が出るとは限らない。努力をしても思うような成果が得られないこともある。インセンティブを拠りどころにする人はその時点でくじけてしまう。努力をすれば得られると思っていた「良いこと」が起きないのだから、努力をする目的や意義を喪失してしまう。この場合も「もういいや、どうせ……」ということになり、人は努力を停止する。
     成果が出るまでには時間がかかるのが普通である。仕事生活は晴れの日ばかりではない。フルスイングで空振り、ということも少なくない。企業というタフな仕事では、むしろこっちのほうが普通だろう。本書にあるように、圧倒的な確率で、企業は失敗に終わる。状況は最初から不利。スタートアップの80%は1年半で潰れる。だからこそ、いいときも悪いときも思考と行動の軸になるような「好き」がものを言うのである。

    「自社の独自性(ブリュードッグの場合は商品であるビール)を強くすることが先決で、それが先になければあらゆるマーケティングは意味がない」という。「デジタル・マーケティング」の美名の下に軽薄な施策や手法に明け暮れている経営が多い中で、著者の主張は個別の打ち手の内容よりもその時間展開と順番にこだわっている。これは「ストーリーとしての競争戦略」という僕の持論に完璧にフィットする。
    「デジタルな仕事スタイルは結局は受身のワークスタイルに終始する。無意味なつながりを絶ち、ノイズを排除しろ」「創造は計画してできるものではない。自分のアタマで考えるスペースをつくれ」にしても、今日的な文脈でとりわけ傾聴に値する話だ。
     数多くの主張の中でも、とりわけ最高なのが、「人脈づくりに精を出すのは間抜けのすることだ」のくだり。著者は言う。「交流イベントは間抜けの集まりでしかない。自分大好きな人間たちが妄想に酔う場所だ。出来損ないのカナッペや安物のシャンパンを並べ、同類の間抜けたちから賞賛を受けて薄っぺらいエゴを満たす。……すでに何か成し遂げたかのように気取った夢想家(Wanabee)たちが、必死で賢いふりをして大物を装い、自分を優れた人間に見せようとしている。……自分こそがその場で一番の成功者なのだと思われようと全員が躍起になっている。大量のエゴとエゴが高速でぶつかり合い、すさまじいエネルギーを爆発させているような光景だ。……もう誰と知り合いだろうが関係ない。才能と知恵があれば、それで世の中に名が広まる。自分の会社を良くすることに時間を使おう。たいしてうまくないパーティー料理などどうでもいい」。この辺、何度読んでも実に味わいがある名文だ。

    『道端の経営学』マイク・マッツェオ、ポール・オイヤー、スコット・シェーファー
     経営能力の本質は「具体と抽象の往復運動」にある、というのが僕の見解だ。いうまでもなく、あらゆる商売は「具体的」な営みである。成果は具体的にしか存在しないし、経営者が繰り出すアクションや決断も具体的でなければならないし、経営上直面する音大も必ず具体的に表れる。本書の事例も、さまざまな「具体」に注目して議論を進めている。
     一方の「抽象」とは、あっさり言えば、「ようするにこういうこと」という本質についての理解だ。これが「論理」である。
    二流の経営者は「具体」の地平をひたすら右往左往する。これに対して、一流の経営者は「ようするにこういうことだ」という一段階抽象化された論理を豊かにもっている。頭の中にある、日々の具体から練り上げられた「論理の引き出し」が充実している。優れた経営者に共通の特徴だ。
     具体的なレベルでは、経営にはひとつとして同じ問題はない。ひとつひとつがそのときその場に固有の新しい現象である。そうした具体に直面したとき、優れた経営者は、自分の頭の中にある引き出しを即座に開けて、それに対する抽象化された論理を取り出し、ことの本質を見極める。その上で、抽象論理を具体のレベルに再度引き下ろす。「ようするに問題はこういうことなのだから、こうすれば解決するだろう」というように、具体的なアクションが出てくる。この一連の動きが「具体と抽象の往復運動」である。

    『模倣の経営学』井上達彦
    「模倣の経営学」というタイトル。一見して奇異に感じる人が少なくないかもしれません。独自性や差別化が何よりも大切になるのが経営の世界です。僕は競争戦略という分野で仕事をしていますが、競争戦略の本質を一言で言えば「競合他社との違いをつくる」。模倣は戦略とは正反対を向いているようにみえます。
     ところが、本書のメッセージは「模倣は独創性の源泉になりうる」「イノベーションは模倣から生まれる」。矛盾しているように聞こえます。しかし、模倣を「良い模倣」と「悪い模倣」とに区別して考えれば、この矛盾はきれいに解けます。本書の英題は"Good Imitation to Great Innovation“。独創的で革新的な経営を生み出すのはあくまでも良い模倣であって、悪い模倣であれば他社との差別化を破壊するという意味で戦略の自殺的になります。
     良い模倣と悪い模倣はどのように区別できるのか。ここに問題の核心があります。本書はこの問題をさまざまな視点から論じています。僕なりの結論は、「良い模倣が垂直的な動きであるのに対して、悪い模倣は水平的な横滑り」ということになります。
     良い模倣は具体をいったん抽象のレベルに引き上げて、そこに特定の論理を見出します。抽象レベルに引き上げてはじめて見つかる論理、著者の言葉で言えば、それが「ビジネスモデル」です。ビジネスモデルとは、「ある商売がなぜ収益を継続的に獲得できるのか」を説明する論理の体系です。
     ビジネスモデルはこれまで「仕組み」という日本語に訳されるのが普通でしたが、模倣のメカニズムに注目した本書では、「手本」という言葉が頻繁に出てきます。この「手本」という言葉、ビジネスモデルに相当する日本語としてじつにしっくりきます。個別のビジネスが埋め込まれている文脈を超えて応用可能な「商売の手本」。これがビジネスモデルの「モデル」たる所以です。
     良い模倣では真似する対象は具体的な製品やサービスや施策ではありません。手本になるのはあくまでも「なぜそれが収益をもたらすのか」という論理です。模倣する側は、論理を手本にして、それを自らの具体的なビジネスの文脈に落とし込む。ですから、模倣をしているのですが、具体のレベルでは、真似する側が実際にやることは元となったビジネスとは似ても似つかぬものになることが珍しくありません。
     これに対して、成功している他社の具体的なアクションを直接的に真似しようとする、これが悪い模倣です。良い模倣が具体と抽象の垂直的な往復運動を伴うのに対して、水平的な横滑りに終始するのが悪い模倣というわけです。
     良い模倣について、本書は数多くの興味深い例を教えてくれます。たとえば、「バナナ」「半導体」「コンビニ弁当」「ファッションアパレル」の四つのビジネスの共通点は何か、という謎かけ。具体的なレベルではまるでばらばらな商売です。しかし、抽象レベルに引き上げてその背後にある論理を考えてみると、いずれも「腐りやすい」(半導体やファッションは物理的には腐らないけれども、機能の向上や変化が激しいのですぐに陳腐化する)、したがって「賞味期限が短いため鮮度が命」であり、「価値があるうちに売り切る」がカギになるということが見えてきます。
     だとしたら、価値があるうちに売り切ることを可能にする仕組みなり経営が真似すべき「手本」として浮上してきます。たとえば、本書で紹介されているインドの露天商の経営です。当たり前の話ですが、だからといって、半導体メーカーが具体のレベルでインドの露天商の一挙手一投足を模倣しても意味はありません(もちろんそんなことはしないでしょうが)。具体のレベルでは商売がまるで違うからです。

     本書はこのような「遠い世界のお手本」、すなわち異業種や過去の成功事例から倣うことの重要性を強調しています。しかし、異業種から学ぶことそれ自体が重要なのではありません。遠い世界であるほど、具体的な事象をいったん抽象化しなければ、自社のビジネスと関連づけることはできません。つまり、遠い世界のお手本は、具体と抽象の往復運動を強制するわけです。逆に、近い世界のお手本ほど、具体レベルの「ベストプラクティス」の水平的な横滑りに陥りやすくなります。この意味で、商売の中身、地理、時間において遠いところを対象とした模倣が大切になるわけです。
     他社事例からの模倣に限らず、良い模倣を支えている具体と抽象の往復運動は、ビジネスにとって決定的に重要な知的能力だというのが僕の見解です。
     ビジネスを勉強しようという人は、「具体的で実践的な知識を習得したい」と思いがちです。ビジネスの世界では、「具体」は実践的で役に立つ、「抽象」は机上の空論で役に立たない、と決めつけてしまうような風潮がありますが、とんでもない思い違いです。良い模倣に典型的にみられるように、抽象化の思考がなければ具体についての深い理解や具体的なアクションは生まれません。抽象と具体との往復運動を繰り返す。この思考様式がもっとも「実践的」で「役に立つ」のです。
     しばしば「あの人は地アタマがいい」というような言い方をします。抽象と具体を行ったり来たりする振幅の幅の大きさと往復運動の頻度の高さ、そして脳内往復運動のスピード。僕に言わせれば、これが「地アタマの良さ」の定義です。先に触れた大野耐一さんは、とんでもなく地アタマの優れた人物だったのでしょう。

    『ブラックスワンの経営学』井上達彦
     経営者は重要な意思決定をしばしば迫られる。しかし、そこでの事象は特殊なコンテキストのもとでの一回性の出来事である。まったく同じ事例はない。こうやったらうまくいくという法則はもとよりない。しかし、過去に起きた事例の中から論理的に類似したパターンを選び、それを当該の意思決定の状況に適用することで、よりよい行動が可能になる。これがアナロジーという方法だ。
     優れた経営者は決まって優れたアナロジーの使い手である。過去の自分の経験を「事例研究」し、そこから「ようするにこういうことだ」という論理を引き出し、個別の意思決定に適応する。自らの経営経験が事例として最も強力なのは間違いない。しかし優れた事例研究を知ることは、またとない経営疑似体験となる。実務家にとっての事例研究の最大の意義は、アナロジーのペースとそれを現実に適用する論理の力を豊かにしてくれることになる。

    『選択と捨象』冨山和彦
     戦略の眼目は「何をしないか」にある。「何をするか」ではない。経営は常に資源制約の下で行われる。だとすれば「何をしないか」は「何をするか」と表裏一体だ。「何をしないか」を決めて、はじめて何かにコミットできる。捨象こそが選択であり、戦略的意思決定の本質である。「集中」は結果に過ぎない。
     逆に言えば、資源制約がなければ戦略は不要になる。すべて全力でやればいいだけの話だ。高度経済成長期は経営にのしかかる資源制約が緩かった。過去の緩い資源制約の下で発達したムラ型共同体の経営が、捨象という本来の意思決定をひたすら先延ばしにする。「あれもこれも」の多角化の中で、経営の目的が会社全体の存続にすり替わる。ここにカネボウをはじめとする一連の経営破綻の淵源がある。
    「何をするか」の決定は、極論すれば誰にでもできる。しかし、一方の捨象ははるかにタフな仕事だ。捨象は現場から自然と出てくるものではない。だからこそ捨象の担い手としてのリーダーが必要になる。リーダーの存在理由は捨象にある。何も捨てられないリーダーはリーダーではない。
     本書の議論で最も意義深いのは、「会社」と「事業」を分けて考えるという視点である。通俗的議論はソニーや日立といった「会社」を対象としがちだ。しかし、会社は株式会社という制度を機能させるためのフィクションに過ぎない。商売の実態はあくまでも「事業」にある。カネボウという「会社」が潰れても化粧品という事業は(その器を「花王」という会社に移すことによって)残る。利益と雇用を創出するのは個別の事業である。「見るべきは会社ではなく事業の質」にあるという主張を繰り返してきた評者としては、本書を貫くこの視点に全面的に賛同する。
     当代きっての論客の一人である著者。その魅力は「体幹」の強さにある。軸がまったくぶれない。時流に乗った派手なことは言わないが、フワフワした話は一切しない。強い体幹から繰り出されるハードパンチ。スピードよりも重さに主張の価値がある。著者の本領発揮の快作だ。

    ――楠木健エッセイ
     人と人の世の中、とりわけその基底にある論理を知りたい――この興味関心からして、読書はノンフィクションに偏る。フィクションだとやりたい放題になるので、ロジックを追えない。抜群に面白い小説であればその世界にトリップできる。しかし、そこまでの作品はそうそうない。たまにはその時々に絶賛されている小説に手を出してみるのだが、「それほどかな……」と思うことが多い。根が想像力に欠けているのかもしれない。
     例外は私小説だ。完全なノンフィクションではないにしても、僕の貧困な想像力でも人間のリアルな本質に接近できる。現役作家でいえば、大好物は西村賢太。新刊が出れば必ず買って読む。
     どれを読んでもきっちりと面白い。西村作品はそのほぼすべてが特定少数のテーマの変奏である。悪く言えばワンパターン(登場人物がすべて著者その人なのだから当たり前)、よく言えば安定感抜群。芥川賞受賞作の『苦役列車』(新潮文庫)もいいが、僕にとっての最高傑作は初期の短編集『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社文庫)に収録の「一夜」。ラストシーンには鳥肌が立った。私小説に固有のパワーに心底感動した。
     西村賢太の日記『一私小説書きの日乗』(角川文庫)シリーズは小説に輪をかけて面白い。判で押したように同じルーティーンを繰り返す日々。それが何年も続く。確立された生活と仕事の様式。練度の高いルーティーンに氏のプロとしての凄味が透けて見える。
     出会いがしらのヒット作はあり得る。運が良ければ一発ホームランは打てる。しかし、素人はその後が続かない。プロとアマの最大の違いは持続力にある。コンスタントに質の高いアウトプットを継続して出す。これがプロの条件だ。仕事の成果は日々の生活の中からしか生まれない。「生活第一、芸術第二」、菊池寛の名言だ。詩人は泣きながら詩は書かない。持続力の基盤にはその人に固有の練り上げられたルーティーンがある。
     数多くの失敗とたまに訪れる成功を積み重ねていく中で、自分だけのルーティーンを錬成していく。そこに仕事生活の醍醐味がある。私見では、創造的な仕事をしている人ほどルーティーンを大切にしている。仕事がダイナミックで非定型的だからこそ、変わらず安定した土台が必要となる。
     西村賢太はしばしば「無頼派」「破滅型」と評される。確かにその言動や私小説に描かれる思考と言動は刹那的で衝動的に見える。しかし、この人にこそ練りに練り上げられたプロフェッショナルのモデルを見る。

    『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』(田中信彦)
    日本人は「スジ」で考える。スジとは、人々の間で事前に共有されている規則や規範を意味している。つまりは「べき論」。一方の中国人は「量」で考える。量とは、いま・ここでのその人にとって損得の具体的な量を指している。優劣の問題ではない。ただひたすらに「違う」のである。
     中国でも高いものを買うお客には(日本以上に)丁重なおもてなしをする。しかし、あまりお金を使わない客や何も買わないで見るだけの客は洟にもかけない。つまりは自分にとっての損得の量の大小が基準になっている。ところが、日本では量にもかかわらず「お客様は神様です」というスジが前面に出てくる。店に入ってきただけでいきなり丁寧に扱う。だから日本に来た中国人は「おもてなし」に(日本人にとって不思議なくらい)やたらと感動するのである。

    『ザ・会社改造』(三枝匡)
     この本はモノが違う。類例がない、といってもよい。
     類例がないとはどういうことか。経営実務家が自らの経験に基づいてつづった経営書は数多い。もちろんピンからキリまである。ピンの方に限っての話だが、実際の経営経験から絞り出される知見は余人をもって代えがたいものがある。例えば日本電産会長である永守重信の『情熱・熱意・執念の経営』。僕のような舌先三寸の経営学者には到底語れない重みと深みと迫力がある。
     ところが、どんなに優秀な人でも、経営者は自分の会社や商売の文脈にどっぷり浸かっている。だからこそ迫力のある優れた内容になるのだが、その分どうしてもバイアスがかかり、視野や視点が限定される。だから読者が自分の文脈で応用しにくい。
     要するに「鬼に金棒」というわけにはなかなかいかないのである。実務経験豊富な鬼は、鬼であるがゆえに金棒(汎用性のある知見)は振り回せない。経営者が自らの経験からいきなり汎用的な知見を引き出してくれる名著もあるにはある。ところが、その手の本は仕事や人生の哲学を語り(その典型例が松下幸之助『道をひらく』)、経営の実際に踏み込まない。「鬼」をすっ飛ばして「神」になってしまう。
     本書はまさに「鬼に金棒」。経営の鬼である著者が金棒をぶんぶん振り回してくる。迫力があるのはもちろん、経営に携わる人にとって尋常ならざる普遍的有用性がある。
     経営とはつまるところ因果関係の論理の束である。著者はそれを「因果律」という。著者が体得した因果律が抽象化され、固有名詞がそぎ落とされ、本気になれば誰もが自らの経営の文脈で適用できる知見が紡ぎだされる。
     本書のヤマ場はいくつもある。産業財商社「ミスミ」が国際化の勝負に出るくだりはその一つだ。初めての挑戦に海外の前線は混乱を極める。著者は手綱を引いたり(近視眼的な成功にこだわる現場に一段と高い達成目標を与える)緩めたりしながら、非連続的な成長軌道に乗せていく。この「緩め方」が凄い。少しでも早く事業を立ち上げようと前のめりになる現場の意に反して、あえて戦略の実行を大幅に遅らせるのだ。経営の修羅場を踏み越える中で獲得された因果律を見抜く力にしびれる。
     日本経済の停滞の根本的原因は経営者人材の枯渇にある、と著者は喝破する。その情熱には年季が入っている。驚くべきことに、ミスミ社長就任時の記者会見で「社長就任の第一の目的は経営人材の育成」と言い切っている。全く教科書的な構成でも書き方でもないが、これこそ最高の経営の教科書だ。

    『好きなようにしてください』(楠木健)
    ――この本のなかでは、それぞれの相談に対して「明快な解決策」が示されていません。
     この本の目的は、その特定の相談者に対して有効な回答をすることではないんです。そもそもそんなものはありません。この本の目的は、広く読者に向けて、僕自身の仕事論をお伝えすることにあります。
     仕事の迷いや悩みが出てきた時、最終的には自分で解決しなければならない。厳しいことを言うようですが、相談してもしょうがないと思いますね、僕は。「好きなようにしてください」っていうのは、言い方を変えれば「本人以外の誰も答えは分からない」っていうことなんです。キャリアには「一般解」はない。すべてが「特殊解」なんですね。
     いまその人が直面している具体的な問題に対してどうすればいいのか、一つ一つ具体的に答えても、仕事と仕事生活は長い時間軸を持った話ですから、仕事をする中でいずれまた新たな問題は出てきます。キャリアというのはそうしたことの明け暮れなんです。個別具体的な回答やアドバイスよりももう少し一般的な、普遍的な、抽象度が高い視点や論点の方が、悩みや迷いを解決する上で意味があるというのが僕の考えです。この本では「キャリアは計画できない」「最適な環境は存在しない」「趣味と仕事は違う」といった、僕なりの仕事に対する構えについて、わりとしつこく語っています。
     たとえば、自分の問題を解決するうえで、松下幸之助の『道をひらく』を読んだりするのは多くの人にとって意味があることなんですね。だから今でも多くの人に読み継がれている。個別具体的な相談に対してソリューションを与えているわけではないけれど、松下幸之助さんの超一流の仕事への構えを知ると、「あ、そうか」と納得する部分や、自分の問題に引き下ろして「やっぱり自分はここでこうしなきゃダメだな」とか、自分なりに解決策を得ることができるんですよね。
     僕の本もね、そういうふうに使ってもらいたいなと。自分を松下幸之助さんの横に並べるのはちょっとアレですけど(笑)。
    ――楠木先生の仕事論をまとめて、若手の方に読んでもらいたい1冊になったと。
     そうですね。べつに悩みがある人じゃなくても読んで欲しい。20代から40代ぐらいの人に参照してもらいたいなと思っているんです。同意していただくのもいいんですけど、「あ、こういうふうな考え方なのか、この人は。でも自分は違うな」っていうことで、僕の考え方と比較することで、自分の仕事に対する構えみたいなものに気づいたりするのもアリですね。
     もう一つは、悩みを持っている人たちに直面している、人事部の人、マネジャー層などにも一つの仕事論として参照してもらいたいなと思っているんです。僕は本のなかで「本性主義」と言っていますが、「人間ってこういうもんだね」っていう、人間の本性とか本質について、僕なりに思うところがあります。今の人事施策にはに人間の本性に対する理解が欠けている面がある。
    「インセンティブプランはこういうふうにやるんだ」とか、「女性が働きやすい職場っていうのはこうやって設計するんだ」みたいに、機械的に制度設計しようとしがちな気がします。
    ――女性活用やダイバーシティなどの言葉が、今は溢れていますね。
     それはそれでいいんです。世の中は進歩するものです、けれども、進歩それ自体が目的になってしまうと、人間の本性がかえってないがしろにされる。進歩は手段にすぎません。制度を設計する際には、そもそも人間の本性に対する洞察などが必要だと思うんですよ。人をマネジメントする立場の人、人を動かす立場の人は、本来は人間っていうものに対していちばん関心を持って、人間の本質の部分を考えるところから始まらなければいけないと、僕は思っています。
     例えば、ファーストリテイリングの柳井さんは社員に向かって、「あなたは商売の面白さがまだ分かっていない……」とかよく仰るんです。配属がどうとか、職種がどうだとか、インセンティブがどうだとか……もちろんそれもあるでしょう。けれど、それを100個繰り出すよりも「商売の面白さ」を分かってもらう方が、よっぽど人は動くと思うんです。そう言ったことを考える際の、参照点にしてもらえるといいなと思いますね。
    ――今回のタイトル『好きなようにしてください』は、さまざまな捉え方をされそうです。
    『好きなようにしてください』っていうタイトルの語感は、わりと投げやり。「好きにしろよ」みたいなね(笑)。「自分らしくあればいい」「ナンバーワンよりオンリーワン」という風にも聞こえるかもしれないですが、そうじゃないんですよ。
    「好きなようにしてください」という言葉は、実際はすごくきついことを言っているんです。僕は仕事に対してはわりと厳しい前提を持っています。仕事は趣味とは違います。趣味であれば徹頭徹尾自分を向いていればいい。しかし、自分以外の誰かのためになってこその仕事です。人に貢献できないこと、対価が支払われないことをいくらやっても、それは仕事ではない。好きなようにするっていうのは、好きなことじゃないと人は仕事で貢献できるほど上手くなりようがないと思っているからなんです。
     嫌いなことをやってうまくいかないことほど、嫌なことはないですよね。だから最初ぐらいは好きなようにしましょうよ、と考えているんです。仕事の最初の起点には「好きなようにしてください」がある。けれど、そのあとはもう自己評価には意味がない。世の中の荒波が、その人の評価を勝手に決めていく。わりと厳しい主張なんです。
    ――確かに、本のなかでも甘やかしたような論調では回答されていません。
     これまでの自分自信を振り返っても、「ま、なかなか簡単にはいかねえな……」という思いがありますね。世の中で思い通りになることはほとんどない。ただね、仕事というのは、誰も頼んでないんです。何をやるかを人に決められていたら、本当に苦しいと思うんですけどね。今の時代はそうではない。仕事の根幹を支える原理原則は自由意思です。そのことを忘れてはいけない。
    ――選択肢は自分の方にあるということですね。
    『好きなようにしてください』と、一見、相田みつを風で、実は……
    ――厳しい。
     ようするに、世の中甘いもんじゃない、ということですね。僕がいうのもちょっとアレですけど(笑)。そう簡単にはうまくいかない。どうせうまくいかないなら、キャリアの起点というか原点は「好きなことをする」に越したことはないというのが僕の考えです。

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著者プロフィール

経営学者。一橋ビジネススクール特任教授。専攻は競争戦略。主な著書に『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(東洋経済新報社)、『絶対悲観主義』(講談社)などがある。

「2023年 『すらすら読める新訳 フランクリン自伝』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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