差別はたいてい悪意のない人がする

  • 大月書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784272331031

作品紹介・あらすじ

あらゆる差別はマジョリティには「見えない」。日常の中にありふれた
排除の芽に気づき、真の多様性と平等を考える思索エッセイ。

感想・レビュー・書評

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  • 良書だと思う。

    差別は私たちが思うものよりも平凡で日常的なものである。
    我々は自分が思うより頻繁に差別をする。
    たいてい、悪意なく差別をする。

    つまり、タイトルは僕やあなた自身のことだ。

    人が差別することと無縁に生きていくことはほとんど不可能だ。だからこそ、自分が差別していることを自覚し、「差別をしないための努力」が必要なのだ、と本書は説く。

    そのとおりだ、と思う。

    具体的には、

    差別に敏感にも鈍感にもなりうる自分の位置を自覚し、慣れ親しんだ発言や行動、制度がときに差別になるかもしれないという認識をもって世の中を眺めること

    自分の目に見えなかった差別を誰かに指摘されたとき、防御のために否定するのではなく、謙虚な姿勢で相手の話に耳をかたむけ、自己を省みること

    正直しんどいことだけど、努力していこう。
    だって、差別されるのはいやだもの。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      たけさん
      無自覚でいられる人って、幸せな人なんだと思う。ちゃんと目を開けば判ってくださる人なんだと、、、
      ところが、憎悪の塊りのような人の言...
      たけさん
      無自覚でいられる人って、幸せな人なんだと思う。ちゃんと目を開けば判ってくださる人なんだと、、、
      ところが、憎悪の塊りのような人の言葉に引っ張られて、身体に見ないようにしようとする気持ちが刷り込まれてしまっているかも。。。
      どうしたものか・・・
      2022/06/03
    • たけさん
      猫丸さん、コメントありがとうございます。

      差別を避けて生きていくことはできないと思います。自分は被害者にもなるし加害者にもなる。
      そのこと...
      猫丸さん、コメントありがとうございます。

      差別を避けて生きていくことはできないと思います。自分は被害者にもなるし加害者にもなる。
      そのことを自覚して、多くの人がほんの少しでも自らの行動変容ができれば、世の中はよくなっていくんだと思います。
      非常に難しいことだけど、諦めたくないですね。
      2022/06/05
    • 猫丸(nyancomaru)さん
      たけさん
      > 諦めたくないですね。
      大きく頷いています。そう諦めちゃダメですよね。。。
      たけさん
      > 諦めたくないですね。
      大きく頷いています。そう諦めちゃダメですよね。。。
      2022/07/04
  • 【まとめ】
    1 善良な差別主義者
    差別はつねに、差別によって不利益をこうむる側の話であって、差別のおかげでメリットを得る側の人が、みずから立ち上がって差別を語ることはあまりない。差別は明らかに両者の非対称性によって生じるものであり、すべての人にとって不当なことであるにもかかわらず、不思識なことに差別を受ける側だけの問題のようにあつかわれる。

    「もうすっかり韓国人ですね」「希望を持ってください」
    前者は国外から韓国に移り住んでいる移住者、後者は障害者に対する代表的な侮辱表現の例として挙げられている。これらの表現は一見、褒め言葉や励ましの言葉のように見える。
    この言葉を受けた当事者たちに話を聞いてみた。
    国外から移り住んだ人々は、「すっかり韓国人」という言葉について、自分がいくら国で長く生活しても、われわれはあなたのことを完全なる韓国人とは見ていないという前提があるからこそ、侮辱的に感じられると述べた。もうひとつは、別に「韓国人になりたい」と思っていないのに、どうして「韓国人になった」という言葉が褒め言葉になるのかという間題提起だった。
    障害者に対する「希望を持って」という言葉も、同じく不当な前提のせいで侮辱的な発言と受けとられるという。だれかに希望を持てというのは、現在のその人の生活に「希望がない」ということを前提とする発言である。障害者の人生には希望がないと当たり前のように思ってしまうこと、さらに根本的な理由として、自分の基準で他人の人生に価値づけをしようとするのが侮蔑だと彼らは述べた。

    私は他人を差別していないという考えは勘違いであり、誰かに対して「真に平等」に接し、その人を尊重するのであれば、それは自分の無意識にまで目を向ける作業を経たうえでなければならない。


    2 立場が変われば差別に気づかない
    自分にはなんの不便もない構造物や制度が、だれかにとっては障壁になる瞬間、私達は自分が享受する特権を発見する。
    特権はたいてい見抜くのが難しい。普通に結婚することができる人は、それを特権だとは思わない。白人や男性の身体で生きている人にとっては、自分の意図や努力とは無関係な、当然かつ正常な条件であり経験だからである。そうしたデメリットを被った経験が彼らにはないので、深く考える理由がない。

    2018年、約500人のイエメン難民が、内戦を逃れるため済州島に押し寄せた。難民の受け入れ問題について、人々は激しい議論を交わした。2018年7月4日に実施された、済州イエメン難民受け入れに関する世論調査では、男性の46.6%が受け入れに反対し、48.0%が賛成した。賛否が措抗する結果となったが、賛成のほうが少し多かった。ところが、女性の立場は男性と大きく違っていた。60.1%が難民の受け入れに反対したのだ。賛成と答えたのは27.0%で、反対が賛成を大きく上回った。
    奇妙なことである。研究によると、弱者の立場にいる人のほとんどは、他の弱者に共感する能力が高い。にもかかわらず、なぜ多くの女性は反対したのか?

    イエメン難民の受け入れに反対した人々が挙げたおもな理由のひとつは、「女性に対する性」だった。女性たちの目に映る済州島に来たイエメン人は、「難民」というよりは「男性」だった。そして、イスラムという宗教を持つムスリム男性というレッテルが貼られていた。多くの女性は、ムスリムという言葉から連想する性差別的で暴力的な男性像と、その潜在的被害者である女性という構図から、この状況を眺めて判断をした。このような構図の中では女性は依然として被害者であり弱者だった。そこに弱者と弱者の連帯はなく、女性たちは、難民よりも女性のほうが弱者だと主張した。

    女性が「マジョリティ集団だ」などと言えば、不思議に聞こえるかもしれない。だが実際にそういうことが起こった。人は性別による地位以外にも、さまざまな多重的地位の複合体である。私たちはつねにひとつの場所にだけ立っているわけではないのだ。

    非障害者は市外バスに乗れるが、障害者は乗れないことについて、学生たちと議論を行った。議論が終わってから、ある学生がノートにこう書いた。
    「障害者がバスに乗ると余計に時間がかかるから、その分、追加料金を払うべきではないでしょうか」
    この学生は、傾いた世界に立って公正性を語っていた。非障害者を中心に設計された秩序の内部から眺めると、バスのステップを上がることができないのは障害者自身の欠陥であり、他人に迷惑をかける行為である。だから障害者は非障害者より高い料金を払うのが公正だという結論になる。この学生は、最初から非障害者にとって有利な速度や効率性を基準にすること自体が「傾いた公正性」であることを認識できなかったのである。

    立ち位置が変われば、風景も変わる。この世界がどのように傾いているかを知るためには、私と違う位置に立っている人と話し合ってみなければならない。


    3 能力主義によって差別は正当化されるか?
    正規職員と非正規職員で名札の色が違う、というように、能力主義によって一定の区別を設けることは正当化されるのだろうか?

    能力主義がほんとうに公正なルールになるためには、必要不可欠な前提がある。まず、どんな能力をどのように測定するかという評価基準を作る必要があり、それを遂行する人々には何の偏りもあってはならない。定められた評価基準は、特定のだれかにとって有利になったり不利になったりしてはいけない。

    能力主義は人間がつくったものだ。その人間は、バイアスから自由になれないという限界性を持っている。能力主義を盲信する人々はこの事実を見落としている。人はだれしも、個人的な経験や社会的・経済的背景などによって、それぞれ偏った観点を持つものだ。どのような能力を重視するか、その能力をどんな方法で測定するかといった判断は、すでに偏向が働いたもとで決定される。このようにして選択された方式で能力を測定すれば、出題者に備わった偏向が、応募者のうちのだれかには有利に働き、だれかには不利に働く。

    例えば入社条件に「TOEIC600点以上」という条件を設定したとする。だが、それはリスニングができない聴覚障害者に対して公正な基準と言えるのか?さらに言えば、その「英語能力」が職務遂行に必要な能力でなければ、聴覚障害者や非英語話者を不当に差別することになり、普段から英語に触れる機会が多い社会階層を有利にする効果があるのではないだろうか?


    4 同性愛者を嫌う権利
    実は、私たちはどんな場でも嫌いと言える自由があるわけではない。
    私たちは生きていくなかで、自分の居場所と立ち位置によって、嫌なことを嫌だと表現できない状況を、数え切れないほど経験する。嫌なことを嫌だと表現できるのは権力である。この権力は、賢く使えば非常に意味がある。権力者に向かって嫌だと表現できるか否かは、市民が権力を獲得するうえで非常に重要な要素である。女性が男性に対して嫌だと言えるとき、部下が上司に嫌だと言えるとき、権力関係は従来とは異なる関係に変わる。
    しかし、権力を持った人が使う「嫌い」の表現は違う。社長が社員に向かって嫌いと言うとき、教師が学生を嫌いと言うとき、これらはたんなる個人の好みの問題ではなく、権力関係の変動でもない。まさに権力そのものである。無数の差別は、嫌いという感情から生じ、その感情が、だれかを機会や資源から排除する権力として働く。それゆえ、異性愛者が言う「同性愛者が嫌い」という言葉は、同性愛者が「異性愛者が嫌い」という言葉とは重みが違う。

  • 一見公平な能力主義に落とし穴 [評]キム・ミンジョン(翻訳家)
    <書評>差別はたいてい悪意のない人がする:北海道新聞 どうしん電子版
    https://www.hokkaido-np.co.jp/article/603819?rct=s_books

    「差別はたいてい悪意のない人がする」キム・ジヘ著 尹怡景訳|日刊ゲンダイDIGITAL
    https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/295331

    『差別はたいてい悪意のない人がする』特権という厄介で見えにくいことを考える - HONZ
    https://honz.jp/articles/-/46128

    差別はたいてい悪意のない人がする - 株式会社 大月書店 憲法と同い年
    http://www.otsukishoten.co.jp/book/b585887.html

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      ◆「あたりまえ」に思いはせる
      [評]中脇初枝(作家)
      差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章 キム・ジヘ著:東京...
      ◆「あたりまえ」に思いはせる
      [評]中脇初枝(作家)
      差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章 キム・ジヘ著:東京新聞 TOKYO Web
      https://www.tokyo-np.co.jp/article/145061?rct=shohyo
      2021/11/28
    • 猫丸(nyancomaru)さん
      この本は無自覚ではいけない。と言う話ですが、

      悪意の塊もある。
      https://booklog.jp/users/nyancomar...
      この本は無自覚ではいけない。と言う話ですが、

      悪意の塊もある。
      https://booklog.jp/users/nyancomaru/archives/1/4797673346

      『「江戸しぐさ」と歴史修正主義-小池百合子さんの問題ある姿勢』の下の写真。
      RKBのドキュメンタリー「イントレランスの時代」でも映っていてゾっとした。
      2022/02/21
  • タイトルに興味を持って手に取りました。内容はとても分かりやすかったです。

    差別というと、自覚して行う事が多いと思っていましたが、無意識のうち、構造的に差別する事もあり、難しい問題だと改めて思いました。

  • 気付きの多い良書。誰もが、私は差別はしていないとは言えないことを示唆してくれる。
    タイトルの「悪意のない人がする」は若干、本文の主張とはニュアンスが異なると感じたが、善意の行動すら理解が乏しい行動の可能性があり、自省を促している。
    また、少数派が声を上げてきた行動が社会を少しづつ変えていることも理解出来、まずは声を出せないところに機会が生じることが重要であると感じた。

  • 極めて重要な問題提起。

    差別される立場から見える世界への想像力が大切。

    足を踏まれないよう絶えず気をつけなくてはいけない立場にいる人が世の中には沢山いる。

    そして問題なのは、足を踏んでいる人は、踏んでいるのに気がつかない事が多い。

  • 私は差別主義者じゃない、差別なんてするわけがない、と思っているけど、自分の特権に気が付かず無自覚に差別をしている可能性がある、、、ということを恐ろしく感じた。自分の何気ない言動で他人を深く傷つけることもある。いつだって「差別される側」にもなるだろう。「差別しないための努力」は、誰もが意識して取り組まなければならないことだと思った。
    読んでいる間、自分のエグい部分に向き合うことになり居心地が悪くなったけど、「今」気付くことができてよかった。アップデートしないと。
    訳者あとがきにあった韓国のことわざ、「何気なく(いたずらで)投げた小石にカエルは打たれて死ぬ」。これは覚えておこう…。
    解説はちょっと難しかったです…。

  • 職場で電話を取った同僚が、ニヤニヤと笑いながら上司へこう言った。
    「〇〇課のた、た、田中さんからお電話です」
    上司はニヤニヤしながら「あ〜、あの田中さんね」と言って電話を受け取って普通に話し出した。
    私はその会話を信じられない気持ちで聞いていた。この2人がなぜニヤニヤしていたのかというと、田中さんが吃音症だからである。
    電話口で田中さんが「た、た、田中です」と名乗ったのを聞いた同僚が、その口調を真似して電話を取り次いだのだ。はっきり言って、私にとってはまったく面白くなかったし、そんな笑えない冗談でニヤニヤしている2人の神経を疑った。

    このとき私が困惑したのは、この2人が普段からボランティアに熱心に取り組んでいる善良な人たちだからである。善良な人たちがなぜこんな発言をしてしまうのか…。この本にその答えがあった。

    同僚の冗談が私にとっておもしろくなかったのは、私のたいせつな人の中に吃音症の人がいるからだ。もしそうでなければ、私も一緒に笑っていたのだろうか?恐ろしい話である。
    例えば、セクシャルマイノリティーに対して。これまでにLGBTの当事者会っても、「男性が好きか女性が好きかなんて私にとってはどっちでもいいし、興味がない」と思っていた。差別している意識は全くなかったが、このような「なぜあえてカミングアウトするのですか」という態度は、「あなたたちは私的領域に残るべきであり、公共の場では見えない存在でいてほしい」と要求していることに等しいと筆者はいう。

    セクシャルマイノリティーのフェスティバル「プライドパレード」をめぐって、パレードに反対する人々による暴動を防ぐため、パレードの開催を禁じる国もあるそうだ。「被害者があえて公共空間に出てくるから犯罪が発生するのだ」というのは、マイノリティに責任を転嫁する典型的な言い方で、マイノリティを公共空間により登場しにくくする。

    これを読んでいて思い出したことがある。「宗教上の理由で女性の外出を制限したり、肌の露出を制限したりするのは、女性が襲われる被害を防ぐためだ」とネットニュースで発言している人がいて、「襲われる側を閉じ込めておいて、なんで襲う側の外出を制限しないの?」と強烈な違和感を抱いたのだ。本を読むうちに、自分もこの発言者と同じような思考をしていたことに気づき、ハッとさせられた。

    白人と黒人のトイレを区別していた過去は、現代から見ればバカらしく滑稽にさえ思えるが、男性と女性のトイレを区別している現代は、未来から見れば滑稽に映るのだろうか…。

    LGBTの他にも、お店での子連れお断り・外国人お断り・車いすお断り等、集団の一部がマナーを守らなかったり、トラブルを起こしたがために、その集団の全員を締め出す「連帯責任」の問題についても書かれている。
    読みやすい文章で、気づきの多い一冊です。

  • 3部に分かれていて、1部は『善良な差別主義者の誕生』

    差別構造が組み込まれている社会で、私たちは『差別を内在化して』『差別を再生産して』いるという話。
    差別は見えにくい。
    理由はいくつもあるけれども、『自分の立ち位置』しか自分で経験して知る事が出来ないからと言う理由が大きい。
    マイノリティと言われる人たちでさえ、立ち位置が変わるとマジョリティになり他のマイノリティを排除する。
    女性と言うマイノリティが自国民と言うマジョリティになり、難民と言うマイノリティを排除する例が出ていた。立ち位置が変わるという事がどんなものなのかが分かる。

    p65『差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。(略)誰かを差別しない可能性なんて実はほとんど存在しない』

    差別だと言われて傷つく必要はない。ただそれを『間違った行動』だと認め、『正しい行動と認識』に変えていく努力をするだけ。
    努力なしには平等な社会は訪れない。待っていても何も変わらない。という章だった。



    2部『差別はどうやって不可視化されるのか』
    4章『冗談を笑って済ませるべきではない理由』この章が一番読みごたえがあった。

    「誰がそれに対して笑うのか」「なぜ笑えるのか」を考えると、それは笑えなくなる。冗談は他人への侮辱で笑いを取っている。その集団を侮辱していいと何度も繰り返し伝える事で、社会はそれを容認する。
    それに対抗するには、笑わない事でそれは笑えないのだと伝えるしかない。と言う話だった。



    笑えないものを笑わないのは、単に私が嫌な奴だからなのか?とか、冗談を冗談で笑わなければいけないのかと思っていたけど、この章は『笑うな』と書いてあってよかった。その理由もわかり易い。

    笑えない冗談には笑わない。そんな単純な事さえ、差別社会では分からなくなる。

    その後の章は、同性愛の弾圧の話なども入っている。キリスト教では同性愛弾圧が激しいというものを見かけていたけれども、韓国もそうだったのは初めて知った。



    3部『私たちは差別にどう向き合うか』

    p182『マジョリティは、マイノリティの話に耳を傾けないまま、彼らに丁寧に話す事を要求する』
    これもツイッターでよく見かけた。そして、丁寧に話せば耳を傾けるかと言えば傾けない。声は小さく目立たないので『知らない』とそっぽを向く事が出来るのがマジョリティだ。



    9章で『みんなのための平等』にみんなのトイレ論争についても書かれていた。
    これについてはずっと考えていて、どう考えればいいのか分からないと思っている。
    女性側は男性と一緒のトイレなんて使えないと言い、男か女かの二分法で困ってる人たちは性別で分けられたトイレは使えない。
    『オールジェンダー・レストルーム』という皆のトイレがある国もあると紹介されている。安心安全なトイレ問題。盗撮する人やわいせつ目的の人が入って来た時点で、通報システムなどがあればいいのになと思います。が、そのようなシステムもプライバシーの問題でトイレでは難しそう。それでも、考え続けなければいけない問題だと書いてある。



    p202『「差別されないための努力」から「差別しないための努力」に変えるのだ』

    全てはそれに尽きる気がする。そして、無意識で差別をしている人にそれを訴えても、全く響かない事も知っておく。
    自分の利益が奪われる変化を望まない人たちには、無理なのだ。

    世界は分断されている。だから、差別の構造は今まで残り続けてきたのだから。

  • 差別をするときに思いっきり悪意を持ちながら「差別をしてやろう!」と思ってする人はあまりいないと思う。「差別をしてやろう!」と思ってする人は自分は差別主義者ですという最悪な自己紹介だ。
    差別をなくすことが難しいところは社会の構造によって、ある意味では差別を「刷り込まれる」ような状態で生きてきて無意識のうちに差別的な価値観や行動を内包してしまって、それが発露してしまうことだ。
    これが例えば家庭内の構造であれば自分の家庭外の人と関わったとき「そういうのは差別にあたる」「ひどいことだ」と言われれば自分の考えが誰かを踏みにじる振る舞いであることに気づくかもしれない。でもこれが社会の構造からくるものであれば、その社会で生きている人はかなり割合でそういった差別的な考えを自分のなかに植え付けられて育てられてしまう。
    すると自分たちが差別的な価値観や振る舞いをしていることに気づかないままであり、それが多数派であって自分たちは別に間違ったことなんてしちゃいないとすら思ってしまう。
    差別的な価値観や行動は、社会の構造が生んで形作っているしそれは無知から生まれるのだということがこの本を読んでみてわかった。

    いま世の中はこの差別をどうにかなくそうとする働きが以前よりも大きくなっている。
    それに対して煩わしいと思えること自体が自分がそもそも「特権」を持っているという証左になる。また悪意のない差別はこの世の中に蔓延っており、差別に反対している人ですら、とある分野では差別的な考えを持っているということも少なくない。
    「特権」というと何かすごく特別で社会のなかの一部の人しか持っていないようなものだという意識がある人もいると思うが、差別でいうところの「特権」はそうではない。
    「他の人は所持していないが、自分は所持している」というものらしい。そしてその「特権」を無意識のうちに享受している。それが当然だから「あなたは特権があります」と言われても「そんなことないけど?」と思うし、その「特権」を持っていない人へ合わせた改革なんかが行われ層になったときに初めて自分の持つ「特権」を意識する。でもそれはもともと無意識で無自覚のもので当たり前のことだからこそ「自分の持つものを奪われる」という意識が働き、持たざる人へ「優遇されてずるい」という思いが発生するのだ。

    差別はこの世の中に入り込みすぎてまったく目立たない。
    著者は世界で起きた様々事件や統計などをもとに、この世のなかがどれだけ不平等が存在していて私たちがそれに気づかずに生活しているのか、そしてそれが差別に加担しているのだと本を通して書いている。
    差別はよくないとわかっているのに、差別がなくならない理由。差別的な発言をした人たちが「そんなつもりはなかった」と言う理由。ジェンダーの平等が謳われると男性が理不尽だと感じるのか。
    人生で起きるあらゆる問題を、その人だけが悪いような「自己責任」という言葉で片づける人がいるのか。保育士や看護師は女性が多く、その賃金が低い理由。
    きっと今この記事を読んでくれている人のなかにも、先述したようなことを思ったり疑問を感じたりしたことがある人はいると思う。それに対しての明確な回答がこの本では得られる。

    差別をなくしたいという気持ちや言葉だけでは、悲しいことに差別はなくならない。
    そういった思いやりを人間に期待してはならない。自分が持つ「特権」を考えて、世の中は果たして不平等をなくすための動きをしているか、自分は誰かの足を踏みつけながら生きていないか。
    そう考えながらこの本を読めば、きっとその瞬間から社会への解像度が上がるはずだ。
    差別はいけないことだし、LGBTQのことも気になっている。差別をできるだけしないようにしていきたい。でも、じゃあどうすればいいんだろうと差別の存在は自分の振る舞いを見つめ直したい人にもおすすめの一冊だ。

    自分の立場を認識した瞬間、あなたに世界はどう見えるだろうか。

    「差別はたいてい悪意のない人がする」著者インタビュー 無自覚に他人を踏みつけないためにできること|好書好日
    ほとんどの人が差別をしたくないと思っているからこそ、気づかれない差別が多く存在していると言う。ではどうすれば気づけるのか。

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