潮新書 街場の共同体論

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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784267020742

感想・レビュー・書評

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  • 1番最初に書いてあった、今は家族内での父親の威厳がゼロって話が1番印象に残った。うちのお父さんは割とあるような、そこまでないような…?少なくとも私は尊敬してるけどね。

    1番最後だったから、子弟関係の話も。メンターみたいなものかな?活発に活動しないと出会えないものなのかな?私も出会いたい。でも、師匠の言ったことをじっくり考えるとか、できるのかな…。もしかすると大学の先生がそんな存在になるかも、って思うと急に学校行きたくなる。

    この本が1番伝えたかったことは、個人の競争が煽り立てられてるけど、実際は共同体に属して、その共同体のために動く方が、身の安全は確保できるよ、ってことだと思う。

    お父さんが折り目つけてたから、なぜここにつけたのかとか、覚えてるなら聞きたくなった。

  • 最近、日本も日本人もおかしくなってきている。
    この、「おかしさ」を言語化することにおいて、内田氏は相当長けていると思う。
    毎ページ「そうだよな」という箇所が、たくさんある。

    最近の少なくない日本人が、なんでもかんでも、
    他人をバッシングするようなメンタリティーになっている。
    日本社会の通念上で支配的な倫理観や道徳感に照らし合わせて、
    個人や集団、組織の「間違い」を見つけて、徹底的に批判するようになっている。
    まるで、それが、自分の義務みたいに思っている人も多くなっているんじゃないだろうか。

    個人的には、非常に気味が悪い現象だと思う。
    その現象の背景にあるのが、完全なる人を求めて、
    宗教用語を使えば、逆説的に個人救済を求めているような感じを受ける。

    もちろん、この現象の背後には、今の日本のかなり絶望的な状況にある。
    改めて言うわけでもなく、もう日本は豊かではない。

    貧困率も20年前と比べて高くなり、
    経済成長は、この20年でほとんどしていない。
    また世帯所得も94年から25%ほど減少している。

    また人口減少に直面し、これから日本は、長期的に衰退していく。
    現在、日本の社会システムの抜本的な改革や変更が求められているが、
    声高に叫ぶものはいるが、その面倒臭い実務的なことを行う実行者は、
    圧倒的に不足している。

    日本の歴史を見れば、日本社会の変化は、すべて外部の出来事がきっかけだった。
    しかし、近代の歴史を振り返れば、「変化」した帰結は、いつも、「崩壊」だった。

    今、多くの人が不安になり、個人の安定と救済を求めるのは、
    非常に理にかなっていると思うが、現状、手軽な個人の救済はない。

    おそらく、無意識的に完全なる誰かを求めて、そうではない人を、
    排除する意識が起こっているのかもしれない。
    他者と協力する時なのに、日本社会は、排除に向かっている。
    この意味で、今の日本の社会状況は、非常に危険な状況だと思う。

    排除される人=「そうでない人」は、ほぼ日本人の全てに当てはまる。
    他人のミスや欠点を、最大限努力して見つけ出すことが、
    エトス(行動様式)となっている。

    政治家の名前を挙げて、「こいつのせいだ」と言って、果たして、良くなるだろうか?
    この行為は、まったく社会的生産性がないと思う。

    ただ、この傾向は、おそらくこれからも続いていくに違いない。
    内田氏の主張が優れている所は、
    今の状況は、誰のせいでもなく、自分達の行った結果であることを、腹の底から認識していることだと思う。
    自分が安全地帯にいて、「あいつのせいだ!」と言っていないところに、
    非常に共感を覚える。

  • 雑誌『潮』に掲載された、著者のエッセイやインタヴューなどをもとにして、加筆をおこなった本です。

    共同体論がテーマですが、著者の議論の焦点は、現代の日本に浸透している効率的な意思決定を要求する考えかたが、共同体の危機を招いていることにあてられています。著者自身は、そのような時代の趨勢に抗して、私塾を立ちあげ弟子たちをそだてるという取り組みをおこなっており、他方で本書のように著述活動を通じてそ著者自身の考えをひろく世のなかに訴えています。本書もそうして刊行された一冊で、「新書版のあとがき」にはこのところ「だいたい同じようなこと」をくり返し語っていることを認めています。

    わたくし自身は著者の本はある程度読んでおり、その考えかたにもある程度なじんでいましたが、本書では著者のフェミニズム批判がやや急進的なかたちで提出されているところが気になります。著者がフェミニズム批判を主要なテーマとした本には、『女は何を欲望するか?』(2008年、角川oneテーマ21)が刊行されていますが、本書ではそれよりももうすこしおおまかな印象論のレヴェルで議論がなされており、著者が批判する消費者のマインドがフェミニズムのうちにも流れていると論じられています。おそらく、1980年代の消費社会論の隆盛に、一時的にではあるにせよ上野千鶴子が乗っかったことが、著者のこうした印象を強めたのではないかという気がします。

    政治的な立場では上野にある程度近いであろう姜尚中も、日本が消費社会を謳歌していたちょうどそのとき、昭和天皇の死去という出来事によって伝統的な共同体が突如すがたを見せたことに対するショックを語っていましたが、これらの例も含めて、20世紀の終わりから現代にかけての政治・経済状況が、現代の日本の思想にもたらしたものを考えてみることができるのではないかという気がしています。

  • 「みんなの仕事」だから「自分の仕事」だとしてサクッと取り組む「おとな」と、「みんなの仕事」だから「自分の仕事」ではないとする「こども」。社会というシステムの維持は基本的に「みんなの仕事」であり、道端に落ちている空き缶を拾うが如く、本来ボランティアで回さなくてはならないところがある。しかし今の日本には「こども」が増えすぎた結果、何か問題が起きていても、誰かなんとかしろよと叫ぶだけで誰も動かない。

    社会を維持するためのシステムがあまりに良くできていたがために、いざという時にシステムの修繕に寄与できる人材を教育などで生み出してこなかった弊害が今現れてきているという筆者の指摘はとても共感できる物でした。

  • 雑誌の不定期掲載に加筆を施し、まとめた一冊だそうで、各章ごとに異なる印象があった。第6講(章)「コミュニケーション能力とは何か」は必読。コミュニケーション力を「円滑に進める」ものではなく、「不調に陥ったときに、そこから抜け出すための」ものであるとの指摘に納得させられた。

  • 街場の共同体論 43
    内田樹

    毎度同じことを繰り返し言っている内田本。どうやら、自分は内田本で読んだことを驚異的に忘れる能力に長じているらしく、毎度、「この考え方はすごいな。あ、これ前も言ってたっけ」と膝を打っては首をかしげる。一応この本によると、それが弟子という形であるとも解釈できる。この先も、ずっと内田樹を理解できずに、膝を打っては首をかしげる人生が続くのも悪くない。
    共同体論ということで、共同体の話をしている。戦後社会の中で、やはり個人化が進み、地縁血縁関係がうすくなったところから話ははじまる。戦後社会の中で、資本主義の要請から、日本はなんでも金で買える社会になっていった。しかし、みんなで資本主義社会にのせられて、せっせと作り出した「なんでも金で買える社会」は「金がないと何もできない社会」でもあったということには、人々はなかなか気づかなかった。マッサージの会社にとっては、「ちょっと疲れたから肩揉んで」という母の肩を「しょうがいねえな」とかブツブツ言いながら揉んであげる息子は商売敵なのである。そんな息子がいなければ、その中年女性は3000円くらい払ってマッサージ会社に来てくれる。そんな小さなことの積み重ねによって、実は金がないと何もできない世の中に、社会は変化していった。いざ、その社会になってみて、人間に必要とされるのは、「誰とでも仲良く共生できる社会的能力」と「縁」という「金で買えない」もであったのである。一億総クレーマー社会という話で上がっていたのは、何か問題が生じた時に、「責任者でてこい」と青筋を立てるクレーマーがちやほやされる世の中において人々はどんどん勘違いしているが、本当に社会の上流にいる人たちは皆「いい人」なのであるということだ。上記のようなクレーマーはその一時的な全能感を得ると同時に、「誰とでも仲良く共生できる能力」と「社会的な評価」を失っていく。その後に待ち受けているのは、良い人が集まり、お金や情報をシェアするコミュニティと、何事にも青筋を立てて怒りだす貧乏な個人の二層化である。
    同時に、「誰とでも仲良く共生できる社会的能力」はいざというときに迷惑をかけられる能力でもある。今の社会は、「めんどくさい人間関係からの開放」と「いざというときに迷惑をかけられるセーフティネット」を天秤にかけて、前者を選ぶ人が圧倒的に増えた社会でもある。その一端は、保険会社の存在にも責任はあると思う。保険という仕組みは、本質的には、「みんなが集まって、お互いに迷惑をかけあう仕組み」である。そもそも、保険という仕組み自体は、保険会社がなくても成立する。みんなで少しずつお金をためて、いざというときの為に、困った時に使う仕組みがあれば、それでよいのである。そして、その顔の見える共同体では、お金を使わなくても解消できる問題は、お金を使わずに解消する。そこに、保険会社という無機質な存在が登場すると話は変わってくる。人々は、お互いの顔を見ずに、困ったことがあれば、保険会社からもらったお金で解決しようということになる。そうしていくうちに、お金を使わなくても、みんなが集まれば解決できる問題に対しても、みんなに迷惑をかけたくない(同時に人からも迷惑をかけられたくない)から保険会社からお金をもらって解決しようとし始める。より多くのお金を保険会社から貰うためにはどんどん補償を追加して、高い保険料を払う必要がある。その積み重ねによって、保険会社と1対1の関係性をどんどん強め、周りの人との関係性はどんどん希薄になっていく。まさしくフランス革命において、社団国家が国民国家に変化したように、トクヴィルのいう「砂塵となった個人」が誕生する。確かに、保険会社も保険金を払うことはマイナスであるから、事故削減の取り組みをする。保険会社には事故対応のノウハウやデータが集積しているため、そのデータを活用して適切な事故削減アプローチをとることは、社会的な意義のあることであるし、むしろ契約者の個人化を進めたことに対する見合う社会的な価値をもたらすことは必要であると考える。相変わらず脱線したが、金が何でも買える社会だからこそ、金で買えないものを大事にしなければならない。
    では、金で買えない相互扶助のネットワークは如何にして組成するか。それはまずはマインドの問題である。相互扶助共同体の本質であり、基本は「強者には弱者を支援する義務あり、弱者には強者に支援される権利がある」という極めて不公平なルールである。そのルールを理解するためのメンタリティは、自分が仮に強者である場合に、弱者を自己の変容態であると認識することである。幼児は「かつて自分がそうであった姿であり」老人は「いずれ自分はそうなる姿である」。そうした想像力を持ち、あらゆる弱者を自己の変容態とみなすことで、弱者の受益を、自己の受益と読み替えることである。このメンタリティは、おとなとこどもを決定的にわける。この分水嶺は年齢ではなく、マインドである。この仕事は「みんなの仕事」だから「自分の仕事」と認識するのが大人であり、「みんなの仕事」だから「自分の仕事ではない」と認識をするのが、子供である。システムの保全は一定数の大人が必要である。大人のいないシステムは、たちどころに瓦解するのが世の常である。今回の街場の共同体では、相互扶助の共同体を支える大人をどう育成するかという問題提起がなされている。直接的には言っていないが、その一つが、弟子という生き方なのだと思う。師匠―弟子のシステムに取り込まれた弟子は、師匠の一挙手一投足から学びを得る。それも勝手に。勝手に学ぶために必要なことは常にオープンなマインドである。常にオープンなマインドとは、謙虚さなのである。その謙虚さに大人への近道があるのではないかと考えたところで、レビューは終える。これを考える続けることが内田樹を師匠と見据えることなのかもしれないが。

  • 多少違和感はあるものの、いってることはその通りだと思う。アッパークラスの人はほどんどが「いい人」といっており、安倍晋三もそこに名が挙がっていたけど、現在、安倍政権を徹底批判している著者はその後何を考えたのだろう?

  • 私塾のような共同体、そして師弟関係の大切さ。キリスト教会のあり方、そして神学研究における脱個人主義のヒントを得た思い。

  • 内田樹の本が嫌いな人がいる。
    もちろんいてもかまわない。
    好き嫌いは人それぞれだから。
    でもなんとなくだけれど、内田樹を嫌いな人は、内田樹の本を読んで「責められている」ような気がするからじゃないかと思う。
    所謂本書の中で「子ども」や「バカ」と呼ばれている者に、自分が該当するんじゃないかとそんな気分になるのではないだろうか。
    もしそんな人がいるなら言いたい。
    内田樹は全体の7%が「大人」であればいいと言っている。
    逆に言えば93%は「子ども」でいいということ。
    だから自分が「子ども」であることはまったく恥ではない。
    むしろそれが当たり前なんだということ。
    だから僕は内田樹先生を「師匠」として、甘んじて「子ども」の自分を受け入れようと思う。
    でもいつかきっと先生のような「大人」になるだ。

    うん、たしかにこれは悪くない立ち位置だな(笑)。

  • 「街場の共同体論」は、最近の家族、地域、会社などの共同体のあり方が個人主体になっていること、それが消費社会と相性が良いこと、格差の再生産につながってしまっていることに警鐘を鳴らす本です。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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