技法以前―べてるの家のつくりかた (シリーズ ケアをひらく)

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  • 医学書院
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  • Amazon.co.jp ・本 (245ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784260009546

感想・レビュー・書評

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  • 患者自身の自然治癒力をとことん信じるとどうなるのか、妄想なら妄想にとことん付き合って『共同研究』をしてみる。読んでいると本当に病んでいるのは患者なのか偏狭な社会なのか、分からなくなってくる。

  • べてるの家の本はたくさんあるが、支援者の人に一冊だけ勧めるならばこれになる。いろんな実例を紹介しながら、じゃあどうしたら少しでもこの世界にちかづけるか、ヒントがいっぱいある。

  • 定期的に読み返したい

    ・ストレングス視点
    ・仲間とのつながりで希望が生まれる
    ・病識じゃなく困り感
    ・聴きすぎない
    ・一緒に困ってみる
    ・特徴を活かすチームを作る

    後半、ちょっと哲学的だったけど、
    読んでて楽しいスラスラ読める、
    バイブルにしたいなあ

  • 非援助の援助とは、ゆっくりであるが実に手間暇をかけた関係づくりのなかで見出されるもの

    私が育てるのではない、私は観守るだけというまなざしの背後には、鋭い観察力と何をしなければいけないかではなく、何をしてはいけないかという発想がある

    ★多くの当事者は、人間として自分にぶつかってきてくれた感覚や、同じ人間だと実感できる現実感こそを、回復を促す条件として口にする。その大切な出会いを生み出すものは、おそらく「技法以前」にある何かである

    形から入るとは、経験の蓄積から導き出された実践知。

    臨床場面で吟味された「形」が、その背後にある思想や理念をゆくりと実質化し、現実化するのである

    アメリカでは、心の健康ではなく、行いの健康が重視されている。

    医学=囲学、看護=管護、福祉=服従

    精神障害のかかえる当事者のもつ生きづらさを、自己洞察とか反省とかいう側面から切り取って、「精神科/心理化」する傾向が蔓延するなかで、練習する

    援助者としての私の意図や考えていることと、現実に見えるかたちで実現することのあいだの落差。車の運転で例えれば、車の構造や交通法規を説明し人命の尊重を唱えることはできても、じつは運転ができなかったのだ

    自己流の運転はできる、しかし場面に即した運転を求められたときに、どのようなハンドルさばきが適切なのかをまるでしらなかった。援助の理念と、それを現実化する方法、技術との突き合わせをしないままだった

    運転席に当事者自身が座り、運転操作を習得することを重視し、専門家は助手席に乗って、側面的に運転技術の習得をサポートする。そこで慌てたのが専門家。自分なりに走ることには慣れていても、精神障害をかかえる当事者の現実に即した運転技術についてはずぶの素人だった

    自助の援助。

    自助の援助においては、精神障害などをかかえる当事者を助ける主役は当事者自身であり、専門家の援助は常にそれを前提にする。当事者自身が自分を助けるのが、援助者の基本スタンス

    リストカットでも、壁に穴をあけるでも、その行為には切羽つまった当事者自身の自分の助け方としての側面がる。その側面を見落とした援助は、結果的にその問題行動を保護、管理へと行きつかせる

    あなたのつらさを助けることができるのは、第一にあなた自身です。あなたはいまも食べ吐きという方法で自分を助けているんですよ

    あなたは一瞬でも確実に自分が楽になれる方法を知り、それを使って自分を助けている。きっと後味が悪くて後悔することも多いと思うけれど、いまの苦しさを緩和することに関しては、あなたはプロ

    そういう事によって、自分を助けたいと忘れかけていた動機が当事者によみがえってくる。既に自分を助けようとしていた自分が見えたことによって、より効果的な新しい自分の助け方を一緒に見出していこうとする連来駕生まれる

    自助=自分を助けるという営みに欠かせないのは、助ける主体としての自分を見出すことである。そんな自分自身と出会いということ。自助の援助はその基本において、自分自身との出会いを通じて他者とのつながりの回復と創造を目指すプロセス

    医師をはじめ、精神科のスタッフが、彼の思いを懸命に受け止めようとして、忙しいなかで出来る限りの時間をとって彼の話を聴いている、しかしそのようにじっくりと話を聴いているにもかかわらず、リストカットと大量服薬という悪循環はその後もつづく。結論を言えば、この悪循環のポイントは、彼の思いを懸命に受け止めようとして、忙しいなかで出来る限りの時間をとって、話を聴いているところにある。つまり自助を阻害する、聞きすぎと、苦労の丸投げが起きているのである。Aさんには、無意識で、自分に真剣に向き合ってくれるスタッフとの「充実したひととき」という切符を手に入れるために、リストカットと大量服薬というカードを切りつづける必要は生じている

    聴きすぎに陥るスタッフも、当事者に自己洞察を促し、つらい感情吐き出させることで、現状の改善に役立つことを期待する。しかし効果はあくまでも一時。砂漠のなかで出会ったオアシスのように潤いは一時え、時間とともに渇きはふたたびやってくる

    この渇きは自己効力感(自己に対する有能感、信頼感)と正反対。それがわかれば、Aさんのかかえる悪循環を解消することはそれほど困難なことではない。聞きすぎと苦労の丸投げ状態から脱却し、自己効力感を高める支援に切り替えればいい。

    Aさん、あなたは必死に自分を助けようとして、その方法としてリストカットや大量服薬を繰り返してきましたが結果はどうでしたか?

    Aさんを一番熱心に助けようとしてきたのはAさん自身だと思います。私はAさんにはちゃんと自分を助ける力をかじます。いまはまだそれが成功していないだけ。こういうのはどうですか?きょうからAさんを助ける仕事の主役はAさん自身であるということ、自分の助け方の研究を一緒にはじめること、これから起きる生きづらさの苦労は大切な研究テーマとして、ノートに書き留めて仲間と検討すること、自分の助け方の新しいアイデアを練習して身に着けてその効果を確認すること

    こうしてAさんは自分の苦労の主人公になった。私のしたことは、Aさんと一緒にAさん自身のもっている力を再確認する作業に立ち会っただけである。

    不安感や落ち着きのなさを訴えて、一日になども外来受診をし、相談室のスタッフに話をきいてもらったにもかかわらず、執拗に長電話をかけてくる通院患者がいた。そこで提案したのは、スタッフ自身が、受容と共感一辺倒から脱却すること。

    電話をかけてくる当事者は、決して解答を求めているのではない。当事者も援助者と同様に、現実の生きづらさのパターンに対処するための立ち位置を探しているのである。パターン化された苦労の背後には、生きづらさをかかえて当事者自身が、自分のかかえる苦労の主人公になりきれないという状況がある。援助者や家族がいつのまにか、問題解決の主役になってしまっている

    ●●先生のお陰で病気がよくなりましたという患者は治りが悪い

    点検とは、生活上のさまざまな苦労やエピソードを、z分の体調と気分とどのようにつながっているのkを、突き合わせる作業

    家族を含めた第三者からの情報は、本人の印象も含めて参考にはするが、真にうけないことが大事。現場で考えるということ。

    ★相談にのるではなく、相談にきた

    精神障害をかかえるということは、自分の苦労の主人公になるチャンスを奪われるということ

    摩擦を防ぐ有効な最も手段は、人と会わないこと、そのことによって人とのつながりからの離脱を余儀なくされ、さらなる孤立へと陥る。「どんなに嫌われてもいいから、何をしてでも人とつながることを渇望した状態」


    自分と周囲とのあいだの溝を破壊し、人とのつながりといいのち綱を確保する緊急避難的な自己対処として、彼らは爆発という手段に頼らざるをえなくなっていく。しかし爆発行為は、さらなる周囲の管理と保護を強め、他者の管理と支配に身をゆだねる生活へと当事者を貶めていく

    自分を取り戻してはじめて、ひととつながることができる。苦労を取り戻すことと、人とつながることが、同一の出来事として起きてくる

    爆発に陥った当事者を一方的に支配したり、保護、管理することは、人間だれしもがかかえながら生きている苦労と言う経験を奪い去ることを意味する

    製薬会社と結託した精神病院が患者を食い物にしているというほどに批判できる単純なものではない。良心的な医療を心がけ、熱心に患者の訴えを聴き、少しでも本人のかかえる症状のつらさや問題の改善をはかろうとする精神科医ほど多剤大量に陥る

    当事者が、自分の専門家になる

    すべての人間は病人になりうる可能性をもっている。心身の傾向とそのときのわずかな事情の違いによって何病になるかが違うだけだ。だれでも病人でありうる、たまたま何かの恵みによっていまは病気ではないのだ

    病をかかえた人の現実を、自分事としてリアリティをもって想像し、痛むことのできる力の大切さ

    神谷氏からは、当事者の現実から距離をとることではなく、むしろその中に降りていき、つらい現実にともにたたずみ、ともに弱くなることが見て取れる

    二か月の間、親と口をきかないという約束を守り通す、彼の底力に眼をつけた。

    危機的な状況を本人と家族のなかに起きている出来事を、あたかも機械を分解して、その仕組みを見定めるように構造的に理解すること、お互いの立っている場所を確認しながら、その位置に再検討を加えること、そのことを通して見出した家族の立ち位置にふさわしい力のある言葉を用いていくこと―これらの一連のリフォーム作業は、じつは、信じるという土台の上に成り立つ。

    信用-信用に値する現実を担保し、さまざまな打算や駆け引きが介在する。
    信じる―目に見えず、将来的な可能性を導きだすのは困難である状況のなかで、にもかかわらず希望をもってみようとするふるまい

    信じることの営みに一番大切なのは、根拠なく信じる姿勢


    親と口をきかないことを守り通そうとすることからもわかるように、じつは彼自身がみずからの暴力や暴言を批判的にとらえ、直面している何らかの圧迫感や苦しさを回避したいという思いが一連のエピソードの中に透けてみえる。その背後には、わかりにくい形ではあるが、誰にとっても優しい、新たな対処法を必死になって模索している彼の姿がある

    信じるという行為が私たちに要求するのは、この八方ふさがりに思える状況のなかで、問題になっていることではなく、問題そのものの背後に見え隠れする「可能性の側面」を見通す力であうr

    家族と言う船の中では自分たちがいまどこにいて、どこに向かっているのかもわからず、右だ左だと進路をめぐって対立が起きている。そこで大切なのは、家族がどんな荒波にもまれようとも、変わることなく港の位置を知らせてくれる「灯台=信じること」の存在

    家族全体がどんあ困難な状況のなかでも、変わらずに信じるものを灯台のようにもつことができるならば、家族と言う船の航海は、行き先を見失った不安と徒労から解放され、目的をもった意味のある旅に代わるだろう。

    家族からの相談があった後に、偶然にも彼が住んでいる、、。主治医から言われたとおりに服薬しながらも幻覚や妄想の圧迫により、ひきこもり状態に陥った当事者や家族をどう支援するかが、大きなテーマとしてあった。そうした家族に入り込み、一緒に打開策を練ることを通じて支援方法の手掛かりを得たいとおもっていた矢先だった。人の視線におびえ、通院以外に外出することもなく、実質的に家族以外の人とはここ三年間誰とも会っていない。そこで私は彼に事前の承諾もなく、突然お邪魔することにした。両親は「事前に本人に確認する必要はないか」と相談してきてが、本人が会いたいという可能性はほとんどない。そこで私は、「この現実を変えたい」と願う彼の思いを頼りに、突撃訪問を試みた
    →★つまり、「それをやりたい」って言ってきたわけでないのに、行ったということだな。「それをやりたい」って頼まれなくても、奥底にある『それをやりたい』を信じるからこその行為だなぁ、これは自分にはないなぁ。

    突撃訪問のポイントは、先々を考えないこと。それは一瞬一瞬に起きてくる場面や出来事に対して、そのつど状況を判断し、現実にせまること。

    それはたしかに暴挙だが、その面、幾多の失敗と修羅場を潜り抜けて生きた自負もある。警察を呼ばれたこともあるし、ドアを開けた途端に殴られたこともある。しかし大切なことは、

    ★★何事もなかったように、またその人の前に出かけていくこと。警察を呼び、追い返したにもかかわらず、当事者のかかえる困難な現実というドアをコツコツとたたき続け、威圧する言葉にもひるむことなく、腹も立てずたたずむ。そんな不思議な人として、関心をもたれることを、私はずっとこころがけていきた
    →★★僕は、その時点でその人に意欲がないと見ると、すぐ引いてしまう所があるなぁ。奥底にあるもの、つまりその困った人は、奥底では本当はなんとかしたいと思っているということを信じているからこそ、それを出来るんだろうなぁ。

    ★★援助者は、当事者の身体の五感に張り巡らされた保護的で過敏さを増したバリアをくぐり抜けて、その暗がりの向こう側で疲労困憊する本人を見出さなくてはいけない。そして当事者の傍らにそっと腰を下ろし、その困難さに満ちた世界を共にため息をつきながら、見渡す。そんな現実感をもってその場にたたずむことだ
    →これも自分にはないなぁ。


    信じるという作業は、現実感をもって当事者を観ようとする営み。もし自分が彼の立場だったらどうだろうという想像力と、彼がかかえる苦しみが自分に起きたら同じようにふるまうに違いないという連帯感

    心の底から「きみは偉いよ、本当によくがんばったきたね。これからは一人ではなく、一緒にこの苦労を生きていこうよ、そして君の経験は、同じ困難を生きているおおくの仲間や家族にとってもとても大切な経験だよ」


    彼は、人と会いたがらないのではなく、会いたいけれど会えないで困っていた。

    まずは言葉を変えていく。信じることの取り戻しを進めるなかで、まず大切なことは、言葉を変えていくこと。いままでの行き詰まりの作業を進めるなかで、行き詰まりの構造から、家族再生に向けた構造変革への第一歩は、言葉を変革し、創造していくこと。
    ※人とあいたがらない→人と会いたいのに会えない


    親と口をきかないという爆発予防→そのような自分の助け方を編み出し、これまでがんばってきたのはすごいですね。しかし森さんはそのやり方に満足していますか?


    自分の苦しさをわかってもらえたという安心感が芽生えたら爆発しなくなった

    いちばん苦手にしていることは何ですか→外に出て人と会うことかな→じゃこれからの挑戦課題は、外に出て人と会うことですね


    ★わざわざ断りの電話をもらったんだけれど、勝手な応援団で来ちゃいました。ごめんなさいね。でも僕には森さんの「普通に外に出て、人に会えるようになりたい」という声が聞こえたような気がしてね
    →これはすごい。僕はこの手前で、「だったら、もう知るか」って投げてしまうところがある。それを「主体性や当人の意思を重んじる」という言葉を使ってうやむやにすることをしていないんだな。すごい。潜在者としての主体をしっかりとらえ切っている。表層のバリアでどうこうなっていない。僕はまだ、そこでバリアを貼られたときに、自分の損得とか被害などに眼がいってしまっているんだろうなぁ。

    相手を信頼することは、未知への跳躍であり、信頼するはとは、まかせるということ。つまり信じるというのは、「にもかかわらず、この困難な現実を生き抜くことの主役を当事者にまかせることである」

    あまり生活歴や家族歴を詳しく確認することはしない。あくまでも、「統合失調症という運転操作の難しい車をうまく扱えていない」ことが問題だから。
    →いまから30年前に自動車学校に通っても、車庫入れと坂道発進で苦労しても、家族歴や生活歴を聴かれなかった※たしかにそこわかっても解決するわけじゃないな


    ★★家族歴や生活歴ではなく、まず「いま何が起きているか」と「いままで何が起きていたか」を理解しようとする。特に、そのことをめぐって繰り返されている「パターン」。パターン化された生きづらさには、必ずパターン化された一つの対処行動がセットになってる

    大事なことは、困難のなかでなんとか生きようとしている家族を尊重すること、そしてそんな苦労のなかでも当事者はなんとか生きようとしているという深い共感を示すことが大事

    こういうときは決して現状の治療や関係者のケアや援助を批判してはいけない。まず大切なのは、彼自身が状況を受け止め、対処法が変わること。彼自身が力をつけることで、医師の処方も支援方法も変わってくる

    そういうことはありえないとか、否定も肯定もせず聞き流すのではなく、できるだけ大げさに、かつ前向きに話題にのる


    幻聴を、現実に聴こえる声として理解する

    聴いてもらうことに飽き飽きしています。ずっと大変ですね、やっておられますねと聴いてもらって五年が経ちました。でも慰めはもう結構です。私はこの現実をかえたいんです

    彼氏のことでいろいろと困った、具合の悪いことを先生に話しても、先生はその話題には興味を示さない。

    自分のかかえる苦労の丸投げ。自分のかかえる苦労を粗末にし、自分で吟味することも悩むこともせず、心のゴミを捨てるように外来の主治医の前で話す

    死にたい願望の背後には、医師や看護師の仕事のやりがいに奉仕するために、患者は常に病気と言う手土産を持参し、その結果もたらされる聴くことや投薬などのケアを通じて、人とつながるという水脈を確保してきたというパターンがある→そのメカニズムを明らかにし、「私にとっては、病気じゃなくなるということは人とつながる手だてを失うことで、その恐怖感がありました


    ①聴きすぎないこと
    ②つながりの保証を明確にし、誇りを取り戻す手助けをすること
    ③新しい経験をうながすこと

    ★★とりあえず自分を助けようとしているというその力が内在していることを自覚させる→その自分を助けるより良い方法を探そうと提案する


    「じっくりと話を聴いてくれて、少し刺激の少ない場所に映ってやすむ」か「ぜったい叩いちゃだめ、叩くのだったら薬を飲みなさい。」の二つのパターンが一般的。
    →「さぁ、いっしょに当事者研究に参加しましょう。身体の誤作動を修正するために、手をつないで行きますよ」

    ★★死にたいと訴える彼女が困ったことは、死にたいという気持ちを家族や関係者に真正面から受け止められ、受容されること。それに対して、浦川では「死にたいという言葉は聴き流されているけれど、せき止められていない感じ」がある。★★真剣に聞かれれば聞かれるほど、自分の病気から降りられなくなる。それは「うれしくて、つらいみたいな感じ」
    →ニーズに応えられていても、そのニーズを本人はあまり奥底で求めていないから、その反復がむなしいんだろうな

    ★★妄想の壁を通り抜けて自分に人間としてぶつかってきてくれた感覚

    熱心に聞いてくれて、自分のことを受け入れてくれた感じはしたが、肝心の、その問題についてどうするかについての解決や解消を一緒にになってくれる人は少なかった

    聴いてほしいというなかには、自分の感情をどうにかしたいという気持ちにかかわる動機と、問題を解決したいという具体的な現実的な対処を知りたいという動機がある。多くの場合、気持ちにかかわる部分はたくさん聞いてくれるが、現実的な対処について一緒に考えてくれる人は少ない。

    大学では傾聴することは学ぶけれど、一緒に考えるということは習わなかった

    ★★向谷地さんに話すと、自分の問題の対策本部ができたような気がして心強くなる。そしてすぐに現実的にすぐ実行可能な具体的な指針が出てくる。言いたいことを言って気持ちを整理出来た後、電話をきってからも、自分でやってみること(宿題)が手元に残る。それは自分だけで考えたものではなくて、一緒に考えてくれたもの。

    家に帰ると急に不安になってこども返りして、駄々っ子のように泣きじゃくるのがとまらなくなる。自分に大丈夫だよと必死になって声をかけても、、、、、と電話がかかってきても、長々と彼女の悩みを聴かない。「もう一度、丹念にこども帰りにスイッチがどこにあるか探してみたら、すると、子どもかえりがなぜ自分に必要なのかがわかると思うよ」

    ●一緒に考えることのポイント
    ①独りぼっちじゃないということがわかること
    ②自分にも何かができるということがわあkること
    ③自分で自分のことを考え、自分で決めることができること
    ●そのために援助者に必要なこと
    ①それを見守っていてもらえること
    ②終わったら報告できること
    ③結果について否定せずにまた一緒に考えてくれること


    一方的に聞き役にまわられると、相手の存在が見えなくなる。しゃべったことが一方通行になって、問題が自分にかえってこない


    こんな風に一緒に考えてくれるということは、この人は自分のできる力も信じてくれているし、認めてくれているんだと思います

    共に考えること、それは当事者と共に現実の困難に連帯しながら、同じ苦労の7目線で、同労者として歩もうとするあり方である。


    外在化-否定的で無意味にしか思えない内側に滞ったつらい事柄が、外に出すことを通じて肯定的な意味を持つ出来事へと変化する(=にもかかわらず生きる)

    起きている問題と、その対処に困難をかかえている当事者は分けられている

    統合失調症で問題行動を起こすひとから、統合失調症をかかえて症状への自己対処に困難をかかえている人へと姿を変えている

    精神科五がどうなおすかという問題を、精神科医をはじめとする専門スタッフと病気をかかえる当事者・家族が、病気という問題を真ん中に起き、互いに連携し合う構造へと変わることを志向したプログラム

    当事者と問題を一緒くたにして、真ん中においてまわりの援助者たちが問題解決について話し合うのではない。病気という問題を真ん中において、当事者も家族も専門スタッフと同じ立場で課題を担い合う

    生きづらさという曖昧な生活課題が、目に見える練習課題に置き換わる

    外在化のポイントは、人と問題を分けて考えるところにある。人が問題なのではない、問題が問題なのである

    ★問題が問題のままで意味を持ち、それが可能性に変わる

    フロイト
    クライエントと自分を対等な関係に陥ることを拒否。みずからの個人的な情報を隠すことを重視。あくまで治療者の権威を重視した。

    当事者自身がかかえている問題を、新しい意味をもった経験として目にみえるかたちで語りだすプロセスが外在化

    言葉が現実をつくりだすという側面

    病気は回復の一過程である。病気も回復を目指している

    妄想とはいえ、110番をし、店に苦情を申し出る、その執拗さに見込みがあると思った。

    当事者のかかえる苦しさは、じつは誰にも本当のことを言えないつらさであることが多い

    自分に自信のない受け身のサトラレはつらいが、まわりに自分のことを知ってもらうさとらせにより楽になった

    当事者の人権を守るという大義名分の裏で、ほとんどの場合、施設、機関、組織の自己保身の姿勢が反転したもの

    まわりに対して弱さを隠すのは、自分に対して弱さを隠すこと

    専門家の配慮により、一方的にプライバシーが守られるのは、必要な場合もあるかもしれないが、私にとっては、社会全体で弱さを隠すことのように思われる


    病気を公開したらプライバシーが悪用される事態が、いったいどんなことなのか、私にはうまく想像がつかない

    弱さを安心して見せられる社会の方が、皆がくらしやすい


    自分の病気を受け止めるようになると、いちばんだいじなことは、自分とつきあうこと、自分のありのままをちゃんと自分でキャッチすることだと気がついた


    人とつながるという生命線を確保するために、周囲に叱責され、非難をあびるというそれ自体が生き延びる手段と化していた

    人の身体は、人とつながりたいという生命線を維持するために、ありとある手段を講じる。しかし身体的な欲求にもとづいた充足行動は、一時的かつ破壊的で、結果としてさらなる孤立と孤独を本人にもたらす

    苦労をかかえていればいるだけ、みんな優しくて暖かい

    援助の質は、量的な力を背景にしている

    浦川は、隠したり恥じたりしなくてもすめる場。しかしそれは地域の理解があるからではない。問題と葛藤に満ちた場なのだ。当事者にそのような主体的な生き方を促したのは、良い人ばかりではない、多様な人々が暮らす地域、量的な世界

  • 綾屋紗月、当事者研究をはじめよう!当事者研究のやりかた研究 で引用されてた

  • 摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB99366765

  • 「当事者研究」の実践、具体的な事例が豊富に載っている良書。「無根拠に信じる」という言葉にハッとさせられた。

  • 「順調に問題だらけ」という終わりのない日常。
    その中でどのように支援を行なっていくのか。

    「当事者自身が『自分を助けること』を助ける」のが支援の基本である。
    「自助=自分を助ける」には、「助ける主体としての自分を見出す」こと、そしてそんな「自分自身と出会う」こと。
    「自助の援助」とは、自分自身との出会いを通じて他者とのつながりの回復と創造を目指すプロセスである。

    苦しみの中心にあるのは、「誰もそばにいない感覚」。
    「誰かそばにいる感覚」を得るには、できるだけ多様で生活感に満ちたパワフルなつながりの確保と蓄積が必要であり、専門家はそのような「量的な世界」への媒介者であることが求められる。


    読みやすく、興味深かったです。
    忘れた頃に読み返していきたい内容でした。

  • 北海道浦河町で暮らす精神障害をもつ人たちの地域コミュニティ「べてるの家」を設立した著者による、当事者主体の援助論。

    精神障害は「自分の苦労の主人公」になり、その苦労に向き合いながら自らを研究していくことで回復の糸口に辿りつけるものだと、改めて気づかされた。
    そして、当事者のもつ「専門性」や人とのつながり(質より量)の重要性など、とても学びになる一冊だった。

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著者プロフィール

北海道医療大学大名誉教授、社会福祉法人浦河べてるの家理事長。
主な著作に『増補改訂 「べてるの家」から吹く風 』二〇一八年、いのちのことば社。『新・安心して絶望できる人生 「当事者研究」という世界』二〇一八年、一麦出版社。『技法以前―べてるの家のつくりかた』二〇〇九年医学書院。『弱さの研究』(共著)二〇二〇年、くんぷる。ほか。

「2023年 『弱さの情報公開―つなぐー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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