- Amazon.co.jp ・本 (268ページ)
- / ISBN・EAN: 9784198640590
作品紹介・あらすじ
<この植物、あの子に似てる>
他の木にくっついて生きているコウモリラン、ぽっこりしたお腹の見た目はかわいらしいけれど、大繁殖するホテイアオイ、暗くじめじめしたところにいるほど生き生きするコケ…。
植物のそんな生態は、あの人やこの人の生き方にそっくり。
人間の不可思議な行動を植物の生態に仮託して描く、アサクラ版・植物誌!
感想・レビュー・書評
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全く本書の予備知識もなく手に取ったのだが、植物の生態に着想を得た短編集らしい。独特の浮遊感とうっすら感じる不気味さが癖になり、夢中になって読んだ。コウモリラン、リトルサムライ、スズメノカタビラなど、どんな植物かピンとこなかったけど…短編を一つ一つ読み終わるごとにそれぞれの植物の解説を読み返して、改めて植物の生態がどう物語に反映されているかがわかり、なるほどね~と。
ただ、「村娘をひとり」は、かなり評価が割れる作品だなぁ。同じようなテーマを他の作家が扱ったら、多分もっとグロくなりそうな。その点、抑えめな朝倉さん独特の筆致で、まぁ読めなくはなかったけど…もう少し短くまとめてよかったかも。個人的には、ちょっとキツい世界観だった。
でも全体的には、面白いテーマの作品集だと思いました。薄気味悪さが漂う中、生きることの哀しさもほんのり感じさせる。取り上げている植物の特性をうまく生かして描いているからこそ、不思議とリアルに感じられた。そして、数多ある植物たちの「生き方」を、もっと知りたいという気持ちにもなった。
牧野富太郎氏の緻密な植物画も、とても素敵です。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
牧野富太郎博士の絵が素敵。
短編のほとんどが、薄気味悪い人が主人公でかなり辟易した。
植物や花言葉を物語化すると、こんなに生臭くなるものか。
最後の話だけまっとうで、少し安心した。 -
植物の生態を人間になぞらえた短編連作集。牧野富太郎の精密な植物画が目を引く。著者は朝倉かすみさん。『田村はまだか』を読んで好きになった。
これは一度読んだことがあると途中で気づいた。そして最後まで読みきれなかった本だったことも。
今回読んで良かったのは1話目。
コウモリランのように着生タイプの若い男性、山本くん。「山本くんが帰ってくる」いそいそと出迎えるさち子さんは70歳過ぎのおばあさん。孫のような山本くんとの生活に幸福を覚える毎日がつづいていたが・・「にくらしいったらありゃしない」
そして4話目の「いろんなわたし」
ひなげし(虞美人)は若い娘で、事故にあい昏睡状態のまま。看病する母親の緑を励ますため世界のひなげしたちが芝生の上に集合。青い空の下で真っ赤なポンポンを振っているシーンがとても良かった。
今回は最後まで読んでみたが、好きになれない話も幾つかあった。「村娘をひとり」「乙女の花束」など。
2話目の「どうしたの?」
ホテイアオイが子株をつくり大繁殖する様が、帰る家のない少女たちの姿に見事に重なってしまう。
春が過ぎ、夏がきた。わたしの芸術品たちのおよそ三割の腹がふくらんでいた。
強い、黄金の夏の夕日が、ギャラリーの床に寝そべり、うたた寝をする妊婦たちを照らしていた。
う〜ん、上手いのだけれど・・
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擬人化した植物たちなのか、それとも擬植物化された人間なのか。
よくよく考えてみれば、奇妙なものなのだ。
私たちは有益なものとして野菜を食べ、梅や桜を愛でるけれど、猛毒を持っていたり、とんでもなく臭かったり、体を溶かしてしまったり、どこまでも増殖していったり。
我々は植物をそういうものだと納得し、邪魔なら引っこ抜いて燃やして捨てればいいと、植物たちを舐めてかかり、驕っているけれど、それは姑息な手段で、我々は実の所、彼らの足元にも及ばないのかもしれない。
「いろんなわたし」
心に残るのは、
「ひなが事故に遭ってからは、いいことしか起きていないんだよ。
あのね、ひなが事故に遭って大けがをした日をゼロとするでしょ。
そしたら次の日のイチからきょうまで悪いことは起こってないの。
ひなは生きててよくなってるし。」
ああ、こういう出会いだ。
こういう言葉がひとつずつ積み重なってわたしを支える。
娘が病気でなかったら、きっとこの言葉は読み流していたけれど、今だからわかる。
ちゃんと生きてる。大きくなってきている。
だから辛くない、悲しくない。
強がりじゃなく、しなやかに、たくましく。
いろんなわたしがいるから、道を作っていけるのだ。
「村娘をひとり」
こちらは感動ではなく、本書の中で最も気持ちが悪かった話。
何が気持ち悪いのか、全部、そう、全部!
登場人物の身勝手な行動が嫌だ。
妄想を現実にし、それを自分の都合のいい方にゆがめようとするのが嫌だ。
暗闇の中で膨らんだ理想。
うまくいかないのは誰のせい?
思い通りにならないのは誰のせい?
そして訪れる突然の終わり。
暗闇のさらなる暗転。
本書の物語は全体的に不気味。
「普通」が「異常」か。
「異常」が「普通」か。
鳥肌だと思って撫でた腕が、植物のような感触だった。
思い込み、気のせい、きっと、多分.......。 -
「村娘をひとり」がすごく気持ち悪かった。
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コウモリラン、ホテイアオイ、リトルサムライ、シッポゴケ‥‥それぞれの物語にに植物の解説がついた短編集は、人を植物に擬えるというより、どちらかと言うとその植物が人間だったらこんな人、みたいな視点で書かれているような気がする。
植物図鑑は人間図鑑となり、その奇妙な類似性にゾワっとする。
21歳の青年と71歳の老女の「着生」を描いた「にくらしいったらありゃしない」のさち子の心持ちはすごく理解できるし、リンクする「どうしたの」と「どうもしない」の2作はなんだか切ない。
「村娘をひとり」は現実的で悍ましく、「趣味は園芸」は人の生き方の問題を考えさせられる。
物語もさることながら挿絵も印象的で、表紙や短編の冒頭に描かれる植物のリアリティに動物的な生命を感じて怖いくらい。
すごく面白い試みの作品でした。
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「村娘をひとり」が程よく気持ち悪かった。少女は結局どうなったのか?
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植物という題材に惹かれ手にしたが、自分が期待していた植物像とのギャップが大きくて…。
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「それはそれでたぶんいいのだ。それがあの雑草の生き方というか質というか性分というか、そういうのなんだ。それぞれの生き方というか質というか性分があるのだ。早く成長するのもあれば、ゆっくりなのもあるのだ」(268 ページ)
いろんな性質の植物があるように、
いろんな性質の人間もいる。
美しいものや、醜いものや、
弱いものや、しぶといもの。
『水が少しばかりよごれていてもへいきです』
と言える [ホテイアオイ] に、私はなりたい。