勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版 (文春文庫 ち 9-1)

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167914639

作品紹介・あらすじ

勉強ができるようになるためには、変身が必要だ。勉強とは、かつての自分を失うことである。深い勉強とは、恐るべき変身に身を投じることであり、それは恐るべき快楽に身を浸すことである。そして何か新しい生き方を求めるときが、勉強に取り組む最高のチャンスとなる。日本の思想界をリードする気鋭の哲学者が、独学で勉強するための方法論を追究した本格的勉強論!文庫本書き下ろしの「補章」が加わった完全版。

感想・レビュー・書評

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  • 勉強の仕方、ではないかも。
    しかし私には為になった。
    考えかたもそうだし自他というか
    環境(自身の周りの雰囲気)を
    少し分析しやすくなった気がした。
    そのおかげで冷静さが身に付いた。
    よく考える。
    ということを大切にしたいと思う。

  • タイトルが大げさで、いかにも、なことが書いてありそうな雰囲気があるんだけど、全然そんなことなくて面白かった


    國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』けっこう好きなんですけど、似たような話で、自分が依存している環境から抜け出して(自己破壊して)新たな環境へと移っていく。みたいな話

    ただ本書はその"過程"、"間"に注目してる。

    〈自由になる、つまり環境の外部=可能性の空間を開くには、「道具的な言語使用」のウエイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する「玩具的な言語使用」にウエイトを移す必要がある。〉

    このように、原理的には言語の問題なんだと、話は進んでいく。言葉を、自己目的的に、詩的に使っていく。


    みたいな話を通して最後は具体的な勉強の仕方にも言及している。哲学の少し専門的な話も絡めながら一般書として分かりやすく落とし込まれていて読みやすかった。

  • 勉強の哲学

    勉強とは自己破壊であり、勉強をするとまずキモくなるという一節は面白かった。
    キャッチ―なフレーズで誘い込み、勉強の本質に迫る面白い本。

    勉強の方法論としては、物事を徹底的に疑うアイロニーと可能性の地平を広げるユーモアがある。これらを行っていくと、周囲のノリから解放されると共に、勉強している人特有の「キモさ」が出てくる。
    芸能人の不倫について話している時に「そもそも、不倫というのは悪なのか」「悪とはなんなのか」という際限ない疑問を提示してしまうのことをアイロニーを本書では呼んでいるが、簡単に言うとこれは結構キモい。周囲からすると、こいつめんどくさいと一瞬で敬遠されるような発言であろう。会話のコードを越えて、脱してしまうことで、コード進行を妨害する所謂「KY発言」(死語?)はアイロニーである。そして、ユーモアはというと、「不倫ってアートだよね?」というような事を言って、議論を全く別の地平に飛ばしてしまう、コードの複線化・拡張の役割をする。これ一種のKY発言であり、キモい。
    キモいという表現は、筆者が良く使っているが、物事を深く考える時、このキモさ無しでは不可能な要素であり、やはり勉強するためには不可欠な過程であるゆえに、肯定されるべきものではある。
    私の好きなオードリーの若林さんは、結構アイロニカルなことをラジオやエッセイに書いてあるが、個人的にはかなり好きだし、大半の人が意識しているコードについて一段異なる目線は新鮮でかつ面白い。また、千鳥のノブさんのツッコミ(本書でユーモア=ボケとしているが、ノブさんのツッコミは面白すぎるのである種ボケカウントもできるはず、、)も、一種のユーモアを感じる。
    脱線したが、勉強を始めることは、まず物事をアイロニーとユーモアで捉え、コードの絶対性を客観視することから始まる。アイロニーとユーモアは無限であり、際限がない。そうして、そのきりのなさに対して、一旦「中断」しつつ、続ける。そうしていると、勉強は享楽になり、言葉や思考を自己目的的に使うフェーズが来る。これを筆者はダンス的になると表現しているが、個人的なイメージとしてはジャズだ。コードから逸脱し、即興的に音を連ねていく、これは音楽の出来ない私には想像できないが、ジャズアーティストの悦に浸った表情を見るに、夢見心地の悦楽なのだろう。
     こうした、周囲のノリに同調するバカ⇒コードに疑念を持ち、それを発言してしまう小賢しいキモい奴⇒即興的・ダンス的・自己目的的に思考を愉しむ「来るべきバカ」という経緯をたどり、人は勉強の際限なきミステリーに螺旋的にめり込んでいく。この様子を、筋トレに例えて、増量期に筋肉(知)と脂肪(キモさ)を同時進行で増やし、減量期に脂肪(キモさ)を落としていくというプロセスに似ているとしていたのは個人的には非常に解り易かった。
     この一連のバカ⇒キモ⇒来るべきバカという流れはいささかニーチェっぽさがある。ニーチェは周囲のノリに同調しかできない人間を畜群と呼び、自ら価値観というフレームワークを生み出せる人間を超人と呼ぶ。人間とは一本の綱渡りの綱のようなもので、この畜群と超人の間にいて、「さあ、キミはどっちになりたいんだい?」とニーチェは呼び掛けるのだが、このニーチェのフレームワークに今回の勉強の話は似ている。ただ、筆者が異なるのは、「超人」とか「畜群をバカにする態度」は「キモい」という客観的というか平常の感覚を導入したことにあると思う。敢えて超人などと言わず、来るべき「バカ」と表現しているのは、学問という際限のない奥行きに対するリスペクトなのだろう。
    (この「来るべき」という言葉もいささかニーチェっぽさがあるのだが)
    しかし、人間が成長するにあたり、「ダンシング☆超人」を目指さなければないということはよくわかった。

  • 勉強するとノリが悪くなる。
    最後まで読み通して改めてこの言葉を見ると、初めに読んだ時とは全く違う重みで読める。

    当たり前じゃないかと(笑)ちゃんと著者の意図するところが身体化してた。

    最後に要点をまとめてくれるのは、先に読んだ「現代思想入門」と同じ。几帳面な性格なだけのかもしれないが、私はこの人は本当にやさしい人なのだと思う。(「現代思想入門」でも感じた)こういう本にありがちな偉そうさが全くない!ホントにわからせてあげたいという気持ちが伝わる。
    そういう意味では、ノートの取り方、入門書の読み方、文学の捉え方、すぐに、自分が変われるスキルがいっぱいだ。
    若いのに。できてる。

  • まずは第1章のアウトプット
    キーワード

    自己破壊
    コード、ノリから距離をとる
    有限性
    言語の他者性
    ニュアンスの差異=偏りのイデオロギー
    言語は人間のリモコン


    自己と他者、他者は他人ではなく、自分以外の何でもである。他者の中に言語も含まれるのが重要。環境コードによって生み出される言語だからこそ、その人のイデオロギーが分かる。
    勉強することで、社会学だったら社会問題、心理学だと心理に対して敏感になるが、環境コードが変わると転用は難しい。なのでより根本的な言語の操作性に意識的になるべきと理解した。言語で現実との距離をとる=言語遊びによって環境コードに縛られない、有限性での自由を獲得する話。
    言語との向き合い方は考えたことがなかったが、人間のリモコンである言語を再考することでその場のノリを客観視できるのではないか。
    咀嚼必須。

  • 日々是ロジカル、ラテラル、クリティカルシンキング也。ほんまにそれでいいんか?と問うてツッコんでボケて、ボケたついでに例えツッコミとかもしちゃって、ある程度のところで まあいっかで仮固定しては比較し続けよ(※繰り返し)、と思いました。とりあえず自分年表つくろ。

    - ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。p.141
    - 信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。p.142
    - どこまでが他人が考えたことで、どこからが自分の考えなのかをはっきり区別して意識しなければならない。p.190
    - 小説では、人のやることは両義的、多義的であると考えて、解釈の交差点としての「ただの出来事」を記述している。p.227

  • 勉強することは、自己破壊である。これまでのノリ;コードから自由になる。
    勉強することは、獲得することではなく、喪失することだ。昔の自分でなくなる。
    そして、勉強することで、「来るべきバカ」になるのだという。
    著者は、へそ曲がりなのだろう。「来るべき賢者」というのが恥ずかしいのだろう。
    まぁ。あとがきに、バカには、特異性という意味が残響していると言っているのは、照れ隠しか。
    よく私は、「あーぁ。今日も勉弱した。なかなか勉強できない」などと言っていた。
    著者が言うように「変身するような勉強」と言った意味で勉強はしていない。変身も自己破壊も起きていない。そんなに簡単には、変われないのだ。
    「勉強によって自由になるとは、キモい人になることである」と言う。
    要するにノリが悪くなるのだ。ノリが悪くなって、さらに突き進んでいく。
    情報刺激が多い現代、わかりやすく、質がいい情報がたくさんあり、基本は本にあるというのは納得だ。インターネット上では、やはりフェイクも多いし、軽い情報も多い。
    その中で、勉強を有限化することが大切だという。深追いのしすぎと目移りの誘惑に負ける。
    環境概念は、「ある範囲において、他者との関係に入った状態」
    環境に依存して生きており、こうするもんだという暗黙の了承がある。
    環境には、目標があり、目的地と共同的な方向性がある。
    他者とは、自分自身でないもの全てであり、生とは、他者に関わることだという。
    そして、自分とは、他者によって構築されたものである。
    言葉は、使われて初めて意味を持ち、辞典とは人々が言葉をどう使ってきたかの歴史書。
    言語を通して、私たちは他者に乗っ取られている。言葉偏重の人という言葉があり、納得した。
    言語は、人間のリモコンであり、言語と現実を結びつけて、思考し行動する。
    道具的な言語の使い方と、玩具的言語の使い方がある。玩具的で自己目的な言葉の使い方に習熟する。言語は、架空の世界を作ることができる。例えば、りんごはクジラだ。
    例として、不倫は悪い。から、良い不倫があるという論議を積み重ねること自体、「不倫」という言葉自体が、もう悪いのだから、無理があるなぁ。昔は不倫と言わず、浮気と言ったり、芸人や歌舞伎の世界みたいに、芸の肥やしと言っちゃったりするわけで、閉じられた言葉の空間で論議しているのがちょっとこの男は、切ないなぁ。

    ツッコミとは、ちゃぶ台返し。ボケとは、論点ずらし。
    それをツッコミ=アイロニー。ボケ=ユーモアという風に置き換えるけど、だいぶちゃうだろうと思う。やはり、状況というか環境が違いすぎる。論理的に論理飛躍させる。ちょっと無理やり感があって、なんとなく、若いなぁと感じてしまう。なんか、自分の行きたいところに、無理やり行かせようとする。結局「我田引水」哲学の類なのだろうか。ツッコミとアイロニーを一緒にすることで、最初からアイロニーを論じたかったのだというあざとささえも見せる。
    アイロニーは根拠を疑うこと。ユーモアは見方を変えることだという。
    ツッコミは根拠を疑うこと、ボケは見方を変えることと言い換えると随分と違和感があるなぁ。
    著者は「ユーモアの過剰とは、コード変換による脱コード化である。この帰結は、意味飽和と呼ぶ。
    意味飽和は、あらゆる言葉が無意味になる。ユーモアの極限は、意味飽和のナンセンスである。」という。もう言っていることが、よくわからない。アタマが飽和状態で受け入れられない。
    どうも著者は、空気が読めず、知識をひけらかすことで、嫌われるタイプなので、それを反転させようと努力しているようだ。無駄なあがきだ。とにかく、これまでの要約してきたことが、「原理論」らしい。

    言語偏重になり、自分の享楽を活用し、有限性を意識する勉強。
    本を読んでも、完璧に読むことはできない。一字一字全て読んでいるかは確かではないし、通読しても覚えていない。読書とは、不完全なものである。読書において本質的なのは、本の位置付けをすることです。自分に引きつけて理解しようとしないことも大切。というが、自分に引き寄せなければ、面白くない。自分の感覚を拡張するとか。難しい本を読もうとするのは、無理に納得しようとするからであるというのは、賛成。わからなければ、飛ばしてもいい。いつかわかる時が来るかもしれない。
    現状把握をメタ認識で行う。大きな構造的問題の中にある。
    著者の興味があったのが「多様性、複数性、マイナー性」にあったという。どう時代と欲望論的に結びつけるかというのも必要だ。享楽的こだわりが、自分らしさを発揮できる。
    難しかったけど、最後まで読めたというのは、著者がえらいのかもしれない。
    何れにしても、人間は死ぬまで勉強するわけだから、常に勉強だね。

  • 何故、本を読むのか、自分でも言葉にできていなかったが、この本を読んでヒントが得られたように思う。
    そして、少なくとも自分にとって、これはもしかしたら高等教育の意義として敷衍できるのかもしれない。
    欲望年表を作ってみたが、自分の考えのルーツがこれまでよくわかっていなかったことに気が付かされた。
    そして、自分の蔵書の傾向がユーモアに富みすぎており、アイロニーに欠けていることにも。
    多分、しばらくはこの本の話をいろんな人にするんだろうな、と思う。

  • 時々本を置いて、ゆっくり咀嚼しながら読んだ。とても面白かった。これからの勉強に必ず役に立つ。
    「勉強の目的とは、これまでとは違うバカになることなのです。」
    私たちが普段、無自覚に使っている言語を、深く考察している。
    「人生のステージ」が上がることで周りの人と話が合わなくなる、というのはこういうことなのかな、と思った。その覚悟がある人だけが、勉強を続けることが出来るんだろう。
    「無自覚に、ユーモア的なコード変換を次々にやってしまう」のはADHDにありがち、無自覚なアイロニーはASDっぽいな。

    何かを知ろうとしたら深追いしすぎたり目移りしたりして元々のテーマを見失ったりするのは、良くあることらしい。
    深追い→目移り→深追い→目移り…というプロセスを止めて、ある程度でよしとするのが勉強の有限化。
    ある程度の深追いをしたら、横方向に比較をする。そして結論を仮固定しても、比較を続けること。足場となるのは「私の享楽」。
    「信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。」

    自分の享楽を知るために「欲望年表」を作るに当たって、過去を思い出していたら、埼玉の小学校に通っていた時代がとても幸せだったことを思い出して、心が温かくなった。
    勉強を有限化しつつ継続するためのテクニックが具体的に紹介されているのがありがたい。
    ネットより紙。「まとも」な本を読むことが勉強の基本。本の選び方も教えてくれる。

  • 「勉強とは、自己破壊である。」
    個人的に独学大全より参考になった。

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著者プロフィール

1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。
著書に『意味がない無意味』(河出書房新社、2018)、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』(青土社、2018)他

「2019年 『談 no.115』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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