風葬 (文春文庫 さ 56-2)

著者 :
  • 文藝春秋
3.57
  • (11)
  • (54)
  • (46)
  • (5)
  • (2)
本棚登録 : 365
感想 : 40
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (212ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167907464

作品紹介・あらすじ

思い出して、思い出して、忘れて行くこともある──釧路で書道教室を営む夏紀は、軽い認知症を患った母がつぶやいた、聞き慣れない地名を新聞の短歌の中に見つける。父親を知らぬ自分の出生と関わりがあるのではと、短歌を投稿した元教師の徳一に会いに根室へ。ひとつの短歌に引き寄せられた二人の出会いが、オホーツクで封印された過去を蘇らせる……。桜木ノワールの原点ともいうべき作品、ついに文庫化。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • あなたは、自分が何者であるかと考えたことはないでしょうか?

    人は父親の精子と母親の卵子が受精することによってこの世に生を受けます。あなたにも私にも生物学的には必ず父親と母親が存在します。これは万人にとって共通です。そんな父親と母親が誰であるか、それを証明するものが『戸籍謄本』です。中学生の時だったと思いますが、生まれて初めてそんな自分自身の戸籍謄本を見る機会がありました。そして、そこに書かれている父親と母親の名前を見て、確かにこの二人と自分は繋がりを持っているんだ、と胸を撫で下ろした瞬間を今も覚えています。誰だって自分が何者であるかには興味があると思います。特に思春期はその思いが強くもなるでしょう。

    ここにそんな想いの中で『高校を卒業した年こっそり自分の戸籍謄本を取ってみた』とその想いを確かめるべく具体的な行動に移した一人の女性が主人公となる物語があります。『戸籍謄本』に目をやると『父親の欄は空白』という事実を目にすることになったその女性。母親が認知症になり、『戸籍謄本』に記載のないその真実を永遠に知ることができなくなると焦るその女性。そんな女性は自らの出自を知りたいとさらに具体的な行動に動き出します。

    この作品はそんな女性が自らの出自を探し求める物語。北国の雰囲気感満載な描写を堪能できる物語。そしてそれは、そんな北国の離れた街に暮らしていた二つの家族の人生が、出自を探すそんな女性の行動をきっかけに絡み合っていく様を見る物語です。

    『釧路から根室へと向かう列車に揺られてい』るのは、主人公の篠塚夏紀(しのづか なつき)。『五十五歳になる母の春江とふたり暮らし』という夏紀は、『高校を卒業した年こっそり自分の戸籍謄本を取って』みるも、『父親の欄は空白』でした。『本籍は元は東京都文京区白山』という母の春江は、『書道教室を運営しながら』『夏紀を育ててき』ました。そんな春江が『厳しく技術を伝えた』ものの『夏紀の腕は街の書道教師の域を出』ない状況。しかし、『それは承知の上で母の仕事を継いでいる』という今の夏紀。そんな夏紀は、春江に『自分の捜している物が何だったかを忘れ』る症状が見られるようになり、医師に相談すると『初期の認知症であろう』と言われてしまいます。そんな中、春江が『夜更けに起き出し』、『焦点の合わない眼差しで「行かなくちゃ」と言う日が』続きます。行き先を訊くと『ルイカミサキ』と言う春江ですが、翌日になると『自分の言ったことを忘れて』いる状況。一方で新聞に載った『涙香岬におよぶ流氷の末端を…』という歌を新聞に見つけた夏紀は『ルイカミサキが涙香岬ではないか』と考えます。根室の沢井徳一という作者の連絡先を新聞社から得た夏紀は徳一に会いに根室へと赴くことにしました。場面は変わり『まだ三十分近くあるじゃないか』と徳一に文句を言いつつ駅に着いたのは徳一の息子の沢井優作。父と同じく教師となり釧路の小学校に勤めていた優作ですが、『受け持っていた児童が自殺したところで、職場へ向かう力が尽き』、妻の風美を残し単身、父が一人暮らす実家へと戻りました。『遺書はなかったがいじめの存在は感じていた』というその原因。『葬儀の席で土下座を要求され』、『度重なる電話に』疲弊し切った優作。『しばらくこっちにいるから』という一言だけで『げっそりと瘦せた息子を何も言わずに迎え入れ』てくれた徳一。そんな今の優作と徳一の前に『初めまして、篠塚夏紀です』と待ち合わせをしていた女性が現れました。『実家から歩いて十分ほどの海岸線にある』喫茶店へと移動した三人は夏紀が知りたいという『涙香岬』のことを話します。かつて『街の規模に不釣り合いなほどの歓楽街や遊郭があった』という根室で『男に捨てられた悲しみや楼主のひどい仕打ちに』、『身を投げた女も多かった』という場所でもあるという『涙香岬』の話を聞いて驚く夏紀。そして、徳一は『実際にご覧になった方がよろしいでしょう』と夏紀を『涙香岬』へと案内します。『ここが涙香岬です』という目の前の岬を見る夏紀。そんな夏紀が自らの出生の秘密を追い求める先に、まさかの真実の扉が開かれていく物語が始まりました。

    2008年に、デビュー作「氷平線」に続く小説として刊行されたこの作品。「氷平線」から今に続く桜木紫乃さんの一番の魅力は文字の上に北国の光景がふっと浮かび上がってくるような絶妙な情景描写に溢れているその筆致です。この「風葬」においてもそれは顕著でありこの作品の何よりもの魅力を作り出しています。

    そんな作品の冒頭に置かれたのが〈序〉という章題のついた序章です。『五月だったら、と男は思った』と始まるその序章は北国の情景を『五月ならば鮮やかな千島桜の色に少しは心も和んだかもしれない… オホーツク海と太平洋に挟まれた半島の街は、日本でいちばん遅い春を待っていた』とこの作品の舞台となる道東を象徴するかのように彼の地で有名な『千島桜』の存在をさりげなく挟みつつ北国にゆっくり訪れる春の到来を描写していきます。しかし、その中に次のような違和感のある一文がさりげなく挟まれています。『国道沿いの道にはまだ緑が少なく、中心街ではスパイクタイヤの粉塵が景色に靄をかけている』。1980年代に粉塵による健康被害が深刻化した『スパイクタイヤ』の全盛期を思わせるかのようなこの表現は、流石に北国と言っても違和感があります。それはこの序章が過去を描いたものであることを暗示してもいます。『一年前、父親が拿捕され収容先のソ連で病死』、『昨年春に拿捕された青年が抑留を終えて帰国』と、一体これはいつの時代の話なのか?と思わせる物語の中に、時代を特定させる一文を見つけました。『東京急行・新玉川線(渋谷ー二子玉川園間)開通」という見出しの躍る紙面』という一文によってこれが1977年の物語であることが特定できます。そんな物語は不穏な空気感に満ち溢れています、主人公と思われる教師は『男』という名のない人物として表現される一方で、そんな主人公が『小学校からの申し送りでは、おそらく中学に通わせる気はなかろう』と登校してこない一人の女子学生の自宅へ家庭訪問します。『新しい任地でいきなり不登校の生徒を抱えるとは』と『運の悪さを呪』う教師の男。『拿捕事件』、『密漁、密輸、マフィア』といった闇の世界の存在が北国のどんよりとした雰囲気感の中に暗示されるこの序章は、読者を一気にこの物語世界に引き摺り込んでいきます。桜木さんの物語はどの作品も北国を強く感じさせる独特な雰囲気感を纏っていますが、この作品の序章は1970年代のソ連と国境を接する道東ならではの独特な雰囲気感を持って読者に強く迫ってくるものだと思いました。

    そんな物語は、第一章以降時代を大きく変えます。そんな中に、時代を特定する表現を見つけました。『母が年の初めに街を襲った震度六強の地震から精神的に脆くなった』というその一文。この作品の舞台は道東ですが、そんな道東を襲った”釧路沖地震”が発生したのが1993年1月15日。そう、物語は一気に16年という年月が経過した先の物語が描かれていきます。主人公として登場するのは、篠塚夏紀、母の春江という釧路に暮らす母娘。夏紀は、自らの出生の秘密、父親が誰かを知りたいと願うも戸籍謄本の『父親の欄は空白』。母親に訊くことも躊躇したまま今に至っていますが、そんな母親に認知症の症状が現れ始めたことから焦りを感じます。『夏紀の不安とは、母の記憶が失われてゆくことではなく、自分の出生について知る者を失うということだった』という夏紀の心の内。そんな中、母親が無意識に口に出した『ルイカミサキ』という言葉をヒントに根室にある『涙香岬』を特定し根室の地へと訪れた夏紀。一方でそこで暮らすのがもう一人の主人公でもある沢井優作、父の徳一でした。いずれも元教師という経歴を持つ二人。そんな二人は共に教師時代に教え子を亡くすという過去を持ち心に深い傷を負っています。そんな二組の親子、それまで何の繋がりも持たなかったこの二組の親子が〈序〉に描かれた過去の時代に描かれた描写の元に結びついていく物語がダイナミックに描かれていきます。夏紀の父親は誰なのか?、真相を究明しようとする優作達を付け狙うのは誰か?そして、序章でミステリーのままに終わった『十一月、彩子は死んだ』というこの作品の起点とも言える事象の真実とは?と、幾つもの謎が物語後半になって次から次へと明らかになっていきます。さまざまに張り巡らせられてきた伏線がスピードをどんどん上げて回収されていく物語後半。極めてスッキリ感のあるその伏線回収の妙に魅了される一方で、『八月に入った。年に十日ほどしかない道東の夏』、『湿原は命の源という呼ばれ方とはうらはらに、遠目で見るとまるでサバンナのようだ』、そして『不意に白い影が窓の景色に飛び込んで来た… 線路から二十メートルほど向こうに舞い降りたのは丹頂鶴だ。優雅に羽を広げ一羽、湿原に降り立った鶴の気高い姿を目の奥に刻む』といったようにどこまでも北国の大自然を感じさせる素晴らしい描写の数々が続きます。また、人物の内面描写でも母・春江の認知症を思う夏紀は『穏やかに自分を失ってゆくことを母が本当に望んだとしたら、それは命の放棄ではなく記憶の放棄だろう。そこには残酷な別れがあった』と思う場面が描かれています。桜木さんはそんな夏紀にこんな言葉を語らせます。

    『命と記憶、どちらが残ってもどちらを失ってもひとはかなしい』。

    なんとも深い表現。認知症の人物が登場する小説は多々読んできましたが、この感覚の描写は凄い!と思いました。

    桜木紫乃さんと言えば北国の雰囲気感溢れる表現の数々が何をおいても魅力の一つです。この作品ではそんな北国をかつて襲った1970年代のソ連による漁船拿捕といった道東ならではの事象が物語の起点に描かれていました。そして時代が下った後には桜木さんならではの北国の大自然が鮮やかに描写されていきます。そして、そんな背景の前に描かれたのは二つの家族を巻き込んで展開するミステリーな物語でした。後半に向かってスピードを上げて解き明かされていくミステリーの数々、一方で読者の心に深く刻みつけられていく薄暗い雰囲気感がどこまでも後を引く物語。

    「風葬」というミステリアスな書名を冠したこの作品。これぞ”桜木紫乃ワールド!”を存分に堪能させてくれる傑作だと思いました。

  • 誰でも大なり小なり隠しておきたい物事があるものだ。
    「墓場までもっていく」つもりの秘め事は人の頭の中、あるいは心の中にのみ容れられ、封をされ、取り出されることなく朽ちるのを待つことになる。
    棄てたくても棄てられず、ただ放置するしかないもの、あたかも宝箱の中身のように大切に保管されるもの、事象によってそれは様々だとは思うが、ゆっくり風化させるという向き合い方もあるようだ。
    いずれにせよ記憶にのみ留め置くことを選択した場合、関わりのある人が死んだり、忘れてしまった場合はその事象は消え去ってしまう。
    消えゆく記憶に向き合って、大切に思い出し、ただもちろん口外せずに、その消せない記憶に別れを告げていく。

    しかし自身の出生の秘密が消えていくとき、それを受け入れることができる人は少ないかもしれない。

    オホーツク海に接した道東という立地条件が今回の物語の舞台を唯一無二のものにしている。
    スパイとか、密漁とか、どこか遠い世界の話のようだけど、北海道のこの地であればそんなこともあるのかもしれないなと思う。

    様々な人の思惑が絡みあうサスペンスだが、最後は急速に収束した感があり、なんだかもったいなかったな。もう少し長く楽しめるような気もしたのだけれど。

    とはいえ家族や人生の再生に主眼がある桜木紫乃の文章の魅力は存分に発揮されていた。
    氏が繰り返しモチーフにしている書道や短歌がふんだんに織り込まれている。また、他の作品のあの人が殺された場所がちらりと出てきたりするのもおもしろい。

    『硝子の葦』が好きな人にはおすすめしたい。
    『無垢の領域』にも通じるところがある。

    それにしてもタイトルが『風葬』とは。
    この人は読者のツボに触れるのがよっぽどうまいように思う。

  • 登場人物が絡み合い、ストーリーが進ん
    で行く展開に引き込まれました。
    超一級のサスペンス作品です。

  • 自分の出生を知りたくて、認知症になった母が呟いた岬の名前を頼りに、新聞の投稿短歌にその岬を使った作者に連絡を取った夏紀。
    その出会いが彼女の出生にまつわる事実を掘り起こす。
    そこには様々な悲しみや恐怖等が入り雑じった過去があった。

    今までの桜木作品では一番面白かった。

    2018.2.27

  • 「ルイカミサキに行かなくちゃ」認知症を発症した母の呟きから、自分の出生の秘密を知ろうとする娘。
    海で亡くなった女子生徒を救えなかったという苦い思いを、定年後の今も抱えている元中学校教師。
    一つの歌ひ引き寄せられ二人が出会うとき、釧路と根室、ふたつの地を結ぶ因縁が明らかになる。

    拿捕、諜報船、抑留、遊郭・・・桜木さんの描く北の町の過去はいつも辛く、哀しい。
    生徒を救えなかったけれど最後まで教師を貫いた父と、教え子に自殺され、教師であり続けられなかった息子。
    書道教室を営む母と、それを受け継いだ娘。
    それぞれの親子関係が切ない。

    ラストシーン、涙香岬で何も知らされず海に花を手向ける娘が愛おしい。真実を知ることが幸せだとは限らないということかな・・・
    桜木さんらしい、哀しくて、重くて、寒くて、深い充実の作品で、最後は、少しの光が射して読後も悪くない。
    久々に堪能しました。

  • 桜木紫乃の真骨頂である。男女の想いはもちろんのこと、いくつもの親子の姿が凝縮されている。サスペンス風にドラマが進んでいく中で、それぞれの後悔、哀惜、失望が色濃く映し出されていく。胸の痛みが取り除かれることはなく、過去は交差しないままに未来は日常を紡ぎ続ける。ただ風景を切り取った最後の2行にとんでもなく心を揺さぶられる。まさに風葬なのだ。この感情を呼び起こせるこの小説は名作である。

  • 釧路で書道教室を営む夏紀は、認知症の母が呟いた、耳慣れない地名を新聞の短歌の中に見つける。父親を知らぬ自分の出生と関わりがあるのではと、短歌を投稿した元教師の徳一に会いに根室へ。歌に引き寄せられた二人の出会いが、オホーツクで封印された過去を蘇らせる…。桜木ノワールの原点ともいうべき作品、ついに文庫化。

  • 桜木ノワールの原点ともいうべき作品、らしい。確かに独特の雰囲気があるノワールで、物悲しさの漂うラストは桜木紫乃にしか描けないように思う。

    この作品も舞台は北海道。釧路で書道教室を営む篠塚夏紀が認知症を発症した母親の春江の呟きを発端に自分のルーツに触れていく。最初は夏紀を主人公にストーリーが展開するが、短歌をきっかけに、夏紀と関わる元教師の沢井徳一と息子の優作に主役の座が移ると一気にノワールは加速する。

    少し人間関係や背景が複雑なせいか、ストーリーの筋が読み取りにくい。

  • 釧路で母と書道教室を営む夏紀。軽い認知症の症状を見せ始めた母が呟いたルイカミサキという地名に母の秘密があるのではないかと思い立ち、偶然の出会いに導かれるようにして根室の涙香岬を訪れる。
    一方、夏紀の訪問によって苦い出来事を思い起こした教師の徳一は、当時の後悔を胸に、ある謎を解き明かそうとしていた。
    一人の女性の出生の秘密を軸に、信念と強い意志を持って生きた人々をちりばめながら、過去の過ちに対する懺悔と再生を描く。
    どうしようもなく暗く救いのない事件や出来事を描きながらも、最後は薄明かりに包まれるような読後感がさすが。

  • 桜木紫乃さんの作品は情景の描写が丁寧で、大好きな北海道の風景を思い描きながら読めるのが好きです。
    ルイカミサキ、探してみたくなりますね。

全40件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

一九六五年釧路市生まれ。
裁判所職員を経て、二〇〇二年『雪虫』で第82回オール読物新人賞受賞。
著書に『風葬』(文藝春秋)、『氷平原』(文藝春秋)、『凍原』(小学館)、『恋肌』(角川書店)がある。

「2010年 『北の作家 書下ろしアンソロジーvol.2 utage・宴』 で使われていた紹介文から引用しています。」

桜木紫乃の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×