ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」 (文春文庫 た 90-1)

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167838683

作品紹介・あらすじ

世界遺産クラスの遺構は、こうして失われた爆心に近く残骸となった浦上天主堂は、保存の声も高かったのにも拘らず完全に撤去、再建された。その裏にいったい何があったのか?

感想・レビュー・書評

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  • 広島には原爆の悲劇を後世に伝えるための象徴的なモニュメントとして「原爆ドーム」がある。しかし長崎にはそのようなものがない。それはなぜか。

     実は長崎にも「原爆ドーム」になり得る被爆遺構があった。浦上天主堂だ。

     戦後もしばらくは撤去もされずに残った遺構を、原爆の記憶として残すことに、市議も市長も保存に向けて前向きだった。同地に天主堂の再建を目指していた司教も、市民が望めば、遺構を保存することにやぶさかではなかった。行政も市民も土地権原者も保存に向けて動いていたのだから、現存していてもおかしくはなかった。

     しかし戦後13年目にして、取り壊されてしまった。

     ひとつのきっかけとして市長の変節がある。

     戦後10年を機に長崎にアメリカのセントポール市との姉妹都市提携の話が持ち込まれた。今でこそ姉妹都市なんてそこら中にあるので珍しくもないが、これはその第1号、日本初だった。

     この話を進めるためにアメリカに渡った市長は、行く先々の都市で歓迎を受け、繁栄を極めるアメリカに魅了されてしまい、言うなれば懐柔されてしまった。(アメリカが浦上天主堂の遺構を撤去するように市長に迫ったかどうかは不明。長崎市に対してなにかしらの条件を出したかどうかも不明。なので、市長がただただアメリカに魅了されただけなのか、長崎の発展のためにはアメリカと友好関係を第一にしようと考えたのか、その辺も不明)

     当時のアメリカは反共政策のひとつとして、その財力にものを言わせて、世界各国の要人や若者を招いては歓待をし、親米家を増やすということをやっていたらしい。そのための専門機関(USIA)もあった。United States Information Agency の略で日本語ではアメリカ広報・文化交流庁というらしい。日本語にするとちょっとした観光促進とか、文化交流の推進みたいなイメージだが、目的は反共政策だから、その規模は推して知るべしだ。

     もう一つのきっかけは土地権原者である浦上天主堂の山口司教が、これまたアメリカ各地を巡り、天主堂再建のための寄付集めに奔走したことだ。でもこちらは変節ではない。天主堂再建は司教にとっても信者にとっても復興の第一の眼目なのだから。

     浦上という土地は江戸時代から、何度も何度も迫害を受けた土地だった。隠れキリシタンとして潜伏し数百年に渡り信者は耐え忍んだ。天主堂の建てられた場所はかつて信者たちに踏み絵を強要し、拷問した庄屋のあった丘だった。彼らは自分たちの信仰を弾圧した権力者の建物を壊し、その上に天主堂を建てた。その意味から、遺構を残したいからといって、天主堂を違う場所に移転するということは簡単なことではなかった。やっぱり同じ場所に復興の証として再建したいという思いがあったのだろう。

     このような経過で撤去への動きは加速していく。市民も権原者も撤去へ、残りは市議と市民の声が頼りだが、実は市民の関心はそれほど高くなかった。それも浦上という土地に関係している。
     
     当初の原爆投下予定地の長崎市内中心部から浦上は西に少しずれている。原爆投下時、市内が前日の空襲の影響で煙っていたため、浦上に目標がずれてしまったわけだが、市民の中には「浦上は耶蘇教の土地だから天罰が下ったんだ」と考えている人もいた。市の中心付近の人たち比較的被害が少なく、諏訪の神様が守ってくれたんだ、と思った。(有名な『長崎くんち』は諏訪神社のお祭り)
     市民の声も、なんとしても保存!というような強いもの、強いまとまりはなかったようだ。

     東日本大震災のときも震災遺構の撤去と保存の問題が住民の間であったから、保存ということでまとまるというのはなかなか難しかったのかもしれない。あの遺構をみると原爆を思い出すから早く撤去してくれなんて声もあったろうし。

     でも、たぶん市長が変節しなければ、残った可能性は大だ。

     一方の広島の原爆ドームは何で残ったのだろう? 調べてみよう。

  • 人間は忘れっぽいものなのだと。「起きてはならないこと」、「起こしてはならないこと」、原爆投下のような必要悪が生まれたとき、人知を超えた自然の猛威が起きたとき、後世にどのようにして教訓を残すのか?そこが問われている。
    当事者は心に傷を負っているのだから「忘れろ」と言われても忘れられない。でも当事者ではない同時代を生きた人々も、まったくその事象がわからない次世代の人々も、人間の性とも言えようか、時間の経過とともにやっぱり忘れていくものなのだと。この溝をどのようにして埋めていくのだろうか。

    本書は長崎浦上天主堂の遺壁について述べられているが、戦後10年余り残っていたことは知らなかったし、残せる立場だった当時の長崎市長の心変わりで撤去となったことは残念で仕方がない。
    また、アメリカの政治的思惑まで言及する筆者のリサーチ力と構成力を感じさせる作品でもあった。

    誰もが感じている、「ヒロシマ」と「ナガサキ」との違い、なんだか腑に落ちない違和感のようなものを象徴するようなことだと思う。ヒロシマには原爆ドームがあって、ナガサキには浦上天主堂の遺壁が無いことが。

  • 無知であるということは罪深いことだ。と思った一冊。
    今の長崎にもしこの原爆ドームが残っていれば、日本人の、戦争や核を否定する思いはもっと強いものになっていただろうと思う。
    それほどの歴史的遺産がとり壊れてしまった謎が、ミステリアスに描かれていく。
    筆者の考えすぎでは!?と思うほどさまざまな訝しい点が線になり、それが浦上天主堂の撤去へとつながっていく。まるで推理小説を読んでいるみたいだった。
    アメリカの誘導だったということは予想できたが、ソ連の、共産主義の排斥もその背景にあるのではという登場人物の指摘には、自分のあまりの無知加減に失望した。

  • 【世界遺産クラスの遺構は、こうして失われた】爆心に近く残骸となった浦上天主堂は、保存の声も高かったのにも拘らず完全に撤去、再建された。その裏にいったい何があったのか?

  • 広島には原爆ドームがあるのに、長崎には「原爆遺構」がない。実は1958年まで原爆で破壊された浦上天主堂があったんです。焼けこげたマリア像や首の折れた聖像も多数。市議会も市長も全員「保存」で合意してたのが、1956年に当時の市長がセントポールとの姉妹都市提携に関連して渡米したら豹変。アメリカのソフトな懐柔路線にしてやられた(らしい)という話。読み応えあります。

  • 残されていれば長崎の原爆ドームとなっただろう浦上天主堂。それが取り壊され、新たに建て直された経緯を追ったノンフィクション。
    趣旨や情熱は伝わってくるが、ただ結論的には推測のみで、なにも証明されていない。取り壊しにはアメリカの意向か絡んでいた、という形跡があることはわかったが...今ひとつ消化不良気味。
    ただし、いくつかの偶然が重なって長崎の「浦上上空」に原爆が落とされたこと、「浦上」は日本のカトリックの聖地的な場所だったことは覚えておく必要があるだろう。

  • ヒロシマの原爆ドームは保存されたのに、ナガサキの浦上天主堂は保存されなかったのか。
    その疑問の答えはひとつではないが、出来事を後世に伝えるためには、遺構をそのまま残すことこそが大事だという筆者の主張に、首肯する。
    特に311をうけた追記は、とても大事なことだと思う。

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著者プロフィール

1955年長崎県生まれ、ジャーナリスト・ノンフィクション作家。ニッポン放送勤務時の1982年に日本民間放送連盟賞最優秀賞他受賞。著書『ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実』他。

「2023年 『ニッポンの正体』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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