康子十九歳 戦渦の日記 (文春文庫 か 53-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (334ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167801410

感想・レビュー・書評

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  • Time flies fast.歳をとると日がたつのが速いですね。書評ブログが一週間に一つだけ。新聞ブログもやらなきゃ。

    というわけで、本日の書評ブログは、あの日下公人御大の推薦する、土佐高校が生んだ偉大なるノンフィクションライター・門田隆将先生の「康子十九歳戦禍の日記」です。

    この本のヒロインは粟屋康子という。女の父親は粟屋仙吉といい、東京帝国大学法学部をでて内務省に入省し、大阪府警部長(当時)、大分県知事、広島市市長を歴任したエリートを絵に描いたような人物だった。

    その娘の康子は父親の度重なる転勤にもかかわらず、どの学校でも主席をとり、東京女子高等師範学校付属高等女学校専攻科(現在の御茶ノ水大学)に進学したエリートであった。

    この物語の舞台は戦中から戦後直後、そのような康子がどのようにして自分の生き方を貫いてきたか、どのような生活を送って来たのか、どのように異性や友人に接してきたのかが、彼女の日記から門田先生の見事な描写力で描かれている。

    小説の舞台は昭和19年、康子は18歳で軍需工場で働くことになる。勤務時間は朝7時から夜7時までの日勤。それが一週間続いた後、夜7時から朝7時までの夜勤。康子自身も「自分は本当にこの激務に耐えられるのであろうか?」と述懐する。

    そのような過酷な環境の中で、彼女は二人の異性とやや密接な関係になる。一人は彼女と同じ班で働く中央予科(現・中央大学)の梁敬宣・台湾人である。もう一人は康子が属する4班の本位田巌(いわお)区隊長である。

    梁は彼女に「自分は早く死に場所を見つけたい。特攻隊になりたい」とまで言う。それに対して康子は「それは違う、特攻は手段であって目的ではない」と彼を諭す。

    そんな彼女に熱を上げた梁は彼女に「髪をもらう」という大胆な懇願をする。大草原のような心を持っていた康子は快諾。梁は大事にするのだ。後述するが梁は戦後、戦勝国の(中華民国)の人間として彼女に大きな便宜を計る。

    本位田区隊長は歳のころ25歳前後で、階級は少尉。彼が指揮する第四区隊では高射砲の砲弾の信管等さまざまな兵器を製造していた。

    康子もその班に所属し、中央予科の学生とコンビになって信管を作るのである。この班を統括する本位田に康子は恋心を寄せるのだった。なぜなら、彼はまず元気がよく颯爽として、テキパキと学生に指示し、軍人らしく鉄拳制裁などは決して行わないタイプだったからである。また学生たちの心もよくつかんでいた。

    そんな軍需工場での康子の生活も、戦争が進むにつれ状況は悪化していく。
    まず、本位田少尉の外地への出征である。

    彼を慕っていた康子含む学生らは本位田の送別会を開く。ここで笑えるエピソードが中大生が”中大豪気節”を歌っていると、途中で飯沼中尉が「おっと、そこまで」とストップをかけた。

    なぜなら4番で「よっつとせ 嫁にいくなら中大生」というくだりが本位田少尉に気の毒な配慮だったとみたからだ。この夜は康子にとって忘れがたいことになる。

    康子が軍需工場勤務の傍らはげんでいたことは、兄妹へ手紙を書くことであった。特に妹の近子は、小学生ということもあって可愛げもあったのか、何度もお姉さんらしい手紙を書いている。彼女は戦争がなければ、将来教師になるのであろうが、もし教師になったら、素晴らしい教師になったであろう。

    戦争が進むにつれ彼女の環境も変わっていく。昭和20年3月の東京大空襲などの影響で、女高師の「動員解除」は6月18日に決まり、彼女は新潟に疎開することになる。

    そのような中で戦争の影響は彼女に暗い影を落とすことになる。それは広島への原爆投下である。

    広島は父親の仙吉が市長を務めていた地である。彼女はすぐさまにでも広島に向かいたかった。広島には父親の他、母親、弟、妹がいたからだ。

    なかなか切符が取れないので、梁に頼んで切符を手配してもらう。(梁は台湾人で戦勝国民)
    すぐさま広島に行ったものの、母親しか生きていないという状況に愕然とする。その母親も原爆により重篤な状態であった。

    彼女は献身的な看病をするが、その甲斐もなく母幸代は9月7日危篤に陥る。彼女は尋ねた「お母さま、お母さま、楽しかった?」「ああ楽しかったよ、嬉しかったよ」それが最後の言葉だった。

    康子は自分のできることは、すべてやりきる女性であった。
    そんな彼女も二次被爆の状態になる。

    東京には9月の半ばに着いたが、康子の熱は下がらなかった。いや、まして高熱をだすようになった。近所のなじみの医者の診断は「乳腺炎」である。ただちに膿を取る必要がある。

    田園調布の外科で手術が行われたが、満足な麻酔薬もない。手術は行われたが、彼女の容態は一向に良くならない。

    そんな中、旧友から康子を心配する手紙が届く。康子を必死に励まそうとするものだった。文面からそれが必死に伝わってくる。「ありがとう、ありがとう」康子は感涙する。

    しかし、彼女の状態は彼女の母親と同じ状態だった。明らかに二次被爆である。
    中大生もそのような康子の状態を聞いてお見舞いに来る。看病していた康子の姉素子は、彼らに対し、康子に化粧させてくれないかと頼む。

    康子は梁に言う「私はね、きのう白い馬車が迎えに来る夢をみたの」梁は思わず叫んだ。「そんなことあるもんか!」

    康子も「梁さん、私もそれをお断りしたんですよ」彼は康子の命が終えることを知った。
    「梁さん、お世話になりました」これが康子最後の言葉であった。

    粟屋康子は19年の短い生涯を閉じたのは、昭和21年11月24日午後11時の事であった。

  • 二次被曝により、19歳で亡くなった粟屋康子さんの日記。学業では優秀な成績を残し、運動も家事にも優れた才能溢れる康子さん。広島市長である父と母に代わり、東京で弟妹を気遣い、軍需工場での生活や、周りの人達から慕われる様子などが、彼女の日記や、友人・知人による証言により記されている。底知れぬ優しさや、時には特攻隊に対する鋭い考えなど、とても当時の19歳の女性と思えぬ面もあれば、時代に沿った淡い恋心などが記されている。被曝により重症となった母の看病で広島に行き二次被曝を負うが最後の最後まで立派な女性だった。

  • 特攻隊、愛国少女。純粋な若者が洗脳される聖戦の悲劇。
    しかし、今の社会にはあり得ないその純粋な愛の美しさ!

  • 母の看病のため原爆の落ちた広島に行き、二次被爆で亡くなった、19歳の女性の手記を元にしたノンフィクション。

    当時の状況による部分もあるのかもしれませんが、康子さんはとてもしっかりとした考えを持ち、周りへの気配りのできる、素敵な女の子だったのだなと思いました。

    康子さんをとりまく人々についても触れられており、二次世界大戦中の若者たちの様子が生き生きと伝わってきました。

    原爆の様子について書かれている所では、よくもこんなむごいことができたものだと、涙した。

    ある一人の人間がいたこと、手記が語りかけてくるものは大きい。

  • 泣けます。

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著者プロフィール

作家、ジャーナリスト。1958年、高知県生まれ。中央大学法学部卒業後、新潮社入社。『週刊新潮』編集部記者、デスク、次長、副部長を経て2008年独立。『この命、義に捧ぐ─台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(集英社、後に角川文庫)で第19回山本七平賞受賞。主な著書に『死の淵を見た男─吉田昌郎と福島第一原発』(角川文庫)、『日本、遥かなり─エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』(PHP研究所)、『なぜ君は絶望と闘えたのか─本村洋の3300日』(新潮文庫)、『甲子園への遺言』(講談社文庫)、『汝、ふたつの故国に殉ず』(KADOKAWA)、『疫病2020』『新聞という病』(ともに産経新聞出版)、『新・階級闘争論』(ワック)など。

「2022年 『“安倍後”を襲う日本という病 マスコミと警察の劣化、極まれり!』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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