- Amazon.co.jp ・本 (188ページ)
- / ISBN・EAN: 9784166609826
作品紹介・あらすじ
昔の日本人は幸福に暮らす術を知っていた人の幸せは、生存の非情な面と裏合わせ。そのなかで「自分で自分の一生の主人であろう」としてきた孤高の思想家が語る珠玉の幸福論。
感想・レビュー・書評
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本書はエッセイ集であるが、不思議な感覚を持った本だった。
「あとがき」に、この本の成り立ちが書かれているが、筆者がインタビューを受けたものを文章に起こして新書化したもののようである。インタビューがベースになっているので、書いてあることが「軽い」感じがする。また、筆者が「自分の話したいことを話す」ということで出来ていると思うが、従って、テーマが割と広範にわたる。
全部で6章の構成となっている。1章は、筆者の生い立ち。2章はどちらかと言えば「年寄りの繰り言」的な話。3章は幸福論とでも言うべきもの。4章は江戸時代、5章は国民国家についての内容。最後の6章は「無名のまま生きたい」という題名であり、本書全体の書名とも重なっており、筆者の人生観を示している。面白く読める部分もあれば、あまり面白くは読めない部分もある。
私が本書を手にとったのは、筆者が書いた「逝きし世の面影」という本を10年前くらいに読んだことがあり、それがとても面白かったからである。10年ぶりの渡辺京二であるが、その間、筆者の他の本を読まなかったのは、この方の本を書店で見かけることがあまりないから。
渡辺京二は1930年8月1日生まれ。本書は2014年の8月20日の発行なので、筆者が80歳代前半の時のものだ。この本は、特に面白い本だとは思わなかったが、80代になってこのような本を出版出来ること自体が既に驚異的なことであり、敬意を払わざるを得ない。
筆者は昨年の暮れ、2022年12月25日に亡くなられている。92歳であった。亡くなられたという報道を読み、筆者の作品を読んでみようと思い立ち手にとったのが本書。他の著作も続けて読んでいく計画。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
渡辺京二著『無名の人生(文春新書)』(文藝春愁)
2014.8発行
2020.1.7読了
読友さん(読書メーター)のレビューを読んで購入した本。渡辺京二さんは1930年、京都生まれの人で、青春時代を当時の最先端都市だった大連で過ごしてきた。敗戦後、日本に戻ってくるが、1949年に結核を発症し、喀血。1953年まで結核療養所に施設入所していた。1948年から1956年のハンガリー事件の頃まで共産党に入党していたことがあり、水俣病問題にも熱心に取り組んでいた。一方で少年時代は大人顔負けの軍艦オタクだったそうで、本書を通読して得た私の渡辺京二像は左翼思想の愛国者である。この人の人生観は、戦時中の裕福な生活から敗戦後の凋落、そして結核療養所での間近な死の体験と切って離すことはできないだろう。「生きるとは、基本的には独りで生きていくことだ」という言葉の重みは、理不尽に命を奪われる戦争体験、結核療養所で一人また一人と黙って死んでいく仲間たち、水俣病で苦しむ市井の人々との関係を抜きにして語ることはできない。著者に尊敬の念を覚えるのは、そうした窮境にも関わらず、生きたいという強い意欲を失わなかったことだ。この娑婆世界は苦しいこと、辛いことだらけだ。それは今も昔も変わらない。むしろ、著者は、現在は社会福祉が充実して、却って人々から自立心を奪っているとさえ主張する。著者の楽天的とも言える江戸時代に対する時代感覚には、正直疑問を覚えるけれど、江戸時代の相互扶助を理想とし、分業化され、専門職化された現代のケアシステムが人間の共生する能力を奪っているという指摘は頷ける部分がある。彼の主張の根本には、サナトリウムに4年間も入所させられていたことがあるのだろうが、我々現代人もそうした後戻りできない現実の社会システムを前にして、それでも強く生きていかねばならない。どんな時代、どんな社会に生まれてきたとしても、自分が自分の一生の主人になる。社会や制度のせいにしても何も始まらない。この世に未練を残して死んでいくとしても、それは自分の生き方がそうあらしめたのだから仕方がない。他ならぬ自分の命を、他者の手にゆずり渡して死にたくない。現代を強く生きるためには、逆説的ではあるが、過剰な自己愛、自己執着を捨てろと著者は言っている。現代人は自己顕示に汲々としており、見せびらかしの大衆消費社会になっていると説く。自分の人生の主人になるとは、むなしい自己顕示競争に勝つことではない。自分のマイナス面を含めたありのままの自分から目を背けてはならない。強がって恰好をつけたり、見苦しい自分から目をそらしたり、立派になろうとしたりなどせず、耐えて生き抜く。人間は一人きりでは生きていけないから、家族や国家や社会保障が生まれてくるわけだが、根源的には孤独を抱えた自分が原点に存在する。生きるということは、その裏で必ず死ぬ者がいるということだ。好むと好まざるに関わらず、他者の居場所を奪って我々は生きている。それでも、自分の一生に誇りを持ち、自分なりの生の旅を歩みたい。著者の理想の死に方は、「野垂れ死に」だそうだ。せめて死ぬときくらい、地位も肩書も何もかも一切を払い捨てて、大地に還っていきたいらしい。それが無名の人生という生き方なのだろう。
URL:https://id.ndl.go.jp/bib/025623172 -
渡辺京二氏が、来し方を振り返り、人生について語った一冊。氏の立ち位置は、従来の「右か左か」という見方では、まことにとらえにくいものだ。それが一番よく表れているのが、5「国家への義理」の章だろう。
著者は、「ナショナリズムからの卒業こそ戦後最大の成果」とし、「この一点はしっかりと保持していかなくてはならない」とする。その上で、人は社会の中でしか生きられない(というより「人」になれない)のであり、家族・友・隣近所・同僚…と、共に生きる人たちが同心円状に広がるその最後に「国民国家」がある以上、「自分はそれとは無関係だ」という態度はとれない、と考えるのだ。
「ですから、土壇場ではその仲間たちと運命を共にする。これが最低限の倫理になってくる」「それが自分の意に染まないことであっても、ぎりぎりの場面においては覚悟を決める。それが国家と向き合う人間としての心の持ち方だと私は考えます」
さらにその上で、「それ以上は必要ないでしょう」というところに、戦争を経験し、「国家」というものに翻弄された人の強い芯があるように思った。集団や国に対して、両義的な気持ちを持つのは当然のこと。二つの思いの兼ね合いをいかにすべきか、それだけがわれわれに与えられた課題であり、それこそが難しいのだと述べられていて、ここは非常に説得力があった。 -
菊ちゃんが最近興味あるってことで渡辺京二さんの本をひっぱり出して読んでみた。こういう本をちゃんと押さえて収拾しているから、なかなか蔵書を捨てられない。言い訳はそのくらいにして…
なんだろ、戦前、戦中、戦後を生き抜いてこられたの言葉にはぐうの音も出ない。しかも、歴史に詳しい。時代を超える人間の本質を見据える考察がある。
ほんでもって俺の考えもまんざら間違ってなかったと勇気づけられた。若い人が読んでどう思うか?感想を聞いてみたい。 -
独自の尺度を一生をかけてつくりあげていくべし。
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914.6||W46
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エッセイ。何もでもないことを受け入れると人生はつらくなくなるよね。
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「人間死ぬから、面白い」とは、言わなかったけど、
そういう本になってしまったという京二さん。
そう簡単に人生が進むわけもなく、
そう安楽に人生が終わるわけでもないことを、
渡辺さんはよくご存じだ。
自分の人生に主人公でいたい、というのは、
とても共感する。
たいした人生でも、たいした人間でもないけれど、
自分が感じる小さなうれしさを大事にしながら、
天寿を全うできたら、と思う。 -
2019/06/08
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期待していたのと何だか違う本だった。たぶん読む前は、人生の先達たる著者からささやかでも達観して生きる方法や考え方を学べると思っていたんだと思う。(努力もせず)名なり功なり上げたいと思っている自分のモヤモヤを晴らしてくれることを期待していた。
ところが、旧弊なじーさんがよく言っていることをこの著者も言っているだけって感じがしちゃったな。その裏とか深読みができていないのかもしれないけど。