サル化する世界

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (328ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163911533

作品紹介・あらすじ

「今さえよければ自分さえよければ、それでいい」――サル化が急速に進む社会でどう生きるか?ポピュリズム、敗戦の否認、嫌韓ブーム、AI時代の教育、高齢者問題、人口減少社会、貧困、日本を食いモノにするハゲタカ……モラルの底が抜けた時代に贈る、知的挑発の書。・「自分らしく生きろ」という呪符・なぜ「幼児的な老人」が増えたのか?・トランプに象徴される、揺らぐ国際秩序・「嫌中言説」が抑止され、「嫌韓言説」が亢進する訳・戦後日本はいかに敗戦を否認してきたのか・どうすれば日本の組織は活性化するのか……etc.堤未果氏との特別対談も収録。現代社会の劣化に歯止めをかけ、共生の道筋を探る真の処方箋がここに。

感想・レビュー・書評

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  • 内田樹さんに関しては、小難しく屁理屈を垂れる面倒くさい人という印象がありましたが、イメージが少し変わりました。
    確かに、堅苦しさを感じるのですが、真面目過ぎて丁寧に説明しようとするからなのでしょう。
    本質を捉えているなと思うことがいろいろと書かれていて、共感することも多く親近感が湧きました。

    「成熟する」ということは「複雑化する」ということ、「定型に収まって、それ以上変化しなくなること」ではない。
    「自分探し」はしなくていい、「自分の身のほど」など知らなくていい、「自分らしさ」なんて急いで確定しなくていい。
    「自分の居場所」を早くみつけさせ、「そこから出てくるな」という管理社会が「息苦しさ」を生んでいる。

    「「文学」とは無縁だったが、政治やビジネスで成功を収めた。だから教育に「文学」は不要である。」との考え方をする人が教育政策を起案しているのは、現代の深刻な病態だ。

    「下り坂をそろそろと下る」という新しいライフスタイルが、人口減少社会の長期的ロードマップとなる。
    人口減少社会での成功事例は過去にない。「こうして成功した」という経験則には耳を貸さない方がいい。

    などなど。


    内田樹さんが言う「サル化」とは、「今さえよければ、未来がどうなろうと知ったことか」と、無意味に「こんなこと」をだらだらと続ける傾向のこと。
    たしかに、今の日本人は「最悪の事態」を想定して不測の事態に備えない。
    政治家が「仮定の話には答えられない」などと平然と言っても、マスコミも非難しないのが当たり前になっている。
    最近は、見て見ぬ振りをしてやり過ごして来たことが、隠しきれなくなって少しずつ顔を出し始めている。
    セクハラ・パワハラを放置してきたジャニーズや宝塚しかり、怪しい宗教団体を利用してきた政治団体しかり、企業もいろいろと不正が明るみになってきている。
    「サル化」から脱出するには、将来の不安要素がよく見えていて、現状のしがらみに取り込まれていない若者が社会を変えるしかないと思う。


    本書を読んでいて、一つ驚きの事実を知ることになった。(私が無知なだけ⊙ꇴ⊙)
    元号の話題が出てきて、現在世界標準の西暦はキリスト紀元だから、イスラム教やユダヤ教の国は独自の暦を使っている。
    ただし、西暦では〇年〇月〇日だと分かるようにはしているらしい。
    日本も年号を、明治、大正、昭和、平成、令和、と和暦の使用がなくならないが、
    今のように令和5年は西暦2023年と和暦と西暦が一致しているのは、そうなるように合わせたからだった。

    「明治5年12月2日」の翌日が「明治6年1月1日」で、明治5年の12月は二日間しかない。
    旧盆や新盆は昔から知っているのに、明治にそうなる理由があったことは知らなかった。

  •  「サル」とは、故事「朝三暮四」のあのサルである。では「サル化」とは何か。それは、"自己同一性の時間的・空間的な縮減"のことをいう(「今さえよければ、それでいい」「自分さえよければ、他人のことはどうでもいい」)。すなわち、長期的視野を持たない近視眼的思考、そして社会の分断。内田樹は、世界に広がるポピュリズムの潮流は「社会のサル化」に他ならないと喝破する。
     ハッとさせられたのは、立場・意見の異なる人との向き合い方について。もし仮に、分断を煽り敵を弾圧しようとする人がいるとき、彼に対して我々がすべきは「あいつはとんでもない奴だ」と切り捨てることではなく、あくまで"デモクラシーの本義(p.96)"を守ろうとすること、つまり、彼も共同体の一員として受け容れその言い分を聞くことだという。
    "自分に反対する人間はすべて敵だ、すべて潰す、という政治的立場の人に対する根源的な批判は、「われわれは自分に反対する人間をすべて敵だとは思わない。反対者を含めて、同じ集団に属するすべての人々を代表する用意がある」と意地でも言い切るしかない。(p.98)"
    "日本の政治文化が劣化したというのは、シンプルでわかりやすい解をみんなが求めたせいなんです。(略)それをもう一度豊かなものにするためには、苦しいけれども、理解も共感も絶した他者たちとの「気まずい共存」を受け入れ、彼らを含めて公共的な政治空間を形成してゆくしかない。(p.102)"
    なんと非対称的でしんどく、そしてもどかしい仕事だろうか! それに比べ、歯切れよく言い放ってしまうことの実に訳無いこと!
     内田樹の本を読むたびに大事なことを「思いださせて」くれるような感じがして、それと同時に、自分の頭で「まともに」考えること・当たり前を当たり前に考えることの困難さを思う。

  • まだ読書中ですが、ズガーンときたことろを…

    「(中略)子どもたちをその文化的閉域から解放するために武道を教えているわけです。君たちは学べば、ふだんの身体の使い方とは違う身体の使い方ができるようになる。その「別の身体」から見える世界の風景は君たちがふだん見慣れたものとは全く違うものになる。それは外国語を学んで、外国語で世界を分節し、外国語で自分の感情や思念を語る経験と深く通じています。自分にはさまざまな世界をさまざまな仕方で経験する自由があること、それを子どもたちは知るべきなのです。
     結局、教育に携わる人たちは、どんな教科を教える場合でも、恐らく無意識的にはそういう作業をしていると思うのです。子どもたちが閉じ込められている狭苦しい「檻」、彼らが「これが全世界だ」と思い込んでいる閉所から、彼らを外に連れ出し、「世界はもっと広く、多様だ」ということを教えること、これが教育において最も大切なことだと僕は思います。」

    この「檻」という表現がまさに自分自身の感じている少しの息苦しさのようなものにあまりにもマッチしていて、そして自分もまさにこうありたいと、そして全ての子どもたちにこうあってほしいと願わずにはいられなかったのです。

    私自身はもういい大人なのですが、残念ながら子ども時代には自分の住んでいる場所、自分と関わりをもっている人(しかもある程度自分に寛容な人)、自分の経験したこと自分の身の回りで起きた出来事、が間違いなく「全世界」でした。
    それは大人になってからも変わらず、「檻」に囚われていることを知らずに幸せに過ごしてきました。しかしここ最近、英語や世界史に興味が向くようになり、(おそらくきっかけはさまざまですが)自発的に「別の身体」を手に入れるために行動するようになり、そこで得た「身体」をもって今までの自分の思考を振り返ることで、自分がいかに狭い世界で生きていたかを知ったのです。ほとんど偶発的だったと思います。興味の対象が英語や世界史などだったこと、そして昨今の世界の状況などが手伝い、この「檻」の恐ろしさと危うさ、そしてもっと恐ろしいのは檻を檻とも思わずにそれを幸せと思いながら生きていくことなのだと痛感しています。そして、人々が思考をやめ「檻」の中での安寧に生きるということは共同体の衰退を意味します。そして、それこそ今まさに起こっていると内田さんが警鐘を鳴らす「サル化」なのではないでしょうか。

    書き始めは、この「檻」と表現されることで言語化され認識できた自身への理解の喜びや高揚感を感じていましたが、今は同時に多くの人が「檻」から出ていくための道具を手にし、自分を囲っているものの小ささに気付き、共同体のこれからのために力を合わせて生きていけることを願ってやみません。

  • 様々な媒体で著者が発表してきたエッセイをまとめたもの。
    初出が2018、2019年なので、今読むと多少状況が違っていることもあるが、大まかな状況は変わっていない。
    それは良いのか悪いのか…大方がよくないことだと思うが。
    「気まずい共存について」は、モヤモヤくらい受け入れろ、という両翼がざわめく主張。
    確かに、相手を完膚なきまでに叩き潰すことで何が残るのだろう、と思う。
    これまでの歴史を振り返れば、押さえつけられたものたちは、互いに相手を敵とみなし殺し合ってきた。
    でもそれは結局全体の力を落とすだけ。
    この縮ゆくのに膨張する世界では、「擦り合わせること」が必要なのだ。

    著者の教育論については概ね同意する。
    最小の学力努力で、合理的に行動することが、自己の成長という点、社会の成熟という点でみればなんと思想が薄っぺらいことか。
    競争、つまり成績をつけることをなくす、それはあり得ないことのように思えるけれど、教育とは本来そういうもののはず。
    それに、実際、そうした取り組みを行う学校も出始めている。
    勝てば慢心、負ければ落ち込む、これは「修行」にとって何の意味もない。

    また、母語しか新語、新概念は作れないという点は新しい気づきであった。
    確かに、生活の中に探してみると、日本で暮らし日本語を使うものだから、新語、流行語が作れる。
    流行語や、おっさんビジネス用語、「チョベリバ」「り」「蛙化現象」「一丁目一番地」「いってこい」
    これを、日本語母語話者が、外国語でやろうとしたら怪訝な顔をされる、あるいは鼻で笑われるだろう。
    著者はいう。
    母語の中に閉じ込められているからこそ、もっと世界を見たいと願うことが他言語を学ぶことの意味であり、
    世界が多様性に満ちていることに気づくのだと。
    この考え方は長年フランス語に触れてきた著者だからこそ出てくるものだと思う。

    著者の示す考え方は、今当たり前と思っている、コスパ、競争、そういったものに違和感を感じながら、
    社会ってそういうものと納得させてきた私にとって、とても勇気が出るものであった。

  • どこを読んでも考えさせられ目を開かされる思いがするのですが、とりわけ深く頷いたのは「AI時代の教育論」という章と最後の堤未果氏との対談です。
    堤さんの著作は読んだことはありませんが、発言の視野の広さや鋭さに、今日本を担う人たちはもっとこの人の話を聞くべきなのでは、と感じました。

    そして、この対談がコロナ禍以前に行われたことを思いつつ読み進めると、本当に日本の今の政府の腑抜けっぷりがより染みて震撼します。

    内田先生は以前の著作のなかで、「僕は未来を予測して予言的に書き表しておく」というようなことを書いておられました。そうしたらそれがはずれたとしても、その予測と事実を検証することでまた新たな知見が得られるというようなお考えだったと思います。(細かな言葉で覚えてないのでニュアンスが変わってないと良いのですが…)
    自分は本書のこの対談を読んでその事を思い出しました。
    そして漫然と暮らしたり、世の中の制度に不服を募らすだけでなく、内田先生のように予測と事実を検証するという世間の見方と言いますか、世間との向き合いかたをしないとどんどんと流されてあほになっていくばかりなんだ、と痛感させられました。

  • https://www.silkroadin.com/2020/05/blog-post_28.html

    「朝三暮四」飼っているサルに今まで朝夕4つずつ与えていた実を朝3つ、夕4つにすることを伝えるとサルは少ないと怒り、

    それでは朝4つ、夕3つではどうかと問うとサルは大喜びしたと言います。

    目先の考えだけで、未来に起こる利益の損失やリスクを感じることが出来ない人たちが増え、世界がサル化しているという主張が本書のタイトルでもある「サル化する世界」です。

    今が良ければ、自分さえ良ければのような近視眼的で自己中心主義により失われた秩序と倫理。

    処罰されない状況でどのように振舞うか、人間の本性が可視化される局面という言葉に力強さを感じました。

    また、自分の取り分を増やすことをやめて総和を増やすことなど、

    私利の追求を抑制し、私有財産の一部を差し出すことで、はじめてそこに「みんなで使えるもの」が生まれる。私人たちが持ち寄った「持ち出しの総和」から「公共が立ち上がる」(引用、サル化する世界/内田 樹/文藝春秋)

    本書はサル化する世界の様々な問題にどう向き合うかわたしたちに問いかけ、解決方法を示します 。

    サル化する世界/内田 樹/文藝春秋

    是非ご覧ください。

  • この著者の評論は好きだ。まともな感性に、ピンと一本筋の通った姿勢が見事だ。どこを切り取っても知性が感じられる、誠に得難い教育者のひとりである。題名には「サル」という惹句を用いて読者の気を引くが、現今の世界のリーダー逹やその仲間を仔細に眺めれば、まさにグローバルなサル化の進展を意識せざるを得ない。特に米国・日本・英国・フランスなどはその傾向が強く、著者はまだ絶望にまでには至っていない模様だが、評者は既に絶望の域に達している。この本の半ばにはシンギュラリティに至る道筋に触れてもいるが、著者の視点はやはり楽観が勝っているやに思われる。いずれにしろ、各年代の必読書と言える。

  • 【目次】(「BOOK」データベースより)
    1 時間と知性/2 ゆらぐ現代社会/3 “この国のかたち”考/4 AI時代の教育論/5 人口減少社会のただ中で/特別対談 内田樹×堤未果 日本の資産が世界中のグローバル企業に売り渡されるー人口減少社会を襲う“ハゲタカ”問題

  • ここでいうサルは、「今さえ良ければいい」という朝三暮四のサルのこと

    死刑や敗戦について、なんとなくみんなが感じていることを
    的確なことばで言語化してくれる。理詰めで納得させようとするのではなく感覚的なことも大事にしながら。そこがいい。

  • 「タイトル」がすごく気に入ったもので、読んだ。
    「内容」はさらに気に入ったものだった。というより、
    この本に出会え、たくさんの「考える」刺激をもらったことに、感謝、感謝。
    いっぱい、本から引用したいが、あまりにも面白く、引きつけられてしまったので、その時間を持つゆとりもなく読了してしまった。

    一つだけ引用する。

    〈本から〉
    気まずい共存について
     オルテガ・イ・ガゼットというスペインの哲学者がおりましたが、この人がデモクラシーとは何かということについて、非常に重要な定義を下しています。それは「敵と共生する、反対者とともに統治する」ということです。これはデモクラシーについての定義のうちで、僕が一番納得のいく言葉です。どれほど多くの支持者がいようが、どれほど巨大な政治組織を基盤にしていようが、自分を支持する人だけしか代表しない人間は「私人」です。「権力を持った私人」ではあっても、「公人」ではありません。「公人」というのは自分を支持する人も、自分を支持しない人も含めて自分が所属する組織の全体の利害を代表する人間のことです。それを「公人」と呼ぶ。なぜか、そのことがいつのころからか日本では忘れ去られてしまった。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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