女たちのシベリア抑留

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (319ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163911434

作品紹介・あらすじ

終戦直後、満洲や樺太などにいた軍人や民間人など60万人近い日本人がソ連によって連行された「シベリア抑留」。その中に数百人から千人近いの女性捕虜が存在したことは、長く歴史の影に埋もれていた。関東軍の陸軍病院で勤務していた従軍看護婦や軍属として働いていたタイピストや電話交換手、開拓団の民間女性や受刑者たちが、極北の地シベリアに送られていたのである。その中には「女囚」として10年を超える抑留生活を送った女性や、日本に帰る場所もなく異国の地で人生を全うした者もいる。帰国を果たした女性たちにとっても、故国の人々のまなざしは決して温かいものではなかった。戦後70年以上、長く沈黙を守ってきた女性たちをインタビューすることに成功し、2014年にNHK・BS1スペシャルで放送されたドキュメンタリー「女たちのシベリア抑留」は文化庁芸術祭賞優秀賞、放送文化基金賞奨励賞、ATP賞テレビグランプリ優秀賞、ギャラクシー賞奨励賞、NHK放送総局長特賞など、その年のドキュメンタリー部門の賞を総なめにした。その番組を担当した女性ディレクターが綴る本格ノンフィクション。ロシア側から初めて提出された女性抑留者の記録「登録簿」の内容も明らかになる。

感想・レビュー・書評

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  • まず、シベリアに女性がいたのに衝撃でした。
    これは、学校でも習ってないと思う。

    看護師さんが戦地に行ってたことは知ってたけど、その先を知らなかった。
    何かあった時のために、青酸カリを持ち歩いてたと言うこともショックだった。
    青酸カリで楽に死ねると皆は思ってたが、実際に青酸カリで自害した人が苦しんでた姿を見て衝撃を受けたこととかすごい光景を目の当たりにしてたんだろうし。
    しかも、その看護師さん達が学校を出たばかりの若い子達。他にも日赤の看護師さん達がいたが。
    日本に帰国した時の日赤の対応にはショックだった。
    国のために働いて戦地に行ったのに、汚いものを見るような目で見られたとか酷すぎる。


    後半には、ロシアに残ることにした村上秋子さんの話が衝撃的でした。
    彼女も壮絶な人生で何とも言えなかった。
    女性に見えないような姿になるまでの強制労働など
    でも、なぜ日本に帰れるときにロシアに残ったのか?とても疑問だったけど。
    満州に身売りさせてたと言う事情。
    家が貧しく売られて芸妓として生きてたとか悲劇しかない。
    最後、自分の妹と連絡が取れたが…
    家族のために身体を張って生きた凄まじい人生。
    女を出せと言われ、自ら進んで出て芸妓さん達。
    信じられないことばかりでした。

    この本を読んで改めて、残留孤児のことを思いました。

  • 終戦後、日赤と陸軍の看護婦たちは、陸軍の部隊と行動を共にし、シベリアへと送られる。

    彼女たちは、厳しい労働の中でどうやって明日への活力を生み出していたのか…

    自分の意志などあってないようなものだろう。
    ただ毎日生きることをそれだけを願っていたのだろうか…

    死んでいく者…
    女囚となり帰国しない者、できない者…

    真実はどうだったのか⁇

    帰国しても自らのことを語らない者もいるだろう。
    語れない者もいるだろう。

    今はもう誰も真実はわからないのでは…。

  • 北斗星(8月14日付)|秋田魁新報電子版
    https://www.sakigake.jp/news/article/20200814AK0010/

    シベリアに1000人近い日本女性が抑留されていた! 数々の賞を受賞した「NHK BS1スペシャル」の話題作がついに書籍化 | 特集 - 文藝春秋BOOKS
    https://books.bunshun.jp/articles/-/5206

    『女たちのシベリア抑留』小柳ちひろ | 単行本 - 文藝春秋BOOKS
    https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163911434


  • 「戦争は女の顔をしていない」と共に、あまり表立って語られることの少なかった、歴史の中の女性の姿。記録されなかった事実をひとつひとつ丹念に拾ってくれた人がいて、私たちは、現在が過去からつながっているものだということを再確認する。現在からつながる未来のためにも、過去をきちんと知らなければ。

  • 「戦争は女の顔をしていない」を読んだ後のこの1冊。ロシアも日本も女性の戦争参加は戦後語られないという共通点は、つまり「戦争」という行為の、ダーティな状態がいかに万国共通かということを暗に表しているように思う。
    日赤の看護師さんや軍で働いていた女性達の収容所での苦労は、専門職であることもあり、もしかしたら男性捕虜よりもまだマシだったのかもとも思うが、最後の章に書かれた娼婦として満州にわたり、その後革命を志す若者を支援し捕まり収容所送りになったムラカミさんの話はツラい。

  • 同じ職業婦人として
    ソ連の女性と温かい交流があった話には
    やはり 国ではなく 人なんだな
    と心温まりました

  •  17世紀帝政ロシアの時代のシベリア流刑から続くソ連の収容所群島。安価な囚人労働と捕虜の抑留・労働によるロシアの国土開発。1929年からスターリンが死んだ1953年の間に、収容所に送られた人々は1800万人に上る。北海道の半分をくれとトルーマンに言って断られたスターリンは違法である抑留50万を要求。昭和20年8月9日未明、不可侵条約を破棄してソ連軍160万が満州などに侵攻。日本人抑留者70万人。その中に看護婦、交換手、タイピスト、スパイ容疑などで数百人から千人の女性が。酷寒、病魔、飢えと戦いながら・・・。

  • 大陸で捕虜となった女性について、この本で初めて知った。

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  • 女たちのシベリア抑留

    著者:小柳ちひろ
    発行:2019年12月15日
    文藝春秋


    あまり知られていないが、シベリア抑留者には女性もいた。2019年11月現在で、
    1.佳木斯(ジャムス)第一陸軍病院看護婦、約150人。
    2.その他の短期抑留者、80名
    3.受刑者、114名。特務機関に勤務した女子軍属など。
    4.子供、24名
    この本は、上記の佳木斯第一陸軍病院看護婦の一部を中心に取り上げたノンフクション。2014年にNHK-BSで放送された内容について5年の歳月を費やして書き下ろされたもの。看護婦といっても、日赤看護婦、陸軍看護婦、そして、看護婦不足のため満州の一般の職場で「子供でもいいから」と召集された若い娘たちからなる「菊水隊」と呼ばれた人たちだ。

    終戦直前、彼女たちが働いている病院撤退が決まった。私物は最小限にすることになり、看護婦たちは軍隊がため込んだ物資の多さにあきれながら、自分たちの思い出の写真や手紙、満州に渡る際に知人から贈られた晴れ着、化粧品などをじっと見た後、営庭で焚かれていた火の中に投げ入れた。

    しかし、逃げ出すわけにはいけないと看護婦たちが言ったため残留することになって、それが抑留生活へとつながることになる。残留が決まった翌日、女性たち全員に「御身薬」と称する小瓶が配られた。粉末の青酸カリ30㏄と寒天(水がなくても飲み込めるように)が入ったものだった。

    菊水隊の1人は、山形から来た開拓団に黒竜江省の方正で出会い、話を聞く。女性たちは逃げる時、「子供は連れて行っても足手まといになるから殺せ」と団長に命令されて殺していた。子供も覚悟して「お母さん、痛くないように殺してね」と言ったそうだ。方正について気持ちが落ち着いたら大変なことをしてしまったとみんな気づき、松花江に飛び込んだ人も何人もいた。みんな過酷な運命を背負っていた。

    菊水隊は看護婦として懸命に働き、ソ連人看護婦からも高く評価された。しかし、ソ連人看護婦にも感心させられた。
    病気になった1人の収容所日本人看護婦(林正カツエ)が入院。捕虜なのにこんなによくしてくれるのかと思うぐらい、ソ連人看護婦の看護は献身的だった。日本軍では、赤十字の看護婦でも敵の捕虜の看護をするなどあり得なかった。

    やっと帰国できることになったが、ナホトカでは文字の書かれたものを持って帰国しようとするとスパイ行為だと思われる。抑留中の志望者名簿を持ち帰ろうとして見つかり、懲役10年の刑を受けた人も。12人の軍医、27人の看護婦が勤務していたチョプロ・オーゼロ収容所病院では、全員の帰国が決まったが、軍医たちは収容所で亡くなった兵士の氏名と住所を、帰国する看護婦たちそれぞれの都道府県別に振り分けて暗記させた。
    なお、先日読んだ嶌信彦著「伝説となった日本兵捕虜」では、収容所で共に働いた457人全員の住所と氏名を隊長が何ヶ月もかけて丸暗記した話が出ていた。

    たどり着いた舞鶴でも、また屈辱が待っていた。舞鶴には厚生省の外局・引揚救護院があった。下船と同時にDDT消毒。入浴、脱衣の消毒、種痘接種などがあり、女性だけに行われた検査も。「妊娠している人は申し出てください。ここで処置します」と。
    引き揚げ者はソ連の収容所について7日間にわたっていろいろ聞かれた。しかし、恐ろしい体験の真実が先方に伝わると残留者への過酷な報復が待ち受けていることを想像し、真実を語らなかった。スターリン時代だから必ず伝わるだろうと思っていたそうだ。

    1988年12月、「中国残留婦人交流の会」が山口で設立。中国で改革開放政策が始まり、残留孤児の肉親捜しや一時帰国が脚光を浴び始めていたが、日本政府は終戦当時13歳以上になっていた女性たちを「自らの意思で残留した」と見なして国からの支援を行わなかった。

    戦争における国家の身勝手さ、頼りなさ、ひどさは筆舌に尽くしがたい。とりわけ日本は、国民などまったく守らず、天皇を中心とする国家のテイ、いわゆる国体を守ることに終始したことが、こうした女性に関するルポルタージュからも感じられる。

    ****(メモ)*****

    ちょっと綺麗な看護婦をソ連人が宿舎で女中みたいに使っていた。看護婦の一人が強姦されそうになり、相手の腰の銃を取って撃った。彼女は収容所に戻ってこなかった。

    当時、陸海軍は「女子軍属」として若い女性を募集し、事務職などに従事させていた。確かな総数は不明だが数万人に及ぶことは確かで、従軍看護婦も軍属に当たる。

    終戦後の満州で、女性が危険から身を守るため男装して兵士たちの間に紛れて行動しているうち、そのまま収容所に送られ、到着後にソ連側が気づいて大騒ぎになった話はたびたび登場。

    夫とともに収容所に行くことを希望した女性おいた。おそらく、日本に帰っても生活するすべがないと思ったのだろう。収容所で二人目の子供を産んだ人も。

    林正カツエが満州で菊水隊員1人がソ連兵にさらわれたまま行方不明になって気にかけていることをマリア婦長に言うと、真剣な顔で「自分もレニングラードから専科に追われて逃げて来た。ドイツ兵は村を焼き、母親の手から赤ん坊を奪って火の中に投げ捨てる場面も見た」と言った。

    憲兵の妻だったという理由だけでタイシエトの戦争裁判にかけられ、労役16年になった女性。他の4人は同じように軍部の従業員だったという理由で8-10年の労役。

    菊水隊で移動中にソ連兵にさらわれた上田房江は、結局、殺された。遺体はとても親兄弟に話せないありさまだった。

    広大なロシアの中でも最果ての流刑地であるマガダン市を中心とするコリマ地方は、収容所群島の顔を象徴する地名で、一度送られたら生きて帰ることはできない陸の孤島、囚人の墓場として恐れられていた。村山明子はここに送られた。おそらく抑留された日本人は60万人の中の1%にも満たない。(269)

    ソ連軍は1945年8月末までに北朝鮮全域を制圧し、平壌に軍司令部を置き、「日本の植民地統治から朝鮮民族を解放する」と宣伝し、朝鮮人の自治組織を樹立させた。しかし、現地ではソ連軍兵士による略奪、暴行、婦女子に対する強姦が横行し、また「スパイ摘発」と称した密告と監獄送りによって市民の間に恐怖と分断が。ソ連に対する不満と反発が密かに高まり、抵抗のために「朝鮮国家社会主義労働者党」が組織され、村上明子も何らかの動きに関わった。

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