極夜行

著者 :
  • 文藝春秋
4.13
  • (147)
  • (152)
  • (66)
  • (7)
  • (6)
本棚登録 : 1510
感想 : 175
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (333ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163907987

作品紹介・あらすじ

探検家にとっていまや、世界中どこを探しても”未知の空間“を見つけることは難しい。大学時代から、様々な未知の空間を追い求めて旅をしてきた角幡唯介は、この数年冬になると北極に出かけていた。そこには、極夜という暗闇に閉ざされた未知の空間があるからだ。極夜――「それは太陽が地平線の下に沈んで姿を見せない、長い、長い漆黒の夜である。そして、その漆黒の夜は場所によっては3カ月から4カ月、極端な場所では半年も続くところもある」(本文より)。彼は、そこに行って、太陽を見ない数カ月を過ごした時、自分が何を思い、どのように変化するのかを知りたかった。その行為はまだ誰も成し遂げていない”未知“の探検といってよかった。シオラパルクという世界最北の小さな村に暮らす人々と交流し、力を貸してもらい、氷が張るとひとりで数十キロの橇を引いて探検に出た。相棒となる犬を一匹連れて。本番の「極夜の探検」をするには周到な準備が必要だった。それに3年を費やした。この文明の時代に、GPSを持たないと決めた探検家は、六分儀という天測により自分の位置を計る道具を用いたため、その実験や犬と自分の食料をあらかじめ数カ所に運んでおくデポ作業など、一年ずつ準備を積み上げていく必要があった。そしていよいよ迎えた本番。2016年~2017年の冬。ひたすら暗闇の中、ブリザードと戦い、食料が不足し、迷子になり……、アクシデントは続いた。果たして4カ月後、極夜が明けた時、彼はひとり太陽を目にして何を感じたのか。足かけ4年にわたるプロジェクトはどういう結末を迎えたのか。読む者も暗闇世界に引き込まれ、太陽を渇望するような不思議な体験ができるのは、ノンフィクション界のトップランナーである筆者だからこそのなせる業である。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 【感想】
    「極夜」とは、一日中太陽が沈んだ状態が続く現象のことである。南極圏や北極圏といった高緯度の地域で発生し、緯度が高くなれば高くなるほど闇が深くなっていくため、場所によっては数か月に渡って暗黒の状態が続く。

    その現象に魅せられたのが探検家の角幡唯介である。
    彼は、極夜に魅せられた理由を次のように述べる。
    「極夜には根源的な未知がある。数ヶ月間におよぶ闇の世界、そしてその後に昇る太陽の光など誰にも想像がつかない。私は一度でいいからその想像を絶する根源的未知を経験してみたかった」
    「とにかく極夜という想像を超えた空間状況こそ、ぼくらが普段暮らす現代社会システムの外側にある世界なわけで、それこそ従来の地図の空白部にかわる新しい脱システム的な探検の対象領域になると思います」

    極夜での行軍は、そうした「社会システムからの解脱」を皮切りに始まっていくわけだが、この何もかもが未知数な旅の中で、大スペクタクルが起きる……わけではない。真っ暗闇の中、重い荷物を引いて延々と歩き続けるのだから、嵐が起きない限りはかなり単調で暇だ。

    そのため筆者は途中途中、星を見ながら妄想を重ねる。筆者はキャバクラが大好きらしく、お気に入りだった嬢の話がちょくちょく挿入され、ベガのことをSM嬢に見立てたり、星の並びを東京のクラブの地図に落とし込んでみたりと、俗っぽい話も交えつつ、目の前の暗黒に必死で対抗しようとする。
    なにせ、極夜は精神を発狂させるのだ。人間はあまりに暗い環境が長々とつづくと憂鬱になり、不眠、やる気の欠如、癇癪が起こり始める。次第に筆者の精神がどんどん蝕まれていき、闇の憂鬱が絶望に代わっていく。

    だが、そうした極限の「無」の空間の中で、筆者は人の存在と暗黒との関連性に思惑を巡らせ、自然と一体化する感覚を覚えていく。その描写があまりに克明であり、読んでいる私も思わず「無」の空間に引きずり込まれそうになってしまった。

    「暗闇の中で少しでも地形を読み取ろうとして、また地図を見た。何度も必死にそれをくりかえすうち、周囲のあらゆる地形がべったりと平らに闇の中に吸収されており、それがあまりに暖味なものだから、目の前の風景が地図上のどんな場所にも適合し得るように思えてくる。私は夢幻境を彷徨っているような気持ちになってきた。(略)私を取り巻く世界はすべてが不確かで確聞としたものは存在せず、歩いても視認しても暖簾に押した腕のように外の世界からの手応えはなかった」
    「私のこの移動行為は、すなわち私という存在そのものは、闇と凍気の中で月と星等とつながることで成立しており、そのせいか、私には地球にいるというより、宇宙の一部としての地球の表面に俺はいる、という感覚があった。要するに私がこのとき歩いていたのは地球ではなく字宙の一隅であり、それが宇宙探検をしているという感覚を私にもたらしていたのだ」

    この旅の終着点、つまり数か月ぶりの太陽を拝んだ時に本書のクライマックスが訪れるわけだが、そこで筆者が得た感情は、太陽崇拝を行う信者のように、原始的な生命活動への感動だった。暗闇という未知の世界を体験し続けた後に待つのはシンプルな感覚であり、まさに筆者にしか理解できない極致がそこに待っていたのだった。

    数々のノンフィクションの中でも特に常軌を逸したテーマ。一癖も二癖もある冒険譚をお探しの方には是非おすすめの一冊だ。
    ――――――――――――――――――――――――――――――――

    【まとめ】
    0 極夜行前
    筆者が極夜を歩こうとした理由、それは暗黒の中を歩けば、本物の太陽や本物の月を見ることができると思ったからだ。人工的な照明が存在しなかった時代、太陽が人間の実在にかかわる本質的な力を持っていたときの光を。

    そこで筆者は、世界最北の村シオラパルク(グリーンランド)に根拠地を置き、さらなる深い闇を求めて北に4ヶ月間旅することにした。

    筆者「探検というのは要するに人間社会のシステムの外側に出る活動です。昔の探検は地図の空白部を目指すのが目的で、当時の地図というのはその時代のシステムがおよぶ範囲を図示化したメディアだったわけです。でも今はもう地図の空白部なんて存在しない。じゃあこれからの探検はどういうかたちが考えられるのか。それで考えついたのが極夜の探検でした」
    「とにかく極夜という想像を超えた空間状況こそ、ぼくらが普段暮らす現代社会システムの外側にある世界なわけで、それこそ従来の地図の空白部にかわる新しい脱システム的な探検の対象領域になると思います」

    1 シオラパルク〜アウンナット
    探検の開始は12月6日。ここから4ヶ月にわたり、暗闇の中を犬と共に進んでいく。

    探検が始まって早々、メーハン氷河の上で猛烈なブリザードを受ける。40時間にもおよぶ嵐を耐え続けたのだが、風の影響で天測用の六分儀がなくなってしまった。
    これは致命的だった。そもそもGPSを使えばより正確で安全なのだが、筆者の目的は極夜を身体的に知覚して世界化すること。そのため自分の身で自分の居場所を観測し、外界との接触をはかるのだが、GPSではこうした営みを行うことができない。
    この時点で計測が完全に地図とコンパス頼みになり、現在地の割り出しが困難となった。

    筆者「月が昇ると極夜世界は色のない沈鬱な世界から、壮絶なまでに美しい空間にかわる。それまでの影すら存在しないモノトニアスな空間が、黄色い光がとどいた瞬間、突然、本当に劇的に明るくなって、氷河上の細かい雪の襲にいたるまで一気に照らしだされ、そこに影ができて足元のルート状況が明瞭になるのだ。雪や氷が青っぼく色づき、単なる沈黙につつまれた死の空間だったのが、どこか別の惑星にいるかのような幻想的空間にかわる」。

    氷河を登りきったのは12月14日。標高差1000メートルの氷河の登高にまるまる1週間かかった。
    ここから先は氷床が続く。
    移動するのは月が出ている時間帯だ。極夜において月が出ていると、周辺の雪面がその光を反射して、足元の雪の状態がヘッデン無しでわかるほど明るくなる。ただし、やはり陽の光とは違い、遠方の目標物を視認することは難しい。地形的な目印がない真っ平らの氷床においては、自分の位置が全く確認できなくなる。六分儀がなくなった今、方角がずれることは死を意味するのだ。
    月のタイムリミットも迫っていた。月すらも沈む完全極夜状態になるのは12月24日から。本来ならそこまでの間に中継地であるアウンナットの小屋に到着する予定だったが、たび重なるブリザードの影響で予定が遅れていた。
    コンパスと星の位置を手がかりに、何度も針路を取り続けながら行軍した。

    筆者「歩きながら私はこんなふうに考えていた。人間が本能的にもつ闇にたいする恐怖は、よく言われるように原始時代に野生動物に襲われたときの記憶が集合的無意識に残っているから、とかそういうことでは多分なくて、単純に見えないことで己の存立する基盤が脅かされていることからくる不安感から生じるのではないだろうか」
    「光がないと、心の平安の源である空間領域におけるリアルな実体把握が不可能となる。周囲の山の様子が見えないと、当然、自分が今どこにいるか具体的に分からない。居場所が分からなければ、近い将来、正しくない場所に行ってしまったり家に帰れなかったりする危険があるわけで、その結果、具体的な未来の自分の行動が予測不可能となり、明日生きている自分をリアルに想像できなくなる。つまり地図の中で自分の居場所が分からないと、単に空間的な存立基盤を失うだけでなく、自分の将来かどうなるか分からなくなることになり時間的な存立基盤も同時に失うわけだ。
    つまり闇は人間から未来を奪うのである。極夜の極夜性は、暗い闇という外界の現象の中にあるのではなく、外界の現象を受けてわきあがってくる私自身の心理状態の中にある」

    2 アウンナット〜イヌアフィシュアク、そして旅の終わり
    アウンナットの無人小屋に到着したのは年が明けて1月1日だった。村から2週間で到着すると思っていたが、実際にはその約2倍、27日もかかってしまったことになる。

    アウンナットからイヌアフィシュアクのデポに到達したとき、筆者は信じがたい光景を目にした。食料や燃料を備蓄していた2箇所のデポが、全て白熊によって無惨に食い荒らされていたのだ。
    旅が終わりを告げた瞬間だった。デポ食料がなくなった以上、北極海を目指すなどと言っていられない。残りの食料が限られている以上、やることは1つ。狩りをして食料を得て犬と一緒に村に戻る。そして狩りに失敗した場合は、犬を食って村に戻る。もうこれしか残されていなかった。
    筆者は残存食料と村に戻る時間を計算した。狩りに残された時間はざっと二週間だった。

    「私の内部では、狩りは成功するのかという不安とともに、自分がやりたかった探検のクライマックスはもしかしたらこれから始まるのかもしれないという変な期待も同時に高まっていた。今、自分は真に未知の空間に入り込もうとしているのだ、と。皮肉にも、デポが壊されたことで、極夜そのものの探検という本来目指していた目的を究極まで突き詰めることができるようになったのだ」

    筆者はジャコウ牛を探して北上を続けるうちに、楽園谷に行き着いた。ジャコウ牛や兎の足跡が大量にある、美しい地域だ。ここなら間違いなく獲物が大量にいる、と確信した筆者は、延々とそこで獲物を探し続けるが、牛は愚か兎すら見当たらない。あそこはなだらかで行けそうだ、この先にはもっとジャコウ牛がいるにちがいない、まるで楽園のように美しい谷だと思い、奥へ奥へ進んできたが、それは幻影にすぎなかった。今まで天の恵みであった月の光も、全てを騙くらかす悪魔のように感じる。気づくともう後戻りできないんじゃないかというギリギリのところまで来てしまっていた。

    ここに来て、全ての緊張の糸が切れた。闇の中で動き回るのがもう嫌だった。早く太陽の光を見たかった。


    3 極夜の終わり
    登りつつある太陽が闇を駆逐し始める様を、筆者は半ば呆然とした心地で見つめていた。そして、筆者は自分でも予期しなかった不思議な感情――喪失感に支配されていた。

    「太陽の太陽性は、どんな言葉に変換しても、とても汲み尽くせるものではなかった。別に希望を見出したわけでもなかった。癒されもしなかった。慈しみも感じなかった。闇からの解放感もなかった。前日、見出した光の意味もすっかり忘れていた。すべての言葉をはねつけ、太陽は超然と空に君臨し、質量が地球の三十三万倍ある単なる物体として猛り盛り、とくに意図もなく光を放出しまくっていた。そして私はそのような太陽にただ圧倒され、涙を浮かべていた。それはあまりにも劇的な太陽だった」

    氷床で猛烈に吹き荒れる嵐の中で死を見つめながら、不意に妻の出産シーンを思い出したとき、筆者は人間にとって光が希望なのは誕生の瞬間に光りに包まれるからであり、自分が極夜の果てに登る太陽を憧憬してきたのも、出産の追体験をしたいからだということに思い至った。それは生まれ出るという行為こそ全ての人間にとっての始まりであり、世界の根源なのだという極めてシンプルな事実に気づくことでもあった。

    それは四年間の営為があり、土地についての経験値を蓄積したことがきっかけである。そして、そのことは旅についての新たな発見を筆写にもたらした。
    それは、未開の地を踏む、つまり根源的未知を経験する以外にも、ひとつの土地の中に徹底的に深く潜り込むことで初めて広がってくる世界があるということだった。

  • 読みたかった本。
    しかし、読みながら心に葛藤が起こる。

    感動を描く。赤ちゃんの出産シーン。1818年初めて集落以外の人間と出会ったイヌイット「太陽から来たのか、月から来たのか」グリーンランド最北のシオラパルク。社会や日常におけるシステムから脱却し、挑む極夜行。北緯80度だと4ヶ月ほど極夜の時期は続く。一匹の犬と共に、ブリザードに立ち向かい、闇を進む。

    違和感の正体は何か。著者自らも記す、客観的な証明が不可能だから、物語はフィクションだろうと疑われそうだと。それくらい良く描けている。概ね計画通りの進路で、飽きさせないトラブル。天候や食糧問題。冒険とは脱システムと言いながら、衛生電話。モーターボートを使わずカヤック。デポ配備。潤沢な装備。自らではなく、犬の飢餓の心配。自分は最後、犬を食えば良い。その保険は確保し続けて旅をする。

    生存能力の自己確認。ある程度自分でルールを決め、ハードモードとイージーモードのちょうど良いラインでゲームスタート。ギリギリだぜ、生きてるぜ。これは、人工的なスリルだ。一緒にするのは誤りだが、設定された遊泳ライン、スキーコースを自ら逸脱したり、イスラム国支配地域に渡航して誘拐されるか否かに触れる行為に近い。

    そんな読み方をすると冷めてしまうではないか。自らを諌めるが止まらない。サバイバル本と迫力が違う。極夜行を追体験できるのは嬉しい。だが、筆力が高すぎて、旅も記録も、チラチラ見える裏の仕込みに気が散ってしまった。読み手との相性だが、演出も良し悪しか。

  • 探険家、、、
    ここまでの極限の世界での描写は、実際に体験できた彼にしかできない。

    相棒である犬との命の交換

    様々な描写のリアル、正直、汚かったりえげつなかったり、奥さんが読んだらどう思うんだろうというキャバ嬢とのやりとりなど、、、
    でも、本当にストレートに彼が思ったこと、感じたことが描写されていて、興味深かった

  • 冒険自体は本当にすごいと思う。何ヶ月も太陽が昇らない極夜が続く北極圏への単独行。何度も危機に陥りながら生還し、太陽を仰ぎ見たときの感慨はいかばかりか、想像を絶するものがある。「生の実感」を追い求める姿に圧倒されてしまう。

    ただ、デビュー作から感じていた違和感が大きくなったというのが正直なところ。何と言うか、「昭和の男」的な、無神経でちょとマッチョな雰囲気が濃厚に漂う。新聞記者臭(オレの問題意識こそ何より大事なことであると迷いなく主張する感じ)もかなりある。

    同じワセダ探検部出身ということでつい比べてしまうのだが、高野秀行さんにはそういう所が全くないなあとあらためて思った。

  • 白夜の反対、数ヶ月間太陽が出ない北極圏の極夜の中を彷徨うという
    超難度の冒険に挑む角幡唯介さんのノンフィクション。

    角幡さんの本は「空白の5マイル」がとにかく最高だったけれど
    あれから時を経て、子供も生まれ、人生観が変わっていく中での
    この冒険はだいぶ意味合いが違うし、それが文体にも現れていて面白い。

    状況は過酷極まるし、ご本人も人生で一度あるかないかの
    冒険の集大成と位置づけているにもかかわらず、
    なんというか軽口を叩くようなノリで書かれている。

    角幡さんはとにかく作家としても素晴らしい表現力を持った方で
    極地での筆舌に尽くしがたい状況でも軽やかに文章にしてしまう。
    それが「空白の5マイル」で存分に発揮されていたのだけど、
    今回の冒険ではその表現の限界点を探るような趣が感じられた。

    とにかく光がずっとないわけで、目の前に豊かな表現ができるような風景は広がっていない。
    延々と夜が続くと人の精神は沈み、感覚も鈍くなっていく。
    そういうなかで、いったい作家は何を書くのか。

    そんな読み手の不安を一笑するような軽妙な語り口で、
    普通の人ならあっという間に死んでしまうような
    数々の絶望的な状況を描き出していくわけだけど、
    旅が終盤を迎え、その表現の引き出しをすべて使い切って、
    もう何も出てこないようなところでついに4ヶ月ぶりの太陽を目撃する。
    このカタルシスをなんと言葉にするのか。
    そこに表現の終着点がある。

    あー、凄さが凄い。


    もちろん冒険譚としてもとても興味深くて、
    太陽の代わりに月明かりを頼りに行動するわけだけど、
    その太陽とは全く違う運行の複雑さに辟易したり、
    距離感を失って、ものの大小も遠近の区別もつかなくなっていったり。
    星々の中に壮大な物語を見たり。相棒の犬を褒めたりけなしたり。
    自分がなぜこの旅をしているのか唐突に悟ったり。

    とかく僕らにとっては当たり前すぎて何かを思うことが難しい
    太陽が登るということの原始的な意味を、
    これ以上掘り下げることは出来ないところまで突き詰める。

    それをエアコンの効いた部屋にいる僕にも伝えてくれるんだから
    ノンフィクションというのは有り難いなあ。

  • 全く日が昇らない極夜の氷河を犬ゾリひとつで横断するという無謀な冒険。まず、目の前が真っ暗闇の世界を描いたノンフィクションがこんなにも面白かったのが驚きだ。それは角幡さんが目の前にあることに対して感じたままを書き残しているからだろう。そして、無謀と思える壮絶な冒険譚であるが、決して命は失わない冷静さも併せ持っているが故に輝きを放つのだと思う。

  • 読書会ですすめられて。
    最高ですわ。ノンフィクションってこんなに楽しいのですね。

    エアコンで温々とした部屋で読みましたが、寒さ、飢え、そして暗さ。文章からヒシヒシと伝わってきました。

  • ノンフィクション本大賞受賞作品。グリーンランドの最北の村より「極夜」を求めて旅をする。いや、極夜とその後の太陽を求めて。気温はマイナス40度前後、月がないときは全くの光なし。一匹の犬とともに暗闇を進む。ブリザードに襲われ、デポは白熊に荒らされ、何度も死を覚悟する。冒険を描きながらも、太陽と月について、犬について、人間について、心の内を描写する。ユーモアが散りばめられ、固くならずに読めた。途中、キャバクラのエピソードでたとえ話があったりね。周りの風景とともに、彼の人となりも物語の彩りです。地図上で空白のところがない今、極夜を行く冒険、ノンフィクションだと思うとゾクゾクした。よく帰ってこれました。

  • 読み終えて真っ先に思ったのが、人の一生はあくまでその人自身の所有物であり他人にどうこう言う資格はないということ。
    これほど極限の探検を求めるのであれば妻子は持つべきではないし、本書で筆者自身が述べているように「脱システム」し切れていない(電話や天気予報の仕様もそうだが、そもそも装備品もシオラパルクに至る道中もシステムによって生み出された文明の産物なのではないか)と個人的には思うけれど、その生き方を追求しているのは角幡氏であって私ではない。何を求め、何を主義とし、例えそれを貫けず妥協する場面が出てきたとしても本人以外にどうこう言う資格はないのだし、自分の生を深く探究したい人間にしか見られない景色があるんだろうとも思う。また、今の世界において未踏の地はほぼ存在せず、未知を求めるのであれば極限環境に自分を置いた上での自己探究しかない、というのもわかる。
    ただ、描写が冗長気味なのが気になってあまりのめり込めなかった。もっと削ぎ落としても良かったような……。極限の描写なら少し前に読んだ「死に山」の方がより臨場感迫っていたような気がする。

  • 寒くなってきたこのタイミングで読んでしまい、ぶるぶる凍えながら読んだ。
    マイナス40度とか50度とかももちろん想像もつかない恐ろしさだけれど、心を支配してくる漆黒の闇が更に恐ろしい。

    見舞われるトラブルや喜びなど、ノンフィクションの醍醐味がたくさん。思わず快哉を叫んだり、笑っちゃったりする箇所もあるのだが、時々挟まれるユーモアが結構下ネタ絡みで私は若干閉口したところもある。食事中に読めない箇所あり。
    また、人と犬との物語としても読んだ。

    太陽偉大。

全175件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)
 1976(昭和51)年北海道生まれ。早稲田大学卒業。同大探検部OB。新聞記者を経て探検家・作家に。
 チベット奥地にあるツアンポー峡谷を探検した記録『空白の五マイル』で開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞。その後、北極で全滅した英国フランクリン探検隊の足跡を追った『アグルーカの行方』や、行方不明になった沖縄のマグロ漁船を追った『漂流』など、自身の冒険旅行と取材調査を融合した作品を発表する。2018年には、太陽が昇らない北極の極夜を探検した『極夜行』でYahoo!ニュース | 本屋大賞 ノンフィクション本大賞、大佛次郎賞を受賞し話題となった。翌年、『極夜行』の準備活動をつづった『極夜行前』を刊行。2019年1月からグリーンランド最北の村シオラパルクで犬橇を開始し、毎年二カ月近くの長期旅行を継続している。

「2021年 『狩りの思考法』 で使われていた紹介文から引用しています。」

角幡唯介の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
宮下奈都
ピエール ルメー...
西 加奈子
今村 翔吾
恩田 陸
米澤 穂信
塩田 武士
平野 啓一郎
横山 秀夫
塩田 武士
劉 慈欣
平野 啓一郎
西 加奈子
川越 宗一
角幡 唯介
原田 マハ
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×