ボラード病

著者 :
  • 文藝春秋
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本棚登録 : 672
感想 : 89
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  • Amazon.co.jp ・本 (165ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163900797

作品紹介・あらすじ

デビュー以来、奇想天外な発想と破壊的なモチーフを用いて、人間の根源的な悪をえぐるように書いてきた吉村萬壱が満を持して放つ長篇。B県海塚という町に住んでいる小学五年生の恭子。母親と二人で古い平屋に暮らすが、母親は神経質で隣近所の目を異常に気にする。学校では担任に、市に対する忠誠や市民の結束について徹底的にたたきこまれる。ある日亡くなった級友の通夜で、海塚市がかつて災害に見舞われた土地であると語られる――。「文學界」に掲載後、各紙誌で絶賛され、批評家を驚愕・震撼させた、ディストピア小説の傑作。

感想・レビュー・書評

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  • 小学五年生の大栗恭子視点…いや、途中で判明するのだが、現在30歳頃の恭子が小学五年生の頃を回想しながら書いている手記という形で物語は進行する。
    そもそもどうして恭子はこのような手記を書いているのか。
    そのことも終盤の畳み掛けの時にわかってくる。

    とりあえず全体を読んだ印象としては、この世界に終始生温かいぬめった空気感と気持ち悪さが漂っている。
    とても小学五年生女子の視点とは思えないくらいに、彼女の住む「ふるさと」B県海塚市、そして通っている学校、先生、クラスメイト、近所の人々、神経質で我が子に対して否定的な母親、老若男女問わず監視し合っている空気、描き出されるすべてが不穏で、また主人公の心の拠り所のなさを感じた。
    そんな不穏で不安な世界に、鈍い恭子はうまく溶け込めておらず、納得もできてはいない。
    文体や文章の雰囲気としては、湊かなえさんの作品を私は読みながら想起しました。湊さんの文章をさらに不穏に、世界観をぐにゃりぐにゃりとした感じ…と。
    まあそれは置いといて、本作は様々な題材を取り込んでおり、随分と挑戦的な作品だ。と、そういう意味でも、じんわり冷や汗をかく作品だと感じた。よく書ききられたな、と。
    その姿勢に敬意を表して☆5とさせていただいた。
    いつも通り完全主観の評価です。


    以下長々と感想と一部あらすじを書くが、ネタバレを含むので、気になる方は読了前にこの感想を読むのは控えられたらと。
    感想書き切れた自信はないというか、書き切れていませんが…
    ただ、ぜひたくさんの人に本書を読んでほしいと思った。



    一時は避難区域に指定され、長らくふるさとに帰ることを許されなかった海塚の人々。
    その規制が解かれ、どうせどこも同じようなものなのだから、せっかくだから故郷に帰ろうと、集い、地域を起こしてきた海塚市民。
    海塚の歌はみな歌えて当然。
    ボランティアなどの奉仕活動もして当然。
    恭子のクラスの10の標語には「給食を残さず食べよう」「決して弱ねをはかない」「空気を読み取ろう」「自分の感覚を大切にしよう」(ここ矛盾している気がするが)「結び合おう」「りっぱな海塚市民になろう」「みんなは一つ」…などが掲げられている。
    うん、普通に同調圧力が過ぎて気持ち悪いしこんなクラスに居たくないな。
    さらに恐ろしいのは、これがクラス内だけの方針ではなく、海塚全体の方針であるということ。
    海塚の食べ物ほど安全なものはない、などの描写から、原発事故周辺地域を暗示しているのだろう、そしてどこも似たようなものという描写から、そういった地域はほとんど日本全国に蔓延しているのであろうと考えられる。
    そして、最後まで読んだ感想としては、おそらく自治は各地域に完全に任されており、国全体としての法律や管理が機能していない、国としては完全に崩壊しているのではとも推測される。
    もしくは国全体が海塚のような方針なのか…
    そう認識すると、ただの一地域の気持ち悪い話かと思いきや、大規模なディストピアがバッと眼前に迫ってくるようであった。
    しかしそのディストピアは、どこか現実味があって…原発が次々再開・増えている今、実際に本作のような事態に陥る可能性もあるし、今のこの国を見ていると、そのような事態に陥った場合、まさに本作のようになる可能性があるのではないかと…
    中国やロシアのような情報統制社会を対岸の火事としてはもう見られないのではないかと…

    恭子の周りの人間が不穏だ、という話をしたが、恭子の手記であるにも関わらず、当の恭子の感情というか、何を考えているのかわからないところも、気持ち悪さに拍車をかけていた。
    その理由は終盤を読んだらなんとなく推察はできるのだが…
    と同時に自分の周りの世界の見え方すら、自分の見え方すらも、常に不安定なものなのだと思い知らされる作品だ。
    海塚に溶け込めている人間が病的なのか、溶け込めない人間が病的なのか。
    これは、現実社会に生きる我々の生活の中にある、あらゆる社会的規範や空気の読み合いを風刺しているのだろうかと思えた。
    海塚のようなディストピアほどでなくても、今のこの現実に溶け込めていない人間はすべて病気なのか?
    この現実社会に不満を持ち反旗を翻す人間は全て唾棄されるべき病的な人間なのか?
    いや、既にこの現代日本はディストピアの沼にある程度嵌り切ってしまっているのではないか?
    この作品が世に出た2014年から、どんどん日本はディストピア化に拍車をかけているのではないだろうか。
    読みながら(勝手に)そんなメッセージすら織り込まれているように感じた。

    タイトル「ボラード病」とはなんなのか。
    手記の中で、恭子たち母娘が地域の人々に混じって港でゴミ拾いのボランティアをしている時に出会った、地元の漁師風の男が繋船柱を指していう。
    「これはボラードというのだ。これだけは何があろうと倒れない」
    船を繋ぎ止めるために、ロープを巻き付けるための柱。それは「老人の人差し指のように先端部が折り曲がり、繋留ロープを絶対に放さないという強い意志に漲っていました」。
    海塚市民の裏打ちされたような、異様なまでの「結びつき」を表現しているのだろうか、その結びつきから逃れようとする人間すら離さない、そのような海塚全体の執念と呼べる何かを、離したら崩壊してしまいそうなこの集団の危うさを表現しているとするならば、作者が「病気」だと思っているのは…。


    終盤は怒涛の勢いであった。
    すべてのバラバラの不穏な描写が繋がっていった。
    ちなみに私は終盤以前の描写を冗長だとは思わない。全て本作で訴えたい必要な描写だったと思う。
    さて、終盤特に印象に残った部分を引用させていただく。

    「しかし人間の意識というのは、実に不思議なものです。周りの人間の言動次第で、見えるものも見えなくなってしまうのです。…目の前にとんでもない物が存在していても、全員が無いと主張すればそれは消えてしまいます。それが人間というものです。」

    最後の「だったら抱いてみろよ臆病者。」は格別印象に残った。
    周りの人間から抱くことすら忌避される、そんな人間にしか吐けない挑戦的な台詞だ。

    最後の一文といい、作品全体といい、作者の目を通して現代の私たちに警鐘を鳴らしている、本書はそんな文学作品に思えてならないのだ。

    • 伊佐坂ちょろさん
      まさにそんな感じ!自分では言葉に表す事が出来ずにいました。本読む前にこの感想読んでから読めば良かったなぁ。
      まさにそんな感じ!自分では言葉に表す事が出来ずにいました。本読む前にこの感想読んでから読めば良かったなぁ。
      2024/02/08
  • うっすらわかりかけてはいたものの何が病であるのか、考えながら読みすすめる。海塚は明らかに病。この病は序盤で考えていた病状よりもずっと深いし歪んでいるし、強い。確かにこんな町、どこにもないし、全部がそうとも言える。考えるふりだけするのもまた病。ラスト付近、この著者の短編「不浄道」をふと思い出す。(長らく知人から返ってきておらず、連絡がつかないので私の記憶のみ)「ほらここも」「こっちも」みたいなリズムで、時折私も海塚的なイデオロギーに乗っかるふりぐらいはしようかなあと思ったりする。ごくたまに。でもやっぱり、無理だよって思う。どいつもこいつも、ってこころの中で舌打ちする自分がいる。
    主人公恭子があまり頭のできがよくないというのが全体的に風通しを良くしているというか押し付けがましさを排除できている要因なのだろうか。
    「馬鹿だと思いました」とかいう率直な言葉にさえ艶を感じるのは吉村萬壱作品ならではだと感じた。

  • いかに、「監視社会小説」にならないかが、この小説の鍵であり、読んでいる人間の緊張感を保たせるポイントだと思われる。原発という言葉は一度も出ていない。出したら、「監視社会小説」になり、読んでいる人間が「なーんだ、こういう小説か」と思ってしまうのだ。真意はどうあれ。
    なので、できるだけ本質に近づかない。まるでアダム徳永の愛撫のように書くのが、著者の方法だし、そうしなければならなかったし、自然とそうなっているのだと思う。
    母親の描写の恐さが冒頭から目立つ。静謐で、何かが異常で、すべての人間が信用できない気味の悪さが、はっきりと書いていないのに文章からにじみ出ている。小山田浩子の「穴」の日常の異様さが最初から始まっているのだけれど、「穴」とおなじく、納豆の糸を使った描写を、いいところで使っている。あと、うさぎのように横目で見ている男の子のところの書き方。一文で的確に描くその冒頭から中盤にかけてのこだわりようは、すべての行がパンチラインで、驚くべきものだった。序盤から中盤に書けては、今まで読んできた小説のなかで、ダントツで興奮させられたし、一区切り一区切りが超上質の短編小説のようだった。
    『私たちはいつもの郵便局のところでさよならをしました。それから私は、「何よ貧乏のくせに、何よ……」と呟きながら帰りました。』のところのあたりが最初に「くる」ところだ。びりびりくる。特に貧乏というのがいい味だしている。貧乏というのは、安売りスーパーマーケットで安易に食物を大量に購入できるので、あまり見えてこなかったりする。貧乏なのかどうなのか、見えにくい。金ないという友人にずっとおごってて、家にいったらめっちゃ一軒家のいいとこの家だったり、割り勘したりおごられたりしていた人のところに遊びに行くと、狭いワンルームだったり。どのような貧乏を書けるかというところで、母子家庭のどぎつさ、ラブホの清掃と財布作りというえげつない母親設定は、作者の超本領だ。

    「その抜かりのなさに却って母の気配が色濃く残っていました。」という娘の気づきも良いし、「鳴らす必要のない呼び鈴を鳴らしました。」というのも、近所づきあい含め、いろんな面で、いっさいの無駄や、空気を読まない行動は許されないという型を、良い描写で表していると思う。

    「チヒロちゃんの口ばかりみて!」「しゅしゅしゅっ」と鋭い声を上げましたとか、母親というかおばさんの描き方がとてもよく、そのわりにこの母親はおばちゃんというわけではなく、結構若い、30代後半なのである。
    そして母親に近い年齢になるまでずっと監禁されているこの書き手は、いきなり序盤に登場する。「三十歳を超えた今では、ご覧のように文章を書くのが好きになっている私です。」と、序盤にすさまじいネタバレをするのだ。ハッとさせられる。これで最後まで読まなければならなくなった。
    「そのボンドは、後日川西さんが持ってくることになっていました。その説明を受けていたにも拘わらず、母は独りよがりな張り切り振りを発揮して、」という部分は、ボラード病の血筋というか、ここも、正しく合理的に行動できないという病のあらわれがでている。

    学校カウンセリングみたいなやつの「「恭子ちゃん、頑張らなくていいのよ」と言いました。物凄い口臭に息が詰まりそうでした。」という部分や、この相談員との問答が素晴らしい。問題がなくても、問題はあるでしょといい、しんどくなってはやく終わらせたくて問題はあるといえば、そこを責められる。カウンセリングなのに、警察の尋問と同じになっている。心にまで介入してくる「心理学」。

    「娘が死んでしまったことは、悔しくて堪りません。そういう運命だったのだとしか、言いようが御座いません。納得は出来ません。それは、一生出来ますまい。しかし、アケミは、海塚の子として、永遠に海塚と共に生きていると私は思いたい。」という演説部分は多くある小説の盛り上がり部分の一つ。テレビで流れる追悼番組のテンプレートのように、あらゆる人間の発露の部分が、テンプレートに覆われている。そのところを書き切っている。

    あと、似顔絵をプレゼントする場面で、似顔絵で相手のボラードを引き出したが、すぐに元に戻った浩子ちゃん。主人公には、ボラード病を引き起こす力を持っている。そこもいい。それから、母親が日記でハサミを切り裂くシーンも、二度目を読むと面白い。母の愛……とも読めるんだろう。

    土屋先生のプレゼン上手のところ。実家がお寺で、会話が受精卵の話で、エロ坊主をうまく描いている。そういえば、祖父の葬式の時も、母という字の点々は、おかあさんのおっぱいで、おっぱいのミルクを飲むわけですというわけわからん話をされたものだ。とにかく坊主はエロ話しかしない。

    「新学期が始まってから今日までに、七人の尊い命が天に召されました。」というところとか、この小説は、ずっと葬式をしているようだ。そして、絶望の中で、希望と思えるものは、尻毛の話で家族団らんする場面。かなり泣ける。ボラード病にかかると、こういう団らんを求めるんだよなぁと。

    次に、海鮮丼を食べる場面が素晴らしい。ゴムみたいな魚介類。醤油ご飯はうまいというのも説得力ある。ゴキブリでみんな箸とめるところは、ゴキブリだったらみんな箸をとめても逮捕されないし大丈夫なんだと、はじめて住民達に連帯を感じた。

    「母は呻き声を上げながら、私の手を握りつぶそうとしました。」は道連れ心中のようだ。まあここも、母の愛の描写。素晴らしい。とにかく、逮捕される理由がいまいちわからないのが面白い。曖昧でわからない。わからないから相互監視を強める。ますますわからなくなり、相互監視を強める。ゴミがなくなったら小石まで拾うエンドレス。これっていろんな運動や社会に言えることだ。

    終盤、世界を覚り、見方が変わってしまったシーンでの文章の安っぽさがいい。「彼は、ドキッとするほどのイケメンでした。」とか笑えたし、「野良犬はスマートな足さばきでアスファルトを小走りし」は、世界が美しく見えすぎて爆笑。逆に、世界に主人公が矯正されたようで、しっかし気が狂いっぱなし、ぜんぜんボラード病は治っていないのがよくわかる。

    最後に、大栗恭子という名前だが、大東亜共栄圏という文字に見える。

    この著者がバーで講演するのをぼくは聞きにいったが、人生で三番目くらいの絶不調で、ほとんど顔を上げられなかった。唯一、生気を取り戻したのは、著者に話しかけられたときだけだ。なので、バーの中で何か色々ボラード病について話されていたのだが、まったく覚えていない。

    大栗恭子が大東亜共栄圏に見えた「錯覚」は、ボラード病だろうか。

  • 神経質な母親と貧乏な生活を送る恭子。
    小学生の恭子の目線から見た、海塚の町で暮らす人々はとても奇妙。異常なほど強すぎる地元愛。大人も子ども監視し合うように生きている。突然いなくなる人々。

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    大人になった恭子が書いた、という設定の物語だった。
    恭子はずっと隔離されていて、父親が過去に起こった災害(?)からくる健康被害を訴えるような運動をしていたから公安みたいな人たちに目をつけられていた、のだと思う。

    「健康被害なんかない! 地元の食材が一番! 地元最高!」と言わなければ、背広の人たちに連れていかれてしまう社会。
    怖い世界だなと思うけど、これってやっぱり震災後の東北と原発事故がモデルなんだろうな。ポジティブ思考の強要、同調圧力の恐ろしさを感じた。
    うさぎのうーちゃんの足が欠損しているのも、恭子のお母さんのお腹が痛むのも放射能の影響ってことなのかな。複雑な感情のまま一気に読んだ。

  • 怖い…。お手のできないうーちゃん、なぜなら(以下、判読不能)

  • 震災後の閉塞感と、「絆」のような言葉(ここでは「結び合い」)に隠された薄気味悪さが巧みに描かれている。きちんとして礼儀正しく、助け合い、裏で蠢く悪事には気付かないふりをしてやりすごす、気づいて声をあげる者は抹殺する日本人の姿。
    この本が素晴らしいのは、そういった解釈だけでは収まりきれないところがあるから。震災がなかったとしても、ここに書かれたようなことは起こり得る。いや、既に何度も起こっていたし、これからも起こる。
    それを心に刻み込むことが、唯一それを避ける方法であることを教えてくれる。

  • 今となっては東日本大震災のことを思うけれど、そんな局所的な話ではなく、私達は世界を認識できるのか、認識しているのか、について書かれた、これは普遍的な小説だ。
    精神異常者は、恭子なのかもしれないし、母親なのかもしれないし、恭子と母親なのかもしれないし、海塚市民なのかもしれない。恭子のモノローグだから、というのとは別の次元の話として、それを特定することは出来ない。現実世界において、誰の考えが異常であるかを断言することは出来ないのだ。それは、異常と正常の境目は刻々と移り変わるものであるからだ。ある時代において正常な考えであったものが、別の時代においては異常な考えとなる例はたくさんある。
    そんな中で、「結び合い」の異常さに注目したい。東日本大震災の直後によく言われていた「絆」という言葉に、アンチの意見を述べれば人非人のように言われただろう。しかしあれから数年経って、いまだに故郷に帰れない人がいるという現実に思いを致す人はどれくらいいるのだろうか。つまり私が言いたいのは、「絆」などという耳触りの良いことを言っても、そんなものは一過性の、自己満足に満ちた、欺瞞でしかない、ということだ。人はいつだって、他人の幸不幸になど無頓着なものなのだ。
    ボラード病とは何か。私達を世界に繋ぎ止めるもの。人は自分の存在の正当性を確かめるために、異質な人間を作って弾圧する。そうして、私達は仲間だね、と確認する。常に「私達」の側にいられるように、誰かの異質さを見付けてはそれを指摘し、排除する。そうすることによって、「私達」の側で安心して生きていられる。安心して生きていられるならば、排除された側の人間のことなど考えもしない。ボラード病とはすべての人間のかかっている病だ。
    最後の一文には、しびれた。

  • 読後、暫く引き摺る小説。多くの書評にあるように、傑作なのだと思います。読み終えた直後に再読したくなり、ふとした時に「あの文章はそういう意味だったのか…」と思ったり。貴志祐介さん『新世界』と似たような読後感。
    読んでいるあいだは、この物語がどこに係留されているのか、はたまた放浪していくのか、ずっとわからないままの不思議な読書体験でした。
    読むにつれて、語り手である主人公・恭子の境遇や周りを取り巻く環境が浮かび上がってきましたが、ふわふわと頼りない浮遊物のような感覚…。
    震災後の我が国に対する警鐘なのか…その範疇には収まりきらない作品ですね。
    人間社会において、「ボラード」であることは正しいのか悪なのか、美しいのか醜いのか、幸福なのか不幸なのか。
    読み易いのにズッシリとこたえる読後感でした。

  • 本当のことを口に出して言えない、そこにどんな悲惨な現実があっても。
    架空の世界のようで身近に起きていること。あの事故後におきていることがかかれている、少し誇張して。
    風評被害と言い換えて食べて応援とかいって国民をだましているこの国のことを。

    子供目線でかかれているが実際は成人した女性が思い出しながら書いているという設定。
    なにかを隠してうすら怖い感じがしてとても気持ち悪い文章。とても計算されて短い小説にまとまっている。

    はっきり批判しないで架空の世界の小説のようにしないと書けないのはまさにこのお話のなかでおきていることと同じではないか。なんともやりきれない。

  • 怖ー・・
    時代背景も分からず「?」と思いながら読み続け、最後「こわー」の感想。
    主人公の母親は毒親なのかと思っていたが、どうやら誰にもバレないように主人公を守ろうとしていたのかな。
    重くて暗ーい気持ちになれる作品。

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著者プロフィール

1961年愛媛県生まれ、大阪府育ち。1997年、「国営巨大浴場の午後」で京都大学新聞社新人文学賞受賞。2001年、『クチュクチュバーン』で文學界新人賞受賞。2003年、『ハリガネムシ』で芥川賞受賞。2016年、『臣女』で島清恋愛文学賞受賞。 最新作に『出来事』(鳥影社)。

「2020年 『ひび割れた日常』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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