mRNAワクチンの衝撃: コロナ制圧と医療の未来

  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152100757

作品紹介・あらすじ

ファイザー社と組み、11カ月という常識外のスピードで世界初の新型コロナワクチンの開発に成功したドイツ・ビオンテック社。画期的なmRNA技術で一躍注目を集めるバイオ企業の創業者/研究者夫妻に密着、熾烈なワクチン開発競争の内幕に迫るドキュメント。

感想・レビュー・書評

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  • 【緊急刊行】ファイザーワクチンをわずか11カ月で開発! ドイツ・ビオンテック社の創業者夫妻に取材した迫真のドキュメント|Hayakawa Books & Magazines(β)
    https://www.hayakawabooks.com/n/n04014d9d3e23

    mRNAワクチンの衝撃──コロナ制圧と医療の未来 | 種類,単行本 | ハヤカワ・オンライン
    https://www.hayakawa-online.co.jp/smartphone/detail.html?id=000000015010

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「ファイザーワクチン」誕生秘録は、疾走感あふれる奇跡のサクセスストーリーだ!『mRNAワクチンの衝撃: コロナ制圧と医療の未来』 - HON...
      「ファイザーワクチン」誕生秘録は、疾走感あふれる奇跡のサクセスストーリーだ!『mRNAワクチンの衝撃: コロナ制圧と医療の未来』 - HONZ
      https://honz.jp/articles/-/50553
      2022/01/07
    • 猫丸(nyancomaru)さん
      このワクチンの最重要な要素はRNAではなく二人の人間 | (中村桂子のちょっと一言 2022.2.1)JT生命誌研究館
      https://ww...
      このワクチンの最重要な要素はRNAではなく二人の人間 | (中村桂子のちょっと一言 2022.2.1)JT生命誌研究館
      https://www.brh.co.jp/salon/blog/article/detail/419
      2022/02/02
  • 今や多くの人がお世話になっているファイザー製のコロナワクチン。
    そのワクチンが承認されるまでの経緯をまとめたノンフィクション。
    とある製薬企業に勤める知人から
    「今年イチバンの本だった」と教えてもらったので、
    読んでみました。

    サイエンスの部分は、素人にはやや難解。
    ゆっくり読めば理解できるのかもしれないけれど、
    せっかちな自分には完璧には理解できず。。
    一方、ドイツの小さな企業ビオンテックが世界を救ったともいえるストーリーは
    確かに引き込まれ、こういう人のおかげで人類は生かされているのかと思わされる。
    一方、トランプ前大統領はじめ、ワクチン開発を政治的に利用しようとする人にはウンザリ。
    (この本の内容を信じるとすれば、の前提だが。)

    自分はワクチンの安全性に対しては、よく分からないですが、
    少なくともこの本に出てくるヒーロー(夫妻)の活躍から想像するに、
    まぁ夫妻を信じてもよいかな、という気持ちになりました。
    信憑性のよく分からない陰謀論のようなネットを見るよりも、
    こういう本を一冊読む方が良いような気がします。

    ビオンテックと共にワクチンを開発したファイザー。
    ファイザー側の視点から見たときのワクチン開発の話も読めば、
    多面的にワクチン開発がいかに常識外れだったかが理解できそうです。
    (残念ながら、自分は未読ですが。)

    ※Moonshot ファイザー 不可能を可能にする9か月間の闘いの内幕
    https://booklog.jp/item/1/4334962564

  • これは、ビオンテック社(ファイザー製)のワクチン開発物語である。

    ビオンテック社は、二〇〇八年に設立された。長い間、無名の企業だった。一人ひとりの患者に合わせたがん免疫療法を開発していた会社で、すでにmRNAに目をつけていた。
    二〇二〇年二月、同社はmRNAを使った新型コロナワクチン開発に乗り出した。

    ビオンテック社は急がねばならなかった。

    二〇二〇年二月には、ドイツの規制当局に、mRNAと脂質ナノ粒子を組み合わせたワクチンを開発することを伝えた。

    通常であれば最短でも五カ月はかかる毒性試験をし、次に治験をする。第一相試験では数十人、第二相試験では数千人、第三相試験では人種も出身地域もさまざまな幅広い年齢層の被験者数万人を対象に世界規模で行う。
    エボラウイルスのワクチン開発において、これらはほぼ四年の月日がかかった。

    ビオンテックは、タスクを並行する必要があった。
    時間を節約するために、最も有効な抗原とmRNAプラットフォームはどれかを検証し、最後まで残った候補を採用する案に決まった。

    新型コロナウイルスワクチン開発の参考になったのは、SARSウイルスとの共通項だった。

    二月末に最初のワクチン構造が開発された。
    二〇種類のワクチン案を出し、少ない投与量で免疫反応を引き起こせるかを検討した。
    三月一一日、世界保健機関(WHO)はパンデミックを宣言した。
    その頃には、動物実験に足りるだけの脂質ナノ粒子に包まれたmRNAが用意できていた。三月二七日、mRNAワクチン候補によってできた抗体が、ウイルスの感染を途中で食い止めることが証明された。

    通常、人体での臨床試験までに、動物試験をしなければならない。その結果を待っていたら、数カ月かかる。それを規制当局にかけあって短縮し、ラットにワクチンを投与してから三週間後には十分な安全性データを取得し、臨床試験に移る計画を立てた。

    三月一七日にラットの毒性試験が開始されるのともに、「人体による初めての」試験も史上最速で終わらせようとしていた。

    五月末に、二〇種類あったワクチン候補のうちと一つが有望なことが明らかになり、七月には、ほぼ完璧なワクチン候補(BNT162b2.9)が現れた。しかし、新型コロナウイルスが進化の軍拡競争に勝つ可能性もないわけではなかった。

    一一月一八日、最終解析結果を公表した。ワクチンの有効性は九五パーセントで、六五歳以上の高齢者でも九四パーセント以上の有効性が確認された。

    治験用のワクチンは、研究室でDNAのテンプレートを製造したあと、DNAからmRNAを製造し、精製、袋詰め後、マイナス七〇度で凍結された。ドライアイスとともに発砲スチロール箱に入れられた袋は、専門の運転手によって、オーストリアのポリミューン社に届けられた。解凍後、mRNAは脂質で包まれ、薬びんに入れて栓をされた。その後、ドイツ、フランス、英仏海峡、イングランド、ウェールズ、アイリッシュ海、アイルランドを経て、北アイルランドのアルマック社に運ばれた。そこで、ラベルを貼られ、箱に詰められ、温度計が装着された。問題がないことが保証されると、アルマック社から被験者のもとへと薬びんが空輸された。

    ***

    五年間もウェブサイトを「準備中」のバナーひとつだけにしていたビオンテック。資金面で辛抱強く支えてくれる投資家がいたおかげで、わずか数週間のうちに二〇種類の新型コロナワクチン候補をつくることができた。

    同社の創業者は、先見の明がある人物だ。
    中国企業が提供していた、新型コロナウイルスのスパイクタンパク質の完全な配列をコードしたDNAテンプレートを、到着までに数週間はかかることを見込んで事前に注文しておくところや、社員のために本社に緊急の託児所を設置したり、 他企業が政府から助成金を得る中、莫大な借金を抱えていても政府からの助成金をあてにしなかった。
    ワクチン開発後だいぶ経ってから助成金をもらっても、政治的な要求に悩まされず快適な状況で開発できたことを感謝し、待遇に「不満は一切ない」と晴れやかな顔で言った。

    ワクチンの開発物語を知ることで、ワクチンをめぐるフェイクニュースに騙されにくくなると感じたので、読んで損のない一冊だ。

    p11
    ある研究によれば、新型コロナウイルス発見以前の二〇年間に行われた数千件に及ぶ治験を調べたところ、世界的な大手製薬会社が数十億ドル規模の資金を投じてもなお、全ワクチン開発プロジェクトのおよそ六〇パーセントは失敗に終わっているという。

    ところが、それから九ヶ月後、既存の承認薬では一度も用いられたことのないプラットフォームを基盤とした、きわめて有効性の高いワクチンが実用化されることとなる。それを可能にしたのは、それまでほぼ無名の存在だった二人の科学者の尽力だった。二人はドイツの都市マインツを拠点とする夫婦で、数十年にわたってチームを組み、ある研究に取り組んでこた。製薬界の主流派からは無視されてきた、ごく小さな分子。その分子が免疫システムの持つパワーを引き出すことで、医薬にかくめをもたらすことができると夫婦は信じていたのだ。
    自らの考えの正しさが、多くの死者を伴うパンデミックのおかげで証明されることになるとは、当時の二人は思ってもみなかった。

    p45
    グランド・チャレンジズは世界の健康と開発途上国の抱える問題を解決することを目指すイベントで、ドイツのアンゲラ・メルケル首相などの要人も出席する。

    p46
    「がん研究には毎年数十億ドルもの資金が投じられています。それなのになぜ、大半の進行がん患者にとって、根治はいまもなおあたりまえではなく、数少ない例外なのでしょう?」(中略)「答えは、抗がん剤ががんの根本原因にアプローチしていないからです」。(中略)「患者によって、がんはさまざまに異なります。がんは何十億もの多様な細胞から成っているのです。現在使われている薬は、この複雑性を無視している。この病の柔軟性を無視しているのです」
    それを改善するためには、ほとんど効果のでない画一的な抗がん剤をやめ、一人ひとりに合わせてカスタマイズした薬を使って、患者ごとに異なる遺伝子変異にターゲットを絞ることです、とウールは続けた。

    p50
    従来のワクチンでは、これを阻害するため、ターゲットとなるウイルスと似たものか、あるいは弱毒化した病原体を体内に投入する。すると体はこれを侵入者として認識し、本物のウイルスが侵入してきたら撃退するよう覚え込むわけだ-望むらくは、ウイルスが無防備な体内細胞に取りつく前に。ただし、そのような医薬品の製造は、細心の注意を要するデリケートなプロセスだ。それに何より、とても時間がかかる。対照的に、mRNAをベースとしたワクチンであれば、含めるべき成分は遺伝暗号の鎖一本だけだ。これは広く入手可能な原料を使って実験室で合成できる。そして、この暗号を通じて、人体にウイルスの小さな一部分だけを自力で生成するよう促すことができるのだ。すると免疫系は持てる力を総動員して、この敵に対抗しようとする。うまくいけばこれによって、将来ウイルスが侵入した際の備えができるというわけだ。

    p52
    コロナウイルスという名称は、ウイルス表面から無数の突起(スパイク)が突き出た形状が、どことなく王冠(ラテン語でcorona)に似ていることからついたものだ。この丸くふくらんだ突起はタンパク質から成り、長さはおよそ二〇ナノメートル。針の頭に五万個並べられるほどの小ささだ。新型コロナウイルスのあらゆる図解で必ず登場し、見慣れた存在となっていくこのスパイクタンパク質。これこそが、今回のウイルスの脅威をここまで高めた元凶だった。コロナウイルスのスパイクタンパク質は、健康な肺の細胞表面にある特定の受容体と結びつくことができるのだ。ただし、それはこのウイルスの弱点でもあった。理論上、この突起を無効化または変形させるように免疫系に教え込めば、健康な細胞との結合プロセスは阻害され、ウイルスを無害化できるからだ。

    p95
    ワクチン開発の初期段階で最も時間を要するのが、毒性試験である。ここでは多くの哺乳類(通常はマウスかラット)に対して薬を試し、有毒性がないかを確認する。

    p96
    彼が一月二四日にようやく一息ついて例の《ランセット》誌の記事を見つけた、その数日前。世界で最も名前の知られたmRNA企業であるアメリカのモデルナ社が、アンソニー・ファウチ率いる政府機関のアメリカ国立アレルギー・感染症研究所と共同で、新型コロナワクチンの開発に乗り出したと発表していたのだ。ウールが友人から聞いた話によれば、モデルナはアメリカの規制当局から毒性試験を免除される見込みだという。なぜなら、すでに同じ製法を別のワクチンで二〇一九年に試験済みだからだ。したがって、モデルナは即座に治験に進むことができる。
    対してビオンテックは、今回のワクチンに使う予定のmRNAと脂質ナノ粒子の組み合わせについて、そういった過去のデータを持ち合わせていない。個々の材料はそれぞれ別の治験で試験済みなのだが、両者を組み合わせた形では一度も試験していないのだ。こういったケースでは、規制当局は通常、候補薬を人に対して試すよりも先に、新たに毒性試験を実施するよう要求してくることが多い。しかし、ウールとエズレムはよく理解していた。PEIにはそれなりの裁量権があるのだ。こちらが納得のいく案を示しさえすれば、寛大な方向に傾いてくれる可能性はあった。

    p119
    抗体はうまく機能すれば、ワクチンが免疫系の活動を促すうえで最強の武器となる。極小のY字型をしたこの物質は、侵入者(コロナウイルスの場合は、スパイクタンパク質)と結合することで、そこ最も重要な機能を阻害する。その機能とは、健康な細胞の受容体き結合し、まるで鍵穴に差し込まれた鍵のように働くことで細胞に侵入し、感染させることだ。ただし、専門化された攻撃部隊である抗体がターゲットに正しく結合できないと、Y字のとがった軸の部分は逆にウイルスを手助けしてしまうことになる。細胞膜を突破するまったく新しいメカニズムを侵入者に提供してしまうからだ。こうなると、ウイルスはもはや特定の受容体に結びつく必要もなく、抗体の突起部分を新たな侵入ルートとして好き勝手に細胞を攻撃できる。別の言い方をすれば、こういうことだ。侵入者に向かって投げつけた槍がほんの少しでも的をそれたら、その槍は敵に拾われ、逆に体自身に突き立てられてしまう。
    抗体依存性感染増強(ADE)と呼ばれるこの現象は、決して新しい発見ではない。一九六〇年代に初めて報告されており、以来、規制当局が新しいワクチンを評価するうえで最も気にする要素の一つとなっている。ほんのわずかでも設計を謝れば、新たな予防ワクチンが死者を出す事態となりかねないのだ。

    p122
    スパイクタンパク質は肺細胞に取りつく直前、脚の長い杯のような形状に変化する。そして細胞に結合すると、さらに形を変えて鋭い飛び出しナイフのような形状になる。このナイフを細胞膜に突き刺すことで、ウイルスは健康な細胞と融合し、そのゲノムを細胞内に送り込んで複製できるようになるのだ。ワクチンを正しく機能させるには、この二つの形状のうち、ゴブレット状の形を再現できるように設計することが求められる。そうすれば、ウイルスが細胞内に侵入するため飛び出しナイフ状に変形するよりも先に攻撃をしかけるよう、免疫系の各部隊に指示できるからだ。うまくいけば、これでウイルスの強力な結合メカニズムを阻害できる。
    ワクチン開発会社のなかには、生きた新型コロナウイルスを研究室で不活化するという方法を採用している会社もある。ただしこの方法てまは、ウイルスを無力化するために使われるホルムアルデヒドや高温処理の影響てま、スパイクタンパク質のゴブレット状の形が正確に再現できない可能性がある。一方で、ビオンテックのように、人体に遺伝子情報を与えて自力でスパイクタンパク質をつくらせる方式の場合、問題となるのは、スパイクタンパク質の構造が本質的にとても不安定だということだ。スパイクタンパク質の遺伝子配列(製造時の設計図のようなもの)がmRNAによって送り込まれた際、本来必要な完璧なコピーではなく、わずかに異なる構造のスパイクタンパク質が体内で生成されてしまう可能性があるのだ。
    これにより、体内の対ウイルス部隊がコロナウイルスを正しく認識できないと、そのワクチンは効果なしということになりかねない。それどころか、むしろ害をおよぼす危険さえある。それはまさに、おそらくは一九六〇年代に起きたRSウイルスの悲劇の原因となり、MERSやSARSの試作ワクチンで事故を引き起こしたのと同じシナリオだった。

    p130
    特定のウイルスに対して動員される体内の狙撃兵には、大きく分けて二つのタイプがある。一つ目は、液性免疫と呼ばれる第一の防衛ラインを構成する抗体だ。この抗体は、血流に乗ってうろついている異物が細胞に取りつく前に、これを攻撃する。第二の防衛ラインは細胞性免疫と呼ばれ、第一の網をすり抜けた敵に対処するのが役目だ。この防衛ラインを構成する特殊部隊はT細胞と呼ばれる細胞からなり、すでに感染してしまった細胞を攻撃し破壊する。
    広く一般に見られる病原体のなかには、こうした特殊部隊が出るまでもないものもある。(中略)SARSから回復した患者に関する過去のいくつかの研究では、このT細胞が動員されていたことが明らかになっている。これは今回の新型コロナウイルスについても、免疫系の総力を挙げて戦う必要があることを示唆するものだ。

    がん治療において、T細胞の重要度はさらに高くなる。彼らは異なる能力を持った二種類のT細胞を発動させるべく、粘り強く努力を重ねてきた。ヘルパーT細胞とも呼ばれるCD4陽性T細胞は、初期の免疫反応を呼び起こし、これを統率する司令塔だ。他の免疫細胞が活発に働けるよう支援するとともに、長期記憶を有しており、1度出会った病原体は数カ月後や数年後でも認識することができる。もう一つのCD8陽性T細胞は、細胞傷害性T細胞(キラーT細胞)とも呼ばれる。このキラーT細胞には、感染した細胞を見分けるすばらしい能力が備わっている。たとえウイルスが細胞膜の内側に潜んでいようと、難なく見つけ出せるのだ。キラーT細胞は感染した細胞の表面に現れる小さな断片物質を検知することができる。

    p145
    同業のmRNA企業モデルナとは異なり、ビオンテックには自社のmRNAプラットフォームとそれを筋肉に注射するときに使う特定の脂質との具体的な組み合わせについてのデータがなかった。研究室での実験では、同社のイノベーションの基礎を支える複雑なメカニズムは信頼できることが証明されていた。しかしそれが人体でどう働くのか、ほとんど研究されていない病原体に対していかに機能するのかは予想できなかったのだ。

    p147
    現在投与されているワクチンに含まれているのは、生きたウイルスや細菌ではなく弱毒化されたものや完全に不活化されたものだが、基本的な技術はいま行われるほとんどのワクチン摂取でも変わらず根幹をなしている。このおかげで、二〇世紀だけで三億人の命を奪った天然痘を世界から根絶し、ポリオとはしかは撲滅することができたのだ。

    p148
    しかし、私たちが今日病原体を取り除いてくれるものとして信頼を置いているワクチンのほとんどは、実験室で細胞培養によってつくられているわけではない。鶏卵を使ってつくられるのである。
    たとえばインフルエンザのワクチンを見てみよう。毎年、大手製薬会社の専門技術者のもとに世界保健機関(WHO)から薬びんのセットが届く。中身は、その冬に最も流行するとWHOが考える季節性インフルエンザの株のサンプルである。数百万回分のワクチンの材料をつくるには、一つの有精卵に一つのウイルス株を注入し、増殖したら科学者がそれを精製して、多くの場合高熱あるいは殺菌剤を使って不活化する。この骨の折れるプロセスは、必ずうまくいくとは限らない。ウイルスは卵のなかで培養されているあいだに変化することもあり、そうなった場合には流行しているインフルエンザ株と完全には一致しなくなって、投与できるワクチンの数が減ってしまう。

    (前略)アメリカはパンデミック時の需要急増に備えて何百万個もの卵を秘密の場所に貯えている。ほかの先進国のなかにも、同じようにしているところがいくつかある。

    p150
    変更を加えた技術を採用して、卵を必要としない「組み換えタンパク・サブユニット」ワクチンをつくっている研究者もいる。ウイルス全体を複製するのではなく、病原体の断片をスチール製の巨大な反応装置で培養して、体の免疫を担う部隊にそれを伝えるのである。ただし、この方法(ノババックス社やサノフィ社などが新型コロナワクチンに採用している)はすべての断片で使えるわけではなく、どのタンパク質がワクチンで複製できるのかを明らかにするのに何カ月もかかることが多い。

    p151
    生きたウイルスや実験室で育てたウイルスを体内に入れるのではなく、理論のうえでは、遺伝物質によって体内の細胞を工場にし、自分たちでタンパク質をつくるよう指示できるのである。

    だがDNAを使ったワクチンはおおむね失敗し(中略)た。ほかのさまざまざな手法も模索された。たとえばよく知られたウイルスから害を与える力を奪い、複製力を制限したうえで、それに遺伝的司令を入れて体内に送り届けるといった方法である。こうした「トロイの木馬」はウイルスベクターと呼ばれ、画期的なエボラ出血熱ワクチンで初めて用いられて、二〇二〇年にはオックスフォード大学とアストラゼネカのチームおよびジョンソン・エンド・ジョンソンのチーム、またロシアのスプートニクや中国のカンシノが新型コロナワクチンをつくる際に使用するが、その成功の度合いはまちまちだった。

    p155
    (前略)樹状細胞(DCと業界では呼ばれる)がさまざまな役割を果たしていることが明らかになる。「番人」として皮膚や組織に陣取り、細菌やウイルスなど外からの侵入者がいないか体をパトロールする。触手を使って侵入者を捕らえると、体内の決められた場所へと連れていく。そこでは、T細胞などの特別な狙撃兵が武器を磨きながら動員を待ち、抗体をつくるB細胞が戦闘準備を整えている。標準的な歩兵隊である自然免疫系と、高度な技術をもつ部隊である適応免疫系を橋渡しするのが樹状細胞の役目なのだ。
    ウールとエズレムのイメージでは、樹状細胞は免疫軍の高位の将校であり、周囲の環境やほかの細胞から情報を集めて分析し、その情報を使って部隊を戦略上の前哨地点に向かわせる。

    p156
    たとえば直径一センチメートルの小さな腫瘍でも、最大で一〇億個のがん細胞からできている。五センチメートルまで大きくなったものには、すでに一二五〇億個の細胞が含まれていて、毎日そのすべてが間断なく分裂して数を増やしていくのである。(中略)それほどの強敵を相手に細胞と細胞の戦いで勝利するには、T細胞の巨大部隊を動員しなければならない。

    p158
    DNAは遺伝情報のいわゆる「ハードコピー」なので、普通は細胞の核、つまり中心の奥深くにある。齧歯動物の細胞は分裂する際、外からきたDNAの鎖がその裂け目に入れるようにしてくれるが、人間の細胞はそれほど親切ではない。人間の樹状細胞によるDNA鎖の取り込みは、不規則で不十分であることがわかったのである。
    二人はすぐにその問題を回避する方法を見つけた。「DNAがRNAをつくり、RNAがタンパク質をつくる」という、フランシス・クリックが最初に提唱した分子生物学の中心原理に基づいた方法である。つまり遺伝情報のハードコピーを持つDNAがタンパク質づくりの暗示をRNAに伝え、RNAがそれを細胞の生産ラインに持っていく。合成RNAは簡単につくることができ、二人が知るかぎり安全だった。DNAを患者の体に入れ、それが今度はRNAをつくって、そのRNA噛ま細胞工場に命じてタンパク質すなわち「指名手配ポスター」をつくらせる、というプロセスを経るのではなく、仲介者を抜いて単純にRNAだけを送りこめばいいわけだ。
    さらにいい方法があった。メッセンジャーRNA、つまりDNAから細胞の生産ラインに本物の指示を運ぶRNAが担うのは単純な仕事のひとつだけであり、その仕事のほとんどをタンパク質づくりの激務が行われる細胞のなかの大きな領域、つまり柔らかい外皮である細胞膜のすぐ内側にある細胞質で実行する。(中略)mRNAを細胞のこの部分に届けるのは、外部のDNAを不親切な細胞核まではるばる届けるよりもはるかに簡単なはずだ。

    p160
    mRNAは化学的に安定していて高温にも耐えられるが、人間の髪、息、皮膚の表面などあらゆるところに存在する「リボヌクレアーゼ(RNアーゼ)」と呼ばれる控訴によって即座に破壊される。

    p162
    ワクチン・プラットフォームとしてのmRNAがすばらしいのは、一つにはそれが自然のアジュバントとして働くからだ。その理由は単純だ。人類への脅威として最も古くから知られるものは、二一世紀に発見されたコロナウイルスと同じような、RNAからつくられたウイルスである。五万年ほど前に、RNAウイルスに対する遺伝子上の防御手段をネアンデルタール人がわれわれの先祖に伝え、それ以来、これらの番人が人体のさまざまな入り口を守ってきた。そのただ一つの使命は、RNAの脅威を食い止めることである。RNAの脅威には、たとえばインフルエンザ、HIV、ジカ熱、エボラ出血熱、C型肝炎などの恐ろしいウイルスがある。こうした理由からリボヌクレアーゼという酵素が進化して、外からやってきたRNAが皮膚を通り抜けたり体の孔から体内に入ってきたりするのを防いでいるのである。
    体の細胞は、安全なmRNAは自身の細胞核からやってくるものだと思っていて、外から突然やってくることは想定していない。したがって、こうした侵入者に対するさらなる防御手段を発達させてきた。外からきたmRNAに遭遇すると、細胞に組み込まれたセンサーが作動して警報を発し、部隊を急行させてその分子を武装解除する。このいわゆる「内在性のアジュバント機能」はワクチン開発に非常に役立つだろうとウールとエズレムは考えていた。とはいえ、mRNAは有望ではあるがまだダイヤモンドの原石であり、その効力を調節するのは難しかった。パニックを起こさせすぎるのはよくない。強い副作用を招くからだ。(中略)mRNAを微調整するとともに、それを体の正しい場所へ効果的に届ける方法を見つけ出す必要があったのだ。

    p189
    人間に使用するには、薬の成分はすべて反復可能かつ品質を管理されたやり方で製造されなければならない。脂質ナノ粒子製剤ではこのプロセスは特に困難であり、準備を整えるのに一年はかかる。ウールとエズレムが新型コロナワクチンの開発を決めた二〇二〇年一月の運命的な週末より前は、ビオンテック社内では筋肉注射する薬の製造を急いでいなかったので、ただちに製造できる筋肉注射用の脂質は一つしかなかった。アクイタス社の製剤であり、もともとはファイザーと協力してビオンテックのインフルエンザワクチンで試験されることになっていたものである。

    p189
    すでに新型コロナワクチンのプロジェクトを立ち上がげていたモデルナとキュアバックには、使用予定のmRNAフォーマットと脂質製剤の臨床データが豊富にあった。ビオンテックにはまったくなかった。

    p216
    ノイエ・マルクトは、テック分野に焦点を合わせ、ニューヨークのナスダックのライバルとしてつくられた株式市場である。リスクを嫌うドイツ投資家は、テック界のひと握りの寵児に投資するようそそのかされた末に大金を失っていて、そうした大げさな売り込みには二度とだまされないと心に誓っていた。

    p220
    ある製薬企業の役員が二人に警告していたように、バイオテクノロジー企業は生まれたときから死を宿命づけられている。

    p224
    フランクフルトのすぐ北にある牧歌的なタウヌス山地にはフランクフルトの大富豪の多くが家を構えている。一八八八年、フランクフルトの名門銀行家一族の御曹司、ヴィルヘルム・カール・フォン・ロートシルト(ロスチャイルド)が夏の別荘地としてヴィラ・ロートシルトをつくり、そこで世界中の貴族をもてなした。その後の一二〇年間で、ヴィラ・ロートシルトは偉大な思想家や指導者を惹きつける存在となる。

    p229
    二〇一三年三月、イギリスとスウェーデンの巨大製薬企業アストラゼネカが、mRNA企業モデルナと二億四〇〇〇万ドルの前払いを含む提携を結ぶことを発表する。(中略 )より近いところでは、ドイツのキュアバックがジョンソン・エンド・ジョンソン、フランスのサノフィ、そしてゲイツ財団と提携していた。

    p240
    既存のワクチンは数年以内に深刻なインフルエンザを防ぐ効果が五〇パーセント低下する見込みであり、ビオンテックはそれよりも予防効果の高いワクチンをつくろうとしていたのだ。

    p348
    アストラゼネカ、ジョンソン・エンド・ジョンソン、イーライ・リリーは、通常の手続きに従って試験を進めていたが、被験者に見られた原因不明の体調不良を調査するため、最終段階の試験を一時的に中断していた。ところが、ビオンテックとファイザーの試験では、奇跡的に、そのような事象は一切確認されなかった。実際、この段階でも、人体による初めての試験のときとほぼ同じような、軽微な症状しか報告されていなかった。注射部位の痛み、頭痛、だるさ、軽微な発熱などである。日常生活に支障のあるほど重度な副反応を経験した被験者は、わずか四パーセントだった。(中略)このウイルスによる致死性の病はワクチンで予防できるのか、あるいはこのウイルスが、HIVやマラリアと同じように、人類がいまだ十分に対処できない無数の病原体の仲間入りを果たすことになるのか、それはまだ誰にも断定できない。

    p381
    一般的にウイルスは、1カ月に二〜三回のペースでランダムに変異する。だが、この新型コロナウイルスはすでに、一七種もの変異を獲得している。

    p383
    (前略)スパイクタンパク質(特にその先端部にある受容体結合ドメイン)は変異しやすく、いずれ中和抗体を回避するようになるかもしれないことがわかっていた。だからこそライトスピード・チームは、最初から意図的に、免疫系の混成部隊(抗体とT細胞)を利用しようとした。
    抗体は、ウイルスに感染した細胞に見られる特徴を認識し、それを破壊する。二人の考えでは、この特徴の大半はどの株でも変わらないと思われるため(この仮説は二〇二一年、第一相試験のデータにより証明された)、スパイクタンパク質に変異があったとしても、T細胞は問題なく検知できるはずだった。つまり、抗体という第一の網を通り抜けたウイルスも、救援に駆けつけたT細胞という第二の網に捕えられるに違いない、ということだ。実際、スパイクタンパク質全体をコードするB2.9は、その一部である受容体結合ドメインをコードするB.1よりも、はるかに強いT細胞応答を引き起こしていた。これは、B2.9のほうが、スパイクタンパク質のより多くの部位の攻撃にT細胞を動員できるため、肺細胞に侵入したウイルスの活動を止められる可能性が高くなることを意味している。

    p400
    ビオンテックでは現在、一五のがん治療薬に対し、一八の試験が進行中である。いまだに年間数十万人もの命を奪っているインフルエンザのmRNAワクチンも、近いうちに登場するかもしれない。(中略)幼い子どもをはじめ年間二億人以上が感染しているマラリアのワクチンについても、すでに取り組みが始まっている。(中略)また、複数のウイルス株や疾患に対応する多価ワクチンも、理論上は可能であり、すでにビオンテックのがん治療薬に採用されている。
    ウールによれば、mRNAは全体的に見て、ビオンテックに「医療を民主化する機会」を与えてくれたという。きわめて珍しい疾患や治療の難しい疾患でさえ、それを根絶する薬剤を生み出せるからだ。一例を挙げれば、同社はすでに、多発性硬化症の治療薬の試験を進めている。この治療薬では、mRNAの力を利用して、免疫反応を引き起こすのではなく抑制する。多発性硬化症は、身体が誤作動を起こして健全な細胞を攻撃することにより発症するからだ。この疾患に対する同社の先進的なワクチンでは、免疫部隊に正反対の指示を与える「指名解除ポスター」を送り込む。するとそれが、免疫部隊の警戒態勢を解き、敵と味方を適切に区別するよう促すのだという。
    免疫系とコミュニケーションがとれるmRNAはいずれ、アレルギーから心臓病まで、あらゆる疾患への対応に利用されるようになるかもしれない(後略)。

    〈JPモルガン・ヘルスケア・カンファレンス〉
    オープンソースのウェブサイトVirological.org(https://virological.org/

  • バイオンテック社のワクチン開発までの概略記録本。正月休みに喝を入れてもらえた、良い作品だった。
    (追記)誰向けの本かというと、プロジェクトマネージャーだと思う。リソースの最効率化とスケジュール管理よく書かれてる。

    欲を言えば、もう少しワクチンの知識を得られることを期待していた。

  • 今回のコロナ騒動で打っているワクチンがそれまでの技術で作られたものではないということはおぼろげながら知っていたが、2022/3/13にホリエモンチャンネルでこの本を紹介していたので、さっそく読んでみようと思い図書館で予約し、3か月経ってようやく読むことができた。
    我々一般人は、今回のワクチンをファイザーとかモデルナといった製薬会社の名前で呼んできたが、そのファイザー製のワクチンはドイツのビオンテック社というベンチャー企業のトルコ移民の夫婦によって創業された会社で開発されたもので、感染者が増える中、ロックダウンなどで動きも制限されながら、権利関係でもファイザーに征服されることなく、短期間で製品化にまでこぎつけた物語が書かれており、ワクチンの舞台裏でこんなドラマがあったのかと思うとともに、ウイルスに対して即効性のあるmRNAワクチンの技術が半ば強制的に人類が手に入れることができたという点では、コロナ騒動も悪いことばかりではなかったなと思わせてくれた。

  • 【はじめに】
    2019年末に中国で発生したコロナウィルスは瞬く間に世界中に拡散し、多くの命を奪い、社会的・経済的損失を拡大させた。コロナワクチンは、その影響の際限のない拡大を今ある程度までに抑えることに大きく貢献することとなった。本書は、このコロナワクチンが驚くべき速度で開発された成功ストーリーについて書かれている。

    著者のジョー・ミラーは、ファイザー製ワクチン開発の主役となったビオンテック社を中心に多くの関係者にインタビューを行った。創業者のウールとエズレム夫妻が本書の主役だが、ビオンテックのその他の数多くの社員や投資家、ファイザーの重役・社員も実名で登場し、人間ドラマも含めて開発物語が紡がれている。
    著者は、ビオンテックがこの成功を収める前から取材を開始している。そこで築いた信頼関係が、この本をまた信頼のおける深い物語としている。

    【概要】
    ■ mRNA技術
    ビオンテックは、もともとは患者固有の腫瘍向けにカスタマイズされたワクチンの開発技術としてmRNAに着目していた。このワクチンは、mRNAが不安定であるということ(そのために付加剤や冷却保存が必要)と、それがあまりにも新しいことを除けば、原理的には遺伝子情報だけを必要とするため開発が非常に早くなることが期待されていた。このmRNAの性質は、パーソナライズが必要で、かつ緊急投与を要する癌治療薬として期待されるところであったのだが、喫緊に必要とされたコロナワクチンとしてもまさに必要とされる性質でもあった。このmRNAワクチンの技術がこのタイミングで存在し、挑戦する意志とガッツがある人々の手にあったことは世界にとって幸運であったと思う。
    本書では、一般的な免疫系の説明や、ワクチン開発の歴史、一般的な薬の開発プロセスなども詳しく説明されている。その上で、mRNAが「指名手配ポスター」となり、T細胞と連動してワクチンとしてどのように働くのか、その技術的な課題はどういうものであったのかも説明されていて勉強になる。自分の身体の中に入り、これだけ多くの人に摂取されたワクチンについてある程度その仕組みを知ることは世界に対する誠実さという面からも重要なことではないかと思う。
    すでにウールがコロナ禍の2年前にビル・ゲイツと会い、癌治療薬として説明したmRNA技術についてゲイツがパンデミックの発生に対してワクチンを開発できるようなソリューションを準備しておいた方がよいと助言していたというエピソードは震える。このときの助言を受けてファイザーとインフルエンザワクチンの共同開発契約を交わしていたことが結果的に役に立ったのだ。

    ■ 開発速度
    コロナワクチン開発においては開発速度が命だった。このウィルスが世界的脅威に発展するとわかる前に、このプロジェクトは始められなければならなかった。なぜなら状況はすぐにでも一時を争うようになるが、そのときではすでに時は遅しである状況だからだ。「プロジェクト・ライトスピード」と名付けられたこのワクチン開発プロジェクトは幾多の困難を乗り越えて最速で実現された。「まず最速を、それから最高を目指せ」もちろん、現実の世界では多くの命が失われ、気軽に間に合ったとはいえない状況であることは確かだが、少なくともこれなかりせばの世界と比較して、何人もの命と経済活動の時間を救ったことは確かだ。

    ワクチン開発はまさしく時間との戦いであった。ひとつづつ試薬の効果を試すのではなく、数多くの候補を同時並行的に試していくという方法を取ったり、ワクチンを生産する工場をリスクを取って事前に確保したり、急に出てきた有力候補を時期を遅らせることなく治験に採用したり、といった苦労話が綴られる。

    ■ ファイザーとの協力体制
    ビオンテックは、現在一般には「ファイザー製ワクチン」と認識されている通り、製薬大手ファイザーとの協力体制を取ることで実現された。安全性や効果を確認するための試験や、開発後の流通、それまでに必要となる資本とリソースがビオンテックにはなく、その調達を大手製薬会社との提携により獲得することが必要だったからだ。この提携の経緯もこの本では詳しいが、地球規模の危機を前にして、ファイザー社もできるだけ早くかつ大量にデリバリーを行うという目標に向け、上層部含めて志をひとつにして進められてきたことがわかる。タームシート締結に向けた権利交渉のシーンは担当者は文句を言っていたようだが、トップダウンでリスクをお互いに取ったからこそうまくいったのだと思わされる。
    最後にB2.9と呼ばれるワクチンの盲検試験の結果がファイザー社からウールにもたらされ、その結果が想定をはるかに超える成功であったことを聞く場面は感動的である。成功が保証されない中で、いかに綱渡りであり、またいくつかの偶然にも助けられたことが本当によくわかる。ビオンテックにとっても、世界にとっても賭けに勝った瞬間だった。

    【所感】
    本書を通して読むとコロナワクチンはいくつかの偶然と強い意志の結果として完成して世に出されたものであることがわかる。そもそもワクチン開発というものは、その歴史上うまくいかないことの方が多かったし、安全性の確認などに時間がかかるものであった。そのワクチン開発の新しい手法としてmRNAを使った手法がこのタイミングで実用化されたこと、そしてその新しい手法を使ったにもかかわらず1年足らずで製品開発までこぎつけたのは、おそらくは我々にとって僥倖であったのだろう。

    ビオンテックが開発したコロナワクチンは、タッチの差で間に合わず、自分は2021年6月に感染してしまったので、もう少し早ければ..と思うところなのだが、この物語は悲劇の中の一つの英雄譚として後の世に知られるべきだろう。もちろん、取材から再構築した物語であり、採用されなかったエピソードや、読み物として嘘にならない範囲で修飾が行われていることだろう。それでも、なお科学の勝利の物語として記憶されるべきだろう。そのことを確信できた本だった。

    そして成功体験と資金を得たことによって、mRNA技術を用いたパーソナライズされたがんワクチンも遠くない将来に実現されることも期待している。ひとまず、この本を読んだので、3度打ったワクチンはすべてファイザー製にした。

    コロナワクチン開発のことを簡単に知りたいという方には少し冗長かもしれないが、とにかくお薦め。

  • ビオンテックはがん専門の企業。
    しかも新型コロナワクチン開発において、競合他社からまるまる一周分の遅れを取っていた。
    素人だけでなく、業界に通じたアナリストでさえ、今回の同社による偉業を予測することはできなかった。
    「科学は、私たちが思うよりもずっと、偶然のめぐりあわせに左右される」と述懐するように、この医学上の成功の裏にも多くの偶然が積み重なっていた。

    事前にゲイツに促されて、専門のがん治療だけでなく、感染症、ひいてはパンデミックにも対応できる態勢を準備していたこと。

    相手が比較的扱いやすいターゲットだったこと。
    さらに、結果的に途中で中止されることになったが、SARSウイルス用のワクチン研究で、ターゲット候補が特定されていたこと。
    これらにより、取り組みはじめて間もなく、20ものワクチン用候補を揃えることができ、あとは選別していくだけだった。

    mRNA医薬品の規制当局がドイツ国内にあり、しかも連携が重ねられていて、承認のための土台がすでに築かれていたことも大きい。
    ただし、これはドイツ政府の全面支援を受けていたという意味ではない。
    むしろ融通の効かない規制により資金調達に苦労させらたし、国内で積極的に支援されていたのは別の会社だった。

    無名だったこと、アメリカの企業ファイザーと提携していたことで、色眼鏡で見られていたこともあるが、一番大きかったのは、ウール&エズレム夫妻が、できるだけ他からの干渉を少なくして独立性を保とうとしたこと、そして確定した裏付けが得られるまでは中間的な治験情報など諸々を秘匿していたことが大きい。
    メルケルから「何か必要なものはないか?」と問われ、「ロックアウト時にもジョギングできるようにしてほしい」と答えたというエピソードからは、彼らの奥ゆかしい性格とともに、何が何でもやり通すという固い決意が伺える。

    ドイツ政府がようやくビオンテックに3億7500ユーロの助成金提供を発表したのは、ワクチン開発の最終コーナーを過ぎて、ゴール目前の段階になってからだった。
    理想に近いほぼ完璧と思われる候補の選定も済み、各国で大規模な治験中の段階。
    それまで同社は、原材料の調達や製造拠点の確保に、自己資金などで必死に工面していくしかなかった。
    その後のインタビューでウールはこの点について「不満は一切ない」と答えているが、国産ワクチンの開発に国が全面支援していくと国会論戦で声高に叫んでいた日本の政治家を思い出し、到底埋まらない差を感じた。

    他にも偶然があった。
    脆いmRNAを保護し狙った細胞まで安全に届けるための、いわば乗り物に当たるカプセルがすでに実用化されていたこと、しかもそれが人体に無害であると承認済みで、さらにその工場が車で8時間の距離にあったことが実はかなり大きかった。
    ビオンテックも新興のバイオベンチャーで社員数は少ないが、このポリミューン社も家内工場というから相当規模は小さいのだろう。
    袋にmRNA材料を詰め、それらを外で待っているバンに詰め込み、8時間かけて運んで、脂質と組み合わせて容器に詰め送り返す製造プロセスは、車づくりを想起させる。

    極めつけの偶然は、アレックス・ムイクという"バットマン"が社員にいたこと。
    彼はもともとワクチン開発メンバーではなかったが、がん治療薬の仕事の合間に、同僚が直面する困難の話を聞き助けに動く。
    それは会社に、中和抗体の試験を行うために必要な高いレベルの実験室がなくて、他社に依頼するにも時間はかかるわ、ロックアウト中だわで、ほとほと困り果てていた時、彼は既存の実験室でもテストできる偽ウイルスを作れるよと手を挙げる。
    これだけでもお手柄なのだが、さらに彼はなんと、それまで治験で好成績を収めていた第一候補を上回る最終候補のワクチンを作ってしまう。
    この当たりの経過があまりにも唐突でサラリと描かれているだけなのでもどかしいが、機密にあたることなのかもしれない。

    しかしこの土壇場での最終候補の逆転劇は、実は多くの接種済みの日本人に大いに関係があって、もしこの逆転劇がなければ、もっと多くの人に接種後の副作用(発熱など)が見られただろうし、ひょっとするともう少し長く中和抗体が持続したかもしれない。

    本書を読んでずっと謎だった、なぜこのワクチンは、感染を防ぐことはできないけど、重症化予防に効果を発揮すると喧伝されているのかもよくわかった。

    今回の新型コロナウイルスに対しては、抗体よりT細胞を優先すべきだという考えが、ウールとエズレムの頭に常にあった。
    確かに抗体を高めれば、ウイルスが細胞に入り込む前に攻撃し撃退することで、十分に感染予防ができるだろう。
    しかし、今回のウイルスの特性上、またがん医療薬で培った経験から、免疫専門の狙撃兵であるT細胞をより多く呼び集め、活性化するほうが重要だと考えたのだ。
    抗体が第一防御線なら、T細胞狙撃兵はもっと手前の第二防御線を受け持っている。
    この判断が功を奏して、その後の変異種に対しても変わらず効果を期待できることになった。

    謎なのは、もはや別種とも言えるほど変異を遂げているのに、それでも手配写真に使われる人相書きを改めてすみやかにアップデートしないのか、ファイザー社長がすでに開発に着手していると言ってかなり時間がたっているのに、オミクロン株用ワクチンはいつになったら接種可能になるんだろうと。
    もっと言えば、やっぱり感染自体の連鎖を食い止めなければ、新たな手強い変異種の出現を招来し、アフターコロナは永遠に終わらないんじゃないのか、バランスなんだろうけど活性化したT細胞の暴走は本当に大丈夫なのかなど、他にも色々と疑問は残った。

    ただ、夫妻の本命はあくまでがん医薬品薬の開発で、今後も遅かれ早かれ、mRNAが医療の中心になっていくだろう。
    初のmRNAワクチンに忌避感を示して接種をパスした人も、将来がんになって、その治療でmRNAが使われることを知りジレンマに陥るかもしれない。

    あと、本書で描かれた夫婦のパーソナリティもほんとに興味深い。
    最初、会社での両者の役割の違いがよくわからなかったが、持ち味が微妙に異なってい。
    ふたりとも医者でバリバリの研究者で、億万長者になった今でも、忙しい傍ら薄給であろう大学の講師も兼任している。

    ウールは、写真でもわかる通り、濃く太い眉が示すような意思貫徹の人。
    好きな映画のセリフが「鍛錬ではない、重要なのは意志だ」というぐらい徹底している。
    テレビもSNSもやらず、頭の中はひたすら仕事のこと。
    ただ社員も自分と同じように馬車馬のごとく働かせるかといったらそうではない。
    支持する特定の政党ももたず不偏不党で、他人の悪口は決して言わない。
    できるだけ表舞台に出ることを避けるが、たまにテレビにリモート出演したときは、後ろの窓を開けっ放しにして、娘が小さな家の中で必死に映らないよう匍匐前進させてしまう天然ぶり。

    ビジネスのスキルもかなり高く、交渉上手。
    部下の営業がけんもほろろで追い返されても、自身が出向くと相手はその言葉に魅了される。
    預言者でもある。
    1月の段階でランセットなどの研究論文から今回の新型ウィルスの大流行を予見し、1カプセルにおけるワクチン接種回数の問題でも、ファイザーが対応を開始する前に、先の短い注射針を用意させる。

    対する妻のエズレムは、細部から全体にアプローチするのではなく、大きなグランドデザインを他者にわかりやすく説明することに優れている。
    研究者としても超がつくほど有能だが、社内の意思統一はひょっとしたら彼女のおかげなのかも。

    最後に一番心打たれた言葉の引用を。
    夫妻の並外れた今回の成功を受けて、ドイツの元外相シュタインマイヤーは、二人の仕事に国籍を付与しようとする企みを否定する。
    「(このワクチンは、)ドイツやトルコのものでもなければ、アメリカのものでもない。それは、お二人が傑出した科学者であることだけを証明している」
    決して国から手厚い支援を受けられたわけでもないので、よく言うよと思うかもしれないが、むしろなんでも国頼み、国主導を口にする日本の識者の思い込みの浅はかさが痛感させられた言葉だった。

    それにしても、同様の成功を収めたモデルナにこのような物語がないのはなんとも不思議。

  • 新型コロナによるパンデミック下で、驚異的なスピードで開発され、その有効性においてもこれまでのワクチンとは一線を画すmRNAワクチン。本書はファイザーと組んでこのワクチンを開発したビオンテックの創業者夫婦を描いたノンフィクションだ。
    もともとはがん治療のためにmRNAを研究していたとか、感染拡大の危機感を抱いた時期、資金難で行き詰まる寸前だったとか、小説よりも面白かった。そして金儲けのためではなく、苦しんでいる人を救いたいという開発動機が素晴らしい。立ち上げに当たり資金提供した投資家も素晴らしい。

  • コロナワクチンは、どうやらこれまでのワクチンとは違い医療界の革命だったらしく、どのようなものなのか気になったので読んだ。

    コロナ関連のニュースはあまり見ていなかったので、なんとなくファイザーかモデルナかどっちかの企業がワクチンを作ったと思っていたのだが、違っていた。
    実際には、バイオンテックというそれまで無名だった医療メーカーが、当社の画期的な癌治療技術を用いて開発したものだった。
    (大規模な治験や流通の段階から、ファイザーと協力した。モデルナはその何週間か後に独自で完成させたらしい。)

    本書は、画期的なワクチンの仕組みはもちろんだが、どちらかといえば、優れた洞察力と素早い判断力によって、コロナのパンデミックをいち早く察知し、癌医療メーカーからコロナワクチン開発へと舵を切って推し進めていった創業者夫妻の物語が主である。

    資本主義社会の中、利益よりも人類優先で動く夫妻の働きがカッコよかった。
    ただ、創業者夫妻はもちろんバイオンテック社員は、休日も無く働いていたようなので、かなりのブラック企業だと思いました。

  • コロナ禍に身をおき、コロナワクチンを実際に接種した一人として、ワクチン開発から実用化までのストーリーを臨場感をもって読むことができた。

    〜感銘をうけた文章〜
    エズレムがよく好んで強調するように「イノベーションは一度には起こらない」のだ。いくつもの個々の発見が、ときに何のつながりもない分野で同時に起こり、積み重なっていく。やがて、それらのアイデアや研究者が出会い、融合したとき、人類は総体として、とてつもなく大きな飛躍を成し遂げることができるのだ。

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