それをお金で買いますか――市場主義の限界

  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152092847

作品紹介・あらすじ

あるものが「商品」に変わるとき、何か大事なものが失われることがある。これまで議論されてこなかった、その「何か」こそ、実は私たちがよりよい社会を築くうえで欠かせないものなのでは――?
私たちの生活と密接にかかわる、「市場主義」をめぐる問題。この現代最重要テーマに、国民的ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』のサンデル教授が鋭く切りこむ、待望の最新刊。

感想・レビュー・書評

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  • 「ハーバード白熱教室」「これからの『正義』の話をしよう」のマイケル・サランデルの経済と市場と倫理の話

    何度も読み返したり、読み直したり、考えたりしすぎてなかなか読み終わらなかったけどやっと読み終えた~というか読んだだけなのかもしれん。

    私たちの生活に密着した「市場主義」
    世の中にお金で買えないものはない?ある?
    買えるもの
    ・刑務所の独房 1晩82ドル
    ・インドの代理母による妊娠代行サービス6250ドル
    ・絶滅の危機にあるクロサイを射撃する権利15万ドル
    ・主治医の携帯電話の番号 年に1500ドル~
    あとは、逆にもらえる方法
    ・ダラスの学校で1冊本を読むと2ドルもらえる
    ・体のどこかに広告を出す777ドルもらえる
    などなど…
    世の中に値段のついていないものはない…
    「需要と供給」「ギブアンドテイク」で成り立ってるならいいじゃん~
    これが市場自由主義の世界だ~
    という声が世の中にある

    いやいや…果たしてそうなんだろうか?
    マイケル・サランデルはこの本の中でこういう例を出している
    「国立自然公園にゴミを捨てる人に罰金を科す。じゃあ金持ちはお金を払うから国立自然公園にゴミを捨て放題でもいいのか?」

    これってすごくわかりやすい

    お金払ってるから何してもいいだろ的なことを主張する人はたいがいこんな感じの俺なりの理屈を通す。

    「道徳の売買」の恐ろしさ

    後半は生命保険の話をしてるんだけど
    これもまた考えさせられる

    知らないうちに人は「お金」と「市場」に踊らされていて
    「道徳」「倫理」を売り買いしているのかも
    いや、結局「正義」の話なのか…

    いや~この本あと100回ぐらい読まないと
    ちょっと私では浅すぎてちゃんと理解できてないかもしれん…
    うむむ…また読もう。

  • 【感想】
    われわれはなぜ転売ヤーを疎ましく思うのだろうか?

    転売ヤーへの批判は、主に次の2通りに分けられる。
    1つ目は、転売を挟むことで価格がつり上がり、供給者から転売ヤーに利潤が吸い上げられているという批判。2つ目は、転売によって本当に欲しい人に品物が届かなくなるという批判だ。

    しかし、この2つとも有効な批判とは言えないだろう。
    1つ目の批判に対しては「自由主義的」な観点から擁護できる。モノを売る会社の一方的な値付け価格では、市場価値が正確に反映されていない。買い手の需要と売り手の供給とが合致した結果としての「転売価格」が、むしろ正統な値段であるという擁護だ。
    2つ目の批判に対しては、「本当に欲しい人とはいったいだれを指すのか?」という観点から擁護ができる。本当に欲しい人とは、市場の性質を考えれば、他者よりも多くお金を払う人だ。転売ヤーから言わせれば、安すぎる商品に人が殺到することこそ「欲しい人の気持ちを考えていない」行いになる。そこで転売ヤーが適切に高い価格で再販することで、どうしても欲しい人と商品の橋渡しをするのだ。

    結局のところ、どちらの言い分も一長一短である。

    本書では、この2つの観点から市場主義を問うのは効果的ではないと述べている。
    では、サンデル氏はいったい何に着目したのか?どうやってこの禅問答のような議論を崩しにかかったのか?
    それは、「善き行いか?」という観点からの批判であった。

    ライブチケットを転売する人は、チケットを買うことが目的であり、ライブ自体を楽しみだとは思っていない。言い換えれば、歌手への尊敬に欠けている。
    これは日用品でも同じだ。例えばマスクの転売である。マスクの転売が批判されるのは、転売ヤー本人が「マスクを自分で使おうとは思っていないこと」つまり、「マスクを買うための目的が倒錯している」ことにある。
    これらはどちらも「善」に関する議論だ。買う人間に対して、「それを買うのにふさわしい態度を身につけるべき」という批判をする。この批判をもとに、あらゆることを市場化することへの警鐘を鳴らす。

    当然ながら、これは経済学の領域では論じきれない。経済学では、ものを買う目的を俎上に載せることはない。また、この批判は「では、善とされるものの定義はなにか?」という道徳的な議論を行う必要がある。その難しさから、「あまりに理想主義すぎる」という反論も起こりうるだろう。

    しかし、経済学に倫理を持ち込むことは、確実に必要である。
    何故か。
    それは、あらゆるものに価格をつけるという行為が、「下から上への再分配」を生み出し、格差を拡大するからだ。

    累進課税に代表されるように、社会には多くを持つ者からあまり持たない者へと資源を再分配するシステムが取り入れられている。それは格差の是正と、資本主義を過熱しすぎないようブレーキをする役割を持っている。
    しかし、今まで価値のつけられなかった(無料であった)ものに値段をつけるという行為は、持たざる者が手にしていた「機会」を、金に換えてそっくりそのまま売り渡すことになる。持たざる者の「機会」を買う値段は、持つ者にとっては微々たる金額だ。そこで起きるのは平等な「等価交換」ではなく一方的な「分配」であることは言うまでもない。
    そうしてなにより、機会の値付けの際に「選択肢」を持っているのは、裕福層側であるのだ。

    金による解決は、社会にとって決してよい結末を産まない。
    であるならば、――日常領域に市場が侵食してきたように――善という「非市場的な概念」を市場に持ち込むことこそ、過熱した資本至上主義を止めるのに必要なものなのだ。

    ────────────────────────────────────

    【本書の概要】
    市場や商業は触れた善の性質を変えてしまう。われわれは、市場がふさわしい場所はどこで、ふさわしくない場所はどこかを問わざるを得ない。そして、その問いに答えるためには、善の意味と目的について、それらを支配すべき価値観についての熟議がかかせない。
    格差が広がる時代に、あらゆるものを市場化するということは、格差がますます広がることを意味する。市場をその持ち場にとどめておくための唯一の頼みの綱は、われわれが尊重する善と社会的慣行の意味について、公の場で率直に議論することだ。


    【本書のまとめ】
    1 市場が日常に侵食してきている
    代理母、デザイナー卵子、環境汚染権の売買、大学への入学権など、かつては値段をつけられなかった物すべてが売り物となる社会が来ている。
    お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなければならない。日常生活における市場の役割と範囲を考え直さねばならない。

    最初に、この本の結論を述べる。
    それは、生きていくうえで大切なものの中には、商品になると腐敗したり堕落したりするものがあるということ。したがって、市場がふさわしい場所はどこで、一定の距離を保つべき場所はどこかを決めるには、問題となる「善」――健康、教育、家庭生活、自然、市民の義務など――の価値をどう図るべきかを、問題ごとに議論する必要がある。


    2 行列に割り込む
    遊園地のファストパス、行列に並ぶ「並び屋」、診察券のダフ屋、コンシェルジュドクター。「先着順」という行列の倫理は、「安かろう悪かろう」という市場の倫理に取って代わられつつある。
    「金で順番を買う」ことへの擁護は、主に次の2パターンが挙げられる。「市場は買いたい人と並びたい人の効用を最大化させる」という擁護と、「買い手と売り手の自由意志を妨げてはいけない」という擁護だ。

    しかし、ここで財の配分方法に関して議論するのは、適切ではない。問題は「善」に関することがらなのだ。

    無料で行うコンサートに「並び屋」が並べば、我々は快く思わない。これは価値無きモラルに「市場価値」をつけることで、ある財における「善」を腐敗させるからだ。無料コンサートはまったくの商品でも、市場財でもない。にもかかわらず、そうであるかのように扱えば、コンサートを貶めることになる。
    だからこそ、われわれはダフ屋や行列屋を疎ましく思う。それは、かつては「良識」の範囲内で楽しんでいたものごとが、金銭によってその倫理的価値を歪められたからなのだ。


    3 インセンティブ
    お金を払って避妊手術を受けさせる。いい成績を取った子に賞金を与える。タバコをやめた人にお金をあげる。
    健康的な行動と引き換えに賄賂を渡すことは、一見winwinに見えるのに、贈収賄であるという非難が当てはまるように思えるのはなぜだろうか。
    それは、金銭的動機によって、ほかのよりよい動機――学ぶことへの悦び、肉体の健康への正しい姿勢――を排除するからである。
    言葉を変えれば、市場のせいで、出産や勉強や禁煙が「どう扱われるべきか」という見方が変わってしまうのだ。

    ●罰金と料金の違い
    イスラエルのとある保育園が、迎えに来る親に罰金を科すことに決めた途端、遅刻が倍増した。今までは、遅れてきたときに「良心の呵責」を感じたが、今では「お金を払えば預かり保育を延長してくれる」という心理に変わってしまったのだ。
    これと同じことが、より広範で国際的な取り組みである「排出量取引」でも起こっている。

    善への罰である「罰金」が、しかじかをする権利である「料金」に変わってしまい、よりモラルから逸脱することがありうる。市場の範囲が、非市場的規範の律する生活領域に広がると、標準的な価格効果は失われてしまうことがある。

    端的に言えば、規範が重要なのだ。市場に任せることで効率化が進んだとしても、ときにそれは責任ある倫理に求められる「自制」や「自己犠牲」、「良識的マナー」の意識を傷つけ、行動を悪化させる危険があるのだ。

    したがって、ある善を商品化するかどうかを決める際には、効率性や分配的正義の先にあるものを考えなければならない。また、市場的規範が非市場的規範を締めだすかどうか、締め出すとすれば、それが配慮に値する損失かどうかを問わなければならない。

    われわれは、金銭的インセンティブの効果を予測するだけではなく、道徳的な評価――そのインセンティブが、守るに値する姿勢や規範を蝕むか否か――を下す必要があるのだ。


    4 市場が道徳を締め出す
    お金で買えるが、そうすべきではないものがある。友人やノーベル賞の売り買いは、お金で買えるが善が台無しになるものであり、臓器や子供の売り買いは、善はなくならない(お互いが納得した上で取引するため)がほぼ確実に腐敗するものである。
    市場での評価と取引によって堕落してしまうという善がある。市場が非市場的規範を締め出し、より低俗な規範に取って代わってしまうのだ。


    5 生と死を扱う市場
    バイアティカル投資、用務員保険、生保賭博など、「ある人が死ぬかどうか」に賭ける金融商品がある。
    たいていの人間は、死ぬ確率に賭けるギャンブルを道徳的に不快なものとみなす。しかし、ギャンブラーが当事者を苦境に陥れず、ただ遠くから賭けを楽しんでいるだけならば、なぜ非難されるいわれがあるのだろうか。

    死の賭けがあるまじきものだと仮定すれば、その理由は市場の論理を超えた、そうした賭けに現れている「非人間的な態度」にある。

    ときとして、われわらは道徳的に腐敗している市場慣行と共存する道を選ぶ。それがもたらす社会的善のためだ。生命保険はこの類の妥協の産物として始まった。しかし、生と死を扱う現代の巨大市場が証明しているように、保険はギャンブルとの境界線があいまいなものになろうとしている。市場の範囲が非市場的範囲を飲み込もうとしているのだ。

    あらゆる「低俗」とみなされる市場還元には、2つのパターンがある、一つ目は「強制と不公正にかかわるもの」もう一つは「腐敗と堕落にかかわるもの」だ。そして、前者だけ議論しても決着はつかない。大切なのは、後者について論じる場を設け、どこまでに値をつけてよいか社会の中で決定していくことだ。

    なぜそうした議論が必要なのか?それは、自由主義や功利主義といった従来の経済学のパラダイムでは、市場的思考や市場関係が人間のあらゆる活動に侵入してくる世界の何が問題なのかを説明してくれないからだ。こうした状況の何が不安をかき立てるのかを説明するには、腐敗や堕落といった道徳的な語彙を使う必要がある。そして、腐敗や堕落について語るには、「善き生」という概念を避けては通れないのだ。

  • お金で買えることと、買っても良いということは違う。何が良くて何が良くないのか、それぞれ自分自身で考えて生きていかなければならない。

  • 1.最近になってますますお金の重要性が増してきた現代ですが、豊かな人ほど「お金は必要ない」と言っています。なぜここまで貧富の差が激しくなったのか、なぜお金が人の心を惑わせてしまうのかが気になったからです。

    2.市場主義が浸透し、すべてが市場原理に委ねられ始めた昨今ですが、それに伴って大きな問題が2つあります。まず、公平性の問題です。本書では行列に並ばなくてもプレミアムを払うことで先に行けるシステムが導入されています。それによって、金銭に余裕がある人は進んでそれを支払うことで、生活に余裕を持たせていきます。一方、貧しい人は永遠に待つことになります。これにより、本来は業道で会ったシステムが崩れていくことを指摘しています。次に、腐敗の問題です。昔から裏口入学が問いただされていますが、まさに腐敗の証拠と言えます。金さえ払えばどうにでもなるという考えが蔓延し、施行することや競争させることを避けてきてしまったがゆえに、生じる問題があります。
    このように、お金が全てになりつつある社会に対して、改めて問いかけるのが本書の役割だと思っています。

    3.貧富の差が拡大してきた大きな理由は、中流階級が貧しくなっていくことだと考えました。今まで出費をしなくてもよかった部分に出費せざるを得ない状況になりました。すると、必然的に支出が上がり、貯蓄率は低下してきます。これにより、生活費の負担が上昇し、貧しくなってしまう構図だと思いました。

  • 市場が社会の公的な領域あるいは道徳的規範の領域に侵入したときに何がおきるか?

    ひとつめは、公平性にかかわる問題、ふたつめには、腐敗にかかわる問題が発生する。

    お金をより多く持つ人間が公的なサービスを受けやすくなるということは、公的サービスの公平性を損なうことになる。

    また、道徳的規範の領域に市場が入り込むと、道徳的規範そのものが損なわれる。

    経済学者はこう主張する。市場が問題とするのは効率性である。市場により財の分配が効率的に行われることにより、人々が享受する効用が最大化するのだ。

    市場主義の限界は、功利主義の限界である。市場主義は効用の「量」だけを問題とし、その「質」は問わない。これが、経済学者が市場を価値中立的とみなす理由である。

    経済学は自然科学、特に物理学を模範としてきた。自然科学であるからには、道徳的価値とは無縁だというのが、その発想の大元にある。

    市場が価値中立的だというのは誤りである。
    市場が侵入することによって、道徳的規範の「質」が変化してしまうことがありえる。それは単に「量」の問題ではない。

    効率性の増大のみを至上原理とし、人間生活のあらゆる領域に浸透してゆく市場主義が、社会を成立させる上で重要な道徳的価値を腐敗させている。

    だから私たちは、市場主義が浸透していく領域の限界を定め、それをコントロールしていかなければならない。

    また経済学者は、自分たちの仕事が単に計量化できる事象にだけ影響力を及ぼしているのだけではないということに自覚的になる必要がある。

    自然科学も、経済学も、それが取り扱う領域が複雑かつ膨大になるにつれて、人為的なコントロールの及ばない領域に突入してきている。

    それは現代文明が直面している危機である。

  • アメリカって恐ろしい。(好きな国だけど)需要と供給さえあればなんでもビジネスにするのか。いや、アメリカに限った話じゃないか、人間ってそういう性質があるのか。アメリカ人のほうが発想が柔軟だからいろんなことを思いつく。だからいろんなビジネスが生まれてる。サンデル先生は危機感を感じてこれを書いたんだろうな。考え方より多様な発想に驚かされた。

  • 「実力も運のうち」が面白かったので、サンデル教授の過去本を読んでいます。
    お金と道徳という問題。お金で買う・売るという行為が入ってくることで、道徳的な「善」が失われてしまう。
    腎臓、幼児、入学試験、爵位、スポーツ選手のサインなどなど。名誉とされるものも売買対象になると。。。
    チケットを転売する。腎臓を売る。物事の解決策として「市場」を用いる経済学者。経済学的には全員がハッピーだが、人間の道徳・心では引っかかる。。
    その引っかかる部分を主張すると古いと言われてきたのが、この30年、市場万能の新自由主義時代だったのかと思いました。この市場万能主義に翳りが見え、最後の学歴万能への警鐘が、新刊「実力も運のうち」だったのかなと思いました。

  • お金で何でも買えてしまうのだろうか?

    先日読書会に参加してきました。サンデル教授の本は「Justice」も読んで
    非常に勉強になっていましたが、今回も実に考えさせられる本でした。

    お金で買えないものは当然あるんですけど、その領域がどんどん狭まっていると感じる。
    例えば、愛や信頼というものは絶対に買うことができないけれども、
    臓器しかり、狩猟禁止領域の動物のハンティング権しかり、
    何でもお金さえ払えば入手できる世の中になりつつある。

    経済学的に双方が望んでいるのであれば、良い取引になるんだけれども、
    例えば臓器を売るという事が倫理上許されることなのか?
    そんな経済学の分野に政治哲学を持ち込もうとしたサンデル教授は本当にすばらしい。

    市場原理があらゆる取引に介入すると、2つの問題が起こるとサンデル教授は言っている。
    一つは公平性の問題、もう一つは腐敗が起きることだ。
    後者の例はイスラエルの幼稚園で起きた罰金 vs 延滞料金のだろう
    (ここではこの話を省略します。本に書かれていることなので)。
    いったんお金で解決しようとするとその人の行動の価値観を変えてしまい
    二度と戻ることがないのだ。

    この本を読んで恐ろしいと感じたのは「生と死を扱う市場」という第4章だ。
    アメリカではバイアティカルというものがあり、これは余命いくばくかという
    人の生命保険を投資家が購入して、保険料を支払いそしてその人が
    仮に死んだ場合は死亡保険を受け取るというのだ。
    考えてみてください、このシステムがうまく機能するのは余命1年と宣言された人が、
    予測通りなくなることが条件なのだ。
    人の死を願ってしまうインセンティブが働くことになる。
    信じられますか?このようなシステムがアメリカではすでに事実としてあるということを。

    ではどうすれば、この市場主義を止めることができるのか?
    それは我々が対話を通して市場の役割は何かという事を考え、
    市場が侵入してきてはいけない領域というものを作ることだ。
    ひいてはサンデル教授のいう共通善とは何かという事につながるのではないか。

    こういう機会を作ってくれた友人のYさんに感謝です。

  • アメリカと日本の市場の違いは勿論あるが、こういった市場の流れは確実に日本に侵食してくるであろうと考えられる。
    最後の章を読んでみると、昨日たまたま参加したカンファレンスにて発言されていた「広告の未来は広告ではない」という言葉と合致する部分を感じた。

    とはいえ、これから様々な面で、意味で、信用という言葉が重要になってくると感じた。本書ではその信用が市場主義の面で出てきただけである気がする。

  • 臓器売買や人身売買が「してはいけないこと」だというのははっきりしている。それは売り買いすべきものではないと圧倒的多数の人が思うだろう。じゃあ、お金を払って行列の先頭に行かせてもらうのはどうか?病院で優先的に診察してもらうのは?高速道路でスピード違反する権利を買うのはどうなのか?これらはいずれも他国で実際に売買されているのだそうだ。もしかしたらもう日本でもあるのかも。

    本書はこのような実例を次々と挙げて、何が問題なのかを考えていこうとしている。結論から言うと、市場主義が入り込むべきでないところに進出していくと、それ自身やそれを支える社会的な規範の価値を、低級な基準で査定することによって貶め、尊厳を傷つける、ということになるのだろうか。

    あげられる例が豊富で驚かされるものもあり、その点では面白いのだが、繰り返しが多くくどい感じのするのが残念。もっとコンパクトにまとめてあったらなと思う。

    世の中のあらゆるものが市場の商品として取引される社会に私たちは生きている。市場を本来あるべき所に押し戻すことはかなり難しいことのように思われる。それでも「それはお金で買うものではないでしょう」という声はあげていかなくちゃ、と思う。「命名権」というものを初めて聞いたときのなんとも言えない違和感を忘れないようにしたい。

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著者プロフィール

1953年、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス生まれ。アメリカ合衆国の哲学者、政治学者、倫理学者。ハーバード大学教授。

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