- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784151200861
作品紹介・あらすじ
最終戦争終結後、暴力が排除された安定至上主義世界が形成された……。『一九八四年』と並ぶディストピア小説の古典にして『ハーモニー』の原点
感想・レビュー・書評
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本書は、ジョージ・オーウェルの『1984年』と並び称されるディストピア小説の傑作。
『1984年』が完全な監視社会による管理体制型ディストピアだとすれば、本書『素晴らしき新世界』で描かれる社会は、人間から根本的な「自由」という概念を奪い、誰もが与えられた『幸福』を享受するユートピア型のディストピアである。
本書のあらすじであるが、西暦2049年に最終戦争が勃発し、その戦争が終結した後、生き残った人間は世界から暴力をなくすため、安定至上主義の世界を作り上げた。
人間は受精卵の段階から培養ビンの中で『製造』され、階級ごとに体格も知能も決定される。人間は『製造』されて60歳ぐらいで死ぬまで、老いることはなく若いままで過ごす。『製造』された人間は、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々はその生活に完全に満足している。不快な気分になったときは、「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になり、人々は常に安定した精神状態である。人間は『製造』されるので、家族はなく、結婚は否定され、その代わりにフリーセックスが推奨され、人々は常に一緒に過ごして孤独を感じることはない。
誰もが幸せに感じる世界。まさに楽園であり「素晴らしい世界」なのである。
そこへ未開社会から来たジョンが引き起こす騒動により、この世界の矛盾点が明らかにされていく・・・というものだ。
本書の舞台は、フォード紀元632年(西暦2540年)の世界。
まずもってなによりも本書が約90年前である1932年(昭和7年)に発表されたということが驚愕すべき事実だ。1932年といえばまだ第二次世界大戦も始まっておらず、世界恐慌まっただなかという暗黒の時代である。ちなみに日本でいえば海軍の若手将校らが犬養首相を暗殺した5.15事件が起こった年でもある。
そのような時代に書かれたこのSF小説であるが、この小説に出てくる未来の道具や技術が、まさにあと数年で実用化されるようなものばかりなのは驚きだ。
いくつか例に挙げてみよう。
本書の中で主要な交通手段となっている乗り物はヘリタクシー(ヘリコプタータクシー)だ。この世界では空中を飛ぶ車のような乗り物が世界中を飛び回っている。
これはもう現代の言葉で言えば「人が乗れるドローン」だろう。ちなみにヘリコプターが実用化されたのは1950年代になってからであり、まだ飛行機が実用化されたばかりの時代にドローンが飛び交う未来を予想していたハクスリーの想像力はすさまじい。
続いて、人間の『製造』である。
この時代の人間は、両親の生殖行為によって生まれることはない。
人間はあらかじめ定められた将来の職業のために、その職場での適応性のみを優先した人間が遺伝子操作によって知能や体形まで制御され試験管のなかで作り出されるのだ。
例えば、工場で単純労働をする人間は、それに対してのみ必要とされる最低限の知能と体形だけを有した人間が作られる。この技術はまさに現在のクローン技術と遺伝子操作技術を駆使したいわゆる「デザイナーズベイビー」だろう。
さらに、この社会の人間たちが娯楽として楽しむのは、その感触すら楽しむことができる「フィーリー」と呼ばれる感覚映画だ。
今でいえば4DXとヴァーチャルリアリティを合体させた映画のようなものだろうか。
そして、劇中で彼らが常用する「ソーマ」と呼ばれる気分を高揚させる薬は、今でいえば『覚せい剤』や『MDMA』などのような『ドラッグ』だ。
ざっと挙げただけだが、これらの技術はもうすでに実用化されているか、もうすぐ技術的に可能なものばかりだ。
人が乗れるドローンは2040年代にはもう実用化されているだろうから、ハクスリーが設定したこの時代(西暦2540年)よりも、技術の面だけでいえば今の社会はハクスリーが想像していたよりも500年以上早く達成できるということになる。
技術的な面もさることながら、本書で描かれるのは人間の心のありようだ。
物質的に恵まれており、不安を感じることもない。だれもが自分の任務・仕事に誇りを持ち、幸せを感じている。
まさにこれこそが人間が目指す『理想の社会』なのではないだろうか…。
しかし、何かが間違っている。
でも、どこが間違っているのかはわからない。
この『素晴らしき新世界』で描かれる社会は、夭逝の天才SF作家・伊藤計劃の描いた『ハーモニー』で最終的に到達した世界や『コンビニ人間』芥川賞を受賞した村田沙耶香が描いたセックスがなくなり子供がみな人工授精で生まれる世界を描いた『消滅世界』の世界をさらに進化させた社会と言って良いだろう。そして生まれながらに『シビュラシステム』と呼ばれるシステムにより人間の能力が数値化され、その適性により職業や配偶者をも、予めあてがってもらえるという社会を描いた傑作アニメ『PSYCHO-PASS』的な社会であるとも言えるかもしれない。
人間はどこへ向かうのだろうか。
ハクスリーが描いた世界は実現することは可能だろう。
『誰もが幸せになる社会』その響きは非常に甘美ではあるが、そこに本当の幸せはあるのだろうか……。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
90年前に書かれたとは思えないくらい、現代に通じるディストピア小説。
家族という概念や、複雑な人間関係、労働の苦痛が無く、大多数の人が同類同士で繋がり、毎日快楽を求めて過ごす「リア充」な生活。見た目が老いることもない。人々は生まれながらにしてランク分けされ、ほぼ同じ階級の者同士だけで繋がっている。お互いに他の階級には興味を示さないので、階級間のトラブルが発生しない。
このような世界では、深く悩み思考する必要が無いので、文学や芸術は存在しない。人生について考えることも無い。ゆえに、社会に対して生きづらさを感じて一度疑問を抱いてしまうと、世の中にとって不都合な存在になってしまう。主要人物のバーナードは、周囲と比べてコンプレックスを持ちつつ、自分の信念を持ち、日々葛藤している。自分らしく生きることのできる環境を選べないことは残酷である。
現代社会の目指す「豊かさ」とは何なのか。モノカルチャーを徹底的に浸透させ、同一の消費行動を促す傾向が強まり、その行き着く先が本作品で描かれている世界なのかも知れない。 -
ジョージ・オーウェルの「1984年」と並び、ディストピア小説の祖とされる「すばらしい新世界」。ついに読むことができた。
発刊はなんと1932年。とても古い。とても古いのにそれを感じさせないのは、やはり大森望さんの訳が良いからかな。現代小説のようにさらさらと読めてしまう。文量も300ページほどなので、サクッと読めてしまうと思う。
内容については、ディストピア小説であることは確かなのだけど、どこか明るい雰囲気がある。人口管理、階級社会、感情抑制…という設定にはおぞましいものを感じるけど、実際の登場人物はどこか現実味がない。ぽけーっとした人々。
それもそのはず。個性と孤独と感情を排除した社会なので、人々は幸せであることを強制されている。それは条件付けとして、人間が「製造」される過程で深層心理に叩き込まれる。
それは世界にフィットした人間にとっては恐ろしく完璧な状況。けれどやはり、はみ出してしまう人間がいる…というのがこの世界での良心部分かな。
作中では2人の男性が、それぞれの苦悩を抱える。水準を上回ってしまった人間と、下回ってしまった人間。彼らは「精神過剰」に苦しむことになる。
幸せを布教してくる世界にすっかり辟易している二人。そんな彼らにも救いがある。平均を逸脱した人間は、アイスランドのような辺境に左遷される、ということが世界統制官から明かされる。
1984年のような完全無欠な管理社会ではないことが分かり、ホッと一息ついてしまう。と同時に、同作の異常性がより際立った。
また、「保護区」が登場するあたりから、より夢中になって読めた。保護区では管理社会の外側として、「野人」が生活している。
しかし、保護区にもアウトサイダーがいた。かつて保護区に迷い込み、そこで出産をした女性がいた。その息子は、自身のアイデンティティに深く悩むこととなる。
そんな彼と、先述の、水準を下回った人間が出会う。違う世界のアウトサイダー同士が出会い、世界を揺らがすというのは好きなタイプのストーリー。
野人の青年を連れ帰った彼は注目の的になる。初めて好意的な扱いを受けた彼は気を大きくする…というのは非常に人間臭い。ディストピアという設定で完結せずに、きちんと「物語」している。
総評としては、面白く読めた。確実にディストピアの世界観だし、そこにたどり着くまでの社会実験が明かされるのも良い。だけど、暗くなりすぎないので寓話的に読めてしまう。一般読者にオススメしやすい本かな。
(書評ブログの方も宜しくお願いします)
https://www.everyday-book-reviews.com/entry/%E6%84%9F%E6%83%85%E3%81%AF%E6%AC%B2%E6%B1%82%E3%81%A8%E5%85%85%E8%B6%B3%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%90%88%E9%96%93%E3%81%AB_%E3%81%99%E3%81%B0%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%84%E6%96%B0%E4%B8%96%E7%95%8C_%E3%82%AA -
ディストピア小説の源流と言われている本書。
昔ジョージ・オーウェルの「1984年」を読みきれないまま手放した事があるのだが、
何故か今、この手の作品も読めるような気がして。
そしてマリモさんとのやり取りを思い出し、読み始める前に伊藤計劃の『ハーモニー』を確認する。
あ!引用してる!
こんなシーンがあったこと、すっかり忘れていた。
『ハーモニー』を読んだ時の私は、『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリーの名をスルーしたんだろうか。
今の私なら調べてると思うのだけど。
「人間であることをやめたほうがいい」と言ったミァハは、『すばらしい新世界』でのジョン的な役割を担ってたんだね。
それに"ザ・メイルストロム"!
螺旋プロジェクトで吉田篤弘さんの『天使も怪物も眠る夜』に"メルシュトロオム"なる言葉が登場したのを、
"ノルウェー周辺海域の強い潮流"だと、そのようにレビューにも記した。
でもきっと間違いで、『ハーモニー』の"大災禍(ザ・メイルストロム)"を暗示したものだったのでは!?
或いは強い潮流は渦を生むので、螺旋プロジェクト的には双方の意味を含んでいたのかな?
だって『天使も怪物も眠る夜』でも本が燃やされたり、表面だけの穏やかな社会など、『華氏451度』や『すばらしい新世界』を思わせるような設定があったもの。
ここまでディストピアを匂わせるなら、伊藤計劃『ハーモニー』の"ザ・メイルストロム"を意識したものとした方が正しそうだ。
わーすっかり間違えてた。
でも、ここで気付けたのが嬉しいな。
また前置きが長くなった。
本文に入りましょ。
ここは中央ロンドン孵化条件づけセンター。
フォード紀元632年。
この新世界は、"暴力を排除し、共生・個性・安定"を偉大なる言葉とする清潔な社会"だ。
『「いつもながらかわいいね」とつぶやいて、所長がぽんぽん尻を叩くと、レーニナは…』
なんだこれ。
早速セクハラ間違いなしの所長の行為。
他にも、条件反射保育という名の幼児虐待。
睡眠学習という名の刷り込み行為。
本書のタイトルもチラチラと頭をかすめ、違和感と不快感が渦巻いた。
でも、登場人物たちが口にするように、このすばらしい新世界では『みんながみんなのもの』。
つまりは『人』も。
だから先ほど所長にお尻を叩かれたレーニナも、みんなの人気者であり、今日はヘンリー、でも近々バーナードとも予定している。
男たちも「レーニナは最高だよ」なんて会話を共有している。
いかにも美しい社会が実現したかのように登場人物たちからこれらが語られる為、読んでいて違和感と不快感が。
でも登場人物たちもまた、こうした保育と教育を受けて育ってきた者なのだから仕方がない。
第3章の、別々の場で交わされる1つの台詞だけでパッパッと場面が入れ違い、互い違いに描かれるページは、見せ方が上手い!と思った。
文章でありながら、映画を見ているようだった。
ほぼト書きナシの登場人物たちの会話だけで、あちらの二人、こちらの二人、一方こちらは…と場面転換してゆくが、
人間たちが交わす会話の中に、次第に「繕うより捨てよう。繕うより捨てよう」等と刷り込みのスローガンが混じってくる。
それはまるでサブリミナル効果を狙うもののようで、
私達読者が洗脳を目的とした音声付きの映像を見せられている(読まされている)かのようだった。
勿論、その数ページで読み手である私が「繕うより捨てよう」の教えに取り込まれることは一切ない。
けれど、あちこちの場面で、それらの教えを刷り込まれた登場人物たちが普通(あくまでも彼らにとっての普通)の日常会話として数々のスローガンを口にするものだから、この"すばらしい新世界"の異様さをじわじわ感じることとなる。
助かった!等という意味合いでThank God !というフレーズがあるが、ここではThank Ford!と言われる。
"偉大なる"どころではなく、ヘンリー・フォードは神なのだ。
何がどうしてこうなったんだろう。
ベルトコンベアで大量生産を可能にしたからということだろうか。
この新世界では人もライン生産(瓶詰め)で、望み通りの型にはまった人間を生み出せる。
その手法を作り出したフォード様!ということか?
フォーディズムという言葉も実在するくらいだし。
でも続く「うわ!」や「やれやれ」にまで「フォード」とルビがふられているのを目にしていくうち、
作者が皮肉を込めたコメディタッチに描いているのかなと感じられて面白かった。
シュールだわ。。。
バーナードの"連帯のおつとめの日"のシーン。
新世界では合法的なソーマというドラッグを、円陣を組んだ皆で用いて超越体験(というか最早乱交)をする。
これは集団ヒステリーのようなものだよね。
その様子は、まるでバリ島のケチャのようだった。
「暴力を排除し、共生、個性、安定をスローガンとする清潔で文明的な世界」
「あらゆる問題は消え、幸福が実現されたこの美しい世界」
ここに描かれているのは、表面や規格ばかり平らにならされた、差別社会だ。
でも人々はそれらに違和感を抱かない。
何故なら、乳幼児の段階からあらゆる手段を用いて意識を植え付けられたから。
決められた階級。
その階級で良かったと思い、決められた職務をこなし、空いている時間は暇を持て余し、遊び、複数の異性と交わり、辛い時・不快な時はソーマを使って目を背ける。
「きみと二人きりで歩こうよ」というバーナードの誘いに対し、「夜はずっと二人きりじゃない」とレーニナは答える。
「二人きりで話がしたいんだよ」「話って?なんの話?」
物語中、孤独なバーナードだけが違和感に似た疎外感を抱いており、すばらしい新世界からの出口を探そうと踠いているように感じる。
バーナード本人は、「もっと自分だけの自分」になりたいと感じる自分自身を恐れている。
だってバーナードも同じように、乳幼児の段階から枠組みされた一人だから。
それにバーナードが正しき人なわけでもない。
彼もまた、皮肉的であったり、普段の抑圧された孤独のせいからか、自慢気になったり見栄っ張りになったりもする。
それでもこの物語の中では一番人間的だ。
"前半は"そう思って読み進めていた。
「じゃあ、時間はなんのためにあるの?」とは、間違った正解を信じてやまないレーニナの台詞だ。
何も知らず、己が正しいと信じている者は、私も含めてこうなんだろうな。。。
『過去(だった)も未来(つもり)も気鬱のもと。ソーマ1グラムで現在(いま)だけに』無駄に上手いスローガンも恐ろしい。
考えることの放棄だ。
(と言うか、一歩引いてながめれば滑稽なのだけど。)
前半でたっぷりと、それこそ洗脳のようにこの世界を叩き込まれて、
後半は怒涛の展開となる。
この世界の様子を説明するのに作者がたっぷりページを費やしたのは、後半の展開が意味することを読者へ強く伝えるためだった。
メキシコの保護区。
これってメキシコ先住民に対する差別を描いてるよね。
バーナードとレーニナは、ニューメキシコ州の保護区で野人のジョンとリンダ親子と出会う。
けれど彼らは純粋な野人ではなかった。
そのことで、保護区の中でも差別があった。
どのコミュニティにおいても生まれてしまう差別感情って、なんなのだろう。。。
そんなジョン達を条件付けセンターへ連れてきたものだから………。
あぁ、人ってそういうものだよね…と思いながらも、バーナードの革新的な未来を願っていたんだけどな…ガッカリだ。
そしてレーニナもまた…というか、レーニナはレーニナ故にレーニナらしい感情を抱く。
うーん。。。
人ってどこまでも愚かだな。
そして本当は皆、孤独だ。
あ、そうか。
ジョンが四六時中シェイクスピアの台詞を引用するのは、
「人は愚かな生き物だ」という事を、作者のオルダス・ハスクリーがジョンを使って投げ掛けているのかもしれない。
無知なものは、まず自分が無知であるということを知らなくてはならない。
無知の知だ。
こうなる未来もあるのでは?というより、ここで描こうとされているものは、いつの時代の人間にも当てはまる事だった。
つまりは、人はそういう意味では成長していないって事だよね。
いつの世も、何処であっても、人は結局同じことを繰り返す。
愚か者なのは私達だ。
『僕は不幸になる権利を要求する』
読みやすかった。
ディストピア小説というと直ぐ思い浮かべるような息苦しい管理と暴力が、ここには無かった。
表向きは皆、自由であり、笑顔であり、健全な共生関係にある。
寧ろ奔放でさえある。
それでいて、強烈なメッセージ性があって読み応えのある作品だった。
【覚書】
●ヘルムホルツ
感情技術者であって表向きは社交家。
バーナードの友人の名前だが、もしかして"ヘルムホルツ共鳴"(ボトル等の口に息を吹きかけることで発生する共鳴音)のことだろうか?
相手に共鳴(共感)することで、社交的にやっていけるだろうし。
●ムスタファ・モンド
哲学的な指導者。
検索すると、男性名として使われるが、ムスタファには「選ばれし者」という意味があるとの事。
モンドは、肯定的に強調する時の形容詞らしい。
●フォード紀元
フォードとはフォード・モーターの事。
少し読み進めれば「われらがフォードさまの初代T型フォードが…」という台詞が現れる事でそうと分かる。
フォード・モーターがT型フォードを発売したのが1908年。
物語はフォード紀元632年とあるので、
1908+632=西暦2540年 という時代設定だ。
訳者あとがきを読んで知ったが、T型フォードはflivverの愛称で親しまれたけれど、その後すぐに「失敗」「安物」を意味するスラングになったらしい。
(この小説、良くできてる!)
●フォードさま
「…心理学的な問題を語る場合にかぎり、フォードさまはなぜかフロイトと自称されたので…」
●阿魏(アサフエテイダ)
香辛料としてのアサフェティダは、複数の揮発性硫黄化合物を含みニンニクやドリアンに似た強烈な臭いがあるが、油で加熱すると強烈な臭いは消えて、タマネギのような風味となる
●8月25日にEテレのスイッチインタビュー特別編『坂本龍一✕福岡伸一(生物学者)』
あくまでも自分にとってだが、「すばらしい新世界」を読み解く扉へも続いているような気がして、以下、お二人の会話を思わずメモる。
★マウスの遺伝子から1つの部品を取り除いても、何も起こらずマウスは元気に走り回っていた。
1つ取り除いたとしても、他の遺伝子が補いあって穴を埋めるからだ。
★江戸時代の哲学者、三浦梅園
"枯れ木に花咲くに驚くより、生木に花咲くに驚け"
(枯れた木に花が咲いたら、誰もが驚くけれど、生きている木に花が咲くことこそ、驚くべきことではないか)
★生命現象は作ることよりも常に壊すことを続けている
壊さなければ、新しく生まれない
壊すことの重要性と積極的な意味を考える
★動的平衡 分解と合成
「合成より分解を少し多めにしなければ、動きが止まってしまう」。
しかしそれは、「=円周が少しずつ短くなること」であり、「円周が遂に無くなってしまうこと」がつまり=「人間の寿命」
★楽譜が音楽だと思いがちだし、
遺伝子が生命だと思いがちだ。
しかし、それを誰かが奏でないと音楽にはならないし、形作られたものを生命だと認識する者が存在しなければ生命にはなり得ない。
★空気の振動=音(風が木々を揺らす等)は、人がワザワザ作らなくても奏でられており、
それを誰かが聞けば音楽と成り得る
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傍らに珈琲を。さん
こんばんは!読了おつかれさまです!
画一化され、条件化され、コントロールできない感情はよくないものだと統制する社会…。...傍らに珈琲を。さん
こんばんは!読了おつかれさまです!
画一化され、条件化され、コントロールできない感情はよくないものだと統制する社会…。
同じ作家さんでも、違う作品間でのつながりがわかると、おぉっと思うものですが、SFの世界では違う作家さんのオマージュが多いですよね!
村田沙耶香さんの作品で、世界はグラデーションのようにできている、といったニュアンスのことが書かれているものがあり、なるほどなぁと思ったのですよ。隣り合う色は似ているのに、離れたところの色は全然違う。白もいつか黒になってしまう。気づかないうちに、全然思いもよらない社会になってしまっているかもしれない。
みんな幸せ。誰も不幸じゃない(というか気づかない)。何がいけないの?
うーん、そう言われてすぐに反論もできない。こういうディストピア小説を読むとなんだかゾッとしてしまうんですよね。
でもこの本自体は、表現がけっこう面白みがあるところも多かった気がします。フォード元年とか、サンクフォードとか、アメリカぽい皮肉がきいてますよね!
私はハーモニーを再読したくなりました^_^2023/09/17 -
マリモさん、コメント有難う御座います~
最初から最後まで楽しく読めて、お勧めして頂けたこと感謝しています!
確かに、SFは違う作家さんへ...マリモさん、コメント有難う御座います~
最初から最後まで楽しく読めて、お勧めして頂けたこと感謝しています!
確かに、SFは違う作家さんへのオマージュ多いですね。
今、「華氏451度」「ソラリス」も読んでみたいと思えてきて、
以前挫折した「1984年」もチャレンジしたいくらい調子乗っちゃってます 笑笑
"世界はグラデーションのよう"って、私はマリモさんのコメントを読んで"なるほどなぁ"でした。
"白もいつか黒になってしまう"、ホントなるほどなぁでした。
フォードについては初め意味がよく分からなかったのですが、調べながら読み進めるうち、分かってきてニヤリとしました。
ところで、とあるメーカーさんのブックカバーを愛用しているのですが、ハヤカワ文庫ってこれまであまり手をつけてこなかったので、今回、大きさが独特なことを初めて意識しました。(←「ハーモニー」や「虐殺器官」を持ってるのに)
ハヤカワサイズも買ってしまおうかしらと悩み中です。
いや~楽しい!
新しいジャンルを楽しいと思えることが楽しい!
有難う御座いました♪2023/09/18
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ディストピア小説と言えば?でまず出てくる、オーウェルの『1984年』と並ぶ名著。やっとこさ読みました。
500年ほど先のロンドンで、物語は始まります。人間は5つの社会階級に分けられ、受精卵の段階から区別され、現状に疑問を抱かないよう条件付けされ…、一義的には幸せなはずの世界を舞台にストーリーが展開していきます。
まず何よりも驚くのは、解説でも他のレビューでも言い尽くされていますが、本著が1930年代の刊行で、にもかかわらず全く色褪せない未来描写になっていること。
強いて言うなら、既にこの2020年代において、この世界よりもっと機械化が進んでいるし、労働者の交通手段がモノレールってのは「あぁ、昔の未来だなぁ」と思いますが、労働者の存在は舞台装置としての必要性に基づくものなので、そう思うとあまりツッコミどころはありません。
ストーリー展開については、イギリスっぽいなぁというのがまず思ったことです(笑)
皮肉っぽいと言うか、人間のダメな側面が出ていると言うか。(ときに悪趣味な)ブラックユーモアに溢れた細かな設定、演出は「こう来たか!」と苦笑させられるものばかり(刊行後100年近く経っている作品だと思うと、苦笑できることすら凄いですが)
著者としては、1930年頃の工業化や大量生産という世の中の流れに対して、このまま進んでいくとこうなるぞ、という警鐘を鳴らしたかったのでしょうか。
さて、それから90年ほど立った今。
自分は自分として考えていられているだろうか、安易な結論や見せかけの幸せに飛び付いていないだろうか、手間を惜しまず親密で丁寧な人間関係を築けているだろうか。
自らディストピアに飛び込むことがないよう、本を読み続けて、考え続けたいものです。 -
・読み終わって感じたこと
精神衛生も公衆衛生も完璧な滅菌された社会が舞台となっている本作ですが、自分はこれは遠くない未来なのかもしれないと感じました。
この社会は孤独や人間関係のストレスになるような親子や夫婦といったものがフリーセックスの常識化や人を生み出す機械などで無縁であり、それ以外のストレスも合法薬物によって解決されてしまっている。これらは性の自由化、デザインベイビーなどの科学技術の進歩、誰とでも繋がれると思えるネット、ドーパミン経済…といった現代に存在する要素と関わっているように思えます。
本作での社会を生きる人々は無垢で悪意のない子どものようであり、そして何よりも安定した幸せを享受しています。不安定で暴走列車のような社会に生きる自分にとってはとても魅力的でした。その一方で、悲しみなどの情動が抑制され心をかき乱すような激しい衝撃がないのを味気なく感じました。ゲームやスマホなどの安易にドーパミンが出やすいものに逃げずに、人間関係の只中に飛び込むほうが良いのか…そんなことを考えずにはいられませんでした。
・面白いと思ったシーン
P298の暴動鎮圧スピーチの内容がまるで子どもに優しく怒るような声かけで少しおかしかったです。バーナードが言うような感情が子どもな文明人の様相がわかりやすくて良かったです。 -
人間の幸せとはいったい何なのか?
科学が進歩したことで、人を出生から発育や思考・感情を計画的にコントロールし、役割に適した計画社会である「階級格差」社会を作り上げた。そこでは死の概念も宗教も排除して完全に調和された集団での共同体が、「新世界」を形成していた。
最上階層のバーナードはコントロールされた社会に疑問を持ったことで「人と違う」といわれることに。
一方「蛮人居留地」に住むジョンは、新世界の住人であった母の影響から「仲間ではない」と言われ、孤独を感じる。
そんな中、「蛮人居留地」へ旅行したバーナードはジョンとその母を新世界へ連れて帰ることに……。
作者はオルダス・ハクスリー。
実に80年前(第二次大戦前)に書かれた、デストピア小説。
(ジョージ・オーウェル『1984』は戦後の作品)
大量生産、大量消費、モラルハザードの社会を痛烈に批判した小説。
前半は「すばらしい新世界」の在り様、中盤はシェークスピアをこよなく愛する「野人」の新世界での生活。
そして圧巻は、終盤の世界統制官ムスタファ・モンドと野人ジョンの討論。
「幸福か真理かどちらかを選択しなければならなかった」
「哲学とは、無理やり理屈をつけた世の中の仕組みを、さらに理屈で解明しようとしている。実に不要だ」
統制官が自由と幸福の矛盾を突く。
「それでも、真理を手に入れるためには、不幸を被ることも厭わない」
そういって反論して、出て行った野人ジョンの末路は……。
人生とは、信仰とは、幸福とは……SFというよりも社会心理学を説いた本。 -
世界文学史の多くに載っているこの『すばらしい新世界』、ずっと昔から書名は知っていたものの、高校生当時本書はどこでも手に入らず、図書館でも見つけられなかった。
とうとう文庫化され、たくさんの日本人に接しやすい状況になったわけだが、読んでみて愕然とするほど、面白かった。1932年の小説で、当然古臭いのだろうと予想していたのに、古びた感じはまったくなく、つい最近書かれたと言われたら騙されてしまいそうなほど清新である。現在の日本の読者がこれを読んでも「ふつうに面白い」ことは間違いない。
全ての出産は体外受精に制限され、初めから人間は5つの階級に分類されており、生まれてすぐに人為的に成長を抑制されるなどし、睡眠学習によって特定の倫理を洗脳的に植えつけられる。
いわゆる管理社会の極限で、SF的でもあるのだが、細部が非常によく書けている。
このディストピアはきっと全体主義の思想に基づいて組み立てられているのだろうが、あからさまにソ連をモデルに書いたジョージ・オーウェルとは違って、こちらはかなり諧謔に満ちている。人間を条件反射的にしつけようとするスタイルは、当時台頭してきていたのだろう、パブロフや生理学的心理学の姿勢を参考にして書かれているようだ。
面白いことにこの管理社会による人間の「しつけ」は相当うまく行っていて、みんなが「幸せ」であるようなのだ。
ちょっと前衛的な書き方もあったりして、このオルダス・ハクスリー、生半可な小説かじゃないぞと思われるのだが、ほかの著書は全く知らない。
とてもよくできた小説だが、最後の方の顛末は、個人的にはあまり好きになれなかった。ジョンがあまりにもシェイクスピアばかり引用するのがうざいし、ラスト部分のプロットも、こうでない方がいいような気がした。
しかしそこはたまたま個人的にそう感じただけかもしれない。全体としては、実によく書けた、すばらしい小説です。