がん‐4000年の歴史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF)

制作 : Siddhartha Mukherjee 
  • 早川書房
4.26
  • (32)
  • (28)
  • (8)
  • (0)
  • (2)
本棚登録 : 410
感想 : 27
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (496ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150504687

作品紹介・あらすじ

古代エジプト人を悩まし、現在も年間700万の命を奪う「がん」。現役医師が患者や医学者らの苦闘を鮮烈に綴る名著。解説/仲野徹

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 本書に書かれた人類とがんの壮絶な闘いの記録を読んでいると、がんで死ぬということは、ある意味天寿を全うする一つの形であって、がんの治療とは、元々人間が授かった寿命を超越しようとすることとなのではないか、とも思えてきた。

    しかし、もちろん、簡単な道のりではないにせよ、きっと人類は成し遂げるのだろう。

    ♪More Than Enough/New Found Glory(2023)

  • 上巻で一旦満腹になり、読了に少し時間が空いてしまったが、下巻も読み応えのある良書だった。

    上巻は、とにかくがんを切って切りまくる時代。そして、がんとは何者かがわからないままに行われてきた化学療法の時代だった。

    下巻はまず、がんの予防が取り上げられる。それも数字的に明らかに効果があった禁煙である。現在、街からは喫煙所すら姿を消しつつある。こうした社会的な流れはどのようにして起きたか、その端緒を知ることができる。
    当然ながら上巻に引き続き、化学療法も取り上げられる。自家骨髄移植と超大量化学療法のプロトコールが患者にもたらすものは何なのか。片時も目を離すことができない。

    そして、時代は、がんの遺伝子解析へ向かう。いわば、がんの正体を追い詰める作業である。それまで手当たり次第に行われてきたがん細胞への細胞毒の攻撃は、分子標的薬によるターゲットを絞った攻撃へと様変わりした。がんは多種多様であり、患者によって異なる顔を見せる。しかし、分子生物学に基づく医療は、将来的に、個々人のがんへのテーラーメイド医療へと結実すると予測される。

    本書は、がん医療への希望を感じさせる。すり足のような遅々たる歩みながら、確実にがんの生存率は上がっている。数カ月、数年の延命だとしても、それは大きな成果だろう。そこには、医療者の弛まない努力がある。だが何よりも、泣き、叫びながら闘い続けてきた有名無名の患者たちの肩に我々は立っている。いずれ我々の肩にも、後進たちが立つことだろう。

    本書を著者のシッダールタ・ムカジーは「がんの伝記」としている。伝記はその者の死をもって幕を下ろす。その意味では、本書はまだ終わりを見ていないのである。では、がんは、いつか死を迎えるのだろうかとムカジーは自問する。彼は明言はしていないが、そこまで楽観的な話ではなさそうだ。本書刊行から約10年。がんの物語はまだ続いている。次に伝記が書かれるとき、さらに希望に満ちたものとなっていることを願ってやまない。

  • シッダールタ・ムカジー「がん-4000年の歴史-(下)」読了。上巻も合わせると読了までずいぶん時間がかかったが、がんに抗ってきた人類の長い歴史を学ぶ事ができた。特にがん細胞が変異を繰り返すウィルスに似てその対策がイタチごっこである事。でも科学の発展が密接に関連し克服される事を信じたい。

  • 下巻は主に1920年代から2000年代まで
    がん の理解がどれくらい進み、
    治療法が(迷走しているように
    見えながらも)どのあたりに到着しているか、
    また並行して社会が、いかにタバコとがんの
    関係を理解できないでいるか、社会的取組みが
    決着できないでいるか、
    そんなこんなを俯瞰してくれた。
    長い長い戦いの記録です。

    ため息と悲観で読み終えるか、
    それとも、楽観とともに最終ページを閉じるか
    は、本書の理解度によるのではなく、
    読んだ人の経験と世界観によると思う。

    私の場合は、ため息と悲観と楽観が
    ごちゃ混ぜにかき回されている。

    がんに対する武器を
    手に入れてくれた医学の累積に
    感謝します。
    同時に、がんにやられたたくさんのたくさんの
    患者と医療関係者のことを
    少し想像しようとして、気が変になりそうです。
    50年、100年単位でとらえれば、確実に
    進化したがん療法ですが、ひとりひとりの
    人生は1回限りで100年未満なんだもの。
    やるせない。

  • 金大生のための読書案内で展示していた図書です。
    ▼先生の推薦文はこちら
    https://library.kanazawa-u.ac.jp/?page_id=24002

    ▼金沢大学附属図書館の所蔵情報
    http://www1.lib.kanazawa-u.ac.jp/recordID/catalog.bib/BB21737260

  • シッダールタムカジー 「がん 4千年の歴史」


    発がん因子から がんが誘発される過程が明らかになる巻。多種多様な がんの発生原因が 遺伝子の突然変異であることが判明。発がん因子により、細胞内の原がん遺伝子が活性化するか、がん抑制遺伝子が不活性化し、がんを誘導する仕組みは わかりやすい。


    人類が がんを完全克服したわけではないが、がんについての理解と治療法は劇的に変化し、化学療法、外科手術、放射線治療、喫煙抑制活動、スクリーニング検査などにより、がんの死亡率を引き下げていることがわかる。がんの排除より、発がんの進行を止めることを念頭に置いた方が、患者の生存期間を伸ばすように感じた


    日常生活で回避可能な 発がん因子リストも提示されており、予防こそ最善の治療であることは 大前提であるように思う。発がん因子とは、放射線、紫外線、煙草、お酒、肥満、肉食、ヒ素、カドミウム、ニッケル、鉛、ベンゼン、塩化ビニル、アスベスト


  • 上巻に引き続き、がんの歴史をドラマティックに語っている。
    上巻は主に、がんというものを認識し、がんとの闘い方を確立し、それが敷衍されていくまでの歴史であったが、下巻では「がんの原因は何か?」という疑問から始まり、発がん性物質を特定、さらにそれがどのように身体に影響を及ぼすことでがんを生み出すのかというメカニズムについて語られ、がんと闘う大きな手立ての一つが予防であることを述べる。

    発がん性物質の代表例がたばこであるのだが、がんの歴史においてもやはりたばこがもたらす影響は大きい。戦争真っただ中であった当時においてはたばこが娯楽の一つとして確立されており、民衆としても生活の中の大きなものとなっていた。そんな中、たばこが発がん性を持つという研究結果はたばこビジネス的にも、民衆の心理的にも非常に受け入れがたいもので、なかなかその危険性を周知することができないでいたということがあったようだが、たばこ=発がん性物質という認識が根付いた今においては中々に衝撃的な事実だと感じた。

    現在においてがん治療は依然として100%のものはないものの、その重要性は周知されていると当然考えている。しかしながら、がんが発見された当時は、そもそもがんという括りすらなく、そのメカニズムも不明で、手の施しようがないようなものであり、その存在は陰に隠れていたものと知り、しみじみと驚くばかりであった。

    これからの時代は人生100年といわれるステージに突入し、寿命が延びればその分遺伝子異常のスイッチが入る可能性が高まり、すなわちがん罹患の可能性が高まるわけであるが、そんな時代においてはがんを予防するよう心掛けることが何よりも重要なのだと思った。
    具体的ながん予防については、予防に特化したより詳しい文献をあたってみようと思う。

  • 医学部分館2階書架:QZ201/MUK/2:https://opac.lib.kagawa-u.ac.jp/opac/search?barcode=3410163254

  • 引き続き、オーディブルは、シッダールタ・ムカジー『がん 4000年の歴史 下巻』を聞き始める。

    発がん物質の存在。もし外的因子ががんの原因なら、がんは予防可能な疾患ということになる。喫煙率の増加と肺がんの増加。相関関係は明らかだが、因果関係を証明するのは容易ではなかった。たばこの急速な普及は感染症のそれに似ている。

    「たばこのそのウイルスのような急速な勢いこそが、そこにひそむ医学的危険性を覆い隠した。統計学的な相互関係に関するわれわれの直感は、人間の目と同様、辺縁においてもっとも鋭敏に働く。一つのまれな出来事がもう一つのまれな出来事と重なった場合、両者の関連性はいっきにわれわれの注意を惹く。ポットと陰嚢がんと煙突掃除夫の関連性に気づいたのも、まれな疾患とまれな職業の並列が、あたかも月蝕のように――二つの珍しい出来事の重なり合いとして――注意を惹いたからだ。
     しかし、たばこの消費が国民的中毒といえるまでに急増すると、たばことがんの関連を見極めるのはだんだんむずかしくなってきた。二〇世紀諸島には、男性の五人に四人――ある地域では一〇人に九人――が喫煙者だった(女性もほどなくそれに続く)。ある病気の危険因子がそれほどまでに広く普及すると、その危険因子は逆に、背景の雑音のなかに消えはじめる。オックスフォード大学の疫学者リチャード・ピートーもこう言っている。「一九四〇年代初めに、たばことがんとの関係を尋ねるのは、椅子に座るという行為とがんとの関係を尋ねるのと大差なくなっていた」男性がほぼ全員たばこを吸っているのに対し、がんになるのがそのほんの一部にすぎなかったとしたら、両者のあいだの統計学的関連性をどうやって導き出せばいいのだろう?」

    化石によって間接的に証明されたにすぎないダーウィンの進化論を、いままさに起きている変化(後ろ向きに過去にさかのぼるのではなく、前向きな変化)として証明する手立てはないか。

    「生物個体群が世代を経るあいだに遺伝的変異を獲得していることを証明するための唯一の正式な方法は、現実世界でリアルタイムに――前向きに――その変化をとらえるというやり方だ。フォード(遺伝学者エドモンド・フォード)はしだいに、そんな「前向き研究」を考案してダーウィンの歯車が実際に動いているところを観察したいという思いに取り憑かれていった。彼は数人の弟子を説得し、オックスフォード均衡の湿地で蛾を採取させた。弟子たちは沼地を歩き、蛾をつかまえるたびにラッカーペンで印をつけてからふたたび沼地に放した。来る年も来る年も、フォードの弟子はゴム長靴と虫採り網を持って沼地に戻り、以前自分たちが印をつけた蛾や印のついていないそれらの蛾の子孫をつかまえては詳しく調べた――事実上、野生の蛾の「個体数調査」をしているようなものだった。羽の模様、大きさ、形、色といったわずかな変化も見逃されることなく、最新の注意を払って記録された。一〇年近くにわたってそうした変化を記録するなかで、フォードはやがて、進化をとらえはじめる。蛾の毛の色のわずかな変化(つまり遺伝子の変化)や個体群の構成の大幅な変化、それに、蛾を捕食する鳥による自然淘汰の痕跡を、彼は詳細に記録した。それは、湿地でとらえられた大宇宙だった。」

    人間のコホート(集団)を対象に同じような疫学調査をしたらどうだろう。

    「大勢のヒトの集団になんらかの空想上のラッカーペンでフォード式に印をつけ、何十年も追跡調査したらどうだろう。その集団には喫煙者と非喫煙者とが自然に混ざり合っていて、もし喫煙がほんとうにヒトを肺がんにかかりやすくさせるなら(明るい羽の蛾が捕食動物につかまりやすいように)、喫煙者のほうが高い確率でがんを発症しはじめるはずだった。長期間にわたってコホートを追いかけることによって――ヒトの病理学の湿地をじっと覗き込むことによって――疫学者は、喫煙者と非喫煙者とで肺がんにかかるリスクにどれくらいの差があるか正確に計算できるはずだ。
     しかし、そのような大規模なコホートをどうしたら見つけられるだろう? ここでもふたたび、偶然のめぐり合わせがあった。イギリスの医療の国営化に伴って、国内の医師全員が行政機関に登録されていたのだ。その総数は六万人以上にのぼった。登記官には、しばしば死因に関する詳細なレポート付きで死亡の報告がはいった。その結果、ドールの共同研究者で弟子のリチャード・ピートーのことばを借りれば、コホート研究のための「思いがけない研究者」ができあがった。」
    「一九五一年一〇月から一九五四年三月までの二九カ月間に、ドールとヒルの最初のコホート内で七八九人の死亡が報告された。そのうちに三六人が肺がんで亡くなっていた。肺がんによる死亡を喫煙者と非喫煙者とで比較すると、喫煙との関連性は実質上、目に飛び込んでくるほど明白だった。三六人全員が喫煙者だったのだ。」

    たばこ産業の反撃が始まる。「率直な声明」と題する広告は率直とはほど遠いもので、消費者の目をごまかすためのものだった。

    「最近発表されたマウスを対象にした研究結果をきっかけに、喫煙とヒトの肺がんとのあいだになんらかのかんけいがあるのではないかと主張する説に世間の注目が集まっている」だが実のところ、この文章は、これ以上ないというくらい真実とかけ離れていた。たばこ産業にとってもっとも有害な「最近発表された研究結果(「世間の注目が集まっている」研究結果)とは、ドール/ヒルとヴィンダー/グラハムの後ろ向き研究であり、どちらもマウスではなく、ヒトを対象にした研究だった。その文章は、科学を曖昧かつ不可解なものに見せることによって、科学研究の結果までをも不可解に見せようという意図のもとで書かれたものだった。マウスとヒトの種としての距離が、研究結果に対する感情的な距離を生むはずだ、と考えたのだ。結局のところ、誰がマウスのがんなど気にかける?」
    「しかし、事実を混乱させるというこのやり方は、防御の第一手にすぎなかった。より巧妙だったのは、科学者自身の自信のなさにつけ込む、次のような文章だった。「喫煙が肺がんと関連していると主張する統計結果は、現代生活のほかの多くの側面にも同様にあてはめることができる。事実、その統計結果の妥当性そのものに対して、大勢の科学者が異議を唱えている」科学者のあいだの実際の議論について半分明らかにし、半分隠すことによって、その広告は複雑な仮面舞踏を披露したのだ。実際のところ何について「大勢の科学者が異議を唱えている」というのか(さらには、喫煙以外のどんな「現代生活」の側面と肺がんとの関連性が主張されているというのか)。それについては完全に読者の想像に委ねられていた。
     事実の混乱と自信のなさの反映。かの有名な、煙と鏡の組み合わせ。通常のPRキャンペーンならそれだけで充分だったはずだ。が、巧妙さという点ではまさに無敵の、最後の一手が残っていた。たばこ会社は、たばことがんの関係を調べる研究を科学者がそれ以上おこなわないように仕向けるのではなく、さらなる研究を促したのだ。「われわれは健康への喫煙の影響を調べるあらゆる研究に対して、これまでおこなわれてきた個々の企業による寄付に加えて、さらなる援助と支援を約束する……」ここでほのめかされているのは、さらなる研究が必要だということは、この問題はまだ疑問のなかに埋もれている――すなわち未解決だ――ということだった。国民も、研究者も、このまま中毒に浸らせておけばいい、ということだった。」

    「禁酒法時代にアルコールの取り締まりに見事に失敗して以来、連邦議会はどの連邦機関からも産業を規制する能力を著しく奪っており、産業を直接取り締まる能力をもつ機関はほぼ皆無に等しかった(その最大の例外が食品医薬品局(FDA)で、薬品はFDAによって厳しく規制されていたが、紙巻たばこは〝薬品〟の定義からかろうじて逃れていた)。こうして、たとえ公衆衛生局長官の報告書がたばこ産業を取り締まるべき理由をどれほど完璧に提示したところで、その目的を達成するためにワシントンがすべきことはほとんどなかった――もっと重要なのは、できること自体、ほとんどなかったという点だ。
     たばこ問題は、時代に取り残された風変わりな政府機関、連邦取引委員会(FTC)の肩にのしかかることになった。FTCはもともとさまざまな製品の広告や効能書きを規制するためにつくられた機関だった。」
    「一九五〇年代半ばまでには、喫煙と肺がんの関係がたばこメーカーを充分に警戒させており、多くのメーカーが、発がん物質を取り除き、喫煙を「安全」にするという謳い文句で新しいフィルターを宣伝しはじめていた。一九五七年、化学の教師から下院議員になったミネソタ州出身のジョン・ブラトニックは、FTCははその謳い文句の真偽を調査していないと非難した。」

    「一九六四年一月に、FTCははブラトニックの主張に従うと発表し、公衆衛生局長感の報告書に明記されたように、たばことがんの関係、すなわち因果関係が明らかになった今、たばこメーカーは製品広告のなかでその危険性を認めるべきだと主張した。消費者にリスクを警告するもっとも効果的な方法は、製品そのものにメッセージを印刷することだった。FTCは、たばこのパッケージに次のような文――「注意。喫煙は健康に害を及ぼします。喫煙はがんやその他の疾患による死の原因となる可能性があります」――を表示し、さらにこれと同じ警告文をあらゆる活字広告にも表示するよう提案した。」

    「たばこメーカーは一見綿暗いような新たな戦略をつくりあげた。FTCによる規制を受ける代わりに、議会による取り締まりを自主的に要請したのだ。
     その作戦の根底には計算しつくされた理論があった。議会が本質的に、たばこメーカーと利害をともにしているというのは周知の事実だった。たばこは南部経済の血液であり、たばこ業界は長年にわたって政治家に賄賂を使い、キャンペーンを援助してきた。その影響力は絶大であり、議会が今さらたばこ業界の不利益になるような行動を取るとは考えられなかった。」
    「実際、それはうまくいった。連邦議会に出されたFTCの提案は、公聴会から公聴会、委員会から小委員会へと移動するにつれどんどん希釈されていき、最終的には、かつての法案の、神経を切断されたか細い影のようになっていた。〈一九六五年連邦紙巻たばこ表示広告法(FCLAA)〉と名づけられたその法案は、FTCの提案した警告文を次のように変更していた。「注意。喫煙は健康に害をおよぼす可能性があります」(中略)FCLAAには州法も含まれると定められており、その結果、アメリカのどの州のたばこパッケージにもこれ以上インパクトのある警告文は表示されないことになった。」「(結局のところそれは)民間産業を政府の規制から守ろうとする臆面なしの行為だった。政治家は国民の健康という広い利益を守ることよりもずっと熱心に、たばこ産業のせまい利益を守ろうとしたのだ。」

    反タバコ勢力による巻き返し。

    「一九四九年、連邦議会は「公正原則」なるものを交付した。それによれば、論争中の問題についての対立する意見に対し、公共放送は「公正な」放送時間を割りあてなければならないと定められていた(放送メディアは公共資源――電波――を使っているのだから、論争中の問題についての情報をかたよりなく提供することで、公的な役目を果たさなければならないと議会は論じていた)、その原則自体は知名度もなく、実際に使われたこともほとんどなかったが、ベンザフはそれをたばこ広告に適用できないかと考えはじめた。連邦取引委員会(FTC)はたばこ産業の広告の不正直さを攻撃したが、それと同じ戦略を今度は、メディアへのたばこの一方的な露出を攻撃するのに使えないだろうか?」

    「くだんの広告は、ある特定のたばこの仕様を魅力的で楽しいものに見せかけることによって喫煙を促しており、当然ながらそこには、それ以外の目的はまったくない。そのようなコマーシャルを提供する放送局は、この非常に重要な公共の問題についての反対意見も同時に視聴者に届ける義務があるはずだ――喫煙は確かに楽しいが、喫煙者の健康に害をおよぼす可能性もあるという意見を」

    ベンザフはテレビ局を相手取って訴訟を起こし、勝訴した。たばこメーカー側は判決を不服として上告したが、最高裁はこれを棄却。反たばこ陣営も、大衆心理に訴える武器「恐怖」を使ってコマーシャルを展開した。

    「一九六八年、ベテラン俳優でかつて喫煙者だったウィリアム・タルマンが、げっそりとやせ衰えた姿でゴールデンタイムのコマーシャルに登場し、自らの末期の肺がんを告白した。鎮痛剤のためにろれつがまわらず、ことばは不明瞭だったものの、タルマンは人々に明確なメッセージを伝えた。「たばこを吸っているなら――やめるんだ。負け犬になるな」
     一九七〇年末、日々ネガティブな宣伝の猛攻にさらされたたばこメーカーは、自主的に放送メディアでのたばこ広告を中止した(それによって、反たばこコマーシャルの必要性を失わせた)。」

    オーディブルは、シッダールタ・ムカジー『がん 4000年の歴史 下巻』の続き。

    たばこによる健康被害者による訴訟が全米で始まる。たばこメーカーが当初は猛烈に反対し、握りつぶそうとしていたはずの「警告文」が逆に、メーカー有利な判決を招き寄せる。

    「喫煙のリスクに気づいていなかったと訴える原告に対し、たばこメーカーは、それを知らなかったとしたら、被害者は「耳が聴こえず、口もきけず、目が見えない」にちがいないと反論し、陪審は例外なく、たばこのパッケージに表示された警告文が消費者に充分な警告を与えていると認めて、メーカー側の味方をした。原告にとって、それまでの判例はまったく気の滅入るものだった。一九五四年から一九八四年の三〇年間に、たばこメーカーを相手に三〇〇以上のPL法に基づいた訴訟が提起されたが、そのうち実際に審理がおこなわれた例は一六例にすぎず、たばこ会社が敗訴した例もなければ、和解にいたった例もなかった。たばこ産業は完全勝利を宣言したのも同然だった。「原告の弁護士にしたって、前兆くらいは見えるはずだ」ある報告書には大得意でそう書かれている。「勝ち目はないという前兆くらい」
     だがエデルは前兆を見るのを拒んだ。彼は公然と、ローズ・シポロンは喫煙リスクを認識していたと認めた。ええもちろん、彼女はパッケージの警告表示を読んでいましたし、夫のアンソニー・死ポロンが苦労して切り取った数え切れないほどの雑誌の記事も読んでいました。それでも喫煙をコントロールできず、結局は、中毒を克服できませんでした。シポロンに非がなかったとは言いません。しかし重要なのは、ローズ・シポロンがどれほど喫煙リスクを認識していたかではなく、たばこメーカーがどれほど認識していたかであり、ローズのような消費者に、がんのリスクをどれほど公開してきたかという点なのです。
     その主張に、たばこ会社は虚を突かれた。たばこ会社が喫煙リスクをどれくらい認識していたか知る必要があると主張したことでエデルは、フィリップ・モリスとリゲットとロリラードの内部文書への、それまでに前例のないアクセス許可を裁判所に求められうようになったのだ。内部文書の調査を許可する強力な裁判所命令で武装したエデルは、叙事詩的邪悪さに貫かれた大河小説をついに掘り起こした。たばこメーカーの多くは、たばこの発がんリスクやニコチンの強力な中毒作用を認識していただけでなく、それを証明する社内研究の結果を隠蔽すべく積極的に努力していたのだ。文書に次ぐ文書が、リスクを隠そうとする産業内の半狂乱のもがきを明るみに出し、社員のなかにも道徳的葛藤を抱えた者がいたことを教えた。
     たばこ研究所の広報主任のフレッド・パンザーは、社長のホレス・コーネゲイに宛てた手紙のなかで、たばこ産業の三叉のマーケティング戦略についてこう説明している――「健康被害を実際に否定することなく、それに対する疑念だけを生み出す。大衆に喫煙を勧めることなく、大衆の喫煙の権利だけを擁護し、(さらに)客観的な科学研究だけが健康リスクについての疑問を解決する唯一の方法だと強調し、さらなる科学研究を推奨する」

    1994年にはミシシッピ州が、州が負担した喫煙関連疾患(とくに肺がん)の医療費を取り返そうとたばこ会社を相手取って訴訟を起こし、ほかの州がこれに続いた。「危機を招いたのはきみたちだ。金はきみたちが払え」。1997年、たばこ会社は全面的和解を提案し、98年には46州が最大手4社と基本和解合意(MSA)を結ぶ。

    「MSAこそ、ローズ・シポロンが長いあいだ待ち望んでいたたばこに対する法的勝利なのだろうか? ある意味、まったくちがうといえる。実際、連邦紙巻きたばこ表示広告法(FCLAA)の「警告表示」のときうと同じように、MSAは、たばこ産業にとっての避難場所をつくり出す可能性が高い。将来の訴訟からの相対的な保護を保証し、たばこ広告を規制し、署名した企業による価格の固定化を許可することによって、MSAは、は、署名した企業に事実上の独占権を与えているのだ。小さな独立メーカーには史上に参入する勇気もなければ競争する勇気もなく。その結果、大きなたばこ会社はいっそう巨大化していく。たばこメーカーから毎年流れ込む和解金は「従属州」をつくり出す。膨らむ一方の医療費の支払いをその和解金に依存する州だ。和解金を生み出しているのは実のところ、たばこを買うために命を犠牲にして多くの金を払っているニコチン中毒の喫煙者なのだ。
     より世界的な意味でいっても、MSAはたばこ産業の死を象徴してはいない。アメリカで包囲されたマルボロ・マンはただ、新たなマルボロ国を探し出すだけでよかった。国内の史上と利益がしだいに縮小し、裁判費用がかさむなか、たばこメーカーは新たな史上として発展途上国を標的にしはじめ、それに伴って、多くの国々で喫煙者が増加していった。禁煙は今では、インドと中国における主要な死因である。」

    「多国籍たばこ会社は病気と死を世界じゅうに広めるベクターとして働いている。たばこ産業がその富を利用して、喫煙促進に好都合な環境をつくり出すよう政治家に働きかけているためだ。すなわち、広告と販売促進の規制を最小限にさせたり、たばこを規制する効果的な公共政策(高いたばこ税、強い印象を与える写真などを用いたパッケージの警告表示、オフィスや公共の場の禁煙空間、反たばこメディア・キャンペーン、広告の禁止など)を阻止したりしているのだ。世界じゅうに病気を蔓延させるもう一つのベクターである蚊とはちがって、たばこ会社は、ある国で学んだ情報や戦略をすばやく別の国に伝搬させることができる」

    喫煙(タール)以外の発がん物質を見つけるにはどうすればいいのか。細菌学者ブルース・エイムズによる発がん物質の検査法の発見。寒天培地で増殖可能になるような突然変異を誘発する物質(変異原性物質)の一覧表をつくっていたエイムズは、ある重要な発見をする。

    「実験で変異原性物質と判定された物質は同時に、発がん物質でもある場合が多かったのだ。強力なヒトの発がん物質として知られている染料の誘導体は、何百個もの細菌コロニーを形成させた。ラットやマウスでがんを誘発することが知られているX線やベンゼンやニトロソグアニジン誘導体も同様だった。歴史上のあらゆる優れた実験の例に漏れず、エイムズの実験もまた、それまでは観察や測定が不可能だったものを、観察や測定が可能なものへと変えた。一九二〇年代にラジウムガールを殺した目に見えないX線も、今では、寒天培地上の復帰突然変異体のコロニーとして「見える」ようになった。」

    回避可能(=予防可能な)発がん物質は化学物質だけではない。ヒト肝炎ウイルス(B型肝炎ウイルスHBV)のように、宿主から宿主へと感染する能力を持った、生きた発がん因子もあれば、胃潰瘍を引き起こすヘリコバクター・ピロリのような細菌もあった。

    「しかし細菌が存在しているという事実だけでは、たとえその細菌と潰瘍との関連性が強く示唆されたとしても、それが胃炎の原因であるとの証明にはならなかった。コッホの原則の三番目の条件は、ある微生物がある病気の正真正銘の原因だと証明するには、分離した微生物を別の動物に感染させて同じ病気が発症するのを確かめねばならないと定めていた。マーシャルとウォレンはヘリコバクター・ピロリをブタに感染させ、内視鏡検査をおこなってみたが、ブタ――週に一度の内視鏡検査を進んで受けたりはしない三〇キロの巨体――はまったく潰瘍をつくらなかった。とはいえ、その同じ実験をヒトにおこなうのは倫理的に不可能だった。細菌が胃炎を起こしたり、被験者をがんにかかりやすくさせたりするのを証明するために、得体の知れない新たな細菌をヒトに感染させるような実験を、どうして正当化できよう?
     一九八四年七月、研究が行き詰まり、研究助成金の申請すら危うくなってくるなか、マーシャルは究極の実験をおこなう。「事件当日の朝、私は朝食を抜いた……二時間後、ニール・ノックスが、ヘリコバクターがびっしり生えた培養四日目の培養皿から細菌をこすり取り、アルカリペプトン水のなかに散らした。私は一〇時まで絶食し、それから、二〇〇ミリリットルのビーカーに四分の一ほどはいった茶色の懸濁液をニールに手渡された。私はそれをいっきに飲み干し、その日は一日絶食した。胃のあたりが数回ぐーっと鳴った。細菌のせいなのだろうか、それともただの空腹?」

    治療不能な浸潤がんになる前の前浸潤がん(やさらに前段階の前駆細胞)を見つけることができれば、がんの治癒率は大幅に向上する。子宮頸がん発見の時期を20年もさかのぼらせ、たいてい治る病気へと変えたパップスメア。

    「疫学者というものは、予防を二つの観点からとらえる。原因を攻撃することによって病気を予防する一次予防(肺がんを予防するための禁煙や、肝炎を予防するためのB型肝炎ワクチンなど)と、スクリーニング検査による二次予防だ。二次予防は、症状出現前の初期病変をスクリーニング検査で発見することによって病気を予防するもので、パップスメアはそんな二次予防の検査として開発された。顕微鏡によって子宮頸部の組織中に症状出現前の病変を発見できるなら、がんを「見る」別の方法でも、別の臓器の早期病変を発見できるのではないだろうか?」

    だが、スクリーニング検査の臨床試験ほどあてにならないものもないという。実際にがんを患っていないのに陽性とされる過剰診断(偽陽性)と実際にはがんを患っているのにもかかわらず陰性とされる過小診断(偽陰性)の問題があるからだ。

    「陽性と判定する基準を厳しくして過剰診断をできるだけ少なくしようとすると、今度は反対に、過小診断が増える。なぜなら、明白な陽性と明白な陰性とのあいだのグレーゾーンにいる患者が見落とされてしまうからだ」
    「われわれは、どのがん検査にも完璧な感度と特異度がそなわっていることを願うが、実際のところ、スクリーニング検査の技術は完璧ではなく、もっとも初歩的なハードルすら越えられないために――過剰診断と過小診断の確立が容認しがたいほど高いために――実際の検査としては使われないものが多い。」

    「スクリーニング検査が有効と判定されるまでの道は驚くほど長くて狭い。過剰診断と過小診断の落とし穴を避け、早期発見をその目標にしたいという視野の狭い衝動を回避し(早期発見して「生存期間が延びた」からといって、もとからそのがんを患っていた人と同じ時期に死亡したなら、その「早期発見」は有効だったとは言えない)、さらに、バイアスの危険な海峡を渡らなければならない。「生存率」は魅惑的なほどにシンプルだが、それを有効性の判断基準にしてはならない(「生存率」は早期発見によって見かけ上長く見えただけの可能性があるため、「死亡率」の改善を指標としなければならない)。さらに、臨床試験のさまざまな段階における無作為化を徹底しなければならない。これらすべての条件を満たす検査――過剰診断率および過小診断率が許容範囲内で、真に無作為化された臨床試験によって死亡率を下げると判明した検査――だけが、成功とみなされるのだ。そうした条件はあまりに厳しく、これほど厳密な精査に耐えてがん対策に真の貢献ができるほどに強力なスクリーニング検査というものは、実際のところ、ほとんど存在しない。」

    マンモグラフィーの有効性を確かめるための臨床試験で、医師や看護師の善意から「無作為化」の原則が破られてしまったケース。患者を救うために開発されたスクリーニング検査をテストするのに、患者を救いたいという善意が、テストを無効にしてしまう矛盾。

    「このかたよりの原因は今も不明だ。疑わしい診察結果を確かめるために、看護師がハイリスク女性をマンモグラフィー群に割り付けたのだろうか?――X線による、いわば、セカンドオピニオンのようなものを得るために? そうした行為はすべて、意図的だったのだろうか? または、マンモグラフィーを強制的に受けさせることでハイリスクの女性を救いたいという無意識の思いやり行動だったのだろうか? ハイリスクの女性自身が、望んだ行に名前が書かれるように待合室での順番を一つ飛ばしたのだろうか? 臨床試験コーディネーターに――診察した医師か、X線技士か、受付係に――そうするよう指示されたのだろうか?
     疫学者と統計学者と放射線医、それに、少なくとも一つの法医学者グループからなるチームが、どこにまちがいがあったのか見つけ出そうと、ぞんざいに書かれたくがんのノートを徹底的に調べた。「疑惑は、美と同じく、見る者の主観に存在する」と臨床試験の主任研究者は反論したが、疑惑を生む痕跡は充分にあった。ノートには、訂正箇所がそこらじゅうにあったのだ。名前が書き直され、人物が入れ替えられ、文章が消され、名前が取り替えられたり上書きされたりしていた。あるセンターで働いていた人物の証言が、それらの所見を裏付けた。そのセンターでは、コーディネーターが自分の友人の女性たちを選択的にマンモグラフィー群に集めたというのだ(おそらくは、友人の命を救いたいという思いから)。別のセンターでは、レントゲン技師が女性たちをどちらかのグループに「導いて」、割り付けを操作したという。」

    だって、にんげんだもの。

    がんの化学療法は、それまでの制約条件を乗り越え、新たな段階に突入する。

    「抗がん剤の投与量の上限は正常細胞に対する毒性によって決まる。そしてほとんどの抗がん剤の場合、その限界投与量は単一の臓器――骨髄――への毒性によって定められる。ファーバーが発見したように、めまぐるしく稼働する骨髄の細胞工場はたいていの抗がん剤に対してきわめて感受性が強く、がんを殺すための薬を投与された患者では、正常の造血細胞がほぼゼロになってしまう。細胞毒性薬剤に対する骨髄のこの感受性こそが、抗がん剤の用量の上限を定めてきたのだ。骨髄は毒性の国境であり、細胞を抹消しようとする化学療法の能力を制限する、決して突破できない障壁――ある腫瘍学者のことばを借りれば、「赤い天井」だった。
     だが、一九六〇年代末、その天井すら取り払われる。シアトルで、ファーバーの初期の秘蔵っ子、エドワード・ドナル・トーマスが、腎臓や肝臓と同じく骨髄も、患者から取り出して移植――同じ患者や(自家移植)、別の患者に(同種移植)――できることを示したのだ。
     同種移植(他人の骨髄を患者に移植する)は気まぐれだ――危険をはらみ、移り気で、ときに死を招く。だがある種のがん、とりわけ白血病にとって、同種移植は非常に有効な治療法となる可能性を秘めていた。(中略)ときに死を招くその合併症は、移植片対宿主病(GVHD)と呼ばれている。しかし、その三重の攻撃――高用量化学療法、骨髄移植、ドナーの細胞による攻撃――が、がんに対するきわめて有効な武器となりうる患者もいる。(中略)
     自家移植では、患者自身の骨髄が採取され、凍結され、それからまた本人の体に戻される。ドナーは必要ない。その目標は、がんを患った骨髄を別の骨髄(他人の骨髄)と交換することではなくて、抗がん剤の投与量を最大限に上げることにある。造血細胞を含む患者自身の骨髄が採取され、凍結される。それから、がん細胞を殺すために、きわめて高用量の抗がん剤が投与される。凍結骨髄が溶解され、戻される。凍結された骨髄細胞は化学療法の猛攻を受けていないため、この方法を用いることで医師は、少なくとも理論上は、究極の目標に向かって抗がん剤の用量をどこまでも押し上げることができる。
     高用量化学療法の提唱者にとって、自家移植は、最後に残った一番厄介な道路封鎖を突破する方法だった。通常の投与量の五倍、ときには一〇倍の量の抗がん剤を投与できるようになり、以前は生存とは両立しえないと考えられていた毒性の強いカクテル療法や併用療法もおこなえるようになった。この治療法の最初の、もっとも熱心な支持者の一人がトム・フライだった。一九八〇年代初めまでには、フライは、骨髄移植と組み合わせたメガドース(超大量)化学療法こそが、がん治療の考えうる唯一の解決法だと確信していた。
     この仮説を検証するためにフライは、化学療法の歴史上もっとも野心的な臨床試験をおこないたいと考えた。キャッチーな頭字語に対する持ち前のセンスで、彼はそのプロトコールを固形腫瘍自家骨髄移植プログラム(STAMP)と名づけた。その名前に結晶化されていたのは、医学界に吹き荒れていた嵐と熱狂だった。野蛮な力が必要なら、野蛮な力を奮い起こすまでだった。STAMPはすべてを焼き尽くすほど高用量の細胞毒性薬剤でがんを踏みつけながら進むはずだった。」

    「その女性の臨床経過は、研究所の歴史上もっとも注意深く観察された経過である。幸い、化学療法と骨髄移植は順調に進んだ。超大量化学療法から七日目に、ピーターズは、治療後初めて撮影された胸部X線写真を見ようと大急ぎで地下の部屋に降りていき、そして、自分たちががんを打ち負かしたことを知った。好奇心をう抱いた大勢の医師がまるで陪審員のように部屋に集まり、フィルムを取り囲んだ。まぶしい蛍光灯の光に照らし出された彼女のX線写真は、治療が著効したことを物語っていた。肺野一面に広がっていた転移巣が目に見えて縮小しており、周囲の腫張したリンパ節も明らかに退縮していた。それは、とピーターズは回想する。「想像しうるかぎりもっとも美しい寛解だった」
     その後もピーターズはさらに症例数を重ね、いくつもの美しい寛解を得た。一九八四年の夏には、いくつかのパターンを導き出せるほど、STAMP施行例のデータベースは増大していた。言うまでもなく、STAMPの合併症はすさまじかった。声明を脅かす感染症、深刻な貧血、肺炎、心嚢内出血。しかしピーターズとフライは、大量のX線写真と血液検査とCTスキャンの雲間に、銀色に輝くかすかな暗示を見て取って。STAMPによってもたらされる寛解は、従来の化学療法によってつくり出される寛解よりずっと長いようにも思えた。だが、それはまだ単なる印象――せいぜい推量――にすぎず、証明するには、無作為化臨床試験をおこなう必要があった。」

    だが、そのころ医学界にはまったく新しい脅威が迫っていた。

    「一九八一年の三月、医学雑誌の《ランセット》に、カポジ肉腫というきわめてまれながんを発症したニューヨークの男性八例の症例報告が掲載されたのだ。カポジ肉腫自体は新しい疾患ではなく、一九世紀のハンガリーの皮膚科医の名前を取って名づけられたその病気は、長いあいだ、高齢のイタリア人男性の皮膚にできる進行の遅い紫色の腫瘍ととらえられてきた。ときに悪性の場合もあるが、致命的となることのほとんどない、立派なほくろか癰みたいなものだと。ところが、《ランセット》の症例はすべて、それまで報告されたことのない急速に進行する悪性度の高い病型で、出血や転移をきたしやすく、若い男性の全身に暗青色の痣が広がっていた。八人全員が同性愛者だったために、その八症例は人々のあいだに非常に強い警戒心と興味を引き起こした。が、それだけではなかった。頭や背中に病変を持つそれらの男性のなかには、ニューモシスチス・イヴェロチという病原体の感染によるニューモシスチス肺炎と呼ばれる珍しい肺炎を併発している者もいたのだ。若い男性集団のなかで、きわめてまれな病がたった一つ流行しただけでもすでに充分奇怪だった。そうした病が二つ同時に発症したという事実は、より深くて暗い異変を暗示していた――ただの病気ではなく、症候群を。」
    「その年の夏の終わり、沿岸の街がうだるような熱波に襲われているころ、CDCは、疫学的な大惨事がどこからともなく形づくられようとしているのを察知した。一九八一年の六月から八月にかけて、奇妙な病気の風向計が狂ったような回転を続けていた。ニューモシスチス肺炎、カポジ肉腫、クリプトコッカス髄膜炎。それに、珍しいタイプのリンパ腫がアメリカじゅうの若い男性で次々と報告された。症例が同性愛の男性に偏っている点以外の共通パターンは、すべての患者にほぼ完全な免疫機能の崩壊が見られるという点だった。《ランセット》に掲載された、研究者から編集者に宛てた手紙のなかで、その病気は「ゲイ症候群」を呼ばれた。なかには「ゲイ関連免疫不全(GRID)」や「ゲイのがん」といった容赦のない呼び方をする者もいた。一九八二年、原因がいまだに解明されないまま、その病気にようやく現在の名前、後天性免疫不全症候群(エイズ)がつけられた。」

    オーディブルは、シッダールタ・ムカジー『がん 4000年の歴史 下巻』の続き。

    エイズ患者による活動団体ACT-UPがもたらした功罪。

    「日々エイズに怯えて生きるわれわれの多くは」「なぜFDAが、この怪物のような大量死の波に直面しながらも、頑固さを貫いているのか理解できない」
     その頑固さを象徴していたのが、エイズ患者の命を救う可能性のある薬をFDAが評価し、承認するまでの過程だった。その過程を、クレイマーは救いようがないほどのろくて、効率が悪くて、不合理だと批判した。遅々として進まない、静観的で「アカデミックな」治験の機構は患者の命を救うどころか、患者の命を脅かしはじめている。彼はそうこぼした。涼しい象牙の塔でなら、無作為化されたプラセボ比較試験も大いに結構。だが致死的な病におかされた患者たちはいま薬を必要としているのだ。「薬を体へ、薬を体へ」とACT-UPはシュプレヒコールをあげた。「FDAなんぞクソ食らえだ……NIHなんぞクソ食らえだ……FDAの責任者たちは、それがどんなものにしろ、自分たちのシステムを機能させることなどできやしないのだ」とクレイマーはニューヨークの聴衆を前に語った。従来にはない迅速な臨床試験が求められた。「二重盲検法をつくった者たちは」と彼は社説に書いた。「末期の病のことなど念頭においていなかった」そして、こう締めくくった。「何も失うもののないエイズの犠牲者たちは、喜んでモルモットになりたがるはずだ」

    まだ「治験段階」だった乳がん治療のための自家骨髄移植に対して、保険会社が支払いを拒否した件を訴えたネリーン・フォックス裁判のゆくえ。

    「要するに、患者たちはもう我慢しきれなくなっていたのだ。彼らが必要としていたのは臨床試験ではなかった。薬であり、病気を治す治療法だった。ニューヨークやワシントンの通りを練り歩くACT-UPのメンバーたちはFDAを頭の鈍い、お役所体質の御老体と呼んだ。厳密さばかりにこだわる、恐ろしくのろい組織であり、その唯一の目標はとえいば、重要な薬が患者に届く日をできるだけ先延ばしにすることだ、と。そうした背景があったからこそ、ネリーン・フォックスへの保険金の支払いを〈ヘルスネット〉が拒否したことを知った大衆は、すぐに感情的になった。」

    自家骨髄移植と超大量(メガドーズ)化学療法では、ヨハネスブルグのウィットウォータースランド大学のベズウォダが驚異的な結果を発表し続けていた。ヨハネスブルクでメガドーズ化学療法を受けた女性の90%以上が完全寛解を達成したというのだ。だが、ネリーンにその幸運がもたらされることはなかった。

    「ベズウォダの驚異的な治療成績と対比させると、フォックスの壮絶な闘いと早すぎる死とが、なおいっそう言語道断な結末に見えた。遅すぎた移植こそが――がんそのものではなく――妹の死を早めたのだと革新したヒープラーは、〈ヘルスネット〉に対する要求をさらに拡大し、裁判に向けて精力的に活動した。(中略)「試験的」というラベルは、保険金の支払いを拒否して損失を逃れようとする健康維持機構(HMO)の保険会社が勝手に貼ったものにすぎない、とヒープラーは論じた。「患者がかかったのが風邪やインフルエンザなら、もちろん、彼らは手厚く面倒を見てくれる。だが乳がんにかかったらどうなると思う? やれ〝治験段階〟だの、やれ〝試験的〟だのと始まるんだ」

    1993年ヒープラー勝訴。陪審は保険会社に対して、フォックスの家族に8900万ドルの損害賠償金の支払いを命じた。カリフォルニア州の裁判史上2番目に高い賠償額であり、全米の医療訴訟の歴史で最も高い賠償額の1つだった。同様の訴訟が相次ぎ、保険会社は譲歩を迫られ、ついにマサチューセッツ州で適格と判断された患者の骨髄移植日の補償をHMOに義務付けるシャーロット法が成立。さらに複数の州がそれに続いた。

    「そのような事態の展開――骨髄移植を併用する攻撃的な化学療法が法律によって義務づけられたこと――がいかに画期的だったかは、事態の成り行きを見守っていた大勢の人間の身に染みた。額面どおり受け止めれば、それはまさに、多くの患者や支援者にとっての解放の瞬間だった。しかし医学雑誌には、その治療に対する容赦のない批判があふれた。それは「複雑で、高額で、危険をはらんだ技術」である、とある論文は辛辣に訴えた。どこまでも続く合併症のリストは不吉そのものだった。感染症、出血、動脈と肝臓の血栓、心不全、肺や皮膚や腎臓や腱の障害。不妊は生涯続いた。患者は何週間も病院に閉じ込められた。しかし、おそらくもっとも深刻だったのは、5パーセントから10パーセントの確率で、治療の合併症として二次がんや前がん病変が発生し、そうしたがんにはどんな治療法も効かないという事実だった。
     だが、自家骨髄移植が巨大事業に発展していくにつれ、その治療法の科学的な検証はどんどん遅れていった。実際、臨床試験はお馴染みの矛盾に行きあたっていた。誰もが――患者も医師もHMOも支援団体も――原則的には臨床試験を求めていたにもかかわらず、実際には誰一人として臨床試験に参加したがらなかったのだ。保険会社が骨髄移植を保障すればするほど、女性たちは次々に臨床試験から逃げ出していった。コイントスのような簡単な決め方で非治療グループに入れられてはたまったものではない。誰もがぞう考えたのだ。
     1991年から1999年のあいだに、世界じゅうで約4万人の乳がん患者が骨髄移植を受け、移植費用は奏楽で20億ドルから40億ドルにものぼった(40億ドルという額は、NCIの年間予算の2倍に相当する)。その一方で、デューク大学のピーターズをはじめとする医師らがおこなっていた臨床試験への新たな参加者の数はしだいにゼロに近づいていった。その乖離は痛烈だった。外来は大量化学療法で治療中の患者であふれ、病棟のベッドは骨髄移植中の患者であふれていたにもかかわらず、その治療法の有効性を検証する重要な方法は、あたかも付け足しか何かのように脇に追いやられたのだ。「どこもかしこも、移植、移植だった」と腫瘍医のロバート・メイヤーは語っている。「ところが、臨床試験のための患者は1人もいなかった」

    そんなとき、ベズウォダのウソが発覚する。

    「すべてがぺてんであり、捏造であり、つくり物だった。2000年の2月末、臨床試験の実体がしだいに明らかになり、日に日に調査のわが狭まってくるなか、ウェルナー・ベズウォダはウィットウォータースランド大学の同僚にタイプ書きの簡潔な手紙を書き、研究を偽造したことを認めた(アメリカ人研究者がより「理解しやすい」ように、データを捏造したと彼はのちに主張している)。「科学の誠実さと健全さを私は著しく侵害しました」と彼は書いている。その後、彼は大学を辞め、インタビューに答えるのをやめ、質問への対応はすべて弁護士が行うようになった。彼の電話番号はヨハネスブルクの電話帳から消えた。」

    「ウェルナー・ベズウォダの転落という一大事件は、超大量化学療法への野心に対する最後の一撃となった。1999年の夏、STAMPによって乳がんのリンパ節転移例の生存率が上がるかどうか検証する最後の臨床試験が始まった。4年後、答が明らかになった。有効性は認められなかったのだ。超大量化学療法を受けた500例のうち、9例が骨髄移植に伴う合併症で死亡し、9例が治療抵抗性できわめて悪性度の高い急性骨髄性白血病(AML)――もとのがんよりもずっとたちの悪いがん――を発症した(自家骨髄移植は、乳がんをはじめとする多くの固形腫瘍には有効ではなかったものの、その後、ある種のリンパ腫を完治させることが判明し、それによって、がんの多様性がまたも浮き彫りになった)。
    「1990年代末には、ロマンスはすでに終わっていた」とロバート・メイヤーは言った。「最後の臨床試験には、棺に釘を打ちつける意味しかなかった。われわれは10年近く前から、そういう結果になるとうすうす気づいていたのだ」

    「『前線からの風景』というエッセイのなかでジェックスは自らのがんの経験を、真夜中にジャンボジェット機の機内で起こされ、パラシュートをつけられ、地図も持たずに見知らぬ風景のなかへ放り出されるようなもの、と表現している。「未来の患者であるあなたは、ほかの乗客たちと一緒に、遠くの目的地に向かって静かに進んでいる。そしたら、いきなり(なぜわたしが?)、あなたの足元の床に大きな穴が空く。白衣を着た人たちがやってきてあなたがパラシュートをつけるのに手を貸し、次の瞬間には――考える間もなく――外に放り出されている。
     あなたは降下する。地面に衝突する……でも、敵はどこにいるのだろう? そもそも敵とは何者なのだろう? それは何を企んでいるのだろう?……道もなければ、コンパスもない。地図もない。訓練もない。知っておくべきことや、知らずにいるべきことがあるのだろうか?
     白衣軍団はもうはるか遠くにいて、今では別の人にパラシュートをつけている。彼らはときどき手を振るが、たとえあなたが尋ねたとしても、彼らには答がわからない」
     そのイメージは時代の孤独と絶望をとらえていた。徹底的で攻撃的な治療法に取り憑かれていた腫瘍医は、より新しいパラシュートを次々と発明した。だが、沼地を歩く患者や医師を導く系統だった地図を、彼らは持っていなかった。がん戦争は敗北(ロスト)だった――そして、道に迷っていた(ロスト)。」

    「がん患者は減っていない、どころか増えている」と発表して、NCIの存在意義に冷水を浴びせかけたジョン・ベーラーの統計論文の続編が1999年に出た。

    「1986年に、われわれのうちの1人が、1950年から1982年までのアメリカにおけるがんの同行を報告した際」「治療に重点をおいた、40年にわたるがん研究は死亡率の漸増を止められなかったと明記した。今回われわれはその分析を1994年まで拡大する。(中略)」
    「現れたパターンは、現実の厳しさを突きつけていた。1970年から1994年までのあいだに、がんの死亡率はどちらかといえば、わずかに増加しており、人口10万人あたり189人から201人へと、6パーセントほど増えていた。最後の10年間だけを見れば、死亡率はほぼ頭打ちになっていたが、それでも、これを勝利を呼ぶのはむずかしかった。がんは「不敗のまま」今も君臨しつづけている、とベーラーは結論づけた。グラフで表されたアメリカのがん対策の進歩は平らな線であり、がん戦争は行き詰まっていた。
     だがその平らな線は、真の静止を意味しているのだろうか? 物理学はわれわれに、平衡には静的平衡と動的平衡があることを教える。同じ大きさの2つの逆向きの力が加わっている場合には、それらが切り離されるまでは、全体としてなんの力も加わっていないように見える。がんの死亡率を表す平らな直線も、そのおうな動的平衡の産物ではないだろうか? 相対する力が釣り合っている結果ではないだろうか?
     データをより詳しく検討するにつれ、ベーラーとゴルニクは、そのような相対する力の存在を識別できるようになった。1970年から1994年までのがんの死亡率を2つの年齢層に分けると、それらの相対する力が即座に明らかになった。つまり、55歳以上の男女では、がんの死亡率は上昇していたが、55歳未満の男女ではそれとはまったく同じ割合だけがんの死亡率が減少していたのだ。
     同様の動的平衡は、がんの死亡率をがんの種類別に再分析した際にも明らかになった。ある種類のがんでは死亡率は下がり、別の種類のがんでは一定のままで、また別のがんでは増加しており、結果として、死亡率の現象は相殺されていた。たとえば、大腸がんの死亡率は30パーセント近く減少し、子宮頸がんをはじめとする子宮がんでは20パーセント減少していた。どちらのがんもスクリーニング検査で(大腸がんは大腸内視鏡検査で、子宮頸がんはパップスメアで)発見されるようになっており、死亡率の減少の少なくとも一部は、早期発見の結果と考えられた。
     多くの小児がんでも、その死亡率は1970年代以降減少しはじめ、その後も減少を続けていた。ホジキンリンパ腫や精巣腫瘍でも同様の傾向が見られた。がん全体の死亡者数に占めるそれらのがんの割合は小さかったが、治療の進歩によって、そうした病気の顔つきは根本的に変わった。
     進歩を相殺するもっとも思い負荷は肺がんだった。がんによる死亡の第一位は圧倒的に肺がんであり、肺がんの死亡者数は全がん死の4分の1を占めていた。1970年から1994年のあいだに肺がんの死亡率は全体的に増加していたが、その分布は著しくかたよっていた。男性の死亡率はピークを迎えたのち、1980年代なかばまでには減少に転じていた。対照的に、女性の肺がん死亡率は、とくに高齢女性で劇的に上昇しており、上昇は今も続いている。1970年から1994年のあいだに、55歳以上の女性の肺がん死亡率は400パーセント増加し、その増加率は乳がんと大腸がんを合わせた死亡率の増加率より高かった。この指数関数的な死亡率の増加が、肺がんだけでなくほかのあらゆるがんの死亡率の減少を相殺していた。
     肺がんの死亡率の年齢分布の変化は、がんの死亡率全体に年齢のかたよりが生じた原因の1つだった。肺がんの罹患率は55歳以上でもっとも高く、55歳未満の男女で低いが、その主な要因は1950年代以降の喫煙率の減少と考えられる。しかし、若い男女の死亡率の減少は、高齢男女の死亡率の増加によって完全に打ち消されていた。
     つまり、『不敗のがん』というタイトルは、論文のメッセージを謝って伝える題名だったのだ。がん戦争におけるアメリカの行き詰まりは、実のところ行き詰まりではなく、現在進行中の死のゲームの、その死に物狂いの闘いの途中経過にすぎなかった。ベーラーは最初、がん戦争が最終的な停滞状態に陥ってしまったことを証明するつもりだった。が、結果的に彼は、絶えず変化する敵に対する、絶えず変化する闘いの中間点を記録したのだ。
     ベーラーですら――がん戦争に対してもっとも荒々しく、もっとも創意に富む批判を展開してきた彼ですら――この戦争がいあkに創意に富んだ闘いであるか否定できなかった。公共テレビの番組インタビューでも、彼はその点をしぶしぶ認めている。」

    ベーラー「死亡率はおそらく1パーセント減少したと思われます。この減少が本物かどうか、もう少し経過を見なければならないと考えていますが、たとえ本物でなくてもいずれ必ず……」
    質問者「ベーラー博士?」
    ベーラー「コップは半分満たされていると考えて差しつかえないと思います。」

  • 2016年時点では、癌に関する最も興味深く啓蒙的な本の一つだったのではないでしょうか。とても面白かったです。

全27件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

シッダールタ・ムカジー(Siddhartha Mukherjee)
がん専門の内科医、研究者。著書は本書のほかに『病の皇帝「がん」に挑む——人類4000年の苦闘』(田中文訳、早川書房)がある。同書は2011年にピュリツァー賞一般ノンフィクション部門を受賞。
コロンビア大学助教授(医学)で、同メディカルセンターにがん専門内科医として勤務している。
ローズ奨学金を得て、スタンフォード大学、オックスフォード大学、ハーバード・メディカルスクールを卒業・修了。
『ネイチャー』『Cell』『The New England Journal of Medicine』『ニューヨーク・タイムズ』などに論文や記事を発表している。
2015年にはケン・バーンズと協力して、がんのこれまでの歴史と将来の見通しをテーマに、アメリカPBSで全3回6時間にわたるドキュメンタリーを制作した。
ムカジーの研究はがんと幹細胞に関するもので、彼の研究室は幹細胞研究の新局面を開く発見(骨や軟骨を形成する幹細胞の分離など)で知られている。
ニューヨークで妻と2人の娘とともに暮らしている。

「2018年 『不確かな医学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

シッダールタ・ムカジーの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×