NHK出版 学びのきほん ブッダが教える愉快な生き方 (教養・文化シリーズ NHK出版学びのきほん)

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  • Amazon.co.jp ・本 (111ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784144072444

作品紹介・あらすじ

仏教は、まったく難しくない。ブッダが教える愉快な生き方

ブッダの出家から悟りまで──その人生から、仏教と禅の「原点」を学ぶ。「ただ坐る」「何もしない」「受け入れる」など、ブッダが教える「オーガニックな生き方」とは。スターバックスやフェイスブックなど、アメリカ大手企業に坐禅を指導した禅僧が考える、「ブッダが本当に伝えたかったこと」の集中講義!

感想・レビュー・書評

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  • 【まとめ】
    1 ブッダの学び
    仏教は「行の宗教」である。「行」とは、身心丸ごとで行う修行のこと。特に、私が学んできた「禅」の世界では、坐禅はもちろんだが、掃除や食事などの日常生活全般を修行ととらえる。生きることそのものから「学ぶ」ことが修行である。

    いつどこで学んだのかは本人もわからないけれど、周りとの交流全体から自然に何かが学ばれていく。このような学びを私は「オーガニック・ラーニング」と呼んでいる。
    「仏教の学び」は、もちろん経典などを読んだりもするが、日々の生活全体から、いつでも、どこでもオーガニックに学んでいく。教科書もないし、先生が手取り足取り教えてくれるわけでもないので、何をどう学ぶかはその人次第だ。

    「ブッダのように修行して生きる」とは、 誤解を恐れずに一言で言えば、それは「愉快な生き方」のことだ。仏教は、各自が自分の愉快な生き方を学ぶための参考書である。


    2 学ぶことは変わること
    ドゥッカとは、パーリ語で「思い通りにならない人生の絶対事実」という意味。「苦しみを乗り越える」というのは、生老病死それ自体をなくすことではなく、それを深く理解し、受け入れて生きることだ。
    ブッダは、生老病死という事実を恐れたり、それから逃げようとする代わりに、むしろ縁起という真理を深く学ぶために、それにきちんと向き合って理解しようとした。
    人生の厳粛な事実を理解し、生きる条件として素直に受け入れることは、「愉快な生き方」のポイントである。ドゥッカがあっても、いや、むしろあるからこそ愉快に生きることができるという逆説だ。

    学得よりも「体得せよ。自得せよ」というのが禅の根本思想である。
    ブッダは経典を学んだのではなく、ただ生きることを学びとした。そのブッダの生き方に倣おうというのが、禅の、そして仏教本来の立場だと私は理解している。経典はあくまでもそのための参考書にすぎない。
    学校的な学びとは、知識を得ることと同義。しかし、林先生の主張では、学ぶことは、自分自身が変わること。つまり、何かを本当に学んだら、「それまでの私」ではなくなって、「新しい私」がそこに生まれるということである。

    坐禅で大切なことは、そういう人間の作為的努力を手放して、身心を自ずからなる働きに任せて調和させ、現在に何も足そうともせず引こうともしないことである。おおらかにのびのびと坐ることで、安楽(身は安らかで、心は悦ばしいこと)の世界へと入っていけると言う。
    この安楽こそ、私が愉快と呼んでいるあり方だ。禅が大事にするのは特殊な苦行や荒行ではなく、坐禅で味わう安楽と同じクオリティをもって日常の何気ない行為の一つ一つを行うことである。


    3 愉快な生き方
    ドゥッカに対して、ブッダは、「闘う」でもなく「逃げる」でもない、第三の道を示している。それは、「触れてよく観る」ということだ。

    勉強にしても、仕事にしても、修行にしても、そして人生にしても、 どうせやらなければならないことなら、どうせ引き受けなければならないことなら、まず「受けたもう」とその気になって取り組むことが肝心である。私が山伏修行でしたように、自分に起こってきたことに対してまずは「受けたもーう」と声に出して受け取ってみよう。

    どんな体験でも「受けたもう」の精神で愉快に受け止めていくためには、生きている本来の「自己」と、頭が作った、思考や感情で悩む「自我」の大小関係や本末関係をしっかりと認識しておく必要がある。その上で、小さくて枝末にある「自我」よりも、大きくて根本にある「自己」のほうに軸足を置いて生きるようにしなくてはならない。

    「学ぶ」は英語で「ラーン(learn)」だが、仏教の修行においては、「アンラーン(unlearn)」も同じように重視される。「ラーン」は「身につける、獲得する」というプラスの営みですが、「アンラーン」は逆に、「知識を捨て去る、学んだことを意識的に忘れる、知識・先入観・習慣などを捨て去る」といったマイナスの営みである。

    自分や世界は刻々と更新されていくもの。だからこそ、学んだ既知に居つかずそれを手放し、未知に対してうぶな心でワクワクしながら出会っていこう。

  • この本はどちらかというとブッダに関する専門書のような説明が多め。
    日常生活に落とし込んで実践したい自分には「反応しない練習」の方が好きだった。

  • 書店のヨガコーナーで発見。ヨガをしばらく練習してきて、いまどこに向かっているのか悩んでいたけど、この本を読んで方向性が見えてきた。たくさんの知識や技術を身につけたことで、逆にガチガチになって、頭でっかちになっていたんだな、と素直に思えた。先人のことばもいろいろ紹介されているから、また折りに触れて読みたい。

  • とても分かりやすく書いてあるが逆に疑問も増えてしまった。ありのまま受け入れる。難しい

  • 仏教は慰めるための宗教ではなく、今を生きるための宗教なんだと改めて思った。

  • ヨガをやっているので、考え方がすごく似ていておもしろかった。
    執着せずに、ありのままを受け入れる。

  • 仏教やブッダの基本。誰しもわかっている事だけれど、でも勘違いしている事などをブッダのされた事などを例にあげ、優しく解説してくれています。

  • 仏教、特に禅の考え方を引き合いに、人生を豊かにする学ぶ方について説いてくれます。
    筆者のいう「オーガニック・ラーニング」の重要性は、自分の子どもを見て感じたことと合致しており、腹に入りました。
    また、座禅はやることを最大限減らしていくこと、というのも個人的に好きな考え方です。禅に興味が沸きました。

  • 仏教は、経典に書いてある難解で高邁な哲学だと思えたり、千日回峰行のように苦行通して到達できるものであると考えがちです。しかし、釈迦は29歳で出家し、高名な瞑想の師のもとで高い境地を得ても、6年の苦行難行を経ても、満足するに至りませんでした。35歳で瞑想も苦行も捨て、樹下に静かに座ること7日間、ついに「法」にたどり着き、ブッダとなりました。ブッダの教えは、高度な瞑想でも苦行でもない。そのことを教えられ安心しました。▼「平安への道はない。平安こそが道である」。道を歩む一歩一歩にすでに平安があるような修行でなければならない。仏教は、苦しい修行ではなく、愉快な修行だと説いています。

  • 「何をしたいか」ではなく「どうありたいか」。
    何かをするために強いて勉めて頭で学ぶだけではなく、どうありたいかのために周囲との交流全体から自然に学ぶことの大切さを説いています。自然に学ぶことを「オーガニックラーニング」と名付け、そのモデルとして仏教、特に禅の修行をモデルにして考察しています。
    知っていることをわかること、できることは違う訳ですが、現代は、特に人生の前半では、「知っている」ことが偉いという扱いを受けます。基礎知識の意味でそれも大切でしょうが、それでは本当に身についていない。できるようにならない。そして「知っている」ために学びを深めようとしなくなる。そんな弊害があると僕自身の経験から感じるところです。
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著者プロフィール

1954年愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科教育心理学専攻博士課程を中途退学し、
紫竹林安泰寺にて曹洞宗僧侶となる。1987年よりアメリカ合衆国マサチューセッツ州西部に
あるパイオニア・ヴァレー禅堂に住持として渡米、近隣の大学や仏教瞑想センターでも禅の
講義や坐禅指導を行なう。2005年に帰国。神奈川県三浦郡葉山町にて独自の実験的坐禅会を
主宰。2010年よりサンフランシスコにある曹洞宗国際センター所長として日本と海外を往還
している。


「2017年 『退歩のススメ 失われた身体観を取り戻す』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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