安全保障を問いなおす 「九条-安保体制」を越えて (NHKブックス)
- NHK出版 (2016年4月22日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140912393
作品紹介・あらすじ
日本の安全保障をめぐる議論がふたたび盛んになりつつある。だが右派と左派の論争はいつも噛み合わないし、実は中身もない。なぜか?本書は、真の戦略をめぐる議論の実現を阻んできたのは「九条と日米安保の組合せ」だったとみる視点から戦後史をたどり、可能性のあった唯一の例として九〇年代の日本の経験に着目する。そこではリベラルな対外関係と憲法観の変化が生じていた-。安全保障論議の不毛、左右の反目、過度の対米依存を脱するため、九〇年代を参照し、戦争への反省に立った改憲を視野に入れつつ、近隣国との協力について明快で具体的な将来像を示す提言の書。
感想・レビュー・書評
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戦後レジーム(九条 - 安保体制)の誕生経緯とそのなかで日本外交と防衛がどのように行われてきたか。戦後史を丁寧に辿り、安倍外交と改憲論の問題点、そして今後の外交と安全保障(国際主義から考える改憲論)を具体的に論じた示唆に富む内容だった。
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日本の戦後の安全保障政策について、内向きの右と左は結局9条と日米安保という軸に収斂してしまっていた、今後はそれだけではいかんでしょと、乱暴にいうとそんな内容。
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著者は、再三『ルサンチマン』がベースにあるアベ政治は一件望ましい政策を打ち出していても破綻する。としているが、『ルサンチマン』にとらわれて目が曇っているのは安倍晋三(や、麻生太郎)では無く、まさに著者なのでは無いだろうか。
『国際主義』を実際に打ち出しているのは、まさに自民党であり、アベや麻生はそれを打ち消すような動きはしていないのである。そして、著者の言う『自国主義』が『国際主義』をかき消すようなことは現実には起きていない。『国際主義』とは、自国に対する明白な『今そこにある危機』を見逃すこととイコールでは無い。現実としてある、中国の膨張主義、北朝鮮の核と弾道弾に対して『備えをとる』事が『国際主義に反する』という著者独自の見解には全く同意することができないのである。世界のどの国も、自国に対する脅威を見過ごして対処しないなどと言うことはあり得ないのである。そして、右派と左派の対話が成立せず、デッドロックになっているという著者の見解も現実と異なる。『左派』と衝突している。『左派』が受け容れられないのは、『右派』や『右派の主張』では無く、『国際社会の現実そのもの』では無いだろうか。『ルサンチマン』にとらわれている著者には見えないのかも知れないが。
そしてそれは、著者が平和安全法制や集団的自衛権の限定容認について『この程度のことはどの国でも普通にやっていることにも満たず、特に何が変わることもあり得ない』と正しく指摘しているにもかかわらず、結論がねじ曲がっていることからも、著者の理性が、ルサンチマンに負けていると判断できる。 -
戦後の国際・国内政治史を俯瞰した上で、筆者は、日本の安全保障政策は左右それぞれから攻撃される中庸の「九条-(日米)安保体制」に忠実だった、と指摘する。90年代の国際主義の萌芽もこの枠を壊すに至らず、9.11後のテロやイラク戦への対応も多分に日米論理により説明され、「戦後レジームからの脱却」を目指したはずの「平和安全法制」も、結局のところ「戦後レジーム」と同義である「九条-安保体制」に引き寄せられ、内向きの論理でしか正当化されなかった、というのである。
その上で筆者は、この体制を超えた国際主義に基づく九条改憲の議論を提起する。九条と不可分である戦争責任に向き合いつつ、国際主義に立脚した軍事力の効用も認めるというこの改憲論は、従来の左右どちらの論とも異なる。中国に対しては対中警戒論に囚われるより国際社会や中国国内のリベラル派に訴えることを唱える。また、日米同盟に合わせ日韓豪の安保協力により米国のプレゼンスを共同で支えることを提案する。
日本の安全保障政策の上で当然の前提となってきた「九条-安保体制」を超えて国際主義に立脚すべきとの主張、しかも右でも左でもなく、むしろ左右双方を批判するとの立場からそれを唱えることが新鮮だった。 -
9条-安保体制からの脱却と、国際主義に基づいた議論が必要だという主張である。
しかしながら、軍備を持てば使いたくなるのが過去の経験から明らかであり、軍拡競争に走ってしまう。もう既に軍拡は、始まっていると言える。
アメリカ依存のまま集団的自衛権を認めれば、アメリカの正義に巻き込まれる。
やはり、現状維持が最も現実な、平和な国の実現手段である。