- Amazon.co.jp ・本 (317ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140911389
作品紹介・あらすじ
彼らは、なんのために戦ったのか。太閤秀吉という支柱を失った後、関ヶ原に至るまで、豊臣政権内部で何が起こっていたのか。石田三成ら奉行衆の陰に隠れ、その行動が明らかにされてこなかった毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、島津義弘ら西軍の外様大名に光をあてることにより、武功派対吏僚派、徳川派対反徳川派などの単純な二項対立論に陥ることなく、軍記に彩られた数々の通説を打破し、ドラマでは描けない関ヶ原前夜の政治情勢・権力闘争の実態に迫る。若手研究者による緻密な意欲作。
感想・レビュー・書評
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分類がこれでいいのかという気もしますが。私のこの本への注目点としてはやはり毛利氏の活動と伊予国との関係。
毛利氏・河野氏が天正年間を通じて一体化してくる、というのが戦国時代伊予史研究の最近の成果です。僕が子供のころは最後は長曾我部氏に支配されてしまう、とマンガやらなんやらに書いてあったものですが、その出典はどこだったのでしょうか?いずれにせよ、伊予国は、小早川隆景の統治・転封による豊臣大名の入部を経てやっと大きな所領の転換がなされたのでしょう。関ヶ原前夜で描かれる世界は、この豊臣大名による不安定な伊予の国を、旧体制である河野氏を利用しつつ、毛利氏がどのように侵攻していったか、が活写されています。いわば、旧体制的な毛利氏の試みが最終的に挫折し、幕藩体制へと移り変わっていく様をこの本(の前半)は描いています。それは伊予国にとっても、中世国人層の国外流出と併せて、大きな出来事だったのではないかと思われます。
その他、上杉氏・島津氏に関しての章があります。毛利氏と同じように関ヶ原が旧体制を乗り越える大きなきっかけになったという事を主張しています。
中世的支配体制と近世的な支配体制をどのように分けているのか、単なる大名の求心力の大小なのか、システム変更なのか、その辺がよくわかりませんでした。この差を「血脈よりも暴力的な権力が優先される」、と見るならば、明応の政変が、「転封・検地を伴い、石高・俸禄制度による官僚化」と見るなら豊臣秀吉の時代がメルクマールになるのでしょう。校舎で捉えるなら、徳川家康はその転換を最初に果たした大名であるといえ、その先見性は他を圧倒すると言えるでしょうか。その辺の大枠があると、「関ヶ原の意義」が伝わってくると思うのですが。
しかし、天地人に合わせたかのような本の出版、世の中には全く別の意識すべきロジックがあるようです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
毛利輝元関係部分を中心に。岩井三四二のとまどい関ヶ原、の関係書とみて。凡庸な三台目で人が良くて騙された被害者、という像から、一時史料を読み解き、西国の統治者として、自負と強大な力を持ち、積極的に、九州、四国に軍勢を派遣し、畿内を転戦させ、領国拡大を目論み、瀬戸内海を内海として貿易による振興を測り、大阪の陣にすら一族を密かに送り込んでいたが、最終局面での決断力の欠如、じんぼうの無さが敗因となった、と。吉川広家については、残された書状は出されてなく、弁明のために自作した可能性を示唆し、また一貫して毛利家のために、徳川に通じたのではなく、状況を見て迷っていただけ、という様が描かれる。/島津義弘についても。三成決起直後の行動は、止むを得ず、というのとはほど遠い積極さで、伏見城在番の受諾自体が、反徳川の戦略の一貫だった可能性も指摘。また、親密な関係の三成の失脚、ともに領国経営をすすめていた伊集院忠棟の殺害により、事実上領国経営から外されていた義弘にとって、関ヶ原の戦いでの西軍への参加は、実権を取り戻す一種のクーデターであった、と指摘。義理にあつい勇将という評価に対して、なかなかに新鮮な視点。
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「輝元の野望・西国版」、何となく読みたくなって再読。
一次史料で歴史を再構成する面白みがよく分かる。 -
毛利輝元は無理やり引っ張りだされたのではなく、むしろ積極的に自領を増やそうと企んでいたようである。今まで毛利輝元というのは周りに流される人物のような印象を持っていたが考えを改めさせられた。
もし関ヶ原で西軍が勝っていたら毛利幕府が実現したかもしれない。
これでは121万石から36万石に減封されたって文句がいえないと思える。 -
ドラマでは描けない負け組の本音。なぜ誤った通説が根強いのか。
彼らはなんのために戦ったのか。太閤秀吉という支柱を失った後、関ヶ原に至るまで、豊臣政権内部で何が起こっていたのか。西軍の外様大名に光をあてることにより、単純な二項対立論に陥ることなく、数々の通説を打破し、ドラマでは描けない関ヶ原前夜の政治情勢・権力闘争の実態に迫る。若手研究者による緻密な意欲作。
第一章 豊臣秀吉の死と石田三成失脚
第二章 関ヶ原への道
第三章 「西国の統括者」毛利輝元
第四章 上杉景勝と直江兼続
第五章 若き「五大老」宇喜多秀家
第六章 島津義弘、起死回生の大勝負
付 論 敗者たちのその後
2009年の刊。その年の10月末に購入したものの読む時期を逸し、長らく積読状態であった。伝聞で衝撃的な内容を感じて(?)いたものの、読んだ感想としては、本書は今後、関ヶ原を論じるうえで、外す事の出来ない1冊であることは間違いないという事である。著者の説の是非はともかく、本書を参考文献にあげていない関ヶ原本を私は読む気がしない。
第一章から第三章までは、毛利家が取り扱われているが、その充実ぶりが嬉しい。
本書を読むと、毛利家がとり潰されなかったことは僥倖に過ぎないことがわかる。
家康の不人気の影で、被害者面をしているが輝元も相当悪い人である。
第四章の上杉景勝は解りづらい。交渉の経過をみると上杉征伐を回避する手が無かった訳ではないのだが、なぜその道を選んだのだろうか?著者は輝元と景勝は「家康が担っ
ていた最高指導者としての地位を狙っていた」としているが深読みが過ぎる気がする。輝元はともかく、景勝はどうであろうか。
宇喜多秀家は生煮え。家中が分裂したことにより、どのような影響があったのかが具体的には見えてこない。国人連合のような政体で、家中統制に苦労したという点は解り易かった。
島津義弘については、山本博文の著書を読んだ時ほどの衝撃は無かった。山本説を見直している部分もあるが目新しさは無い。西軍についた理由も、通説(伏見城入城を断られやむを得ず)に比べると弱い。島津家と家康の関係を丹念にたどった点は良い。
緻密な意欲作ではあるが、幅広いため薄い部分もある。手を広げ過ぎたキライがある。
本書をきっかけにより各家の研究がより深化されると良いのではないか。そんなきっかけとなりうる1冊でありおススメである。 -
関ヶ原の戦いというと、当日の戦いの模様や、
石田三成や東軍諸将の動きが中心で、
西軍の総大将格・毛利輝元や宇喜多秀家、
関ヶ原の戦いの発端を開いたと言われる上杉景勝などの
特に関ヶ原に至るまでの動き、彼らの思考などは、
軍記物などに由来するステレオタイプ的な描かれ方をしていました。
本書は、一次資料を数多く引き、
それを元に論を進めています。
自分は歴史学や文献学が専門ではありませんので、
その論の是非はわかりません。
それでも、こんな考え方があるんだな、
となかなか新鮮な内容でした。
また、戦国大名そのものにも新しい視点をもたらしてくれました。
大名が絶対的な力を行使して家臣を従える、
戦国大名にそんなイメージを持っている人も多いと思います。
しかし、そのような大名は少数派であり、
守護代から成り上がった上杉氏、国人領主から成り上がった毛利氏、宇喜多氏などは
豊臣秀吉による天下統一の後にようやくそのような体制への脱皮を
図れたことがわかります。
一次資料をふんだんに取り入れている分、
読みにくさはありますが、一読に値する本です。
一部、現代語訳が併記されていなかったのが残念でしが。 -
277ページ
前者には「内府、上様御置目に背かれ、上巻誓帋の筈を違われ、ほしいままの働きに付いて、輝元・秀家・羽兵庫・年寄中申し談じ、秀頼様馳走申され、取り立て申すべくに相究まり、楯鉾に及び候とある。
◆及び候とある→及び候」とある -
2009年12月4日読了。私にはちょい難しめだったかもー。でも、地元の大名や大河で有名になった上杉家など、すごく興味深かった。
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何度か読み返してやっと把握できる程の情報量です。
要約するのは難しいですが、西軍が想像以上に各々の利権や思惑が複雑に絡み合った集団であったとわかります。
読めば読むほど、西軍勝利の可能性は薄かったと感じてしまう…