- Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140883631
作品紹介・あらすじ
3・11後、ますますあらわになる言語の単純化・縮小・下からの統制。「日本はどのように再生すべきか」…発せられた瞬間に腐り死んでいくこれらの言葉に抗して、"死者"ひとりびとりの沈黙にとどけるべき言葉とはなにか。表現の根拠となる故郷を根こそぎにされた作家が、それでもなお、人間の極限を描ききった原民喜、石原吉郎、堀田善衛らの言葉を手がかりに、自らの文学の根源を賭け問う渾身の書。
感想・レビュー・書評
-
昨年夏、経済産業省原子力安全・保安院は、炉心溶融事故を起こした福島第一原子力発電所から放出された放射性セシウム137の量は、広島に投下された原子爆弾の168個分に当たることを公表したが、この恐るべき事実を伝えた報道の言葉は、著者によれば、この途方もない数値と人間のあいだの真空を生きた言葉でつなぐものでは断じてなかった。それはむしろ機械から吐き出された記号にすぎず、人間の身に今いったい何が起きているのか、この人災の後にあるのがどのような世界なのかをまったく伝えていない。このような報道の言葉の虚しさが象徴するように、2011年3月11日の地震と津波によってもたらされたあまりにも凄惨な破壊と、それに続いて起きたこととを魂の奥底で受け止める言葉を、私たちは未だ持ちえていない。いや、自分を巨大なシステムにみずから組み込んでいくなかでそれを失ってきたとさえ言えるのではないか。「ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです」という詩人石原吉郎の言葉を引きながら、著者は、3月11日以後の集合的失語とも言える状況を凝視する。そこにあるのは、嫌というほど流されたACジャパンのコマーシャルが既存の共同体の曖昧な「和」を保つ、すなわち恐怖や怒りを露わにすることなく、御上に従うという道徳規範がサブリミナルに刷り込まれ、国家暴力の機構さえも「災害救援」の名のもとでなし崩しに歓迎されてしまうという事態である。実際サブリミナルな指示は、人々に「絆」のような曖昧な言葉を、誰のためのものか見えない「復興」を称揚させ、今や原発の再稼働をも容認させようとしているではないか。石巻に生まれた、そして津波によって故郷の風景を失った著者は、このような状況に抗いながら、「このたびの出来事を深く感じとり、考えぬき、それから想像し、予感して、それらを言葉としてうちたてて、そしてそのうちたてた言葉を、未完成であれ、死者たち、それからいま失意の底に沈んでいる人びとに、わたし自身の悼みの念とともにとどける」ことをみずからに課す。本書に刻まれているのは、そのための著者の苦闘の軌跡と言ってよい。その過程で著者が、彼に原爆の「原光景」を刻みつけたと語る原民喜の「夏の花」に出会い直しているのは注目に値しよう。この作品のように、惨状を内面に深く落とし込みながら、一つの光景を立ち上がらせる言葉に結晶させる発語が今求められているのではないか。また、石原吉郎が一人ひとりの死者を哀悼しようとする姿勢はあらためて注目に値するものの、自分の「位置」から、みずからが見届けた死者のみを悼むというのは、いささか自己防衛的に映るという。「目撃していないから発言しないというのではなく、視えない死をも視ようとすることがいま単独者のなすべきことではないのか」。そのように考えて直接見届けえなかった死をも悼み、未来の死をも幻視しようとする態度は、ジャン=ピエール・デュピュイの『ツナミの形而上学』の思想にも通じるとともに、死者を置き去りにして前へ進もうとする歴史の暴力に抗う想像力を開くものでもあろう。著者はさらに、そのような想像力の可能性を、震災や空襲の惨禍を前にしながら繰り広げられた川端康成や堀田善衛の闊達な言葉のうちに求めようともしている。こうした言葉の模索をつうじて「わたしの死者」の死を受け止め、その沈黙に言葉を届けようとする、それとともに何が起きたのかを「わたし」の位置から語り出そうとする著者の苦闘そのものが、各章の末尾に置かれた著者自身の詩とともに、読者への重い問いかけになっていると考えられる。あの日から1年近くが経とうとする今も求められていること、「それはいま語りうる言葉をなぞり、くりかえし、みんなで唱和することではなく、いま語りえない言葉を、混沌と苦悶のなかから掬い、それらの言葉に息を吹きかけて命をあたえて、他者の沈黙へむけて送りとどけることではないでしょうか」。死者たち一人ひとりの死を受け止めながら生を肯定するために、この問いかけに応じるべき時がすでに来ているように思えてならない。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
出版から10年も経って辺見庸ということだけで買ってみたものの、時事問題をテーマに扱ったものとしては古くなるだろうし、石巻出身の作者の心情は今まで触れてきた本から割と想像ができてしまうものだから、長らく本棚に眠っていた。
ネットで辺見庸の文章にたまたま触れて、そもそも最も気に入っていたその文体、言葉遣いを味わいたくてなんとはなしに紐解いてみた。
東日本大震災から広島の原爆、東京大空襲、果ては鴨長明の方丈記に至るまで、厄災の歴史上での考察を10年後の現在に当てはめて、エキスパンドしてみればそのあまりのフィット加減に慄いてしまうほどだ。いや言葉の主語は画一化され全体化され「絆」だの「思いやり」だの「団結」だのと言葉の間の屍どころかもはや何も言っていないに等しい空虚だけが飛び交っている。
そしてその空気をがより固まって出来ていくオリンピックなる象徴体すら用意されている始末。まさに今本書を読むことの意味が腹を抱えるほどの苦笑に涙するほど実感する。 -
最近読んだ中では、最も印象深い1冊になりました。
-
よかった。
-
本書は、東日本大震災で最大の人的被害を受けた石巻市出身の著者が、震災から1ヶ月後の2011年4月24日に放送されたNHK番組「こころの時代 瓦礫の中から言葉を~作家・辺見庸」(収録は3月下旬)で話したことをきっかけに、日本の「言葉の危うさ」と「言葉の一縷の希望」について書き下ろしたものである。
著者は、「われわれの身にいったいなにが起きたのか、なにが起きつつあるのか、それはどのような性質の出来事であるのか、なにが壊され、潰え、なにが生まれたのか、このさきにどんなことどもが出来しようとしているのか、歴史はこれからどう変わるのか―を感じとり、ひとつひとつ言葉にしていくのは、作家であるわたしの義務であり運命であると考えます」というが、一方で、「言葉でなんとか語ろうとしても、いっかな語りえない感覚です。表現の衝迫と無力感、挫折感がないまぜになってよせあう、切なく苦しい感覚。出来事があまりにも巨大で、あまりにも強力で、あまりにも深く、あまりにもありえないことだったからです。できあいの語句と文法、構文ではまったく表現不可能でした」と漏らす。
そして、震災後に多くのスポンサーがCM放送を自粛したために、ACジャパンのCM「あいさつの魔法」(「こんにちワン ありがとウサギ 魔法の言葉で 楽しいなかまが ぽぽぽぽーん」)や金子みすゞの「こだまでしょうか」が、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に描かれた“ニュースピーク”のごとく繰り返し流されていたこと、福島原発の事故について、報道は「福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原爆の168個分」と数値を示すだけで、その書き手が生きた言葉で何も表現していないこと、震災直後に自らいくつかのインタビューを受けたものの、記者の既定の世界像に合わない発言は全く無視されたことなどを挙げ、「言葉についていえば、この破壊、かぎりない破壊を表現する言葉を、わたしたちは、失うもなにも、ひょっとしたら最初からもっていなかった、用意していなかったのではないか」と思い至る。
その上で著者は、シベリア抑留を体験した石原吉郎や、東京大空襲を体験した堀田善衛の言葉を手掛かりに、我々はどのような言葉を発し、どのような言葉を死者ひとりひとりに届けられるのかを思索している。
『もの食う人びと』など、これまでも人間とその営みの本質を洞察してきた著者が語る、奥深い書である。
(2012年3月了) -
<閲覧スタッフより>
「言葉と言葉の間に屍(カダヴル=cadavre)がある」「人間存在というものの根源的な無責任さ」。この言葉を掲げ、故郷(宮城県石巻市)を喪失した著者が大震災を考える。
--------------------------------------
所在記号:新書||914.6||ヘン
資料番号:10225224
-------------------------------------- -
東日本大震災の一ヶ月後にNHKで放送されたテレビ番組で、辺見庸が語った内容をきっかけに書き下ろしたもの。刊行は、3・11から一年も経たない2012年1月。
大震災と原発メルトダウン、という圧倒的な出来事を前にして、それを表現する言葉が致命的なほど不足しているという状態を、呆然としながら論じている。
「理不尽なのは大震災、大津波、原発メルトダウン、放射能汚染そのものだけではない。それらの意味と歴史的位置、悲劇の深度を表すべき言葉がテクノロジーの進化に反比例して退化し貧弱化していることも現代の大いなる逆説であり、それが言葉をもちいる生き物であるわれわれ人間の心をますます疎外しています」(p60)
特にメディアにおける言葉の貧困を批判的に語っているが、しかし同時に辺見庸自身も、どのような言葉が現状にふさわしいのかということは、必ずしも見つけられていない。
本書では、それを考えるヒントとして、ヒロシマで被爆した詩人・原民喜や、ソ連抑留を体験した、同じく詩人の石原吉郎、東京大空襲を体験した堀田善衛などの言葉を通して考えている。
そこで引用され、考察されているものは、見方によっては身も蓋もないものでもあるが、しかし同時に、それが詩人たちの偽らざる言葉であり、そして圧倒的な事象を表象する深度を持っている、と辺見は述べている。
ところで、この本では矢部史郎の「原子力都市」(311以前に書かれた原子力論)が引用されていたことに個人的には少し興奮したが、矢部も06年に出版された「愛と暴力の現代思想」という本の中で、「大学における失語」について論じていた。物事を理解する上で不可欠な言葉というものが、学問をするための空間にあっても失われている。それだけ言葉は空虚になっているし、そして言葉に対する信頼そのものが地に墜ちている、という辺見や矢部の認識は、僕も何の異論もない。
この時点で、辺見庸の詩集「眼の海」は完成しているし、またその後に刊行された小説「青い花」が、現状を表現する言葉の一つのアンサーになっているのかもしれない。しかし、それらは当然ながら、とてもではないが明るいものとは言えない。しかし、希望を見出すためにこそ、しかるべき絶望の海に潜らなければいけないのかもしれない、とも思う。
本書では、あとがきに「執筆途中にひどい抑うつ状態におちいり、夏をまったくぼうにふってしまった」(p193)とあったが、現状を真摯に考えればそのような状態になるのは極めてまともであるように思う。そして、そうした憂鬱を共有しているものは、確かに多数派ではないかもしれないが、しかし全くの少数派でもないのではないか。こうした「絶望の共有」の可能性が、逆説的であるが、現状におけるギリギリの希望であるように思える。 -
辺見庸、考えさせられる。この一冊を手に東北、2週間。とてつもない経験でした。しかし、まだまだこれからです。