原爆投下 黙殺された極秘情報

  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784140815311

作品紹介・あらすじ

終戦間際、日本軍諜報部員が記した「特殊任務機」、「通信上事前に察知する長崎爆撃5時間前」、「コールサインを八月九日も同様にキャッチしたが処置なし。あとの祭りとなる」という記述。なぜこれらの情報を黙殺されたのか。貴重な証言・新たに発見された資料をもとに、「唯一の被爆国」の原点に迫る第一級のノンフィクション。

感想・レビュー・書評

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  • 写真撮影/土田ヒロミ『八時一五分で止まった時計』
    絵/西川真以子
    ブックデザイン/日下潤一+浅妻健司(組版)

  • 太平洋戦争は米国による広島、長崎への原爆投下で幕を降ろすが、当時の大本営はそれを事前に察知していなかったのか?
    同時の陸軍、海軍には米国の暗号通信を傍受、解析する諜報組織があり、サイパンやテニアン島から発せられる米国の爆撃機からの通信も傍受していた。
    それらは暗号化されていたため内容は分からないものの、あるパターンから「おそらくこれは日本本土爆撃に向かう部隊の番号だろう」などの推測はついていた。
    そして、或る日、通信の中にパターンの中で今までとは違う部隊の番号が発せられた。それが原爆を搭載し広島に向かうエノラ・ゲイだった。それらの情報は大本営にまで報告されたはずなのだが、…

    敗戦と同時に日本軍は資料の焼却を行ったので、殆どが当時の関係者(既に多くが亡くなっている)、米国に没収された資料によるもので、非常に情報が少ない中、よく探し出したものだと感心する。

    調査の結果に基づけば、
    日本は広島に向かった爆撃機は特殊な任務を負ったものという認識があり、投下されたのは原子爆弾に違いないと思われていた。しかし、過去に「原爆の開発は現時点では不可能」として日本の原爆開発(二号研究)を打ち切った経緯があった。そのため、広島に投下された特殊爆弾を原爆と認める(過去の判断の誤りを認める)事を躊躇した。
    長崎に原爆を投下したボックスカーがテニアン島を飛び立った時にも、その通信を傍受し、広島に原爆を投下した時と同じタイプの爆撃らしいという報告が、投下5時間前!に報告されていたと思われる。しかも、長崎にはB29を迎撃できる紫電改が配備されていたが、情報は活用される事なく、出撃命令は出なかった。

    当時、国内では広島の原爆の情報を元に、まだ爆撃の被害を受けていない長崎や新潟では、次の目標は自分たちではないか?という推測がされていた。
    新潟では市の中心部に避難命令を出して、疎開させた。
    長崎では市長が避難命令を出すための検討会議を開こうとしている矢先に、ピカドンの爆音を聞いた。

  • 国家の国民軽視はここまで酷いものだったんだと、当時の人々が憐れに思えてくる。
    今の時代に生まれて、国会からの保障が当たり前なことは、約70年前には考えられなかったんだな。

    東電、政府と軍部の重なり。まじ変わってない。

  • NHKスペシャルの放送で見た時は、 鳥肌がたつくらい衝撃を受けました。日本が原爆投下以前に、コールサインから察知していたという事実を、様々な証言やアメリカ軍の資料から証明しています。まさに歴史の扉を開けた一冊と言えるでしょう。
    原爆機接近の情報を得ながら、空襲警報を発しなかった背景についても、日本軍や政府の縦割り、ご都合主義的な情報分析、組織内の派閥争いなど、問題点に切り込んでいます。また、原爆の影響について、早くから政府が調査に着手し、その情報が交渉カードに使われた可能性についても指摘しています。
    とても興味深い作品であり、多くの方々に読んでもらえればと思います。

  • 【本の紹介】
    「これまで原爆投下は奇襲とされてきたが、実際には米軍の動きを察知していたことがわかってきた。
    なぜ情報は黙殺されたのか、その疑問に迫る」

    【司書の日記】 2013年1月25日 金曜日
    いつもは一人仕事なのですが、今日は朝の9時から午後2時半まで二人仕事でした。
    3年生は昨日の定期考査を以て、来月2月22日の3年登校日まで休みなのですが、常連さんだった3年生女子がやってきて、いろいろお手伝いをしてくれていました。
    午前中は私は本の登録、装備やらをして彼女は飾りものをいろいろと作ってくれていたのですが、見ると、見覚えのない工作を。
    「これは?」と聞くと
    「先生、今の100均ってすごいなぁ。いろんなものある」と教えてくれました。100均で買ってきたという紙工作、ケーキを作っていました。
    「これ、いいの?図書室に寄付してくれるの?」と聞く「うん」との返事。

    「じゃあもうすぐバレンタインやから、今度はバレンタイン特集しようか」ということになり、午後からはバレンタイン特集でいつものごとく、大きな机を二つ合わせた上にバレンタインに関する本を並べていきました。
    ほとんどがお菓子作りの本です。
    596のお菓子作りの本、386の年中行事の本、911の詩歌の中からは愛をテーマにした詩集などなどを並べ、真ん中に、彼女の作ってくれた紙工作のケーキを置くと・・・・。
    素敵な「バレンタインコーナー」ができました。
    そして、なんとまぁ、可愛いバレンタインのカードが立てかけてありました。
    彼女がそっと作ってくれていたのです。

    毎年3月1日には、常連さんを含む3年生が卒業生として去っていきますが、これから先の幸せを祈ると共に、年のせいなのでしょうか・・心の中にほんの少し、旅立っていく生徒に寂しさも感じるのです。
    本当に、どうか幸せに・・・・。
    たくさんのお手伝い、ありがとうね。

  • ●:引用 →:感想
    ●もちろん情報のリアリティーに違いはあるが、わずか14歳の少年がすぐに感じるレベルのことを、国家の命運を握る立場にあった軍人たちはまったく想像もつかなかったのだろうか。そこには、自らの原爆開発を断念するときに「アメリカも開発することはできない」と決めつけていた心理が影響を及ぼしているのではないだろうか。(略)情報を黙殺した背景に、自らに都合の悪い情報にはめを背け、そうした情報を「これは敵の謀略に違いない」と高をくくる軍部の姿勢がなかったか。(略)結局、戦争を継続し、本土決戦に持ち込むという考え方に固執する軍部にとって、情報は、客観的に捉え分析されるものではなく、自らの方針に合わせて都合よく解釈されるものになってしまった。軍部にとって、自ら作った”想定”が何よりも優先されるべきものだった。そして軍部は、アメリカが原爆を開発した事実に目を向けようとせず、テニアン島から謎の飛行を繰り返す”特殊任務機”の正体も依然不明のままとされたのである。
    ●「特情部の終戦処理の仕方については、西村部長とあらかじめ基本方針について相談してあったが、最終的には、西村部長が裁断を下した。その基本的前提は、どんな形で終戦を迎えようとも、日本という国が存在する以上、特情機関は何としても維持しなければならないということであった」そのため方策として考え出されたのが、ごく一部の幹部が暗号書や傍受記録など、必要な資料を分散して保持し、別人として暮らしながら、その身を隠すというものだったのである。その際、資料の担当を英米、中国、ソ連、通信など、部門ごとに決め、各部門のエキスパートひとりずつが、それぞれ資料を持ち、地方に逃避することになった。当面の生活費200円も与えられ、地方に分散した特殊情報部員は、それぞれの地で生業につきながら時の来るのを待つ、というものであった。
    →中野学校でも終戦直後に似たような動きがあった。本書ではまったく触れられていないが、組織の性質上、中野学校(人材)、登戸研究所(機材)、ヤマ機関(情報)などと交流関係があったと思われる。

  • この本は絶妙のタイミングで出版されたと思います。10年後であれば、この本で証言している人たちは殆ど鬼籍に入ってしまうだろうし、10年前であれば、守秘義務を気にして話されることが無かったと思います。この本を完成させるために、取材をされた労力は並々ならぬものであったと思われますが、その長い年月の努力の賜物を、数時間で読むことができる私は幸せですね。

    衝撃を受けたのは、日本の軍部はアメリカの暗号を解読できなかったにも拘らず、B29が基地とやりとりする際に使うコールサイン(本文の前に出されるサイン)は暗号化されていないことに着目して、発信元を識別したうえで、原爆投下直前にも情報をつかんでいたことでした。それを軍上層部に報告したにもかかわらず、それが活かされずに多くの人が亡くなったのは残念です。特に、この本では、2回目の長崎への原爆投下は、警報さえ出されていれば多くの人が助かったのではと述べています。

    大事な情報は公開されない、出されても後になってからというのは、昨年(2011)東日本震災直後に起きた原発事故でも私たちは経験しましたが、昔から変わっていないのですね、残念なばかりです。

    以下は気になったポイントです。

    ・長崎に原爆が落とされた時には空襲警報がだされることはなかった、本土防衛のために海軍には戦闘機部隊(紫電改)とそれを駆使できるパイロットがいた(p4)

    ・特殊情報部には、B29による空襲がいつ、どこに行われるかという
    情報が集まっていた(p23)

    ・海軍による外国情報の収集は、新座市の大和田通信所で行われていた、陸軍は北多摩通信所(p29)

    ・戦争半ばには機械化に遅れた日本はアメリカ暗号をまったく解読できなくなっていたが、暗号の中身がわからなくても敵の戦略意図を予測できる独自手法を、大和田通信隊で開発した(p41)

    ・発信元を識別するための冒頭につけるコールサイン(「2けたの数字+V+3桁の数字」)は暗号化されていないことに気づいた(p43)

    ・日本の原爆開発は1940年頃から理化学研究所の仁科博士が、陸軍の航空技術研究所に対して可能であると伝えて始まった(p78)

    ・陸軍が二号研究(原爆開発)に投じた資金は多く見積もって2千万円(500万ドル)であり、アメリカ(マンハッタン計画):20億ドルの0.25%、B29の開発には30億ドル(p84、105)

    ・当時の陸軍がウラン鉱石として目を付けたのが、福島県石川町(p86)

    ・日本本土への初めての空襲は、1944.6.16の北九州の八幡地区であったが、1944夏にマリアナ諸島が陥落してから、本格化した、対日爆撃の総司令部はグアム島(p106)

    ・司令官(ハンセル准将)は標的を日本の軍事施設・軍事工場に限定した精密爆撃に拘ったため、効果が薄いとして1945.1.20に更迭、カーチス少将が指揮を執るようになって焼夷弾を用いた地域爆撃となった(p106)

    ・原爆目標検討委員会では、京都・広島・横浜・小倉がリストアップされ、京都と広島は特に有望とされた(p120)

    ・1945.7.16に核実験に成功したのは、長崎型のプルトニウム型(p125)

    ・1945.6.30になって陸軍は、すべての航空部隊をまとめて航空総軍として編成し、敵機に対して有効な反撃を行う指示「制号作戦」が出された(p133)

    ・1945.8.8に通信班にお金(10円:現在の物価で2万円)が配られた(p174)

    ・当初の予定の小倉が変更となったのは、前日の八幡製作所の空襲による煙により目視ができなかったから(p186)

    ・長崎原爆投下の一日前の空襲に対して、343航空隊に配備されている紫電改も出撃していて、B29が飛ぶ高度1万メートルでも飛行可能でB29に対抗しえる数少ない戦闘機であった(p190)

    ・当時、3発目の原爆がテムニン島(B29出撃基地)に到着するのは早くとも9月になると見込まれていた(p216)

    ・原爆投下後の調査は、陸軍省医務局から東京帝国大学に主導権が移された、医務局と東大との密接な関係、軍部解体による(p249)

    ・原爆投下による残留放射線は人体に影響をおよぼすほどの被爆をもたらしていないというのが、アメリカ、そして日本政府の共通の見解(p275)

    ・原爆投下後と東日本震災後の政府の対応には類似点が多い、1)被害の実態を過小見積もり、炉心溶融も認めず、2)敗戦後に諜報記録の焼却、原子力災害対策本部の議事録を残してない等(p278)

    2012年3月24日作成

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