聴衆の誕生 - ポスト・モダン時代の音楽文化 (中公文庫 わ 22-1)

著者 :
  • 中央公論新社
3.94
  • (10)
  • (14)
  • (8)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 209
感想 : 17
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (325ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122056077

作品紹介・あらすじ

クラシック音楽の演奏会では厳粛に耳を傾けるという聴取態度は、決して普遍的なものではなかった。社交界のBGMだった18世紀、ベートーヴェンの神話化、音楽の商業化、軽やかな聴取…文化的、社会的背景と聴衆の変化から読み解く画期的音楽史。第11回受賞作。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  初版1989年、増補1996年、文庫化2012年。
     クラシックの演奏会の、現在の聴取マナーのようなものや「楽聖」等の神話化が出来ていったプロセスを、19世紀の演奏会の歴史に沿って明かしていくのが最初の方。
     それから20世紀になって自動ピアノとか複製、カタログ文化、商業主義などが目立っていき、いよいよポストモダン期に至って「軽やかな聴取」が席捲する、という点を著者は強調する。
     何と言ってもボードリヤールのケレン味ある思想に興奮していた、日本80年代のポストモダン期である。その文脈で見ればこんな考え方にもなるかなという感じだった。
     96年の増補版で加えられた補章では、本文をものの見事に相対化し、「今の考え方は違う」と転向してしまっている。バブルがはじめて不況が到来し、日本は新しい、暗い時代に突入したのである。
     このように、面白くはあっても、本書のパースペクティヴは「あの時代のもの」という限定を付けざるを得ない。それでも、なかなか興味深い指摘もあってそれらは一概に無効とは言えないと思えるし、結論や描く将来像に古さはあってもその前段階の分析は有効であるという気がする。
     そんな部分については、なかなか参考になる本だ。私の言葉で言えば、19世紀ヨーロッパのベートーヴェン崇拝は確かに「権力」そのものであったし、権力であるからには、外部を除去するためには暴力も活用したのである。
     その権力を否定し身を反転させようとしたのが20世紀であったが、ある程度ポストモダンの勢いが減退したとはいえ、古い権力がそのままで復活するなんていうことは無い。知の権力に対して経済の権力こそが現在もっとも凄まじいのだが、我々は権力による暴力や疎外に屈することなく、一人一人の生命を全うしなければならない。出口は個人の中にしかないのかもしれない。

  • 聴き方の変遷はけっこう渡辺史観に影響されてるわ

  • 壮大だった。1989年の初版に、1996年に補章が加えられたものを、2012年にあとがきを足して文庫化された版を読んだ。

    以下、1996年の補章より。
    「真の歴史的事実」などというものは実はないのであって、それぞれの時代によって理解された「事実」があるにすぎず、その「事実」が時代の中で様々に変化しつつ、文化を形成してきたと考えた方が理にかなっているのではないだろうか。


    この文章を踏まえると著者の言う「軽やかな聴取」がより深く、面白く感じられるように思う。読み応えがあって良かった。再読必須。

  • シンと静まりかえった客席で、ひたすら耳を傾ける演奏会の風景は近代になってからのもので、現在クラシックと言われる音楽が現役であったころには、貴族の社交の場におけるBGMであったという導入から始まって、音楽を聴く姿から、その聴衆に対峙する演奏の姿までを論じており、クラシックを聴きに行く私にとってはもちろん、あまり聴きに行かないという人も面白く読めそう。

    発表されたのがバブル期であったせいか、クラシックを聴きに行くことに特別感がありすぎる描き方をしているように思える部分もありましたが。自分が演奏会を聴きに行くときのことを振り返ると、演奏をしている方への敬意はあるけれど、修行のように静まっているわけではないし、隣の席でプログラムをめくるのはともかく、ビニールをガサゴソされたり、ぼそぼそ話されるのは楽しむ気持ちに水をさされる気がします。一方、対比してロックのコンサートではと挙げられているけれど、私はロックでも座って聴きたいし、手拍子はともかく、観客の合唱より出演者の声や演奏が聴きたいけれどなあ。

    神格化、偶像化される「巨匠」がなぜ行われたか、パガニーニのヴァイオリンやリストのピアノを聴きに行く形から、「演奏」でなく「作品」を聴きに行くのが良しとされるようになり、パガニーニらが「ヒーロー」であったのが作曲者が「ヒーロー」に仕立て上げられたというのも面白かった。

    複製芸術の普及による聴衆の変質が非常に大きな転換として取り上げられていました。ちょうど昨年末に読んだベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」でも論じられていた「アウラの消失」について論じられていました。ただ、この本では増補版発行時に、初版の後の7年の変化がくわえられましたが、その1996年以降の内容は文庫版でも加えられていないので、インターネットの登場、音楽のネット配信、曲ごとの個別ネット販売、無料での配信といった、音楽を聴くことへの影響がより大きいと思われるネット普及後の内容が書かれていないのは残念でした。その辺りを論じたものをぜひ読んでみたい。

    グールドの「継ぎはぎ」による録音デザインでの新しい音楽への試みは初めて知ったので興味深かった。聴き手が自分の好きなようにテンポやピッチを調整し、編集して聴取する時代というのは、まさしく今来ていると思います。アルバムを頭らか順に聴く制約もなく、曲ごとに、それも頭の辺りを聴いて気に入ればそのまま聴き、気に入らなければ他の曲に移ると言う、まさに本で言われている「軽やかな聴取」が現在、行われていると思います。それは聞き手にとって自由度の高い環境ではありますが、読書会の参加者の方が言っておられた「交響詩などを続けて聴くことによるドラマ性」は届けにくくなっているように思います。そして本書でいう「垂直方位」の消失、「価値の平板化・水平化」というのは、現代にも、十分あてはまるように思います。

  • 後ろでブーニンのベートーヴェン《ワルトシュタイン》(ピアノソナタ第21番ハ長調作品53)が鳴っている。私は晩年のバックハウスのしっとりと艶のある《ワルトシュタイン》も好きだけれど、ブーニンのまさに疾風怒濤、Sturm und Drangな演奏も嫌いではない。青い空の下、広い草原を猛スピードで駆け抜けていきながら、しかし極めて精緻で正確なピアノタッチは聴く者の心を掴んで離さない。

    さて、本書。
    18世紀、モーツァルトやベートーヴェンらが活躍した時代から、ベルリンの壁が壊れるちょっと後くらいまでの音楽、殊にクラシックの「聴かれ方」に焦点を当てて書かれた論文である。18世紀から遥々こちらに走ってきたわけで、やや総花的になっている感が否めないではないが、要所要所の記述は種々の研究を踏まえて書かれていてとても興味深い。また所々にベートヴェンがキリストになっちゃった話や、掃除機をうっとりと眺める10等身の女性たち、冷蔵庫の扉を肴に酒を飲む紳士淑女なども登場し、読む者を飽きさせない。

    音楽を巡る状況は、本書が書かれた頃よりも大きく変化を遂げながら現在に至っている。本書で出てくる《コンパクトディスク》(今の10代くらいに《コンパクトディスク》といっても通じないだろうな)から、MDが出現し、ウォークマンのように音楽をスマートに外に持ち出せるようになったかと思うと(MDはカセットテープのようにかさばらず、テープがびろびろしたりしない)、あっという間にMDは廃れ、デジタル音源をしかも1曲単位で買えるようになった。欲しいところを欲しいだけ買えるようになった。クラシックの曲も例外ではない。またYouTubeなどの動画サイトにより、演奏会でアーティストが演奏している映像も見ることができるようになった。しかも無料で。こうしためまぐるしい変化はこれからも加速しながら進み続けるだろう。「軽やかな聴衆」はより軽く、綿毛のように鼻息で飛んでいくくらい軽くなっていくだろう。

    他方で、このような状況が普通になっていると、ライブに行った時の感動は一入だ。楽器が間近で鳴り、空気を振動させて、我が身にぶつかってくる衝撃は言葉が追いつかない。

    生物学者福岡伸一氏は、「動的平衡」と言った。
    音楽も例外ではなく、「動的平衡」を保つだろうと私は思っている。軽やかな聴かれ方がどんどん進んでいくと、ある所で振り子は大きく揺れ、しっかりと聴く音楽の復権が次第になされていくだろう。

    語ることが尽きない一冊だが、この本に出てくるいろいろな曲を後ろでリアルに掛けながら、読み進めるのも楽しそうだ。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784122056077

  • 『ソーシャル化する音楽/円堂都司昭』にて紹介されていたので試読。
    本書で述べられていることは至極シンプルで、自動ピアノや環境音楽など様々な例を挙げられているが、主張していることはただ一つ。
    かつての芸術音楽 対 娯楽音楽という図式は、複製技術の発展と大量消費社会の到来によりもはや通用しなくなり、聴衆は全てがフラットになった世界で各々が好き勝手に聞きたいものを聞くようになった、という聴衆の変容を描いている。
    現代では当たり前に思えることだがそれを80年代に既に語っていてたという部分は評価するが、内容的には少々薄っぺらく読み応えもなかったので☆3つという結果。

  • 18世紀のモーツァルトの時代あたりから、西洋古典音楽がどのように聞かれてきたかを追った一冊。整理し過ぎかなと思える感じもあるが、総じてとても良くまとまっているし、読んでいて面白い。原著は1989年で、当時(というには少し時代が遅いが)のポストモダン的な解釈図式から論じられている。主に18世紀をプレモダン、19世紀をモダン、20世紀をポストモダンに振り分けながら(p.281)、西洋古典音楽という「高尚な」音楽の成立と、その変容を述べる。

    現代の西洋古典音楽の聴き方に見られる、静まりかえったコンサートホールで一心に過去の名曲に聴き入るような演奏会のあり方は、元々あったものではない。それは、19世紀に起こった社会構造の変動の置きみやげである(p.75)。18世紀にはこんな聴衆はいない。倫理的で音楽を集中して聞き、低俗な聴き方をしない規範的な聴衆は近代人の神話(p.80)である。こうした静かに聞く演奏会は19世紀から見られるものであり、それは音楽文化の聞き手が貴族からブルジョワへ移行したことを意味している。著者はこのことをまず楽譜出版の分野でのマスカルチャー化に見ている(p.30f)。

    ブルジョワへと普及した音楽は、パッと見て印象の強いヴィルトゥオーゾの興隆を生み出した。これに対してまじめに音楽を聴く人たちが分離して成立する。これはポピュラーとクラシックの分離のはしりだ。やがてヴィルトゥオーゾの熱が冷めると真面目派の論調が音楽会の潮流を支配する。識者とミーハーの軸、ヴィルトゥオーゾと過去の巨匠という対立軸が生まれてくる(p.31-37)。こうして高尚な「音楽家」の像が成立する。18世紀までの音楽家は芸術的良心に基づいた自立した存在ではない。19世紀になってからの巨匠の描かれ方は、19世紀的な見方を反映しているのだ(p.57)。こうした芸術的良心に従い、一つの完成された作品に向かって精力を傾けるという音楽家の像は、現代では薄い。例えば、様々な異版の録音の氾濫に、こうした音楽家の像を否定する動きを見ることができる。特にブルックナー8番に対する、第一次世界大戦を挟んだハースとノーヴァクの態度の違いが顕著(p.154-158)。

    一方でこうしたモダンのまっただ中で、ポストモダンは準備されていた(p.290)。著者は単純な、機械的繰り返しというアイデアにこれを見る。まず自動ピアノの熱狂。自動ピアノによって、コンサートホールにピアニストの演奏を聴きに行くのとは違う音楽体験が夢見られる(p.122)。あるいはサティ。単純な繰り返しで表現性を排除し、解釈を不可能にしている。それは真面目に音楽を聞き、主題や変奏などその構造を解釈しようとする19世紀的聴衆を拒否して、新たな聴衆を求める最初の試みだ(p.127-129, 239-243)。

    日本におけるブーニン・シンドロームもこうした文脈に位置づけられる。それはヴィルトゥオーゾのショーの再来だ(p.201-210)。真面目な音楽を志向し、娯楽性を放逐しすぎたことの振り戻しであって、現代の聴衆は近代からみれば芸術の堕落かもしれないが、近代の高級音楽が切り捨てた可能性の復権かもしれない(p.173)。機能や意味が確立された大人の文化から、子供の文化への移行が現代の聴衆の中に見て取れる(p.274-277)。

  • 非常に興味深い。
    読みやすく面白い。

全17件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

東京大学大学院人文社会系研究科教授

「2007年 『ピアノはいつピアノになったか?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

渡辺裕の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×