ある明治人の記録: 会津人柴五郎の遺書 (中公新書 252)

制作 : 石光 真人 
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121002525

感想・レビュー・書評

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  • 再読。柴五郎は安政6年(1859年)会津藩の上士の家に名前通り五男として生まれ、数えで10歳のときに戊辰戦争~明治維新を経験。母、祖母、兄嫁、姉、そして7歳の妹までが、籠城戦の前に自刃。彼は幼かったため親戚の山荘に引き取られ生き延びるが、敗戦後は父や兄と共に謹慎所へ送られ、のち斗南藩へ。斗南で塗炭の苦しみを舐め、廃藩置県後は青森県知事の野田豁通のもとで働くことになり、やがて東京に出て士官学校に入学、陸軍に進み、中国での義和団の乱、日清・日露戦争などを経て、最終的に会津人では初めての陸軍大将にまで昇進する(それまでは山川浩の少将が限界だった)第二次大戦後の昭和20年12月に数え87歳で死去。戊辰戦争から第二次大戦まで見届けた稀少な軍人。

    本書は、一見自伝のようではあるが、五郎が晩年に書いたあくまで遺書であり、戊辰戦争から、西南戦争までの10年ほどの少年時代の記録のみとなっている。彼はこれを戊辰戦争で亡くなった多くの人への追悼の気持ちをこめて記し、それを持って墓へ入るつもりだったのだろう。本書の編者である石光真人は、父親の石光真清(彼にも『城下の人』https://booklog.jp/item/1/4122005507という自伝がある)が五郎と親友で、その石光真清の叔父がかつて五郎がお世話になった青森県知事の野田豁通という縁があり、五郎からこの遺書を筆者する許可を得、さらに本人から直接話を聞いて補い、この1冊にまとめた。

    この五郎の遺書の中でもっとも強い印象を残すのは、斗南藩時代の苦難の描写。会津藩について、白虎隊の悲劇などについては良く知られているけれど、敗戦後どうなったかはあまり知られていないと思う。戦争責任をとって家老の切腹、藩士たちの謹慎、そして彼らの助命嘆願とお家相続の望みがなんとか叶い、松平容保の嫡男でまだ3歳の容大を藩主にたてて下北半島の一部で斗南藩としての再建を許される。しかしこの斗南の地は厳寒不毛の地で、希望に満ちて北へ向かった会津藩士たちは悉くその希望を打ち砕かれる。

    飢餓にあえぎ、父、兄らと共に暮らしていた柴五郎も、死んだ犬の肉を食べることになる。それを吐いてしまった五郎に、父親はこう言う。

    「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なけれな、犬猫たりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるそ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」(64頁)

    五郎は「この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、(中略)はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」(74頁)と嘆く。会津贔屓の私は涙なしに読めない。

    幸か不幸か、明治4年の廃藩置県により、この斗南藩もわずか2年ほどで消滅する。藩士たちは斗南に残る者、会津に帰る者、北海道へ渡る者、東京へ出る者など散り散りになる。五郎は最終的に東京へ出て陸軍幼年学校に進み、明治10年、まだ士官学校在籍時に、西南戦争が勃発。五郎は出征できなかったが、当時の日記に彼はこう記した。「「芋(薩摩)征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」(115頁)

    薩長の藩閥政府への憎悪、とくに薩摩藩への憎しみというのは会津関係者は本当に大きかったのだろうなというのが、そこかしこに垣間見られる。西南戦争での西郷の死に続き、翌年大久保利通も暗殺されるが、この二人について五郎は以下のように述べている。

    「この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局自らの専横、暴走の結果なりしとて一片の同情も湧かず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。」(120頁)

    遺書は、この時期までで終わっている。実際に戊辰戦争を体験した会津人の貴重な生の声、読む価値のある1冊。もっとたくさんの人に、彼らの想いを知ってほしい。

  • とても面白い。
    そして激動の時代を生き抜いた祖先に敬意を抱く一冊。
    私は恵まれている。

  • 岡田 英弘先生は「歴史とは、人間の住む世界を時間と空間の両方の軸に沿って、一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で把握し理解し説明し叙述する営みである。」と定義した。歴史は自分の立ち場を正当化する武器になる、とも。

    歴史が理解・説明・叙述の行為であるあるなら、そこには立ち位置、スタンスと言うものがある。

    この本は朝敵といわれた会津藩から見た歴史書と言えるだろう。会津戦で自刃した祖母・母親・姉妹達に関する記述には涙を禁じ得ない。

  • 会津人柴五郎が残した記録。時期は戊辰戦争の会津落城から西南の役くらいまで。

    現在殆どの人は知らないであろう会津藩のその後、全ての日本人に読んでほしいと強く思う。現在の学校の歴史の授業では絶対教えることの無い内容。

    かくいう私も会津から北海道へ開拓で移住した人々の子孫。先祖の艱難辛苦を改めて知ることができた。

    歴史は勝者が都合良く作るというのは確かな事実だろう。靖国神社が戊辰戦争のいわゆる賊軍を祀っていないことをどれだけの人が知っているのか。現在の自民党でも藩閥政治の名残りが強くある。

    貴重な一冊。さすが中公新書。

  • 柴五郎はあの義和団によって北京が包囲されたとき、勇猛に戦い、援軍がくるまでの間各国の大使館をも守り、西洋人の信頼を得て、のちの日英同盟のきっかけをつくった人として知られている。ぼくもずいぶん昔に本書を買ったのだが、そのままになっていた。今回手に取る気になったのは、内田樹さんが新聞で本書を推薦していたことがきっかけである。会津人の戦いについては、さきにNHKの大河ドラマで新島襄の妻八重を描いた『八重の桜』で知っていたが、本書を読むと幕府軍の残酷さがひしひしと伝わってくる。明治維新の見直しが昨今言われているが、会津藩主の容保は京都守護職として朝廷を守っていたにもかかわらず、徳川慶喜がだらしないものだから、いつのまにか朝敵にされ、しかも、恭順を願い出たにもかかわらず薩長軍によって総攻撃を受けた。さらに、かれらは公称3万石実質7千石という下北半島の火山灰地に配置換えされ、ことばでは言えないほどの苦渋をなめさせられた。しかし、その中でも何人もの逸材が出ているのは、会津人の不屈の精神のなせるわざではあるが、当時藩閥跋扈の世にもかかわらず逸材を取り立てようとした人々がいたことも事実である。柴五郎は当時まだ10歳でものごとがよくわかっていなかったが、祖母、母、姉妹は自害し、兄たちも戦死するものあれば、藩の罪を背負って何年もの間獄につながれたものもあるという悲惨な環境下で育ったが、さいわい取り立ててくれるものがあり、陸軍幼年学校に入り、最後は陸軍大将の位まで昇った。本書はその柴五郎が幕末の戦いからはじまり、四番目の兄(のちの東海散士)がアメリカへ留学するところで筆を折っている。あとの部分や柴が述べなかった部分は編著者の石光氏の「柴五郎翁とその時代」が補って詳しい。石光氏は、柴が亡くなる昭和20年の数年前に本書のもとになった原稿を託され、読みながら不明の箇所を尋ね書き上げたという。中公新書本は1971年の出版なので、その間になんらかの形で出されたものか。石光氏は本書が衝撃の書と述べている。明治100年からまもない当時からすれば確かにそうであろう。ただ、ぼくは柴が抜擢されたあと、家のことを思えどなにもせず、しかも牢につながれた姉のことをそのあとなにも書いてないのが気になった。また、貧乏な暮らしをしたせいか、性格的に屈折してしまっていることも気になった。西南戦争のとき会津の人々は競って討伐軍に加わろうとした。つまり、それはあくまで私憤から出たものであった。この五郎青年がその後どうやって世界から賞賛され、将軍にまで登ったか知りたいところである。(ネット出調べると光人刊から村上兵衛『守城の人』1992年が出ていた。本書は600頁を越える大著でぼくは今この本に挑戦している)

  • 会津藩士柴五郎の手記を、石光真人が編集、後半部に第二部として”柴五郎とその時代”という簡単な略伝のようなものを付け加えたもの。ちなみに石光は、熊本県士族でのちに近衛士官、日露戦争にも従軍した石光真清の長男。兄は元白虎隊士、自身はのちに陸軍大将にまでなった柴五郎の戊辰戦争から明治11年まで収録されており、いわゆる”賊軍”出身者からみた明治維新がよく分かる。が、一部に石光の脚色が加えられていることなどが現在ではわかっており、読む際は若干注意が必要。

  • 会津の居酒屋 籠太 の個室に掛けられた、柴五郎の書(掛け軸)を見て、改めて手に取った、ある明治人の記録(会津人 柴五郎の遺書)であります。会津に対する新政府の非道な扱い等に思いをはせつつ、読んでおります。会津城主の松平容保は、1836年の生まれ、鶴ヶ城落城後も命を長らえて1893年に逝去(尚、坂本龍馬も1836年生まれ、同い年)。その容保の孫が皇室(高松宮)に嫁ぐことで、会津藩と新政府(朝廷)は和解した、という事なのでしょうか。柴五郎(1859~1945:年若く白虎隊等に加入できず)が、遺書として残したものが、戦後(太平洋戦争の事です)出版されて、今も版を重ねているようです。明治維新とは何だったか等、色々考えさせらる本です。★5つであります。

  • 2007/11/05読了

  • 明治維新の重要な人物について、色々な本で読んできたが、会津側(幕府側)の方の伝記は初めて読んだ。明治維新の裏側ではこういうことが起こっていたのかと、とても驚いた。素朴な素直な文章で書かれていて、飾りもないゆえなのか、とてとどっしりと気持ちが伝わってきた。明治維新の話に興味がある方は是非読んでほしい。

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