- Amazon.co.jp ・本 (128ページ)
- / ISBN・EAN: 9784120050213
作品紹介・あらすじ
仕事が終わった。今日は金曜日。明日あさっては休みで、特にこれといった用事もない。つまり今夜から日曜の夜まで、子どものころの「放課後」気分で心おきなく本が読める!
――小さなアパートで父と母と3人で暮らした幼少期の思い出を軸に、いつも傍らにあった本をめぐる断章と、読書のススメを綴った柔らかい手触りの書き下ろしエッセイ集。
感想・レビュー・書評
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著者の子ども時代の頃が、ゆるゆると綴られている。
同年代なので、地域は違えど状況に懐かしさを覚える。
図書室に通い本好きであったことも共感できた。
本には「読む時間」の前に「選ぶ時間」がある。
もしかすると、読んでいるときと同じくらい選ぶ時間を愉しんできたかもしれない。
このことばにも頷けた。
私の中での記憶も小学生低学年か中学年頃だろうか…叔父さんがプレゼントしてくれたタイトルは、「あゝ無情」だったと思うが、この一冊の本が読書好きになるきっかけだったと思う。
本によって感動を覚え、図書室に足を運ぶようになった。
そして、いろいろな本を探し、選ぶということも愉しみにしてたのだと思う。
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著者の幼いころの出来事が流れるように綴られた1冊。
篤弘少年は、おとなしく、無口で、いつも本を読んでいた、と周囲の大人が評するような男の子でした。
ゆるゆると綴られたいくつものエピソードは、懐かしい映画を観ているようで心惹かれます。
エッセイでは、活発な一面も、友達との思い出もありますが、少年時代から一人の時間の魅力にも無意識のうちに気付いていたように感じられました。
本を読む楽しさだけでなく、本を選ぶ楽しさも書いてくださっているのが素敵。
ずらりと本が並んだ書店や図書館で「さぁ、今日は何が見つかるかな?」と、みなぎってくるわくわく感、本が好きな人にはたまらないですよね。
後半には短編小説「窮鼠、夜を往く」が収められています。
吉田さんの綴る物語のエッセンスが凝縮されたような、贅沢さを味わえました。 -
本書はブクログを徘徊中に目に止まった、ただただ『題名』になんとなくひかれた本で、図書館にあったので借りてきた。
ブクログのアプリ版の方では、自分の本棚内で、自分が作ったカテゴリやタグとは関係なく検索ができて便利だとわかった。
そうして『吉田篤弘』さんで検索したら、自分の本棚内に本書を含めていつのまにか6冊もあったので、新しくタグも作った。
しかし、私は著者とどうも相性が悪いような気がする。
同年代なので時代の懐かしさから、著者の子供時代の(なんの脈絡もなく書かれている)文章をなんとか頑張って読んだが、正直言って全く面白くない。
子供時代の部分に、「緑のおばさんに怒られた」という文が出てくるけれど、私と著者よりちょっと下の年代以下の読者には全くなんのことだかわからないだろうし。
ご本人は、周りの友達が裕福な家の子達ばかりで、自分は裕福ではないことをクラスメイトに隠していたと書いているが、なんのなんの、同年代だからこそわかるが著者は充分恵まれた生活をしていたじゃないの。
お母さんも伯父さん達もいとこ達もハイカラだし、子供の頃に飛行機に乗って屋久島に旅行に行ってるし、欲しいものはアレコレ(高いもの)買ってもらってるし、お父さんは車を運転する人なので著者も乗せてもらってるし…
何よりお父さんお母さん親戚がみんな優しい。
私の子供時代とは雲泥の差。
そういう僻み根性が入ってしまって面白くないのかしら?と思ったけど、そんなことはない。
たとえ超お金持ちの嫌味で贅沢三昧なお話を読んだとしても、読ませる書き方なら普通に楽しめる。
本書に1編だけ入っている短編小説も私にはついていけないタイプで、すっ飛ばしてしまった。
単に文章との相性の問題。
申し訳ない。
たまたま今、他に題名に『水曜日』と入っている本を借りている。
『題名に曜日』というタグを新たに作ってみた。
あと3冊(3つの曜日)も図書館で揃いそうなので追々借りてこよう。 -
自分の小さい頃を思い出しました。
何も無かった、あの頃。
何も無かったけど、何かが豊かだった。
何も無かったあの頃に、戻りたくなった。
吉田篤弘先生より10歳くらい下ですが、うんうん頷いちゃいました(*´╰╯`๓)♬ -
本は、読む以前に、
出逢うこと、選ぶことがある。
大人は、本を読みなさいと言うわりには、
出逢い方、選び方は教えてくれなかったな、と思う。
借りる本と買う本の違いなどもなるほどと思う。
本を買うことは、
その本を読むという未来を買うということ。
本当にそうだな、と思う。 -
『本とつきあうときはひとりでいることが重要なのだと子供ながらに気づいていた。土曜日の学校帰りだ。あのころは土曜日が金曜日だった』―『路地裏の猿』
ああそう言えば土曜日の午後は何を置いても草野球だったなあ。そして野球が終わった後も暗くなるまで遊び続けた。
クラフト・エヴィング商會の吉田篤弘の昔語りは、いつもうっかり信じてしまうような語り口(「あとがきのような話のつづき」には本当にあったことだと綴られているけれど、要注意)。しかもうっかり信じてしまうだけではなくて、何故だか忘れていたような昔のことをいつの間にか思い出したりするのだ。
『メンマ工場と菓子工場のあいだに、ドイツから転校してきたB君の家があった。B君は少し太っていて、まつ毛が長く、横長の変わった形をした焦茶色のランドセルを背負っていた』―『架空バス』
例えば、横長の焦茶色のランドセルという言葉から、坂田くんのことを思い出すと同時に草野球のことも思い出す。野球が上手だったから、ではなくて、坂田くんの動作がとてもぎこちなかったからだ。大袈裟な動きでピッチャーの球を受け止める坂田くんは、よく足の速い子に「ミットはストライクゾーンに持って来ないとダメだ!」と注意されていたっけ。
坂田くんがドイツの小学校から転校してきたことは、家に遊びに行ったときに見せてもらった横長の焦茶色のランドセルを見せてもらうまで知らなかった。ぼくらと一緒に遊ぶようになるまで野球をしたことが無かったんだなということは大人になって後からわかったこと。
和泉くんの家には大きな秋田犬がいて、初めの頃は広い庭に放されていたけれど、その内に頑丈な檻の中に入るようになった。一緒に遊んでいても怖い思いをしたことはなかったので可哀そうには思ったけれど、和泉くんの持っていた「のらくろ」が見たい気持ちの方が強くて秋田犬のことにいつまでも気を取られてはいなかった。そう言えば和泉くんの家の方に絵の上手な同じ保育園出身の子が居て、洋風の家で一緒に鉄人28号の絵を描いたりして遊んだのだけど、その子に本物の拳銃のようなモデルガンを見せて貰ったことがあった。「秘密だよ」と言われて誰にも言ったことが無かったけれど何故か急に思い出した。
薄い茶の色付き眼鏡をしていた中島くんとは何故か仲が良かった。お互いに鍵っ子だったからかも知れないけれど、中島くん以外は誰もいない彼の家に遊びに行ってはツル・コミック版のピーナッツを飽きることなく黙って読み合った。そういえば中島くんの眼鏡に色が付いていたのはどうしてかなんて、その頃は疑問にも思わなかったのに今気が付いた。
「木挽町月光夜咄」の時もそうだったように、吉田篤弘の語りは、本当にあったことと作り変えられた記憶が奇妙に地続きで混在している。あるいは事実と想像が上手く混ぜ合わされていると言ったらよいか。そう言いながら、本当にあったことと作り変えられた記憶とが一緒くたになっていないことなんてあるのかなとも考え直す。寧ろ過去の記憶なんて自分の都合の良いように脳内で再構築されているものと考えた方が安全だとの見方もある。でも何故か、そういう嘘とも本当とも区別のつかない記憶の物語を辿るのには麻薬のような魅力がある。もちろん、中毒になったりしないよう、余りそのノスタルジックな世界に逃げ込まないようにしなければならないけれども。 -
エッセイと短編小説。
久しぶりに本を読みましたが、1時間くらいで読めました。久しぶりだったので、少し頭を使ったけれど、面白かったし、読みやすかったと思います。あとがきに書いてあった、「金曜日の本」というタイトルの由来が好きだなあと思いました。本を読むことに慣れてきた頃に読み直せばもっと面白いと思うので、また読み直したいと思います。 -
子供を持つ日が来るのなら、吉田さんのご両親みたいになりたい。おふたりが居たからこそ吉田さんが吉田さんになったと思う。本を買うのは未来を買うのと同じ、本には読む前と選ぶ時間がある。このふたつは本当に刺さります。
大好きなんです -
作者の少年時代の記憶を辿るエッセイに小説が付いている。
本と音楽に魅了されていて好きな物に出会えた反面どこか寂しさも感じる。
読んでいるときと同じくらい選ぶ時間を愉しんでかたかもしれない。
現状にとても滲みる一文。ますます本屋に行きたくなった。
いつもいいね!をありがとうございます♪
『読んでいるときと同じくらい選ぶ時間を愉しんできたかもしれない』
うん!うん...
いつもいいね!をありがとうございます♪
『読んでいるときと同じくらい選ぶ時間を愉しんできたかもしれない』
うん!うん!そうですね!
そして、私の読書好きになるきっかけだった本も「あゝ無情」でした!とってもとっても親近感です!
これからもよろしくお願いします♪