- Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
- / ISBN・EAN: 9784120046711
作品紹介・あらすじ
毎日外で遊んだ、たまに木の上で物思いにふけった。子どもだった日々が人生の後ろ半分を支える。
感想・レビュー・書評
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久しぶりに保坂和志さんの本を読んだけれど、保坂和志っぷりというか濃度の濃い保坂和志というか、昔カンバセイションピースを何度も読み返していた頃の20代の自分も思い出しながら懐かしさも感じながら、全身で保坂和志を読んだという感じがした。
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いやー、すごいなこれ。
今までいくつか読んだ保坂和志の小説も、これといった起承転結もなく徒然なるままに終わるものだったけど、今作はさらに振り切れていて、因果関係やシークエンスとしての物語性を完全に放棄している。
その意図はあとがきに記されているが、それにしても新聞連載なので見開き2項×185回=全370項がとりとめのない幼少時の断片的な記憶とそれに纏わる諸々の回顧で埋め尽くされている。
ぼくは元々、ロッキング・オンの「2万字インタヴュー」(インタヴュイーが幼少時の思い出や成長過程での印象的な出来事などを独白する企画)が大好きで、人のそういった話を聞いたり読んだりすることが楽しくてしようがないし、この作品のほぼ全てを占める鎌倉という土地/街が思春期を過ごした思い出深いところなので充分楽しめるのだけど、保坂和志、苦手な人にはほんと読むことが苦痛だろうな…とも思わずにいられなかった。 -
(2014.4.25)
読売新聞朝刊連載の「朝露通信」がおもしろい。毎朝楽しみである。昨年の11月に始まったらしいが気づいたのは3月下旬。ふと目にすると鎌倉の長谷観音あたりでの幼少時代の事が綴ってある。たしかホサカ氏とは学年が同じだったはず、と思い、何よりもその1週間前に舞台になってる長谷観音、大仏、鶴岡八幡宮、江の島と鎌倉黄金ルートをハトバスでめぐってきたばかりだったのだ。なので書かれてる道筋がくっきりと読んでて頭に思い浮かべることができて、いっそう面白くなった。
文が「、」が続いていつ終わるともしれないのが最初読みずらかったがそれも慣れてきて、最近はこの文体は中身にすごくあってるのではないかと思えてきた。保坂氏のホームページを見ると、読売連載開始にあたっての記事が載っていてそれには、記憶の小さな断片を書き、それで読者自身の記憶を喚びおこす、そして読後この小説は朝露のように消え去り、読者自身の幸福な記憶が残る、それが理想だ、と書いてあった。
まさに朝一回の記事が、サトイモの葉の(氏は蓮と言っている)丸く盛り上がった朝露の集まりのようである。連載では保坂少年は行きつ戻りつしてるがおおむねひとケタの子どもである。それは1960年代、昭和35年から40年代前半。今の鎌倉とはちょっとちがった昔の漁村といった感じさえする空気があり、それは自分の育った町の記憶とリンクして、まさに読者自身の記憶を喚びおこしている。 -
大家族だった親世代の叔父叔母従兄弟達との関わり、近所の子供たち、実家のある山梨と引っ越し先の鎌倉、等々を幼年期から徐々に想い出しながらの見開き2ページの連作。かなり私的な内容ではあるが、子供視点の捉え方など自分との共通点も多く、自分で幼年期を綴っていけば、似たようなことがありそう。
新聞連載でつまみ読みにはよさそうだが、一冊にまとめられて集中して読むにはつらい。 -
世間並みの人付き合いがどうにも苦手である。
すると、お中元なるものが贈られればとてもドキマギしてしまう。
こちらからも贈り返せばいいのだろうが、
どうにもそれだけで済むことでないような気がする。
贈り物とはそのようなもので、ただ物を送りつける以上のことだと思っている。
朝露通信という表題は覚えている限り出てこない。それは説明するのが恥ずかしいくらい当たり前のことで、つまりはこの紙の束が朝露通信だと言っている。
この紙の束はおそらくもっとバラバラで、時にはしわしわになった手紙であったに違いない。幼少のことを中心に、鎌倉のこととか、山梨のこととか、とりとめもなく書き綴られている。それは、ずっと耳を傾ける必要もないくらいとりとめがないので、おそらく自分の小さな時はどうだったろうと考えずにはいられないだろう。
そうやってサボっていると「あなた」と呼びかけられたような気がして引き戻されるが、決して僕が呼びかけられたわけでないことに気づく。恥ずかしい。
とても個人的なことばかりだが、贈り物にして届けたいものなんてどうせ個人的なことしかない。それを小説の言葉に残すにはどうしたらいいか、そういった試みが見られる気持ちのよい小説だ。
試みがあざとくて悔しいので星5つは差し上げません(笑 -
保坂さんの空間記憶と肌感覚の叙事的光景を覗かせてもらったが、
生きることそのものに接近できたのであろうか。
人は孤立していない。一人一人は閉じられた存在ではない。
人は別々の時間を生きて大人になるが、
別々の時間を生きたがゆえに繋がっている。
最後のセンテンスは私にはよくわからなかった。 -
保坂和志「朝露通信」http://www.chuko.co.jp/tanko/2014/10/004671.html … 読んだ。いい。幼年期の記憶が60年代当時の風俗と一緒に語られる。あとがきにある、朝露の一滴が世界を映す、のとおり、1話は断片でもそれを入口に自分の記憶へつながり、時間も思考も遠大に広がる。無数の水滴(つづく
相変わらず起承転結も感情描写もなくて事象だけ淡々と延々と書かれる。感傷と懐古趣味を排したスタンドバイミー(あの映画は嫌いだ)でも朝顔日記ではないところがすごい。あたりまえか。最近の小説家はエゴ丸出しの酔った下手な文章で「描写」をしているつもりか知らんがこの人はしない。好き(おわり -
読売新聞の夕刊に連載されていたらしい。
著者の幼年、少年時代を描いた自伝的な小説。
見開き2ページが1回分でとても読みやすい。
甲府と鎌倉が舞台。
NHKの朝ドラ「花子とアン」で馴染んだ甲州弁が懐かしい。
幼少期に過ごした土地、山、川、海、風土というのだろうか、重要なんだなと思った。親戚、いとこ、近所の子供、そして大人も。
私などは、幼少期のことなんて、ほとんど思い出したこともないし、記憶もあやういが、自分で気づいてないだけで、その頃に暮らした土地や出会った人たちによって、今の私ができているのだろうか。
それにしても、どうも男性の方が、小さい時の出来事をよく覚えていて、楽しそうに話すことが多いような気がする。女性の友人の幼少期の話なんて、ほとんど聞いたことがない。いたずらや小さな冒険、怒られたこと、殴られたことなど、やっぱり圧倒的に多いからだろうか。
今の子が大きくなったときはどんなだろう。今ちゃんと野山を駆け巡ったり、いたずらしたりしてるだろうか。女の子も。
こんなに書いてもらって、鎌倉さんも幸せだなと思う。土地を寿いでもらってるというか。
村上春樹が、阪神間を舞台にこのような幼少年期をじっくり書いてくれたらなあと勝手に思った。
”「あんな、だらだらした文章で何も起きない話ばっかり書く人が、そんなに落ち着きがないなんて、意外だ。」と言う人がいるが、意外ではない、だらだらしていると言われる文章が退屈しないとしたら細かく忙しなく動いているからだ。” 119ページ
この著者の小説がやめられなくなるのは、そうだったのか。 -
見開きでひとつの短編という構成。中高年には懐かしい雰囲気が脳裏に浮かんでくる。
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「あなた」ってだれ、と一瞬思うけど、保坂和志をもう20年以上も読んでいると、たぶん正体は最後まで明かされないだろうことと、わからなくても体制に影響がないことに気づくようになる。
「何も起きない、だらだら続く文」に身を浸す愉楽がたまらない。