不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学 (新潮選書)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106038600

作品紹介・あらすじ

「不愉快な隣人」と共に生きるために――。「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」――こんなユートピア的な寛容社会は本当に実現可能なのか。不寛容がまかり通る植民地時代のアメリカで、異なる価値観を持つ人びとが暮らす多様性社会を築いた偏屈なピューリタンの苦闘から、その「キレイごとぬきの政治倫理」を読み解く。

感想・レビュー・書評

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  • 本書は、「啓蒙主義以前のアメリカ、というよりアメリカ「以前」の植民地時代に生きたピューリタンで、ロックより半世紀も前に、ロックより進んだ寛容論を唱え、唱えただけでなくそれを一身に担って実践した人」、頑固で偏屈だが異端や異教に対し徹底して寛容を貫き、新大陸に多様で寛容な社会の礎を築いた偉人、ロジャー・ウィリアムズの足跡をたどり、中世以来の「伝統的な寛容論」の現代的な意義を説いた良書。

    タイトル「不寛容論」には、「寛容に必ず内包されている不寛容を主題化することで、真の寛容の所在を明示する」意図があるとのこと。

    「伝統的な寛容」は、「相手をしぶしぶ認めることであ」り、「相手を是認せず、その思想や行為に否定的であり続け、できれば禁止したり抑圧したりしたいが、そうもいかないので、しかたなくその存在を認める、という態度」のこと。お互いに礼節を守って共に暮らすだけでよい。「もし礼節という絆を守るなら、礼拝や宗教のことでどんなに意見の相違があっても、何の問題もありません」(ウィリアムズ)。

    「伝統的な寛容」は、現実的な損得勘定に基づけば態度であり、無理に妥協したり、相手を理解し、認め、受け入れるために感情を抑え込む作業が不要なので、排外主義へ転化してしまうリスクが少ないのだとか。なるほど、その通りかもしれないな。ちなみに著者は、日本人は(均質な文化にどっぷり浸かっているので)寛容でも不寛容でもなく「無寛容」だという(そして日本人のこの温和な「無寛容」は、あっという間に凶暴な「不寛容」へ変貌してしまう危うさを秘めている)。

    ウィリアムズら初期移民たちの新大陸でのコミュニティ作り、読んでいてとても興味深かった。アメリカは、人類が壮大な社会実験を行って出来上がった国なんだな。初期移民の時代といえば、「大草原の小さな家」や西部劇の時代より更に古い時代だよな。アメリカは歴史が浅いので、これまでアメリカ史にはあまり興味が湧かなかったが、アメリカ史の本も手にとってみようかな。

  • 神学書を読む(69)牧師・教会役員必読の一冊! 森本あんり著『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』 : 書籍 : クリスチャントゥデイ
    https://www.christiantoday.co.jp/articles/29713/20210712/theological-books-69.htm

    森本あんり 『不寛容論―アメリカが生んだ「共存」の哲学―』 | 新潮社
    https://www.shinchosha.co.jp/book/603860/

  • ちょっとだけ感動した。特に、平和と真理の対立の横にいるのが、言葉を発しない忍耐であることに。

    不寛容論、というのは、異文化理解や多様性がキーワードとなった我々の目の前にある「寛容」の矛盾に向き合うにあたり、まず「不寛容」から考えてみようではないか、という取り組みを表す。不寛容の代表例はプロテスタント(ピューリタン)へのカトリックの弾圧である。特に宗教と政治が繋がった時代において、宗教の違いがそのまま村八分と弾圧による死につながる問題であった。その根拠は、異端の存在が、コミュニティの平穏を揺るがす問題であるとの認識にあった。不寛容にもそれなりの根拠はあるわけである。それなりの根拠を持つ不寛容に対して何ができるだろう、というのをアメリカ史をたどりながらこの本ではみていく。

    なお、寛容は日本では簡単に扱われがちだが、難民の数万規模で訪れる欧州では、イスラム教徒が増えていることを恐れる向きもあるし、日本でも外国人が増えて治安が悪くなるという恐れの声は聞こえており、簡単なものではない。冒頭(本ではエピローグ)の、平和と真理と忍耐の話は、理想論がぶつかり合う時、間には忍耐がいなくては、相互の関係は不可逆的に壊れてしまう、ということを表していると考えている。寛容とは、忍耐や礼節に近いものであって、必ずしも心から歓迎することではないのではないか。

    寛容は、言葉の前提として、すでにその「寛容」の対象となる物事に否定的な姿勢がある。そして、その上でなお、存在を認めてあげる、というやや上から目線の姿勢である。しかもそれは、認めるのが正しいからではなく、面倒ごとになるよりはましだから、攻撃しないというのが、その原義である。これは中世カトリックが他宗教に対して持っていた考え方と共通する。
    現代では寛容は、あくまでそれ自体が望ましく正しいことだから、多様性を歓迎するもののように扱われる。しかし、自分の文化と全く相入れない人が目の前に来た時、自分の生活が脅かされるかもしれないと感じる時、簡単に歓迎できるものとは言えなくなる。
    さて、森本の紹介するロジャーウィリアムズは狂信的なクリスチャンであるからこそ、他の人の信仰もまた認めるべきであり、彼の異端的信仰は他の人によって侵害されるべきでないし、特に信仰の問題で街を追い出したりするべきでない、という寛容の論理を主張した。彼を弾圧したジョンコトンもまた、単なる頭ごなしの弾圧者ではなく、教派が異なっていて、心では信じていなかったとしても礼拝に出ていれば街から追い出さないという一定の寛容は見せていた。ここで彼らの差は、当然考え方の道筋にもあるが、結局のところ、どこまでがその人の許容範囲なのか、ということである。というのも、ロジャーウィリアムズは当初は弾圧される側、権利を主張する側だったわけだが、その後街を追い出されて自分でコミュニティを作る為政者となってから、そのコミュニティ内の異端分子に手を焼き、彼は彼でクエーカー教徒の信仰を痛烈に批判することになる。

    ウィリアムズのこの転向に対しては批判もあるが、一貫して礼節を重視していたことは変わりない。ウィリアムズは礼節を重視したがクエーカーはそうではなく攻撃してきたから、批判したようである。森本は完全な答えを示しはしなかったが、このように信仰について正しい正しくないの結論をつけることはせずに、とにかく市民的な分野では礼節を保とう、ウィリアムズの立場を一つの人権史上の重大事件と捉え、これこそ今必要な寛容だという。

    わかる。宗教的真理の統一、政治的平和の達成、そしてその双方の合一、全て、現実的には解決しきれない課題が山積みであり、それを見て見ぬ振りしながら、忍耐をして行くしかない現実がある、という話か。べき論とである論は分けて、どちらも必要であるが、どちらかだけになってはいけないし、どちらの方が重要とも言えない、というように思う。

  • 近代や現代の寛容論ではなく、その源流とも言える中世の寛容論を下敷きに、米国建設前(植民地時代)の人物でもあるロジャーウィリアムズに焦点をあて、彼にとって寛容が如何なるものだったのかを中心に論じている。
    彼が重んじた「礼節」について、「マナー」に通じるところがあると感じつつも、「マナー」よりもより深層にあるような、所作や心情の向け方まで表したものであるように感じた。

    ウィリアムズみたいなちょっとおかしな(褒め言葉のつもり)人達が社会から少しずつはみ出ることで、漸進的に社会が変わってきたのだと感じる。もちろん、そういうおかしな人たちを下支えしてきた他者や社会があってのことだけれど。

  • 「反知性主義」を面白く読みました。「不寛容論」も分析すべき現代アメリカの問題を論じてるのかと思い、書店にあったのを何度も見かけ、迷った末買ってみました。

    けれど、「線」の思考、アースダイバー神社編、、と同じく。。いまこれを読む時間を割けるかというと、なかなか。。。ということで、途中でパラパラ読みになってしまいました。。。

    ただ、ピューリタンがパブティストなどを不寛容な態度を取っていた。契約結んで作られたコミュニティは、そのルールを承認してない人を入れる必要はない。。てことになる=不寛容=排斥。。って考えを学べました。

  • 私には難しそうで最後まで読み切れるかと心配したが、易しい言葉で、興味がずっと保たれたまま読み続けられた。
    歴史から学ぶこと、遠い昔の他国の人や出来事から得たことを今現在を生きるに当たって知恵としてそのまま具体的に取り入れられること、しみじみと実感できた。

  • 2021/02/23
    不寛容があってはじめて寛容が成り立つ…言われてみればそうだなと思う。
    ひとつの伝記としてもなかなか面白い。
    政教分離と簡単に言うけれど、今に至るまでには多くの人々の苦労があったことを改めて教えてもらった。
    礼節が大事ということも共感。
    改革者は気が付くと新たな改革側からの批判の的になってしまうし、同じような考えであったとしても具体的対応策は必ずしも同じにならないということも含めて、世の中は永遠に試行錯誤を続けるしかないんだろうなと、そして歴史から学ぶということはその振れ幅を少しずつ小さくしていくためなのではないかと改めて思う。

  • 個人の属性として一般的に語られることの多い「寛容」と、ここで展開される「寛容」には大きな違いがある。ひとことでいえば「宗教的かつ社会制度としての『寛容』論」。現代アメリカの理解のために読み始めたが、非常に納得した。前著の『反知性主義』も読んだが、相変わらず切れ味がいい。

  • 通販生活の表紙に「私はあなたの意見には反対だけど、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というヴォルテールの言葉が掲げられていた。確かに、美しい言葉かもしれないけど、この通りにするのは、かなり無理をして、頑張らないといけない感じする。

    この本によると、中世の「寛容」は、大きな悪が実現しないように小さな悪をそのままにしておくという、かなり消極的な、相対的な考え方だったというのです。金貸しも、娼婦も、それ自体は悪には違いないけど、それが無くなったら、社会全体はもっと悪くなるので、まぁ、放っておくか。そんな考え方だと。

    なるほど。

    この現実主義が、カトリック教会をさまざまな極論から守り、大いなる中庸を維持させてきたんだろうと思う。

    それに比べて、上記の近代啓蒙主義の寛容論は、多様性を守ることを「絶対視」するような「非」寛容が見え隠れする。人間はそうあるべき。啓かれた近代人は、そういう考え方をするべき。そんな生堅な人間観が見えてくる。

    ここ数日のオリンピック組織委員会の森会長の「女性蔑視発言」を巡るゴタゴタも、「多様性」を「絶対善」として、それが否定されると、その相手を全否定するような潔癖感が現れていて、ちょっと危ない感じがする。

    そんな時代に、この本は、もっと現実的な「寛容論」を提示してくれる。悪は悪なんだけど、そんなに大きな悪ではないので、とりあえずは放っておくか的な(現教皇の同性婚に対する「寛容」も、この線にあるのではないだろうか)。

    またまた、今年のベスト3候補の1冊。

  • なぜ今まで宗教学に興味をもってこなかったのかと後悔してしまうほどすばらしい内容。人間が考えたものである以上、政治思想や哲学や歴史や人々の価値観にはいつも宗教の下地があることが理解できる。もっと学びたい。
    価値観が異なっても許容し共存するという意味での寛容は、「トルコから世界を見る ――ちがう国の人と生きるには? (ちくまQブックス)」に書かれていた「ものさしは複数ある」という認識に近いし、子どもの学級内での過ごし方としてよく言われる、「みんな仲良くは難しいが平和的に共存しよう」という考え方とも通じる。
    皆が「礼節をもって、暴力に訴えず、会話を遮断せずに続けるだけの開放性を維持する」ことができれば平和になるので、さほど難しくはないように思えるが、その境地に至るのが困難だから諸々の問題が生じるのではと思う。まず自らの信念によほど強い確信がなければ、他者の異なる意見に接することで自分の内部に揺らぎが生じ、不安になる。自分を不安にするものは排除しなければならない、となる。相手の態度があまりに確信に満ちていると、自らの不安定を指摘されているようで、あたかも自分が攻撃を受けたかのように感じる。攻撃を受けたら自らを守るため反撃しなければならない、となる。これらの問題をどのように乗り越えるかが、私たちが考えなければならない課題だと思う。

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著者プロフィール

1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)学務副学長、同教授(哲学・宗教学)。専攻は神学・宗教学。著書に『アメリカ的理念の身体‐‐寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社)、『反知性主義‐‐アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)、『異端の時代‐‐正統のかたちを求めて』(岩波新書)など。

「2019年 『キリスト教でたどるアメリカ史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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